悪は勇者の選り好み
今日は朝からずっと、雨が降っている。湿度の高い空気はいつもより重みを増していて、不快ともいえる気怠さを僕に与えていた。これだから、雨の日は好きじゃない。
「〆切が近い」
背後から聞こえた、無駄に耳に残る声。だから何だよ、という言葉を飲み込んで、僕は机に突っ伏す。今度は声だけじゃなく、肩を揺するオプションもついてきた。
「おい、〆切が近いんだ」
「だから何だよ」
僕の肩を揺すっていた手が頭を叩く行為に使われだしたあたりで、渋々顔を上げる。友人の思いのほか深刻な表情がそこにあって、僕は少し毒気を抜かれそうになる。けれどそれは、ばしばしと叩かれた頭頂部の痛みに阻まれた。
「ギブミー、ネタ」
「知るかっ」
つい大声を上げてしまう。自分の声がいやに頭に響いてこめかみに手を当てた。ひとつ、嘆息する。
「なんだ、体調不良か?」
「さぁ……たぶん、雨の所為」
「雨?」
「昔から、雨が降ると必ず体が怠くなるんだよね」
「気持ちの問題じゃないか?」
「うーん、どうなんだろう」
思えば小学校の高学年あたりからずっとこうなのだけど、これをを両親に話したことはなかった。話せば両親はきっと心配して僕を病院に連れていこうとするだろう。でも、少し頭痛がしたり、どんなに寝ても眠かったりする程度で、突然倒れるなんてことはない。それに雨さえ降っていなければ、別になんてことはないのだ。こんなので医者に罹るなんて、なんだか大げさな気がする。
「無理はするなよ。大会、もうすぐだろ?」
「あぁ、うん。正直勝てるかどうかわからないんだけどね」
「随分後ろ向きだな」
「強豪ぞろいのブロックに組み込まれちゃってさ。去年優勝したところもある」
「ほう。ラスボスってところか」
「いや、当たるとしたら準決勝でかな。ラスボスの、ひとつ前」
先日配られた対戦表を思い出しながら言う。そもそも、準決勝に進めるかどうかすら危ういのに、ラスボスも何もない気がした。それでも目の前の彼は、僕らが勝つことを前提にして話を進めている。期待されていると喜ぶべきか、過大評価がすぎると指摘すべきか、迷いどころだ。
「ラスボスじゃないとすれば、中ボスか?」
「ラスボスレベルの強さの中ボスねぇ……なんか下克上されそう」
「いつの間にか掌の上で転がされていたりな」
「勇者が魔王を倒したと思ったら、真の魔王として出てきたりね」
「あ、勇者か」
「え?」
本題からかなりずれた話の中で何かひらめいたのか、友人がぽん、と手を打つ。おそらく文章のことだろう、これで原稿の心配は無くなったのだろうか。
「何か浮かんだ?」
「ちょっとな。魔王サイドの物語」
「へぇ。どんな感じ?」
「詳しいところは追々考えるが……魔王にとっての善悪と勇者にとっての善悪の差がメインになりそうだな」
嬉々とした表情で語る友人。つまりどんな話になるのか、僕にはまったく想像できないけれど、こいつが楽しそうならそれでいいか。それに、雑談を続けていると、頭痛を意識しなくて済む。
「雨だし、今日は部活は休みか?」
「いや、室内の競技だからそれはないよ。体育館が雨漏りするとかでもないし」
「それもそうか」
「あ、でも。今日はバスケ部に割当たってたはずだから、多分すぐ終わるよ。ミーティングするくらいだと思う」
「了解。じゃあ図書室にでも居るぜ」
そう言って彼は、大量のルーズリーフの束と原稿用紙、それからペンケースを持って立ち上がる。その拍子に、抱えた束から数枚のルーズリーフがこぼれ落ちた。それを拾おうと屈んだ彼の腕から、ばさりばさりと紙が溢れてくる。もしかしてものすごく馬鹿なんじゃないか、こいつ。
「今から書くの?」
呆れつつ、拾うのを手伝ってやる。ありがたい、と彼は申し訳なさそうに言って、それから僕の質問に答える。
「今のうちにメモだけでもしておかないと、忘れちまいそうだからな」
「何言ってるの、好きなことに関してだけは絶対に忘れないくせに」
「嫌いなことは一切覚えないけどな」
「例えば?」
物理とか、かな。そう思っていると、案の定の答えが返ってきた。
「自分でも、どうしてあんなにできないのか不思議になることがある」
「小テスト、0点だったもんね……公式に数字当てはめるだけでいいはずだったのに」
「あれは我ながら衝撃だった」
そう言って彼は笑うけれど、多分笑い事じゃない。
「新しい話の勇者は、好き嫌いがないといいね」
「はは、どうだろうな。俺の分身みたいなもんだからな」
「分身とか……うわぁ……」
「何だその顔」
「分身とはいえ君に世界が救われるって、結構な屈辱だなぁ、と」
「失礼な。柄じゃないのは自覚してるさ」
もう一度笑って、じゃあなと手を振りながら彼が教室を出て行く。
僕は少し窓の外に目をやってから立ち上がった。
雨は、まだ止みそうにない。




