梅雨の香り
起承転結もない、とりとめのない日常です。
雨粒が庭の紫陽花に当たって弾けた。
ウメは畳に寝転んだまま、その様子を見つめる。
祖母のタネが一人で暮らす田舎の家は広く、庭も野放図に広い。
どこからどこまでが庭なのか、それともすでにここは山の一部なのか、遠くに広がる竹林さえも庭に含まれるのか、ウメはいまだに分からない。
庭には桜や紅葉を中心に、花も無秩序に植えられている。夏に向かう今の時期は、庭中が色と香りで喧しい。
寝転ぶウメの目線の先にはちょうど、紫陽花の花があった。
梅雨時期に咲くこの花は透き通るような青。小さな花弁がこんもりと小山のよう。
朝から降り止まない重い雨を浴びても、紫陽花は健気に咲く。この健気さが、ウメは昔から嫌いだった。
(あ……またこの香り)
ウメは伸びをするように畳の上を二度三度、転がる。と、鼻に爽やかな香りが漂った。
それは、この家独自の香りである。
この家の畳はウメが知る限り、一度も替えられたことがない。しかしタネが毎日掃き清めているので、見た目よりもずっと清潔だった。
ほうじ茶の出がらしを使って掃除をするものだから、畳の香りはほうじ茶の香りだとウメはずっとそう勘違いしていた。
「おばあちゃあん」
「はいはい」
庭を眺めながら祖母を呼べば、台所から呑気な声が返ってくる。
「ウメちゃん、もう二十歳のお嬢さんなんだからしゃんとしなさい」
タネが持っているのは熱湯消毒した瓶と、ザルいっぱいに盛られた青い梅の実。
畳と同じように、それはしっかりと拭き清められている。
タネは曲がった腰をどっしりと構えて、腕いっぱいの荷物を畳の上に降ろした。
そして素早く真っ白な布巾を畳に広げ、上に瓶と梅の実、焼酎と氷砂糖を並べる。
「ねえ、なんで雨の日に梅酒を漬けるの? 雨の日はカビが出やすくなるから本当はダメなんだよ」
「でもねえ、雨の日に梅仕事はとても似合うんだよ」
タネの顔は浸かりきった梅のようにしわくちゃだ。
ウメはゆっくり体を起こしながら、祖母の顔をじっと見つめる。タネが笑うと、皺の中に小さな瞳が埋没して、それは本当に梅干しのようだった。
「ほら、良い香り」
タネは青い実をウメの鼻先に押しつける。甘酸っぱい香りが、重苦しい空気の中にしゅん、と滲む。
香りに色があるとするならば、それは青梅と同じ色だろう。
タネは梅の実のホシを爪楊枝の先で取っていく。種のような塊が白い布巾の上に落ちて散るたび、梅の香りは強くなった。
ウメは寝転がりながら祖母の隣に近づく。
小学生の時から、まるで変わらない。同じ姿勢だった。そこから見上げる屋根の染みも、畳の縁の柄も何も変わらない。
ただ変わったことといえば、タネが縮んだこと。そして部屋の奥にある仏壇に、祖父の写真が増えたことだけだった。
「なんで私にウメなんて名前付けたの? お婆ちゃんが付けてくれたのよね」
幼い頃は古くさい名前だとからかわれ、泣いたこともある。しかし今となっては古風で良い名前だと、ウメは密かに気に入っているのだった。
「今日は質問ばかりねえ」
タネは曖昧に笑う。
「なんででしょうねえ」
ホシを取り終えた梅の実と氷砂糖を、まだ生暖かい瓶の中に交互に並べていく。まるで宝石のような梅の実と、透き通った氷砂糖が並ぶ様は美しい。
皺の寄った指で丁寧にひとつひとつ。タネは梅仕事に神経質なほど時間を掛ける。
「はい、あーん」
タネは氷砂糖を一つつまむと、ウメの口にそっと含ませた。それは幼い頃から続く一連の流れだ。
つい癖で口を半開きにしていたウメは気恥ずかしさに顔を伏せる。
「梅仕事は雨の日がいいよ。梅雨の寂しい気持が、梅の香りで癒されるだろう。それにこれは夏の香りと言ってね」
タネの指に染みついた青い梅の香りが、氷砂糖に染みこんだようだ。口の中にまで、梅が香る。
「寂しい雨の日に、ウメの香が元気をくれるんだよ」
「ふうん」
「ほら……見て御覧、雨が上がる」
タネの声に、ウメは釣られて庭を見る。
さきほどまでじとじと降り続いていた鬱陶しい雨が、細くなり短くなった。
やがて、光の筋がサッと差し込んで、紫陽花に降り注ぐ。
紫陽花は先ほどまでの重苦しさを捨て、透き通るような青色を見せる。葉に散らばる滴が、まるで光の粒子のようだ。
「綺麗だねえ、ウメちゃん」
梅仕事の手を休めて庭を眺めるタネと、その隣に寝転がるウメにも光が差し込んで仏壇に薄く影が滲む。
「梅雨の香りがするね、おばあちゃん」
雨が止み、停滞していた空気が動き始める。涼しい風が、土の香りを部屋に運んだ。
土の香りと梅の香りとほうじ茶の香りが混じり合う。なるほど、梅仕事は雨の日に限るのだと、ウメは祖母の顔を見上げてそう思った。