第2章〈皇女〉
ティリンスは落ち着かなかった。あの時は夜だったのではっきりと顔は見られていないと思うし、今もフードで深く顔を隠しているが、街の至る所に立っている皇国軍を見るとやはり焦りつい早足になる。おまけに自分は濃い肌の色をしているので、多少は目立つ。バフラは大丈夫だと言ったが、もしあの場にいた皇国軍と鉢合わせしたら正体がばれるかもしれない。
そんな恐怖とどこに向かっているかわからない不安でティリンスは苛立ち始めた。
「なあ、バフラ。命を助けてもらったことに感謝はしているが、本当にどこに向かってるんだ? そのくらい教えてくれよ」
ティリンスは目の前をだらだらと歩くバフラに声をかけた。バフラは面倒臭そうにティリンスをみると、こう答えた。
「別に大した場所じゃねーよ。安心しな。それから、お前がたまたま俺の近くに降ってきたんで仕方なく手当てもしてやっただけだ」
ティリンスは唸った。バフラが言うには、彼が偶然通りかかかった潰れた露店の上にティリンスは落下したらしい。いくら腐敗しかけた屋根によって落下の衝撃が緩和されたもいっても、左肩以外大きな負傷がないのは幸運としか言いようがないだろう。
それとも、この奇跡は一族特有の頑丈な体のおかげだろうか。
ティリンスが考え込んでいると、バフラが今気づいたと言わんばかりに尋ねた。
「お前、肌の色濃いよな。ニグミ族か?」
ティリンスはやや躊躇ってから返事をした。
「……そうだよ」
バフラはほおお、と何に納得したのかわからない感嘆を漏らした。それだけだった。ティリンスはその反応に微かな驚きを感じ、小さな声で言う。
「もっと嫌な顔をされると思ってた。普通はニグミ族って聞いたら『凶暴』とか『卑しい』って感じるんじゃないの?」
「フレーザー一族の場合はな。だがオレはフレーザー一族じゃないし、何よりもここはファンブリーナだぜ? 世界でも類を見ない多民族都市だ。いちいち気にするかよ」
ティリンスはほっとした。不精でなんだかよくわからない人物だが、少なくともこの男は民族間のいがみ合いなど気にしないたちらしい。それに、何故ティリンスが皇国に追われているのかもさして気にしていない様子だ。また、バフラの言うとおりファンブリーナは多くの民族が集まるし、外見や慣習の多少の違いは問題にはならない。
だが、やはりファンブリーナにおいてもニグミ族は時に畏怖敬遠の対象となり得るのだ。
ニグミ族は、濃い褐色の肌と黒曜石のように黒い髪、爪を持つ少数民族だ。気性が荒く戦を好むと有名で、時には殺した相手の人肉を喰うとまで言われる(本当かどうかは知らない。ただ、自分も母ももちろん食べたことはない)。昔はそれなりの部族だったらしいが、度重なる戦乱のうちに徐々に減少、弱体化したらしい。そのこともあってか、戦と殺戮に溺れ身を滅ぼした愚かな一族として嘲笑と憎悪の的となっている。
特にフレーザー一族は、彼らを教養がなく動物並みの知能しか持たない蛮族として忌み嫌い、徹底的に殲滅しようとした。今から十三年前の話だ。ティリンスがかなり幼いころのことだったのでほとんど記憶はないが、殲滅戦は残酷苛烈を極めたらしい。フレーザー一族は虐殺を粛清と称しニグミ族を追い詰め、傷つき悶え苦しむ彼らの時間を操作しより長く苦痛と絶望を与え、それを鑑賞し楽しんだと言う。脚色かもしれないが、それでも同朋を残虐に殺したフレーザー一族は許せない。今でも、街にいるフレーザー一族を恨めしい目で見てしまうことがある。
ティリンスは暗い気持ちを振り払うように軽く首を振った。ティリンスを虐殺から守るため命からがらファンブリーナに逃れた母は、ティリンスにそれを望んでいなかった。母は一族ではなく個人を見て生きろと言っていた。一族や国家という単位で物事を考えるから戦争はなくならないのだと。
しかし、そうしたとして本当に戦争はなくなるのか? 人間は元来争い傷つけあう生き物ではないのか? ならば、どんなに誠実に真っ当に生きたとして、それが報われることはないのではないか──。
ティリンスの頭の中を悲観的な考えがよぎり、彼はまたしても首を振った。物事を悪く考えてしまうのは昔からの癖だが、後ろ向きな自分が本当に嫌になる。
ティリンスがそんなことを悶々と考えていると、ふいに前方で奇声が上がった。どうやらバフラの声らしい。
「どうしたんだ?」
ティリンスの問いにバフラが叫んだ。
「なにしてんだあいつ!」
不審に思ったティリンスがバフラの前方を覗き見ると、どうやらそこは高級住宅街のようだった。こんなところにバフラやティリンスのような貧民が何をしに来たと言うのだろう。
ティリンスがわけがわからずにぼんやりしていると、ふいにバフラに首の後ろを掴まれ引き寄せられた。バフラが耳元で早口に言う。
「あの女が見えるか?」
「あの女?」
ティリンスはバフラが顎で示した方角を目を細めて見た。大きくど派手な住宅が並んでいるだけで何も見えない。
……いや、今家と家の隙間を何かが動いた。
ひょっこりと顔を覗かせたのは、金髪の少女だ。かなり色白で線が細い。こちらには気づいていない様子で、辺りを慎重に窺っているようだ。
ティリンスは驚きながらも頷いた。
「見えたよ」
「まあ、出てきてくれたおかげで潜入する手間が省けたな。あの女を捕まえるぞ」
「ええ?」
バフラが笑いながら突拍子もないことを口走った。ティリンスは戸惑いを隠せず、情けない声を上げる。
本当に何がしたいんだろう、この人は。
バフラに半ば強引に連行されあの金髪の少女を尾行することになったティリンスは、あることに気づいた。
少女はびっくりするほど美人だ。
屋根上から少女をつけるティリンスたちには主に後ろ姿や横顔しか見えないが、それでも美人だとわかった。少女は華奢な体つきと柔らかそうな金髪がよく似合う愛らしい顔つきをしており、いかにも富豪の娘といった豪奢な服を着ている。尤も今は難しい顔でこそこそと行動しているので、あまり素行が良いお嬢様には見えないが。
しかし、バフラはこの少女をどうするつもりなのだろう。ティリンスの命の恩人とは言え、この男からはなんだか良くないオーラを感じる。そんな男があんなきれいな子を何故──。
「別にやらしい理由じゃねぇよ」
ティリンスはギクリとした。よっぽど疑わしげな顔でバフラを見ていたらしい。バフラは対して怒った様子もなく淡々と言ったが、ティリンスは焦った。いくらなんでもさっきの態度は失礼だったかもしれない。
ティリンスは咳払いした。
「ごめん。でも……なんで?」
バフラはティリンスを一瞥すると、微かに笑った。
「素直な奴だな。まあ、なんでかっつーと色々理由はあるが……」
そこで言葉を選ぶようにバフラは黙り込んだ。ティリンスは路地を慎重に歩く少女をちらちらと確認しながら、バフラの言葉を待つ。
ややあって、バフラが声落として囁いた。
「あの女が皇国の皇女だからな」
「皇女──ッ!?」
バフラがはっとしたようにティリンスを見た。ティリンスはふいに自分の口をついでた驚愕の声を抑えようと慌てて口を塞いだが、手遅れだった。下で小さな悲鳴が上がる。ティリンスは体を丸めた少女をとっさに見た。あれが皇女? 皇国の皇女がなぜこんなところに──。
下から甲高くどこか怯えるような声が響いた。
「誰? 誰かいるの?」
バフラがうんざりしたようにティリンスを見やった。ティリンスは自分の失態に言いようもない恥ずかしさを感じながら目を伏せた。ああ、もう。昨日のことと言い、どうして僕はこんなに間抜けなんだろう。
「捕まえてこい」
呆れたようなバフラの声にティリンスは即座に頷き、行動を起こした。失態は挽回せねばならない。ティリンスは全神経を少女に集中させた。
屋根上から飛び降りてきたティリンスを見て少女──いや、皇女は恐怖に目を見開いた。自らを守るように両腕でドレスの胸元を掴み、小さくなっている。なんだ、やっぱり美人だ。でも予想よりやや幼い印象を受けた。恐らく自分より三、四歳年下ではないか?
「安心して。怪しい者じゃないから」
見るからに怪しいが、ティリンスは出来るだけ優しいお兄さんのように話しかけた。
「貴方、誰なの? ニグミ族?」
ティリンスは皇女の口からニグミ族と言う言葉が出てきたことに驚きながらも「ああ」と答えた。まさか、温室育ちの少女がこんな辺境の戦闘民族を知っているなんて。少しだけ嬉しいような気がした。
そんなティリンスをよそに、皇女は後退りながら声を震わせた。
「お父様に言われたの? 私を宮に連れ戻すようにと。いや、でも……誰にも気づかれてないはずなのに、こんなに早く追っ手が来るなんて……!」
ティリンスは戸惑った。どうやらこの少女、かなり思い違いをしているらしい。ティリンスは屋根上にいるはずのバフラを見上げた。バフラは隅の方にしゃがみこみ、にやにや笑いながらティリンスを見ている。そして、口の前で指をぱっぱっと広げては閉じるジェスチャーをした。
まさか、“口説け”という意味なのか?
ティリンスは、緊張のため少し引きつった顔で微笑む。
「お父様? 連れ戻す? 何の話かな。僕はただの若者だよ。そして年頃の男子の例に漏れず、ある理由から君とお近づきになりたくて」
それを聞いた皇女は戸惑いを露わにした。あんな目立つ格好でお忍び歩きをするくらいなのだからそうだろうとは思ったが、結構な世間知らずのようだ。それを知り、ティリンスはますます残念な気持ちになった。今からこの可愛らしい少女に告げる言葉が、僕の本当の意志だったらよかったのに──。
「君に一目惚れした。君は可憐で、純真で、僕の望む理想の女性だ。本当に素敵だ。だから、僕と一緒に来てほしい」
ティリンスは手を差し出した。罪悪感と緊張で心臓がずきずきと痛んだ。もし、もし断られたらどうする? 皇女ならばこの手の誘惑には乗らないようにという教育くらい受けているかもしれない。いや、普通に考えるならそうだ。そう思うと胃までぎりぎりと疼きだした。そうだ、断られる可能性の方が高い。そうなったら力ずくで連れ去るしかない。
しかし、皇女は思った以上に無垢だった。彼女はティリンスの告白を聞き信じられないという顔をした後に、さっと頬を薔薇色に染めた。ティリンスも驚くほどの早さだ。
皇女はいじらしくうろたえると伏し目がちにティリンスを見つめ、か細い声で返した。
「本当に? 本当に私のことが好きなの?」
ティリンスは声が裏返らないように気をつけながら答える。
「もちろんだ」
皇女は心底嬉しそうに微笑んだ。そして、そっとティリンスの手に触れた。