帝都の黎明
帝国軍参謀長が自室で呑気に煙草をふかしていると、廊下から急ぎ足で向かってくる足音が耳に入った。こんな夜更けに自分のもとへ来るのはよほどの無礼者かあの女しかいないだろう、と思いながら足音の到着を待っていたスレイマンは、勘で例の女が飛び込んでくることを予感した。
年期の入った扉が勢いよく開け放たれ、聞き慣れた甲高い喚き声が上がる。
「聞いたぞ、スレイマン。枢機卿の元で活動していた参謀副長が連合軍から姿を消し、連合軍内にアルトネア人の侵入者が現れたとな。これは一体何を意味しておる、作戦の失敗か、それとも──」
「まあまあ、落ち着いてくだされ。その情報をどこで?」
微笑みながら冷静に対応したスレイマンに拍子抜けしたのか、女帝ネローネは訝しげな顔をしながらも素直に答えた。
「参謀部の人間から聞いた。余が気紛れに参謀部の様子を見に行ったところ、早朝にも関わらず随分と慌ただしくてな。何事かと聞いたところ、そのように答えたのだ」
「左様でございますか。なれば、ご安心くだされ。問題ありませぬ」
スレイマンは特に驚く様子もなく、再びパイプをくわえ窓の外へ目を向けた。官邸の中でもかなり高層に位置する参謀長室から黎明の景色を臨むのは、彼の日課であり楽しみの一つでもあるのだ。
窓の向こうの白み始めた空は、鉛色の高層建造物の上に覆い被さりながら彩りを変えていく。上空は夜明けを目前に光彩に溢れていくというに、金属質な街並みのおかげで帝都の空気は重々しく冷たい。
だが、朝日を鈍く反射する建造物の群れは、見慣れれば意外にも淡麗で精美な風情がある。スレイマンは、この眺めが帝都の一日の中で最もお気に入りだった。
すると、呑気に夜明けを堪能するスレイマンに腹を立てたのか、女帝が癇癪を起こしたように足を踏み鳴らした。スレイマンが面倒臭そうに振り返ると、ネローネはないがしろにされた屈辱と苛立ちで顔を上気させて怒鳴った。
「何故黙り込むのだ、スレイマン! 余はこの状況を説明せよと命じているのだ! いくらお主が優秀とはいっても、時には不測の事態も発生するだろう! それで、どうなのだ。ガルアの失踪は、事故なのか策略なのか!」
スレイマンは内心うんざりしながらも、努めて穏やかに女帝を宥めつけた。
「だから、落ち着いてくださいと言っておるでしょう。貴女が冷静にならなければ、腹を割って話すこともできませぬ。まずは、こちらにお掛けになってくだされ」
スレイマンは部屋の奥から椅子を引きずり、女帝の前に持ってきた。老体であるスレイマンに気を遣わせたことを悪いと思ったのか、女帝は小さく「すまんな」と呟いた。スレイマンはそれに笑って頷くと、参謀長の職務机に手をつき大儀そうに椅子に腰かける。
「さて、何からお話しましょうか?」
ゆったりと構えるスレイマンとは対照的に、ネローネは早口で告げた。
「ガルアのことに決まっておろう。あやつの失踪は何が理由なのだ?」
スレイマンは口から煙を吐き出し、薄く笑みを浮かべた。
「心配御無用。これも私の想定のうちです」
「と、いうのは?」
即座に聞き返したネローネを一瞥し、スレイマンは淡々と説明を続ける。
「恐らくは、アルトネアの仕業でしょうな。今彼らは、自国に攻め入ろうとする連合軍の存在を大変脅威に感じているはずです。だから、ガルアに取り入り──帝国を味方につけようと考えたのでしょう」
ネローネは納得したように頷いたが、しばらくして「ん?」と首を傾げた。
「だが、ガルアがお主の命で動いているということは、枢機卿はもちろんアルトネアにも伏せていたのであろう。アルトネアがガルアを押さえたということは、帝国参謀部とガルアの繋がりが知られてしまったということになる。それはこちらにとって不利な状態ではないのか?」
スレイマンは女帝をしばらく見つめたあと、出来の悪い生徒を諭す教師を思わせる調子で続けた。
「ならば逆にお尋ねしますが、アルトネアが我々の繋がりを知ったとして──アルトネアが情報をどんな手段を使って得たかは今は考えないとして──そのように大変重要で切り札となり得る情報を、たやすく他国に言いふらすでしょうかね?
もしガルアと我々の策略が枢機卿に知れれば、連合軍内の帝国勢力は殲滅されるでしょう。……ですが、それだけです。結局、枢機卿もとい皇国の脅威は消えないし、帝国も一部の兵士を失うだけ。そして、ガルアは実際私の命令で動いており、アルトネアもそのことは既に知っているわけですから、結局は帝国参謀部の恨みを買うことになる。
わかりますかな? たとえ連合軍に動揺を与えることができても、その後に残るのは相変わらず強大な皇国、皇国を掌握する枢機卿、そして、帝国からの報復に怯える日々……。つまり、アルトネアの利益になることは何もないと言って良いのです」
そして、とスレイマンは付け足した。
「枢機卿を挫く作戦は、どちらにしろアルトネアにも密かに一枚噛んでもらう予定だったのです。ガルアの身柄がアルトネアに押さえられたとしても、彼らは皇国の脅威を払うために結局こちらの指示に従うしかないのです」
ネローネは唸り、これまでの三国関係の遍歴を思い返した。
まず、皇国が帝国を本格的に攻略するためにアルトネアの協力を得ようとし、ファンブリーナ制圧を目論んだ。しかしその計画はガルアの策略によって阻止され、結局アルトネアと皇国には蟠りが生じてしまった。その後、ガルアの指示で枢機卿はアルトネアに再び共闘を呼びかけた。
アルトネアはこれを拒否。皇国は共闘の要請を受け入れないアルトネアを従わせるために、国境際に軍団を展開し圧をかけている——というのが、これまでの流れである。
スレイマンとガルアの策略では、アルトネアの動きも想定済みということになっているようだ。詳細はまだ詳しく説明されていないが、参謀長がそういうなら安心してよいのだろう……きっと。
ネローネが思案顔で腕を組んだ。
「侵入者のことはどのように考えている? 聞いたところによると、刺客は二人組の男女で枢機卿を殺そうとしたそうだ。しかし、連合軍の兵士たちに阻止され撤退した、と」
「陛下が仰る通り、枢機卿の命を狙っていたのでしょう。ガルアがいなくなった連合軍は、アルトネアにとっては完全なる敵対勢力でしかありませぬ」
スレイマンは少し間を置き、女帝がとりあえず状況を把握したようだと見て話を再開した。
「陛下、その場しのぎの外交と戦略は国を滅ぼしますぞ。大切なのは物事を長期的に考えることと先を読む目を養うことです。それらを踏まえ、かつアルトネアが自滅を招く真似をするほど愚かでないと仮定して考えるなら……彼らはガルアと我々の繋がりをもっと有効に使おうと考えるでしょう。皇国の脅威から逃れるため、帝国に取り入ろうとするはずです。要するに、今回のガルアの失踪が示すのは──アルトネアは帝国と結びたいと考えていることの証明」
スレイマンは女帝が質問してこないことを確認し、息をついた。彼はまたパイプをふかし、どこか愉快そうに続けた。
「尤も、ここまでくれば枢機卿もガルアを疑い始めるでしょうがな。ガルアがアルトネアと組んだと考え、皇国側が警戒を強める可能性は高い。確かにそれはこちらには嬉しいことではありませぬが、例えそうであってもガルアは必ずや枢機卿を陥れてくれましょう。なに、心配はいりませぬ。あの男は優秀です、きっと陛下が満足なさる結果を手に戻ってくるはず」
スレイマンは涼しい顔で言いきると、これで満足かとでも言いたげに片眉を吊り上げてみせる。
ネローネは未だに不安を隠しきれずにいたが、だらけて見えるほど余裕綽々なスレイマンに皮肉っぽく告げた。
「お主はガルアを随分高く評価しているな。あやつがいれば、枢機卿を亡き者にすることは容易いと言わんばかりに。だが、現在ガルアとはなんの連絡もつかんし、あやつが生きているのかも定かではない。そんな状況でも、お主は枢機卿を騙し入れ皇国を打ち倒すことが可能だと宣うのか?」
「ええ。不可能ではないと思いますよ」
スレイマンはあっさり肯定し、不審がるネローネを冷えた目で見据えた。
「しかし、私は神ではありませんから必ず勝てると断言できませぬ。それでも、事が我々の思い通りに運べば、形はどうであれ皇国を潰せないことはないのです。貴女もご存知のように戦況は厳しいですが、今の皇国には一つ決定的な弱点がありますからね」
「そ……それはなんだ?」
ネローネが身を乗り出し、すがるような声音で訊ねた。スレイマンは柔和に微笑み、言い聞かせる調子で語り始める。
「アクロポリス皇国は、現皇帝アクルは、全ての政を人民の信頼厚い枢機卿に頼っています。今のところ、アクルはもちろん彼の子息にも、拡張を続ける皇国を枢機卿以上に上手く治める力量はないと思われます。よって、皇国の政治が、皇国の全ての民の運命が、枢機卿の肩にのしかかっていると考えても良い。故に、彼の信頼を失墜させ失脚させることができれば、皇国は大いに揺れるはずです」
「……そうだな。枢機卿さえいなければ、我々にも勝機はあるということだな……!」
嬉々とするネローネを、スレイマンは人差し指を立て黙らせた。
「しかし、ただ抹殺するだけでは効果は弱い。彼を上手く利用し、皇国を撹乱させることが重要なのですよ」
ネローネは大きく頷き、話の続きを待ちじっとスレイマンを見つめた。しかし、スレイマンは困った顔で微笑みながら肩を竦めた。
「まあ、この話はここまでにしておきましょうかね。長くなりそうですし、目下の問題は連合軍とアルトネアですぞ。とはいっても、我々にできることは限られておりますし、今はガルアの動きを待ちながら悠長に構えておくことにしましょう」
ネローネは目を点にしてスレイマンを見つめたが、老人は相も変わらず張り付いた笑みを湛え口を開こうとはしない。ネローネはもどかしく思いスレイマンの思惑を全て聞き出そうとも考えたが、素直に参謀長の言葉を信じ今は大人しくしているのが得策だと思い至った。
スレイマンはネローネが即位する以前から彼女に仕えており、他の女帝候補を退け見事ネローネを玉座に就けてみせた。ネローネにとってスレイマンは、先導役であると同時に自分の立場を守ってくれる存在でもあるのだ。
結局あれこれ口を挟んだところで状況はどうにもならないし、スレイマンには敵わないこともわかっている。
ネローネは追及の言葉を飲み込み、代わりに一言だけ告げた。
「頼りにしているぞ」
老人は相変わらず感情の読めない目つきで、小さく微笑んだ。
「有り難きお言葉、恐悦でございます」




