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SCHEMER〈スキーマー〉  作者: 霧雨ウルフ
第一部 ファンブリーナ奪還任務
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第3章〈青年の杞憂〉

「…ほお、お前さんは枢機卿と離れたくないばかりにファンブリーナまでついて来たってのかい。父親である国王に嘘までついて」

「だいたいそれであってるわ。ねえ、お願い……」

 皇女──アネリは潤ませた目をバフラに向け、懇願するように言った。

「このことは誰にも言わないで。私、セネットに会いたいの。そのためにいろんな人を騙したのは悪いと思ってるけど、どうしても彼が心配で……」

 アネリの言葉にバフラは唸るような声を漏らした。ティリンスはそれを不安げな目で眺める。

 “セネット”とは確かヴァルカモニカのファーストネームだ。話を聞くところによると彼女は皇国の代4皇女で、国王と親密な中にあるヴァルカモニカに強い恋慕の念を抱いているらしい。そしてヴァルカモニカが今回ファンブリーナに赴くと聞き、彼の身を案じ富豪の娘と偽りこっそりここに潜入したのだという。

 まったく、子供じみた話だ。

 ティリンスは自分の無意識下から沸き上がる苛立ちとも焦燥ともつかない感情に狼狽した。どうやらアネリが皇国の枢機卿にしてこの街を制圧した憎きヴァルカモニカを慕っていることを、帝国の人間である自分は多少なりとも不愉快に感じるらしい。

 いや、でも恐らくそれだけではない。

 自分はこの純真無垢な少女の心を奪う枢機卿に嫉妬しているのだ。

 そのことを悟ったティリンスは自分の女々しい心根にうんざりし、まだ何か言い合っている二人から離れようとバフラの小屋を出た。

 外に出ると、制圧されてなお煌びやかな街の灯りと鮮やかな星々の輝きが夜の世界を照らしていた。乾いた地域ゆえに夜は冷え込むファンブリーナは星がきれいに見える。澄んだ冷たい空気がティリンスの肺を満たし、少しずつ頭が冷えていく。

 ふとティリンスはバフラのことが心配になった。それはあの得体の知れない男は何を目論んでいるのだろうか、といった内容の不安だった。

 どうやらバフラは、皇女であるアネリから皇国に関する情報を引っ張り出しているようだ。残念なことにアネリは純粋であるが故に人が良すぎ、敵国の人間であるティリンスたちにも親切にあらゆることを教えてくれる。アネリの脳内ではファンブリーナの住人は皆、ヴァルカモニカのカリスマ性によって既に皇国を友好的に見ているものとなっているらしい。おまけに彼女は「彼の器の大きさに感嘆しない人はいないわ」とまで言っていたような気がする。盲信もいいところだ。

 ティリンスは夜の街並みを眺めるうちに寂しさに包まれていくのを感じた。自分を優しく見守り、時には叱責し正しく導いてくれた母はもういない。数年前に流行病を患い死んでしまったのだ。だが、それでもティリンスは母の教えを守り、自分自身に誇りを持って生きてきたつもりだった。一族や偏見に囚われることなく、貧しくても心は豊かに生きて行こうと、そう誓ったのだ。




 ティリンスはファンブリーナが襲撃された日のことを思い起こした。

 凶悪な蜘蛛の大群から逃れ、命からがら街の中央部に集まった人々を待っていたのは、皇国軍による抑圧だった。

 皇国の兵士は、口を揃えてファンブリーナの民に言った──枢機卿に従うことこそが、自由と救済への道だ、と。

 その後に行われた枢機卿の演説を聞き彼に心酔する住民たちが現れ、ファンブリーナは徐々に皇国にコントロールされていっている。ティリンスは枢機卿をよく知らないし敵視しているが、それでもアネリが彼を絶賛する理由はわかるような気がした。

 枢機卿は穏やかな目をした壮年の男で、聖職者らしい敬虔で慈悲深い人格者の雰囲気を漂わせていた。大柄な体躯に似つかわしくない淡い金髪と優しげな声音は相手に安心感を与え、整えられた口髭は紳士らしさを感じさせた。警戒心が強く後ろ向きなティリンスは枢機卿を信用できなかったが、それでも彼が語ることには心を揺さぶる何かがあった。

 ──でもこの男に従うことで得られる自由や救済は、僕が望むものとは違うんじゃないか。だって、彼らはあくまで武力でこの街を奪い取ったんだ。それは、皇国が掲げる理想に叶った行動なのか?

 演説を聞き終え、ティリンスはふとそう思った。

 ティリンスは沸き立つ民衆の間を縫うように枢機卿が演説していた広場から離れ、閑散とした路地裏に入った。心には新たな闘志の炎が燃えていた。それは枢機卿を殺してやる、といったものとは違う、どこか穏やかな闘志でもあった。

 枢機卿と一対一で話がしたい。

 あの男がファンブリーナをどうするつもりなのか、何を考え行動しているのか、その真意が知りたい。

 彼に従うかどうかはそれを知ってからだ。それからでもきっと遅くはないはず──。

 ティリンスはその思いに突き動かされ、その夜枢機卿が駐在するというファンブリーナ最大規模の建造物である議事堂へ潜入しようとした。しかし、衛兵に見つかり問答無用で殺されかけたというわけだ。

 そしてバフラに拾われアネリと出会い、今に至る。




 ティリンスは矢で負傷した左肩をさすり、顔をしかめた。枢機卿を狙う輩が多いのはわかるが、全く話を聞くこともなく斬りかかってくるのは酷すぎるのではないか? もしかしたら、ティリンスがニグミ族だと感づき有無を言わさず攻撃してきたのかもしれない。そう思うと、共存と平等を掲げる皇国の兵士であってもニグミ族には根強い偏見があるのだろうと苦々しく感じた。

 どちらかと言えば世間知らずで夢見がちなティリンスは、今でも枢機卿とちゃんと話をしたいとは思っていた。しかし、少し複雑な気持ちでもある。それはアネリが枢機卿を恋い慕っているからだ。恐らく、恥ずかしい話だが、ティリンスはあの妖精のように美しい少女が嫌いではない──むしろ好きなのだ。だからその少女の想い人を前に、情けない本音が出やしないかと不安でならない。

 ティリンスがうじうじしていると、後ろから足音が近づいてきた。

「ティリンス、寒くないの?」

 アネリだった。彼女はどこから持ってきたのか知らないが、やや大きめの外套を着て鼻の頭を赤くしていた。その様子があまりにもかわいらしく、ティリンスは慌てて顔を背けた。

「慣れてるから。……バフラとの話は終わったの?」

「ええ。しばらくは匿ってくれるんですって」

 嬉しそうにそう答えたアネリにティリンスは怪訝な顔を向けた。

 この少女には人を警戒するという防衛本能はないのだろうか。

「その……気をつけてね」

「何に?」

「いや、なんでもない。気にしないで」

「ふふ、変な人ね」

 そう言いながら隣に腰を下ろしてきたアネリをティリンスはちらりと盗み見た。近くで見るとその肌がいかに白く滑らかなのかがよくわかる。ティリンスはこんなに近くにいたら自分の心臓の音がアネリに聞こえそうだと不安になった。

 だがアネリはティリンスが緊張していることに気づくこともなく、屈託なく笑いかけてきた。

「貴方、ハンサムなのね。水色の瞳なのも素敵だわ。けれど……ニグミ族の方々は、普通赤い目を持つのではなかった?」

 ティリンスはアネリのストレートすぎる言葉に面食らい、はっきりしない口調で答えた。

「そ、そうかな……ありがとう。でも、ニグミ族にも赤い目以外の人は結構いるよ。僕の母さんも水色だったし」

 アネリはそれを聞くと、はしゃぐように言った。

「そうなのね。貴方のお母様も……! ふふ、きっと綺麗な方なんでしょうね。ぜひお会いしたいわ!」

 ティリンスの告白を真に受けたらしいアネリは、実に素直にティリンスのことを知りたがっているようだ。どうせ枢機卿が好きなくせに、と少しいじけた気持ちになったティリンスは、やや堅い声音で答えた。

「母はもう死んだよ。数年前にね」

 アネリははっとしたようにティリンスを見ると、徐々に泣きそうな顔になった。そして心底申しわけなさそうに謝罪する。

「ごめんなさい。辛いことを言わせてしまって……」

 ティリンスは大人気ない言い方をした自分を憎々しく思うと同時に、この少女の純真さがますます気に入ってしまった。

 もしかして、努力次第では僕を好きになってくれるんじゃないだろうか。

 そもそも彼女がヴァルカモニカに抱いている感情が恋愛感情だとは限らない。見ているこっちが恥ずかしくなるくらいの心酔っぷりだったが、それは娘が父親に抱くいわゆる肉親愛的なものではないだろうか。ヴァルカモニカは紳士然とした落ち着いた雰囲気から未だに女性に人気がありそうだが、アネリとは親子ほども年が離れているのだから。

「その、不躾なことを聞くかもしれないけど」

 珍しく前向きな気持ちから生じたティリンスの言葉に、アネリは「ん?」と首を傾げた。

 ティリンスは躊躇いながらも尋ねた。

「君はどういった意味で枢機卿が好きなの? たとえば枢機卿と結婚したい、とか……?」

 アネリはしばらく驚いた表情を浮かべていた。じっと見つめられるティリンスは逃げ出したい衝動に駆られたが、対するアネリは急に声を上げて笑い始めた。

「ほんとに面白いことを言うのね、貴方は。まさかそんなことを考えてたなんて夢にも思わなかった! ふふ、じゃあ聞くけど、セネットは今幾つだと思う?」

「……五十代?」

「そう、今年で丁度五十五になるわ」

 そう答えたアネリは照れたような微笑みを浮かべると、どことなく寂しげな声で言った。

「たぶん貴方が思っているような感情とは違うわ。私はセネットのことが好きだけど、結婚したいとは思ってないもの。なんて言えばいいのかしら、この気持ちは……」

 そう、とアネリは一人で頷くと、

「セネットに“お父さん”になってほしいのかも」

 と呟き、ティリンスに子どもっぽい笑顔を向けた。

「もしかして妬いてくれたの?」

「違うよ。ちょっと気になっただけだよ」 

 実際はそれに近いのだが、ティリンスは見栄を張りぶっきらぼうに答えた。

「ふん、楽しそうじゃねーか」

 ふいに背後から男の声がした。

 バフラだった。彼はうなじをぼりぼりと掻きながら二人に近づくと、アネリに顔を寄せ親切そうなおじさんぶって囁いた。

「ちょっとティリンスを貸してくれよ。男同士の大事な話があるんだ」

「男同士の大事な話ってなあに、バフラ?」

 純粋に不思議がるアネリに、バフラはわざとらしい困った顔で唸る。

「若い嬢ちゃんに聞かせるような話じゃないと思うが、まあ知りたいってんなら教えないこともねーよ。そうさな、一言で言うなら男と女の夜の営みについてだな。まがりなりにもちょっとは長く生きてる俺から経験の乏しいティリンス青年に、女を悦ばせる技法ってのを伝授してやる約束なんだよ」

「バフラ!」

 驚愕と羞恥のあまりティリンスは引きつった声しか出せなかった。そんな約束をした覚えはないし、アネリの前で下品なことを言われるのは不愉快極まりない。それにそんな言い方をされると、自分がアネリに嫌らしい気持ちを抱いていると誤解されてしまうではないか!

 だがティリンスが反論を述べるより先にアネリはその柔らかい頬を林檎のような朱に染めると、伏し目がちに頷いた。

「わかったわ。私、小屋に戻る」

 そして小走りで例のあばら屋に向かっていった。

 アネリの姿が小屋の中に消えるのを見送ると、ティリンスは精悍な顔に憤怒の表情を浮かべバフラを振り返った。

「なんであんな嘘言ったんだよ!」

 バフラは答えた。

「全部が全部嘘とは言えんだろ。まったくそういう気持ちを抱いてないわけではあるまいし。それにあいつがいると邪魔だからな、口実が必要だったんだよ」

 それがあんな下品な話題かよ──。ティリンスはバフラと話すのが嫌になり黙りこんだ。すると、バフラが思いがけず厳しい口調で言った。

「あまりあれに情を移すな」

 ティリンスはバフラの言葉の意味をよく理解できず、小汚い男を見返した。バフラはそんなティリンスに苛ついたのか、眉間に皺を寄せ吐き捨てるように続ける。

「わかってるのか? あいつは皇国の皇女だぞ。そしてヴァルカモニカを盲信する王族の一人だ。帝国にとっては完璧なる敵対者の娘だろうが」

 ティリンスはバフラが不吉なことを言うと察し、焦りを孕んだ口調で返した。

「彼女をどうするつもりだ?」

「枢機卿に関する情報を根こそぎ吐かせたら、証拠隠滅の為に殺す」

 ティリンスはバフラの言ったことが信じられず、気づいたときには叫んでいた。

「利用するだけ利用して殺すのか!?」

「騒ぐな!」

 バフラの左の拳がティリンスの右頬を打った。外見に反し予想以上に重く鋭い打撃だ。ティリンスは息を詰め後方によろめくと、バフラが今までに見たことがないほど冷たく自分を睨みつけていることに気づいた。

「こんなに餓鬼だとは思わなかったぜ。まさか、皇国の皇女に本気になっちまうなんてな」

 ティリンスは微かに身を震わせ、バフラの様子を窺った。

 バフラは感情の読み取れない声で続ける。

「諦めろ。あの女は皇国に毒されてる。ファンブリーナを奪還したいんだったら、くだらないことを考えるのはよして皇国の輩を排除する方法でも探すんだな」

「……枢機卿や皇国の奴らを殺したいとは思ってない。僕はただ、ファンブリーナを守りたいだけだ」

 ティリンスの小さな声をバフラは嘲笑った。

「ぬるいこと言ってんじゃねーぞ、若造が。てめぇはあの男がいかに冷酷無慈悲か知らねーみたいだな。いいさ、一つ教えてやるよ。奴がファンブリーナの住民を生かしてるのは情けや道徳心からじゃない」

 片方の口角を吊り上げ笑うバフラは、黒い瞳をぎらつかせながら囁くように告げた。

「ファンブリーナを利用し、帝国を完璧に潰すつもりなのさ」




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