第3章〈見えざる刃〉
相変わらず虫警報。
足の裏に伝わる嫌な感触。ブーツや裾に飛び散る虫の体液。ここが薄暗い地下道でよかった、とライグは思った。今自分の周りで展開しているおぞましい光景を見ずに済むのだから。
ひたすら走っていたライグだが、やがて五分もすると踏みつける蜘蛛の数が減少し始めたことに気づいた。そしてあれだけの蜘蛛の中を走り抜けたにもかかわらず、自分がまったく傷を負っていないことに驚く。
蜘蛛を踏みつけたせいで足元は気持ち悪いくらいに汚れているが、それでも自分自身はまるで無傷だ。どうやらガルアの時魔導のおかげらしい。
ようやく蜘蛛を踏まないようになると、ライグは徐々にスピードを落とし徒歩に切り替えた。注意深く辺りを見回しながら、不気味な地下道をできるだけ足音を立てないように歩いていく。そして、ガルアが叫んだ『虫飼い』について思い返した。
虫飼いと呼ばれる男は、数年前から皇国で活躍し始めた異端の奇術師として帝国では警戒視されている存在だ。ライグはそんな得体の知れない存在が今自分たちを襲撃しているであろうこと、そしてファンブリーナ陥落に関与していたであろうことを思い、絶望的な気持ちになった。
ライグは顔を曇らせ、ぽつりとこぼす。
「どうやって制圧したのかはあまり考えたくはないな……。かなり酷い光景だったんだろう」
ファンブリーナの道路を埋め尽くすほどの虫の群れが人々に襲いかかる光景を想像し、ライグは歯を食いしばった。そしておぞましい考えを振り払うかのように深呼吸する。
余計なことは考えるな。今は虫飼いを探すことに集中しよう。
そう自分に言い聞かせたすぐ後だった。
「…………?」
ライグは何気なく見やった地下道の左手の壁の下部が、大きくひび割れ崩れていることに気づいた。その裂け目の大きさは人間が無理をすればなんとか通れそうなくらいで、古い地下道内部では珍しいものではない。だが、ライグはその裂傷に言いがたい違和感を覚えた。彼は剣の柄にそっと手をかけ、その裂け目をまじまじと見つめた。
暗闇に目が慣れてくると、ライグはその違和感がなんなのかを悟った。
裂け目の向こう側から、なにやら平べったいものが出てくる。それも一つや二つではなく、断続的に何個も。どうやらそれらは、その裂け目の向こうにある空間から這い出してくるようだ。
蜘蛛──。ライグは裂け目から湧いて出る黒っぽいものがあの巨大な肉食蜘蛛だと気づき、眉間に皺を寄せた。どういう訳かは知らないが、凶暴なはずの蜘蛛たちはライグには目もくれずガルアたちがいたほうへと這っていく。まるで何者かに操られているかのように。
ライグは途切れることなく出てくる蜘蛛を凝視し、それから静かに目を閉じた。自分がどう行動するべきかはっきりとわかった。
だが理性ではわかっていても、やはりこれは厳しい。
しばらく躊躇ったあと、ライグは畜生と呟いて地面に伏せた。そして恐る恐る裂け目に近づいていく。
残念なことに地面に腹を擦り付けるくらいに体を縮めないと、この穴は通り抜けれそうにない。
ライグはこみ上げる吐き気を抑え穴を覗き込んだ。そして目の前に近づいてくるグロテスクな蜘蛛を手で払いながら、恐らくは虫飼いがひそんでいるであろう闇の中を這いながら進んでいった。
「ナスカたちは上手くやったかな?」
パラディオが呟いた。隣で地図を睨みつけていたトロギルが顔をあげ、低い声で言う。
「時魔導師は誰も死んでないぜ。今はナスカたちと向かい合った状態でまったく動いてない」
そう言うなり盛大に舌打ちし、
「しくじったと考えたほうがいいだろう。仕方ないさ、もともと準備不足だったんだから」
と、心底悔しそうに続けた。
パラディオはおもむろに頷くと、がっくりと肩を落とした。
あの後──ナスカと言い合った後に、ふいにこの地下道の存在を思い出したパラディオは賭けに出たのだ。トロギルが帝国軍を見失った場所、それがつまりこの地下道の入り口というわけで、案の定パラディオたちはその入り口を発見することに成功した。そして内部に蜘蛛を放ち地下道の構造や抜け道を調べさせ、なんとか彼らを襲撃することはできたのだが。
しかし、やはり甘かった。
奇襲だったとはいえ、制圧されたファンブリーナにわずかな人数で接近してくるような命知らず、いや型破りな連中が相手なのだ。やはり少しは実力がある集団なのだろう、現にパラディオたちの襲撃をやり過ごしたんだから。
パラディオはナスカの懸念が必ずしも外れていなかったことを確信し、深く溜め息をついた。できればここでしとめたかったが、これ以上時間をかければ四人しかいないこちらが不利になるのは確実だろう。そんな無謀なことをして命を危険に晒すよりは、速やかに撤退しこのことを枢機卿に警告するのが最善だ、と彼は考えた。
「残念だけどそのようだね。幸い僕らの仲間はまだ誰も死んでないし、今のうちに引き上げて、このことをファンブリーナの枢機卿に知らせに行こう」
パラディオはそう言いながら立ち上がり、右手の人差し指をくいくいと引くようなジェスチャーをした。簡単な動作だが、虫と一種のテレパシーのようなもので意志を通わせるパラディオには魔術師が使うような複雑な呪文や魔法陣は一切必要ない。彼が念じれば彼と心を通わせた虫たちは、離れたところにいようとその言葉に従うのだ。
トロギルも横で重い腰を上げ、虫と連絡をとりあうパラディオを眺めていた。そうしている間にもパラディオの足元には徐々に蜘蛛たちが集まりつつある。トロギルは何か言いたげな顔をしていたが、むっすりと黙りこんでいた。気が利くパラディオはどうしたんだ、と問いかけようとしたが、その前にトロギルが話し始めた。
「つくづくお前は不思議な奴だな。俺はお前の他に虫を操る術者なんて見たことがない」
それを聞きパラディオは微かに笑った。
「それはそうさ。だってこの能力を持つ者は、世界中を探しても僕以外にはいないからね」
トロギルは不思議そうな表情を浮かべた。
──その直後、パラディオの背筋にぞわり、と悪寒が走る。
パラディオは指をとめ、謎の違和感に息を詰めた。
どうやらそれは、虫たちの中から発せられたもののようだった。
蜘蛛たちから伝わってくる不可解な信号は何かを警告するかのように大きくなり、その轟きにざわざわとパラディオの心が騒ぐ。
──何かが来る。何かが近づいてきている。
パラディオは直感的にそれを感じ取った。
そして、即座に身を翻したパラディオに、唸りを上げる一閃が襲いかかった。




