第3章〈人ならざるもの〉
今回はちょっとグロテスクというかなんというか…。虫が嫌いな人は読まないほうがいいかもしれません!
「あとどのくらい歩くんですか?」
「どのくらいと思う?」
「……二時間くらいでしょうか」
「じゃあ、あと二時間だ」
ライグは隣を歩くガルアを睨みつけた。
「真面目に答えてください。貴方ほどの知識と記憶力があれば、おおよその見当くらいはつくでしょう。何事も知らないよりは知っているほうがいざというときに為になるのですから」
ガルアはそっけなく肩を竦めてみせた。そして背後からついてくる兵士たちをちらりと確認すると、やや低い声音で話し始めた。
「君は真面目すぎるところがたまに面倒くさいな。そんなんじゃバレンシアにもつまらない男だと思われてしまうぞ」
「今は関係ない話です」
ガルアがバレンシアの名前を出したことに微かに動揺を感じながらも、ライグはガルアを睨み続けた。するとしらばっくれるのを諦めたのか、ガルアはぼそぼそと話し始めた。
「ファンブリーナを中心に広がる複雑極まりないこの地下道が、本来は軍事的用途で造られたものだという説明はしただろう?」
「はい。他国からの侵略やクーデターの際に攻撃や撤退を迅速に行う目的で」
「そしてそれをより確実に遂行できるように、一部の地下道にはある特殊な時魔導がかけてあると」
「確か『時空間隔離』ですよね」
「そうだ」
時空間隔離とは、ある特定の空間をこの世界の時間の流れから完璧に切り離す高等時魔導だ。切り離された空間は外部から感知することはほぼ不可能で、その中にいる間は外界からの干渉を一切受けないようになる。
しかしながら、ライグは軍人であるにも関わらずこの地下道の存在意義を知らなかった。地下道そのもののことについても、ファンブリーナには不思議な地下道があるらしい、という巷の噂で聞いていたくらいである。そのことをガルアに尋ねたところ、彼はそれは軍部の中でも特定の人間しか知らないトップシークレットなのだと説明した。悪意あるものに利用され国家に損害をもたらす可能性がないようにとのことだった。
ガルアが説明を続けた。
「しかしこの時魔導、施されたのは今から200年以上前だ。それから今までに通路の改築や造築だって行われたし、長い年月の間に時空の壁が綻びだした場所もある。要するに、この地下道は完璧に隔離されているとは言い難い。だからファンブリーナに到着する時間も予定とは多少違ってくるかもしれないし、それに下手をしたら……」
ガルアはライグを愉快そうに見た。
「二度と太陽の光を見れなくなるかもね」
ライグは一瞬言葉に詰まる。
「それは、その、この空間に閉じ込められるということでしょうか?」
ライグの不安げな言葉にガルアはなんとも言えない表情を浮かべると、急に声を上げて笑い出した。ライグは上官のあまりの笑いように腹が立ち、思わず声を荒げた。
「何がおかしいんですか! 言っておきますが、私は時魔導についてはまるで素人なんです。だからからかったりするのはやめてください。僭越ながら、本当に不愉快です!」
「すまない、だが、この話は嘘じゃないんだよ」
ガルアは例の喉を詰まらせたような笑いをこらえながら、外套の袖で涙を拭った。泣くほど笑われたのも癪に障るが、こんなひねくれた性格の子供が上司だという事実にライグは心底落胆した。
まったく、なぜ天才というのはこんなにも生意気なのか。
すると心の中でぼやいたライグを見透かしたかのように、ガルアが急に真剣な目つきになった。
「ライグ、勘違いしないでくれ。僕は君を試したわけでも脅したわけでもなく、真実を述べただけなんだよ。そして、ついでと言っちゃなんだが、なぜ僕が君を副官に選んだのかも知っておいてほしい」
ライグはガルアが自分をファーストネームで呼んだことに驚き、いつもとは様子の違うガルアをもの問いたげに見返した。
ガルアは一族特有の金色の目──彼の場合は特に感情が読みにくく、不気味に感じられるその目で、真っ直ぐにライグを見る。
「君も知ってのとおり、僕はこんな嫌味な性格だからね。人望のなさはいやってほど自覚してるよ。でも、軍隊をまとめる司令官にあってその問題は致命的だ。僕への反感から士気が下がり、任務の成否さえ変わってくるかもしれない」
ライグは淡々と語るガルアを遮り反論した。
「待ってください。確かに私もそのことは指摘しましたし、上官という存在が士気にまったく影響を及ぼさないとは言えませんが、そんな薄弱な軍隊では戦争に勝ち抜くことなどできない。それにそう言うほど貴方は反感を買っているわけではないでしょう?」
「いいや、それがそうでもないのさ軍曹。じゃあ例をあげよう。君は僕が来るまで、オリンダ大尉のもとで長く過酷な遠征を生き抜いてきただろう。仲間は半数が死に、食料も軍事品も十分でない絶望的な状況の中ね。ならばそんな心が折れてしまいそうな状態で、君は何を頼みにし、何の為に戦っていたのかな? もちろん生きたいという生存本能や祖国を守るという大義もあっただろうが、上官──オリンダ大尉への信頼や忠義もあったのでは? 義理堅い君のことだ、あの軍人の鏡のような男のために、ひいては帝国のために、忠節を尽くして死ぬまで戦おうと思っていたのではないのか?」
ガルアのあまりにも的を射た発言に、ライグは思わず言葉をなくした。まさにその通り、ライグは武人を絵に描いたようなオリンダを尊敬していたし、彼に強い憧れの念を抱いてもいた。自分もいつかこんな軍人になりたいと、そして帝国の軍人として、彼の部下として死ねるなら本望だ、と──。
「不躾な質問をするかもしれないが、一応聞いておくよ。恐らく君は、オリンダ大尉のために命を投げ出すことができるだろう。彼のために死に物狂いで戦えるだろう。だがしかし、君は僕のために命を投げ出せるかい? こんな不愉快極まりない陰湿な男のために、命を懸けて戦いたいと思うかい?」
どことなく面白そうに語るガルアに、ライグは何も答えることができなかった。確かに上官命令とあれば、軍人としてガルアを守るために行動を起こすだろう。だが自発的に、となればどうだ?……薄情かもしれないが、やはり自分は躊躇うだろう。己の命を賭してまでこの腹の内の読めない不気味な男を救う価値はあるのかと逡巡してしまうはずだ。
そもそも、そんなことを決めれるほどライグはガルアのことを知らない。
黙り込んだライグを横目に、ガルアが静かに話し始めた。
「これが士気、というものだ。ひとえに上官だけの責任にはできないが、それでも部隊の士気や活力は上官という要素に大きく左右されてしまうのさ」
「……なるほど、そういうことですね」
ライグの絞り出したような返答にガルアはわかるかわからない程度の微笑を浮かべた。
「素直でよろしい。普通は建て前だけでもガルア司令官をお守りします、とか言うもんだけどね。でもまあ、その馬鹿みたいに実直なところこそ僕が君を選んだ理由なんだよ」
少しばかり顔をしかめたライグに対し、ガルアは意外な言葉を投げかけた。
「君には人望がある。恐らく、あの場にいた軍人の中ではオリンダ大尉の次にね。もちろん僕なんかのそれとは比べるまでもないさ。つまり、こう言いたいんだ」
ガルアは続けた。
「人望のない僕に代わり君が部隊を取りまとめる。計画や策略は僕が練るけど、仲間にそれを命令するのは君の仕事だ。わかるかい? ここにいる兵士たちは僕が言ったことには従わない、むしろ反発するかもしれないが、君が言ったことには従うのさ。それがこの部隊の士気をコントロールする手段であり、僕が君を副官に選んだ最大の理由だ」
告げられた言葉にライグは目をしばたいた。ガルアも戸惑うライグの胸中を読んだのか、黙ったままライグの反応を窺っている。
しかしライグはおもむろにかぶりを振り、反射的に言い返す。
「司令官は私を買い被りすぎです」
謙遜などではなく本心だった。ライグはもちろん驚いていたし評価されたことに嬉しさも感じていたが、それを素直に受け入れるほどには自分に自信がなかった。なにより、ライグはガルアにわずかながらも反感を抱いていたのだ。そんな相手に急に賞賛されても、動揺してしまうものだろう。
しかし、ガルアは気を悪くした様子もなく小さく笑う。
「別に君を褒め称えたわけじゃないよ。客観的に考えるなら、それが合理的だと言うだけで。僕は無駄な労力がとことん嫌いだからね」
ガルアの間の抜けた口調に、複雑な心境から難しい顔をしていたライグは頬を緩めた。
「……そうですね。それなら納得できます」
二人は顔を見合わせ、なんとなく笑い合う。その時ライグは、自分はこの生意気な参謀副長とどうにか上手くやっていけるのではないか、とぼんやり思った。
「……え?」
──直後、背後で訝しがるような声が上がる。
「なんだ……?」
そう言ってうなじに手を回したのは、ライグの後ろについていた若い軍人だった。
理由はわからない。だが、ライグは確かにその声に戦慄を覚えた。もしかしたらあれが防衛本能、いや、生存本能というものだったのかもしれない。後になりライグはそんなことを思ったものだ。
ライグは背後を振り返った。
ライグが眺める中で、うなじに手を回した男の顔が緩やか歪んでいく。それは、正体不明のものに対する不審感から驚愕と絶望を孕んだ恐怖の表情となり──。
「うわああッ! なんだよこれ!?」
そう叫んだ男に手のひらに食いついていたのは、人間の頭ほどもあろうかという巨大な蜘蛛だった。
それは赤黒い外皮に身を包んだ毛深い蜘蛛で、驚くほど腹が膨れ上がっていた。異常なほどぎらつく真っ黒な目は一様に不気味なほど巨大で、その口には鋭い牙がびっしりと並んでいる。そしてその牙は若い軍人の小指の付け根に根本まで食い込んでおり、破れた皮膚から赤い鮮血が滴り落ちていた。
事態に気づいた周辺の兵士たちも、恐怖に顔をひきつらせがくがくと体を震わせる若い男から離れ出した。ざわめきが大きくなり、兵士たちの誰もが怯えた顔でその男を見ている。ライグもまた、茫然とその光景を見ていた。蜘蛛のあまりの醜さと異様さに、腹のそこから得体の知れない悪寒が湧き上がる。
ライグの隣にいたガルアが、鋭く声を張った。
「『虫飼い』の蜘蛛だ! 絶対に噛まれるな!」
軍人である以上危険には敏感なものだ。ライグはガルアの声音にただならぬものを感じ取り、剣を鞘から抜き放つと素早く辺りを確認する。
そして、絶句した。
「おいおい……勘弁してくれよ……」
通路の先の方で黒い影が蠢く。それは布をこするような音と共に、ひび割れた煉瓦の壁、床、天井中に広がりこちらへ近づいてくる。
その影は、まさしく“絶望”そのものだ。
「虫は嫌いなんだよ。特に蜘蛛はな」
呻いたライグに、ガルアが気怠そうに同意した。
「僕もだよ」