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冥王《プルート》の娘

ツキはどっちに出てる?

作者: 周防まひろ

 

 このイカレた世界において、厄日という言葉はない。

 仏滅というのもない。三りんぼうもなきゃ、もちろん大禍日もなし。ましてや、十三日の金曜日すらない。おそらく、暦を教えてくれる奴が減っちまったせいだろう。時間だって、各々が適当に決めてる始末だ。

 まあ、だからと言って、ツキのない日が消えたわけじゃねえ。この世の中で、すべての不運を回避するなんざ、神か仏でないと無理な話だ。

 俺ことシルベスター、そして、連れのエノラ・グリードもしかり。

 ある日の話だ。俺達は野盗に襲われた。アムールという村を出た直後の出来事だった。エノラは拉致され、ひどい目に遭ったらしいが、幸い、俺様の機転で難を逃れた。後で本人から聞いた話では、暴力以外にレイプはされなかったらしく、仲間の俺も一安心、ホッと胸をなで下ろした。それからエノラの野暮用でアムール村に立ち寄った後、再び旅路に就いた。これが午前中までの話。

 でだ、肝心なのが、ここ先の話なんだよ。つまり、その日のハズレは一つだけじゃなかったって事だ。


 まずは一つ目 食い倒れの村


 広大な雪原を抜けてから数時間後、俺達は奇妙な村に到着した。

 入り口の看板には、子供の落書きみたいな読めない文字が並び、石と枝を組み合わせた人形がいくつも首を吊るされている。まるで、何かのまじないだ。

「ゴースト・タウンみたいですね」

 顔に薄く傷を残すエノラがそう漏らし、看板から内側に踏み入れた。途端、頭上から耳障りな音が響いた。見上げると、看板の裏側に丸太が並列し、互いに叩き合って甲高い警報をかき鳴らしていた。

 いわゆる鳴子と呼ばれるアナクロな罠なんだが、以前から俺は、大抵が掛かった後に気づくのを鼻で笑っていた。それも、今日で終わりだ。

 立ち尽くしていると、どこからともなく村人らしき集団が四方に囲うように湧いて出てきた。老若男女の誰もが、身も凍える極寒の中で全裸に近い姿をしてる。

 この時、俺は目出し帽を脱いでいた。なので、頭蓋骨が丸出しだ。普通の人間が見たら、大方、大声で叫んで逃げる。だが、連中は違った。俺を見るなり、気が狂ったように歓喜した。アーかウーばかりを喋っている。おそらく、俺の姿を見て、エノラが甦生術師、プルートの民であると気づいたんだろう。

 プルートの民とは、死んだ人間を生き返らせる事ができる奴らの呼び名だ。エノラもその一人だが、数は少なく、信じない人間の方が多い。骨だけで動いたり、喋ったりする俺は、言ってみれば、態の良い名刺代わりなわけ。

 ちなみに言及しておくと、俺の体は骸骨だけで他に何もない。俺を生き返らせる際、未熟者だったエノラがトチってしまったのが原因だ。

 で、村人達に囲まれて胴上げされた俺達は、そのまま村の中へと連れ込まれた。抵抗すればよかったのだが、あいつは状況が呑み込めずに唖然としていたし、俺は目の保養にと若い娘の裸体を眺めていた。ホント、悠長だろ?

「彼らなりの歓迎でしょうかね?」

 エノラはまだ冷静を保っていた。俺も、さあと首を振るしかない。

 ここへ来る前にも、アルームという村に立ち寄ったのだが、そこは甦生術師には大変寛容だった。村人達が皆、プルートの民を神の使いと崇めているからだ。

 アムールでさえも、これほど激しい歓迎ではなかったけども。

 この村の中は、掘っ立て小屋がいくつもある。正直言って、どの民家もとても人の住めるとは思えない。子供のジャングルジムみたいに変てこな形をしている。木の壁もいがみ過ぎて隙間も目立つし、ドアや屋根すらもないのもある。

 どこからともなく、動物の死臭がするのも気になった。

 村の中心の広場まで引っ立てられた俺らは、大きな柱から垂れる縄で足を括られ、なぜだか逆さ吊りにされた。上下逆転した視界に戸惑っていると、連中が白と黒の粉を降り掛けきた。エノラも俺も、何度も激しくクシャミを繰り返す。

 口に含むと、塩辛くて苦い。塩と胡椒だ。

 アムールで受けたのが手厚い歓迎なら、ここのそれは手荒い歓迎だろう。言葉が通じず、連中の手の内も見えない。これではまるで、クリスマスの七面鳥だ。

 さらに、奇妙な光景は続く。村人達は俺らを囲って、何かを喚いて踊りながら周った。一様に、首にナプキンにも似た前掛けを垂らし、左右の手にはデカいフォークとナイフを携えている。

 ここらでやっと雲行きの怪しい展開を予感したのか、エノラが聞いてきた。

「シルベスター、彼らの言葉が分かりますか?」

「ああ。俺は世の女性をコンプリートするために、日夜勉強し、あらゆる外国語に精通しているんだ。愛の始まりは、愛撫ではなく言葉――」

「訳して」

 無視された俺は、渋々、空洞の頭に鎮座していたはずの脳みそを優しく解きほぐしつつ、似た言語を探し出す。連中の言葉が脳内変換されるにつれ、俺の背中に感電にも似た悪寒が走った。

 これはかなりヤバい状況だ。

「どうやら、ここはアムールみたいにお前みたいな甦生術師を崇めているらしいぞ。ただし、あそこより随分と熱心というか狂信的だがな」

「狂信的?」エノラは眉をひそめる。

 翻訳した内容を整理して、俺は言葉を続けた。

「こいつら曰く、プルートの民とその庇護を受けた再生者の肉を喰らうと、不死の命を授けられるとか……」

「つまり……ここは、人喰いの集落という事?」

「ああ。俺達みたいな旅人限定の罠だな。目玉が前菜、心臓と脳みそがメインディッシュ、すらりと伸びる術師の美脚はデザートだってよ」

 エノラは能面のままでクールを装っているみたいだが、頭の中では悲鳴を上げているに違いねえ。ちなみに、前菜やメインディッシュとかの部分は、俺の創作だ。

「シルベスター、私の言葉を訳して、彼らに伝えて下さい」

 まずは交渉か。とりあえず、無難な手だな。

「なんて言えばいい?」

「女は、肉はあるが腐っていて不味い。黒い血も飲んだら食中毒で死ぬ。男の方が、骨がとにかくうまい。一日中しゃぶっていても飽きない」

 妙齢の女性が臆面もなく“しゃぶる”という単語を口に出すと、何やらピンとくるものはないか? もっとも、この場では取るに足らない些細な点だ。より深い問題は別にある。

 俺は無言のまましばらく考えた末、連中の言葉に訳して伝える。村人達はヒソヒソと会議をした後、柱に結ばれた縄をゆっくりと引いてくれた。怪訝な顔をするあいつを脇目に、俺は一人、地上への生還を果たした。

 代わって、エプロン姿の大男が、デカいチェーンソーを担いで入場してきた。エノラの胸から腹までの寸法を適当に測りながら、切り込みの位置を確認している。

「シルベスター、誤訳でもしたのですか? なんと伝えたんです?」

「男は、骨の中身がスカスカで喰えたモンじゃない。女の方が、脂が乗っていて美味いし、黒い血も滋養強壮や肌の美容に効果がある」

「薄情者! 人でなし!」

 黒い瞳を丸くしてエノラが喚いた。人の事を言えるかよ?

「短い人生だったと諦めてくれ。まあ、今日を入れて三回も出てこられたんだから、いいじゃないか」この言葉は無視してくれ。

「読み物の打ち切りみたいな事を言うんじゃない!」これもスルーな。

 荷物を背負い退散しようとしたが、妙に鼻がヒクヒクして仕方がない。さっき、調味料を掛けられたせいだ。最大級のクシャミの予感がし、俺は身構えた。中年オヤジみたいだが、クシャミぐらい豪快に出したい年頃なのだ。

「バックシューン!」と大声で体を捻った勢いで、チャーンソー男の体を横に突いてしまった。バランスを崩したそいつは、チャーンソーを振り上げたまま転倒した。

 その際、目の前にいた、どっかの爺さんを上斜めからスッパリと両断してしまったのだ。吹き上げる鮮血に、溢れて飛び出る内臓――。

 もうダメ。グロに弱い俺が説明できるのはここまでだ。

 とにかくだ、死んだ爺さんはどうやら人食い族の長だったらしく、突いた俺が殺したと確信したのか、チェーンソー男と村人達が血走った殺意の目で、俺を睨んだ。

「ちょっと待て。俺はやってない。無実だ」

 当然ながら聞く耳を持たない御立腹の様子。名誉のために言っておくが、俺は悪気があって押したわけじゃない。

 冤罪を被ったまま、俺は連中と村の中で鬼ごっこを繰り広げる羽目になった。その間、懐に忍ばせていたナイフで呪縛を解いたエノラと合流した。

 二人で逃げ続ける事、数十分。俺を介して交渉が始まった。村長の爺さんを生き返らせる代わりに、俺達を解放する。

 交渉は無事成立。さっそく、儀式は始められた。今日で三度目の甦生のせいか、エノラの顔色は明らかに良くない。

 儀式には、器となる肉、生き返らせるじいさんの骨、生きている奴の血、そしてエノラの黒い血が必要だ。

 俺がその旨を通訳すると、チェーンソーの大男は数人を引き連れて、ある小屋の中に入っていった。直後、耳をつんざくほどの悲鳴が上がる。

「お助けえぇぇぇぇぇぇぇ!」続いて、肉を切断する電動音。再び、断末魔。

 しばらくして、連中が出てきた。揃って、全身が血まみれだった。先頭の大男が持つ土器は、血で満たされ、肉片がプカプカ浮いている。止せば良かったのだが、俺は恐る恐る、誰のものかと問うと、素っ気なく一言返してきた。

『“家畜”のだ』

 連中の家畜は、すこぶる賢いようだ。

 エノラはいつものように二の腕を切り、黒い血を肉塊に垂らす。あいつの顔は、みるみる青白さを通り越して土気色に変わる。死人と同じだ。いつもより早い。細身は小刻みに揺れて今にも倒れそうだ。俺は横合いからあいつを支えた。

 結果から言うと、エノラは村長の再生を成功させた。

 数時間後、じいさんが生前の全裸姿で膜を破って生まれ出てきやがった。忘れがたいほどのグロテスクな光景だ。

 これで助かったと思うだろ? ところがどっこい、俺らは重要な点を忘れていたのよ。当の村長は、交わされた約束など露も知らず、俺達を見るなり、紅潮した顔で『殺せ!』って叫んだわけ。んで、考える頭を持っていないのか、忘れっぽいのか、連中は再び俺達に襲いかかって来たんだ。

 逃げる俺の前方を、エノラは千鳥足みたいに走る。なのに、俺より足が速い。連中は吹き矢を飛ばし追撃を緩めない。毒でも塗ってあるのだろう、背中や尻に刺さる度に、激痛とセットで痺れが全身に走る。

 エノラは、俺の体を盾にしながら逃げていた。意識が朦朧としている割には、小賢しいほど知恵が働くようだ。まあ、俺が内臓も血肉もないのを見越しているのだろうが。痛いものは痛い。男は女を守らねばならないのは賛同するが、何かが違う。

 とりあえず、俺達は必死の思いで人喰い村を後にした。


 さらに二つ目 クジラに乗った少女


 俺は背中に刺さった毒針を抜きつつ歩き、エノラはドスドスと聞こえてくるほど雪を踏みしめながら進んでいた。

 察しの通り、あいつの機嫌はすこぶる最悪の状態だ。人喰い村の一件もあるが、理由は他にある。淑女特有のものだ。

 本日二度目の危機を脱し、少し歩いていた時である。あいつは急に立ち止まり、遠慮がちな声で、「……後ろを向いていてくれますか?」と言ってきたのだ。ほとんど条件反射に近い速さで、俺は何も言わずに従った。

 雪を踏む音に混じり、ズボンを下ろし、ローブをたくし上げるのが聞こえる。誘惑に負けぬよう、必死に自分の首を押さえつけた。自慢じゃないが、俺は、女の事なら女よりも詳しいと自負している。だからこそ、振り向いたら撃ち殺すと、あいつが平然と言ったのが脅しではないと心得ていた。

 もういいと言われたので向き直ると、やはり、エノラの顔は不機嫌に凝り固まっている。白い顔は引きつり、目は恨めしく薄く閉じられ、唇を噛みしめる。一か月に一度ぐらいの頻度だろうか。男の俺には理解できない領域だ。あいつ同様、ただ、過ぎ去るのを待つしかない。

「本当に、今日はツキのない日だわ」

 足取りが落ち着いた時、細い背中が嘯いた。俺はボンヤリと空を見上げた。気象や環境がすっかりイカレた世界では、四六時中、空一面には暗雲が漂い、夜になっても月や星空は拝めなくなっている。

 おツキ様が出たり入ったりで、エノたんはご機嫌斜めってか。

 つい小さく吹き出すと、エノラがいきなり立ち止まった。かつて、東洋にあったとされる市松人形よろしく、胸辺りで揃えたセミロングの黒髪を揺らしながら振り向いて、冷ややかな視線を送る。軽蔑の文字が浮かぶ黒い瞳はしかし何も言わないまま、すぐさま向き直り、何もなかったかのように歩き始めた。

 この反応がやたら怖い。プルートの民は、生き返らせた奴の心が読めるのか、それとも単なるハッタリか。ともあれ、女の勘は末恐ろしい。

 俺は背筋を震わせ、無心のまま後に続いた。

「あ、あのよ、エノラ、そろそろ昼飯しねえか?」

「いえ、まだいいです」

「一応さ、アムールの村で恵んで貰った食い物を弁当箱に入れてるからよお――」

 エノラの歩みは止まらない。基本的に、あいつに追随する立場の俺は、食事や休憩を決める主導権はない。

 そっか、今のエノラちゃんは、綿の詰まった弁当箱で腹一杯なんだよな。

 こみ上げる笑いを何とか堪えたが、すでに遅かった。

 またも、エノラが立ち止まり、今度は憐れむような目を向けてくる。余命幾ばくの病人に対する、修道女の憐憫さとは少し違う。むしろ、処刑される前の受刑者に向ける見物人のそれだ。“かわいそうだけど、自業自得だよね”という感じ。

 俺はわざとらしい咳払いを出してしまい、重ねて墓穴を掘った。やはり、エノラは何も言わずに向き直って歩き出す。いつの間にか、歯の奥がカタカタ鳴り出しているのに気づいた俺は、口を固く閉じ、般若心経を心の中で必死に唱えた。

 俺達は大海の上に出た。正しくは、凍りついた海面の上である。

 長年に渡る氷河期は、世界中の海面を厚い氷上に変えたのだ。馬鹿な話かもしれんが、氷の下では魚が疎らに泳いでいる。学のない俺には、どこで奴らが空気を得ているかは知らねえから聞いてくれるな。

 滑りやすい氷を移動していると、眼前に突起物がいくつも現れた。近くまで歩いた俺らは思わず足を止める。エノラも同じだった。

 凍てついた海面を突き破り、大地にそびえ立つ巨体の群れは、とても信じられねえが、頭から飛び出したまた氷漬けになったクジラの死骸だった。どんな経緯で、そうなったのはもちろん分からねえ。

「すげえ」

「まさしく、自然界による壮大な死のオブジェですね」

 俺と同様に、さすがのエノラも感嘆を漏らした。

「かつて、海の支配者であり、最大級の哺乳類に君臨していた彼らでさえ、予期せぬ死からは逃れられない。生と死は常に双子のように寄生して、宿主の命の蝋燭をすり減らす。時には、突如吹き消したりもする。善悪も老若男女も関係なく……」

 エノラは大きく息を吐いた。白い息が中空に漂って消える。

「老少不定もまた世の理。私達も例外ではありません。いかなる時も、ああなる可能性を秘めています」

 遠い目を彼方に向け、あいつはまた歩き出す。

 俺は、高尚じみた感想をのたまうエノラと違った。妄想という名の消しゴムが、東洋の有難い経典を一文字残らず消していく。

 どれもこれも、ピンピンに勃ってやがる。生前の俺には、あれぐらい立派なセガレがあったのに――。

 また、やっちまった。慌てて賢者に戻ろうとする前に、エノラがまた振り返りやがった。気に入りの玩具を取り上げられ、ふて腐れている子供が犬のクソを踏むと、今のあいつみたいな顔をするだろう。

 やはり、何も言わずに向き直った。何が言いたいんだ? 頼むから教えてくれよ? 今は亡き心臓が高鳴り始める幻聴が聞こえる。

 俺は周りをキョロキョロさせながら歩いた。めぼしい形を探しているのだ。大きさも形も関係ねえ、大事なのは……止めとこう。前を歩くエノラが、いつの間にか、背中の布筒を下ろし、中から得物のダブルバレルを取り出していた。

 そろそろ逆鱗に触れる黄色信号の頃合いだ。

 ふと、後ろを振り返ると、俺はおかしな事に気づいた。

 あくまで勘違いかもしれんが、クジラの頭の向きが変わっている気がするんだよ。もちろん、どれも氷漬けで動くはずがない。どれも死んでいるのだから尚更だ。すべての亀、じゃない、鯨の頭がこちらを向いているように見えた。

 例えば、手前のシオナガスクジラは、横に傾いていた頭が、今ではこちらを向いて、まるで俺達の様子を窺っているようだった。ところで、昔読んだ図鑑によれば、なんでもクジラは海面に顔を出す時に頭から潮を吹いていたという記憶がある。

 潮を吹くんだってよ。潮、吹き――あ。

「シルベスター」

 エノラが立ち止まった。ダブルバレルを折り、黒い空包を二発装填している。間違いない。こいつは俺の心を読んでいやがる!

「どうも落ち着かないようですね。後ろが」

「すまん。改めるよ。雑念は捨てるから」

 エノラはダブルバレルを、正面の俺に向かって構えた。

 もうダメだ。たかだか十九の小娘に粛清されて、俺は逝く。第二の人生は思ったよりも短かった。今度生まれ変わる時も、イケメン希望と拝んでおこう。

「やはり、背後は静かなのが一番ですよね?」

「ああ、そうそう。だからお助け……」

「これから少しの間、うるさくなりますよ。だから――」

「だから……?」

 では皆さん、さようなら。

「伏せて!」

 すかさずしゃがんだ直後、散弾銃の左側の銃口が火を噴いた。背後ですさまじい断末魔が上がる。

 耳を押さえながら振り返り、俺は腰を抜かした。巨大な壁が立ち塞がっているかと思った。屋外だからそんなはずはねえ。全体的に黒に近い灰色で、真ん中に白縞が縦に走る壁、その上が歪曲してこちらを射抜く小さな目は、俺らからすれば大きい。

 顔と分かる位置には斑点状の弾痕が風穴を開けている。その巨体がこちらに向かって傾いていき――。

 氷の地面が砕け、海水がほとばしる。俺とエノラはできるだけ遠くへ駆けた。滑りやすい足元など気にはしてられない。すぐ背後で、大地を揺るがす程の轟きを残し、クジラが氷の大地に伏した。

「ありゃあ、マッコウクジラだ。旧世紀に絶滅した最大級の哺乳類だ」

 荒い息を整えつつ、エノラは言った。

「今では、最大級の死霊ね」

 死霊とは、俺のような再生者が死ぬとなると言われている化け物だ。生きた人間を襲って喰い殺す。殺された人間も死霊になる。いわばゾンビみてえなもんだ。奴らに実体がなく、捕食するために、奴らは死んだ人間や物に憑りつく。

 エノラと俺は、旅の途中で何度も連中に遭遇にしてきた。荒地、再生者の死、襲われた人間の死霊化。原因は様々だが、向かう度に倒して危機を脱してきた。

 だが、今度ばかりは相当ヤバい。

 俺の予感をエノラは察知したのか、「死霊がまだ残っているみたいですよ」

「一体にどこにいると思うよ?」

「さあ……少なくとも、私達の近くに――」

 あいつの言葉が急に途切れる。遅れて、俺も異変に気づいた。

 空が妙に暗い。だが、覆っているのは白くて、暗雲とは違う。先ほどと変わらず、雪が限りなく降り続いている。

 違う、逆だ。足元の方が暗くなっているのだ。厚い氷の向こうに広がる海面。その中を、巨大な青い体が泳いでいた。さっきの鯨と同じぐらいのデカさ。それが海底の奥底に消えたかと思うと、翻ってこちらに向かって上昇する。

 小魚を蹴散らし、無数の泡を立たせながら、少しずつ全容がはっきりしていく。黒く四角い物体に、その真ん中が大きく横に割れて現れたのは、無数に並ぶ牙。唸りが聞こえてきそうな大口が視界一杯に広がる。

「来るぞ」

 地震が起きたみたいに足元の揺れが一層激しくなり、怪物の顔が鮮明な視界に飛び込み、そして――氷を一気に突き破り、クジラの胴体が舞い上がった。

 俺達は一溜りもなく吹き飛ばされた。優に、二十メートルは軽く超える胴体が宙を跳び、再び、氷を割って海中へと消えた。

 さっきのマッコウクジラとは違い、全体的に四角い頭を持つそいつは、俺の知る限りでは、シオナガスクジラと呼ばれていた品種だったと思う。

 もちろん、世界中の海が凍りついたご時世で生きているわけがない。一瞬見えた、赤く充血する目は、クジラというよりも人間みてえだ。

 獰猛な瞳は、完全にイッちゃってる。死霊が憑りついているのだ。

「シルベスター、逃げなさい!」

 言われなくとも分かってる。俺とエノラは二手に分かれた。

 俺の体は大変軽い。内臓も肉もないので当然だが、宙に浮く心地で足には自信がある。そのせいか、持たされている荷物は多い。

 右手側を少し離れて、エノラが走っている。あいつの後方を、氷を何度も突き破り、死霊化したくクジラが飛び出しては消える。女にしては足が速いが、巨大な怪物はどんどん距離を縮めていく。

 放物線を描くそいつに向かって、エノラはダブルバレルを撃った。黒い散弾は早い内に拡散し、巨体にかすりもしない。

 近い位置から撃たねえと当たらない。だからと言って、あんなデカ物に肉迫するのはいくらなんでも無茶だ。

「エノラ、逃げ――」

 クジラの咆哮が続きをかき消した。まるで人間みてえな声を出しやがる。

 走り出そうとした俺は、信じたくない光景を垣間見た。牙の並ぶ口が広がり、着地点にいるエノラに迫る。クジラがそこに激突した。

 エノラが喰われちまった。俺はその場で立ち尽くす。これまで何度となく修羅場をくぐって来たあいつも、クジラの餌になるとは……。

 俺の絶望をあざけ笑うように、シオナガスクジラの化け物がいななく。そいつが氷を突き破って、今度は俺を狙って跳躍しようとした。

 その時――悲鳴が上がった。エノラのものではない。俺でもない。

 化け物の方だ。灰色の胴体が所々に膨れ、黒い粒子が突き破った。宙に浮かぶ怪物が悶え苦しむ。そして、腹這いのまま、地面に激突した。一際大きく大地を揺るがした。氷上でのた打ち回りながら、怪物が口から血だまりの泡を吐いた。同時に、脳天から赤い潮を吹き上げる。

 俺はすぐさま気づいた。あいつが、怪物の腹ん中で黒い血をぶっ放したんだ。

 案の定、怪物の横腹が小さく裂け、そこから肉や内臓が辺りに溢れ出ると共に(エンガチョーとしか言えねえや)、ナイフを持つ血だまりの手が伸びた。クジラの体をさらに引き裂いて、エノラ・グリードが出てくる。

 あいつは酷い有様だった。頭から爪先まで血みどろに染まっている。また、余計な洗濯物が増えちまった。

「大丈夫か、エノラ?」

 あいつは笑わずに言った。「悪食は命取りですよ」

 安心から生まれる油断もまた命取りとなる。突然、足元が揺れた。さっきのよりも断然小さいが、新たに二尾の怪物が、俺達のいる氷に激突してきたためだ。長細く伸びる口、小さな白目、小ぶりな体は俊敏だった。そいつらがサメだと分かった。

 ピキピキと断面が走った時には遅く、無防備だった俺もエノラも、逃げる間もなく海面に投げ出されてしまった。

 頭から先に被り、今は無き心臓が止まる勢いだ。漂っていた俺は、エノラが海に沈むのを見た。あいつの藁靴を怪物どもがくわえ、海中へ引きずり込んだのだ。

「畜生!」と叫び、俺は潜水した。

 海中であいつは怪物どもと格闘していた。乱れる黒髪、破顔する白い顔。雑魚どもを蹴散らそうと、ダブルバレルを滅茶苦茶に振り回している。

 もう弾は空のはずだ。もちろん海中で装填できるはずがない。

 潜ろうとした俺は、エノラと目が合う。黒い瞳が数回瞬きし、上に向かって散弾銃を投げてよこした。水圧に従って浮上するそれを、俺はなんとかキャッチした。

 すぐにその理由が分かり、俺はあいつの正気を疑った。

 だが、あいつの命令なら拒む理由はなし、他に手は思いつかない。

 なるようになれ。後は野となれ山となれ、だ。

 俺は海面に上がると、散弾銃を折り、荷物から黒い弾を落さねえように充填した。情けない事に、骨の指がかじかむ。

 装填が終わるとすぐさま、照準を海中の怪物に向けた。

 当然、あいつにも当たるだろう。少なくとも、無傷では済まない。最悪、チーズみたいにエノラを風穴だらけにしてしちまうかもしれん。

 さっきから、指先が寒さ以外の理由で震えてやがる。自慢じゃないが、射撃はあいつほど上手くない。しかも、これは散弾だ。外さない方が簡単だが――。

 アイツの唇が動き、泡が上がる。かすかに『撃って』と見えた。狂ってやがる。

「ああ、神様、お願いします」願掛けも気休めのうち。

 骨の指が引き金を押した。すさまじい銃声が空に轟く。持っていた手が反動で持ち上がり、スカスカの体が一瞬だけ宙に浮く。

 黒い散弾は海中で渦を巻きながら、エノラとサメどもを直撃した。赤黒い血が一気に広がり、海水を炭で垂らしたように染める。

 何が起きているのかが見えず、俺は焦燥感だけが募った。

 海面が弾け、エノラが飛び出した。俺は慌てて、あいつを引き上げる。あいつは何度もむせ返り、海水を吐き出させた。虚ろな目で、額や頬、顎に小さな傷を走らせ、服の所々が裂け、そこからも黒い血が流れている。

 幸い、致命傷は見当たらなかった。幸運と言えばそうだろうが、今になって考えると、テメエに向かって敵ごと撃たせるなんて、気違いじみてやがる。

 自分も死ぬかもしれないと考えなかったのか?

 エノラはフラフラと立ち上がった。濡れた髪や服から、滴が落ち続ける。にもかかわらず、あいつは何事もなかったように歩き出す。

「よせ、ボロボロじゃねえか! 手当をした方がいい」

 あいつは何も答えない。ブツブツ何かをつぶやいているが、足取りはさっきよりも遅くても重かった。氷点下の海水に潜っていたのだ。同じ格好のままでは風邪をひいてしまう。おまけに、今日は三人も甦生するのに黒い血を流し、休憩さえもしていないはずだ。このままでは、エノラの体が持たない。

「やめろ、エノラ! 死ぬ気か?」

 あいつに追いついた俺は、その細い肩を押し戻した。本人は、簡単に向き直った。黒い瞳は薄く閉じかけている。口からも荒い呼吸が漏れる。

 咄嗟に手を伸ばしたのがよかった。エノラが俺に抱きかかえられるようにして、その場で崩れ落ちた。


 そして三つ目 夜話


 俺はずぶ濡れのエノラを担いでしばらく歩いた。

 幸運にも、盛り上がった小山に到着した。昔は小島だったのだろう。俺はそこの頂上でテントを張った。吹雪も強まりだしたから、ちょうどタイミングが奇跡に近い。

 エノラは風邪をこじらせてしまったようだ。額の熱も高く、呼吸も不規則だ。疲労に加え、氷点下の海面に潜ったのだから無理もない。

 人間は病気になれば弱気になると言うが、あいつは典型的だ。怪我の手当てをしている間、普段は言わない弱気ばかりを吐いていた。

「シルベスター……私は死ぬのね?」

 三十七度ぐらいで死ぬかよと突っ込みたかったが、クマの浮いた黒い瞳に向かって何度も同じ事を問いかける。

「明日になったら、元気になってる」

「いいえ、私は死ぬのよ、シルベスター。パパやママのいる天国にも行けずに……」

 嗚咽を漏らしつつ、咳を繰り返すエノラの姿は、痛々しかった。

「私達、まだ、今日を入れても三回しか出てないのに。私がここで死んじゃったら、あの母子に負けちゃうよ」

 ああ、ひどい。こんな訳の分からない妄言まで飛び出す始末。

 捨て身の戦法を取った割には、意外にも致命傷となるものはなかった。水中に向けて撃ったために、弾速が鈍くなったのもある。さらに、弾丸自体が液体なので、人体を損傷するほどの威力は落ちたのだろう。

 ただ、右腕の表皮を浅くえぐる、爪痕にも似た小さな傷には、俺は正直ゾッとした。血の散弾があと数センチ腕に向かっていたら、あいつの利き手が飛んで、左手を強制する羽目になっていたかもしれないのだ。強運、というか神様によるご都合の賜物だろうと、俺は強く感謝したよ。

 ところで、当のフロック野郎ときたら、薬の効果で眠るまで滔々と文句を述べていたんだ。両親に会えないまま、申し訳が立たないだの、自分がふがいないだの、無力だの、挙句には先祖の祟りだのオカルトめいた運命論まで語り出した。

 だが、一度眠るとすぐに寝息を立て始めやがった。

 ホント、現金な奴。


 二十時間後ぐらいしてから、エノラは目を覚ました。顔中に汗の玉が浮かんでいる。また、悪い夢でも見たんだろう。

 あいつは急に起き出すと、下着姿のまま荷物を片付け始める。俺は夕食を作りながら、「今日は止めとけ」とだけ忠告するが、あいつは聞く耳を持たない。

 案の定、テントの入り口の幕を上げると、外は一面をブリザードが覆っていた。現在位置も判断できないような猛吹雪の中を歩くのは、まさに自殺行為に近い。

 ため息と共に肩を落とすエノラに、俺は冷静になるようにたしなめようと思った。

「神様が少し休めとおっしゃってるのさ」

「神などいるもんか! いれば、残酷な神だわよ!」

 逆効果だが、コレはこれでいい。不平不満を体に貯め込むのは毒だ。声を大にして吐き出すのが、一番手っ取り早い。

 細い肩を震わせ、エノラは寝袋に潜り、そのままふて寝してしまった。

「遅い夕食だぞ」

「要りません」

「野盗に捕まった時から何も食ってないだろ?」

「おなかは空いてない」そう言った途端、どこからか腹の虫が鳴る。あいつは無言のままだが、内心赤くなっているだろう。

「ホレホレ、体は正直だぞ」

 人間、言葉と行動が正反対の場合、だいたいやっている事の方が本心だ。だが、強情にもあいつは動かない。仕方がないので、俺は一人で食う事にした。

 テントの中心の窪には焚き火が上がり、煮え立つ鍋の中には缶詰が浮かぶ。天井には、煌々と明かりと照らすランタンと、洗濯済のエノラの服を吊るしてある。

 全部、あいつが寝ている間がやっておいたのだ。

 俺は、わざと音を立てながら食事に舌鼓を打った。まあ、料理といっても大したもんじゃない。解凍した野菜をスープに入れただけだ。

 俺達は、甦生を施して、報酬に食料を貰うというその日暮らしの旅をしている。ジリ貧だが、この調子で一年近く続いた。

 時間と共に、腹の虫は激しさを増していく。その度に、素直じゃないエノラは咳と寝返りを繰り返す。俺はスープの湯気をあいつの方や仰いでやった。

 そうするといつの間にか、布団から黒い瞳を寄越すようになり、しだいに顔を出し、やっと起きだしてきた。最初から、そうすればいいんだよな。

 いつもみたく野菜をより分けながら、スープをすするエノラ。空腹でも悪癖は消えていない。

 俺はそれとなく、エノラを一瞥した。

 月並みな表現だが、雪のように仄白い肌に、対照的な黒いランジェリー、パンツが見えそうで見えないぐらい、だらしなく崩した太腿。しなやかな脚線、さっきまで銃を駆使したとは思えないほどの細い二の腕。胸の程よい膨らみが規則的に隆起する。簡単に折れてしまいそうな首もまた純白だ。

 亡きセガレも生きていれば、さぞかし元気になっていたに違いねえ。

 もっとも、顔から下に限ればだが……。

 押し並べて、起き立ての女は、男性陣の想像を遥かに凌駕する。エノラも例に漏れなく酷い有様である。

 胸の辺りで揃えた黒髪は、一時的に光沢を失い、ザンバラに爆発している。顔も白い肌も妙に青白く、寝ぼけ気味の黒い瞳も泣き腫らした上に充血している。薄く浮いた隈も相まって、水商売から足を洗ったばかりの姥桜にしか見えなかった。

 亡きセガレがいれば、ヘニャリと枝垂れ柳のごとく萎んだだろうに。

 エノラが陰鬱な眼差しをジトッと向けたので、俺は適当な話を切り出した。

「また怖い夢を見たのか?」

「怖くはありません。二人との距離が縮まる気がして、心が躍るばかりです」

 心が躍る割には、陰鬱な顔をしてる。

「それよりも、私はどのくらい眠ってました?」

「ほぼ一日中」

 食器を脇に置き、急にエノラが立ち上がった。

「食べたら、すぐ出発です」

「言ったろ、外は猛吹雪だぜ。そう急ぐな」

 あいつは渋々座り、落胆するように肩を落とした。

「目的の都まで、まだ遠いというのに……」

 この世界では、村や街よりも広大で、人口が一万人を超える集落は都と呼ばれる。数はずっと少なく、五本の指もないだろう。そこでは、貨幣の流通があり、政治があり、法律もある。

 俺達の目指す都は、ここからでもいくつも山を越えて、氷の海上を横断し、何千里もの荒地――野盗や死霊が跋扈する――の先にある。

 少なくとも、明日や一週間、ひと月、半年で着く距離ではない。もしかしたら、一生モノの仕事になるかもしれねえ。

 俺はいつの間にか、スープの缶を置いていた。

「エノラよお、一度聞きたかったことがあるんだけさ」

「猥談は禁止ですよ」

「お前は、両親の眠る墓所がある都に行って、生き返らせるのが夢だろ?」

「夢ではなく、目的です」どちらも同じだって。

「他にないのかよ?」

「他に、とは?」

「生きる目的だよ。一度考えたことがあるか? 例えば、両親の墓がないとか、その都自体、とうの昔に消えてるとか」

 エノラは黙りこくっていた。どうやら考えてなかったみたいだ。

「なら、今からでも遅くねえから、もう一つか二つぐらい夢や目的を持っといた方が良いぞ。一つしかなかった目的が失敗に終わったら、お前はその先どう生きていくつもりなんだ」

 あまりにも一途に過ぎる。不器用にも程がある。こういう奴に限って、人生に挫折すると自暴自棄になる。

「お説教は結構です、シルベスター。二人の遺体は必ずあります」

 それを言っちゃあ、おしめえだ。俺は切り口を変えた。

「じゃあな、両親を見つけ出して、無事に甦生を成功させたとしようか。あまり年の変わらない、見知らぬ女にいきなり『私はあなた方の娘です』と言われて、彼らは信じると思うか?」

 本人らからしたら、さぞかし、浦島太郎の心境だろうな。

「そんなもの、記憶を操作して何とでもしてみます。最初は、たった一人の親戚とか名乗って、少しずつ事情を説明して、長い時間をかけてでも分かり合えるようにすれば……」

「オーケー。両親と水入らずに暮らすとして、お前はいつか好きな男に嫁ぐかもしれんぜ。十九歳つったら、村によっては潮時どころか生き遅れになっちまうぞ」

 昔、エノラのいた村でも、十五歳で成人し、十七歳までに結婚するのが当たり前だったらしい。

「もう嫁には行く気はありません。そもそも縁もないでしょう」

 確かに今の醜態なら説得がある。

「仮に縁があっても……こんな体では殿方も初夜の時点で逃げ出すでしょうね……」そう言って、胸の辺りを触って自嘲した。

 いけねえな。全然いけねえ。

 辛気臭い話ほど嫌いなものはねえ。猥談と教会の説教なら迷わず前者を選び、深刻な話と説教なら後者を選ぶのが俺だ。

「エノラ……人間はな、各々が偶然の重なり合いで存在しているんだ」

「いきなり何を言い出すんです?」

「シルベスター様の有難いテツガクの講話だよ。初回の授業料はサービスしとくぜ。さて、この世の中には希少価値というものがある。数が少なからこそ貴重な代物を指す。例えば、何があるだろうな?」

「お金」

「イエス」

「資源」

「他に?」

「食料」

「他に?」

「……甦生術師」自惚れ屋。

「他には何があるかな?」

 エノラは肩をすくめ、あっさり降参した。

「出会いだよ。正しくは、そこへ至るまでの誕生と人生だ、グリード君。母の腹から生まれ出て十九年、君はあらゆる人生という道を歩んできた。そして今、ここにいる。果たして、それらは単なる偶然か? それとも必然か?」

「……偶然でしょうね」

「そう。お前の人生は様々な選択肢の上で成り立っている。阿弥陀くじのごとく、右、左、右、右、左と進んできた結果でもある。洞窟で転がっていた白骨死体の俺を見つけたのも、孤独に耐えかねて俺を生き返らせたのも、一緒に旅を許したのも、いずれかが欠ければ、今ここで我々は話をしてはいない。違うか?」

「違いませんね、先生」いつの間にか、頬杖をついて傾聴している女学生エノラ・グリード。大変いい子だ。

 興に乗り、俺は立ち上がった。たった一人の受講生の呆れ顔など気にしない。

「一つの結果なんだよ、今この瞬間が。果てなき世界に一つだけある、偶然の積み重ねが行き着いた唯一の光景だ。まさに、現在こそがオンリーワンの希少価値だ。しかも、極めて無常で儚い」

「出会いは、常に別れで終わります。人の繋がりは、その繰り返しに過ぎません。私達の腐れ縁は、両親を生き返らせるまでの間のもの。仕方のない事です」

「ここで終わりではない。偶然の先を行きたいとは思わんかね?」

「偶然の先?」

「ここからは過去と未来の話だ。正しくは因果律とも言う」

「私の両親は、私の子供の頃に事故で亡くなった。身代わりで助かった私は、二人の遺骸を見つけ出して、生き返らせるために旅をしている。こんな感じですか?」

「それよりもっと前の話だ」

「私の生まれる前? それは分かりませんよ。あなただってそうでしょう?」

 エノラという奴は、板書した内容をノートに余す事なく書き写し、教師の言葉を一言一句速記し、教科書に隙間なく脚注を書き込むタイプだ。

 つまり、頭でっかちのがり勉の理屈屋だ。

 答えは、生徒の頭の中に眠っている。本質は、外にある新しい物とは限らないのだ。授業とは、生徒に答えを“思い出させる”ための作業に過ぎない。

 エノラのような生徒が、一番教師を悩ませるだろう。

「そうだ。だが、すべての共通項が存在する」

「何の事を言っているのです?」女生徒に怪訝な顔が浮かぶ。

「ここで、さっきの希少価値に戻る。二つあるもののうち、片方は貴重か?」

「さあ。お互いに比較しないと分かりません」

「では、百に一つは。飛んで、万に一つはどうかな?」

「その物によれば、ですね」

「では、億に一つならどうだ。確率的に言っても貴重だ」

「確かにそうですね」

 もうすぐだ。我々は、一つの核心に迫りつつあった。たった一つの単語に行き着くまでの白熱教室は、ここに来て極まるのだ。

 念のために記しておくが、生前の俺は教師や学者ではない。

「では結論。男女の間柄で、億単位の確率が絡むものはなんだ?」

「出会い、ですか?」

「その後」

「愛情の一致」

 あと少しだ。俺は首を振った。「ヒント。夜の営みから、子供ができるまでに起こる出来事」

 エノラの顔が赤い。羞恥と、おそらく怒り。セクハラ教師と言わば言え。あいつに答えを出させたくてムズムズしていたのだ。

「……受精」押し潰した声で、エノラは言った。

「コングラッチュレーション!」良くできました。オールAをやろう。

 結果、大振りの平手が俺の頭蓋骨を直撃した。中身はないが、脳震盪ぐらいは起きただろう。下ネタは、奴の逆鱗に触れる。性教育程度でも鉄拳制裁を喰らう。

 カマトトぶるには、四、五年遅いって。

「我が身の安全のためにも、早くあなたとの別れが訪れるよう頑張ります」

 エノラは歯磨きを終わらせ、いち早く床に就いてしまった。

 そんなこんなで、吹雪の夜は更けていくのだった。


 ところで――。

「エノラ、一つだけお教えてくれ」

「なんでしょうか?」

「なんで、俺が下ネタを考えてるタイミングが分かるんだ? やっぱし、俺の心が読めるのか? 頼むから、それだけ教えてくれよ」

 あいつの答えは、予想に反してそっけないものだった。

「私に心を読む力などありませんよ」

「じゃあ、どうして?」

 フフフと不敵な笑いが漏れる。あいつは寝袋から体を出すと、人差し指で俺の脳天を突っついた。

「あなたが邪な事を好きなのは、前々から知っています。時々、あなたを見ても、やっぱりだらしない顔をするものだから、私がいつ適当に指摘しても同じなのですよ。不思議でもなんでもありません」

 ただ単に、俺がエロ過ぎるだけだったのか。あいつは微笑を残したまま、すぐさま寝袋に引っ込んだ。ホント面白くねえや。

 次は、俺がふて寝する番だ。いそいそと寝袋に潜り込んで、お気に入りのアイマスクを被ると、ふと思った。

 今日はてんでツイてなかった。



                【To be continued?】

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