一章.砂礫と岩の狭間(四)
蘭が荷台から降りると足元は砂地だった。アンヘリカもウィルナと同じような所と思っていたのだが、どうやら違うらしい。
湧き出る水を中心に草木が生い茂る姿は、ここへ来る間に立ち寄ったオアシスと変わらない。ただ規模が違っており、随分と大きな湖を中心に町が形成されていた。とてもではないが泳いで渡れる大きさではない湖を囲むようにたくさんの木々がある。ウィルナが国を壁で覆っているように、ここでは木がその役目を果たしているらしい。
建物の造りもあまり変わらないようだが、ウィルナはどれも欠ける事のない美しい形をしていたのに対し、アンヘリカはどうも風化してしまっているように見える。湖と木々の間に建物が立ち並んではいるが、区画が整えられていると言える配置でもない。道は特に整備されていないらしく、建物の合間の砂地をざくざくと音を立てて歩く事になる。
町をぐるりと囲む木々を切り取るようにして門が設えられており、そこから乗り合いは中へ入り込む。停留所のような扱いなのか門の側の広場に乗り合いは停まり、蘭はアンヘリカという町へ降り立ったのだ。
待合所と呼ぶべきなのか小さな建物と並ぶように乗り合いは停まっており、そこから町を眺めつつもクロードに先導される形で蘭は足を進めていた。
「ウィルナとはだいぶ違うでしょ」
「そうだね、でもなんだかいい感じ」
ウィルナが美しく整えられた造りならば、ここは自然を生かした造りだと言える。規模はウィルナが圧倒的に大きく、アンヘリカはかなり小規模な町のようだった。
「なら、良かった」
クロードはここで生まれ育ち、暮らして来たらしい。なんとなくのどかな雰囲気が心地よい。
(おかしな場所ではなさそうだし、なんとか帰りまで過ごせるといいんだけど)
どこへ向かっているのかはわからないが、蘭はクロードと並んで歩いていた。道が整備されず家屋がまばらに立ち並ぶ景色のせいで、見通しが良いとは言えない状態なのだ。とにかくクロードについて行く以外にはどうしようもなかった。
乗り合いから降りるとすぐにクロードはたくさんの人に声をかけられている。皆におかえりと言われ、その娘はどうしたのか? とうとうクロードも女を連れてくるようになったかと囃し立てられており、その度に違うとクロードは答えている。
乗り合いの中にも知り合いはいたようなのだが、こちらの不穏な空気を察していたのか下車するまでは口を挟んでこなかったらしい。何やら揉めている様子もあったと更なる情報を与え、人々の会話は妙な盛り上がりを見せている。
これらの発言からもクロードが女性を連れてくるという行動は珍しいものかと蘭は思った。
(やっぱり人さらいではないって事なのよね?)
「みんな知り合いなの?」
何を聞くべきかが難しかった為、蘭は無難にそう質問をした。
「町自体が家族みたいなものだからね。知らない人はいないよ。ラン、あそこがオレの家」
たいした距離も歩かぬうちに指で示されたのは、町の中でも大きめの建物だった。石を積み上げた二階建てらしい家屋には木の扉が設えられており、クロードは手馴れた様子で押し開くと中に声をかける。
「ただいま」
すると中からたくさんのおかえりと言う声が聞こえた。大人も子供もいるようだと判別しながら、クロードに招かれるままに建物へと一歩足を踏み入れる。
「兄ちゃんおかえり」
「クロード!」
「おみやげは?」
目の前に立つクロードは、あっという間に子供達に囲まれた。一斉に話しかけられるのも慣れた様子で、ちょっと待ってと言うと手にしていた荷物の中から菓子を取り出し渡す。乗り合いにいた商人から買っていたのはこの為だったのかと蘭はただ眺めるばかりだ。
「今回は少なくてごめんな、またすぐウィルナに行くから次はもっと買ってくる」
「本当? やった!」
子供達はそれぞれありがとうと口にすると、今度は部屋中に素早く散って行く。そのうちの一人がクロードの側で立ち止まったまま、不思議そうに入り口にいる蘭を見上げた。
「クロード、このお姉ちゃんは誰?」
「ああ、この人はね……」
素直にぶつけられた質問にばつの悪そうな表情を浮かべたクロードの声を、誰かがさえぎる。
「それはあたしも聞きたいね」
ここは扉を開くとすぐに大きな部屋が広がっており、テーブルと椅子が何組も並んでいる。奥には厨房も見え食堂のような造りだ。
軽く見渡した限りでは大人が十人、子供が十五人程いる。
その中の一人。褐色の肌に短く切り揃えた黒髪のおそらく三十代と思われる女が、中央のテーブル席に足を組んで腰かけていた。
気の強そうな瞳でこちらを見据えたままに、女は立ち上がると蘭の目の前にいるクロードの所までやって来る。すらりとした体で女性にしては背が高い、動き易さを意識しているのかパンツスタイルではあるが、不思議と色気を感じさせる人物を蘭はただ見上げた。
「すぐにウィルナへ行くってのも、どういう事だい?」
質問ではあったが語気はすでに叱っているような調子である。
「マルタ……実は」
困ったように言葉を詰まらせているクロードの姿に、マルタと呼ばれた女が子供達を振り返った。
「とりあえず子供達は奥に行ってな。後からきちんと説明はするから、いいね」
はーい。と素直に返事をすると子供達はあっという間に部屋から出て行ってしまう。するとマルタは何も言わずに座っていた席へと戻り、仕草でテーブルを挟んだ向かいの椅子へ座れと示してくる。
「クロードがそんな顔をしている時は、ろくな事じゃないのはわかってる。話しな」
これは従うしかないのだろうと蘭も並んで腰かけると、クロードが重い口を開く。
「つい無理やり連れて来ちゃったというか」
そして、一つ一つここまでの流れを説明し始めた。
「あんた、何て事をしてくれたんだい!」
怒鳴り声を上げたのは、マルタだ。苛々とテーブルを人差し指で何度も叩いている。
「馬鹿な子だとは思っていたけれど、まさか人をさらって来るような真似をするなんて。最近はウィルナとの関係もいいってのに」
溜め息を付き、苦々しく顔をしかめる。
「あんたが色々な物を持って帰って来るのには、慣れたつもりだったんだけどね。さすがに人は予想できなかったよ。娘さん名前は?」
「蘭です」
口を挟む間もない上に、マルタの表情がどんどん険しくなっていくのを見ていた為、蘭は大人しく座っていた。これがここに来て初めての言葉だ。
「ウィルナの姫様と同じ名前だね。まあ珍しい名前ではないし、同じ年頃の子はあやかって名づけた親も多いから」
じっと蘭の顔を見つめたマルタが、更に覗き込む。
「それにしても似ているね」
三人のやり取りを聞いているだけだった者達の視線が蘭に集中する。ユージィンやセルアが似ているというくらいなのだから、そう思われても仕方がない。蘭は慌てて否定をする。
「違います、似ているみたいですけど違いますから!」
「本当かい?」
「わたしは姫様じゃありません。凄く似ているとは言われるのですが、とんでもないです」
姫様と呼ばれるあたりからあまり酷い言いようにもできないかと、蘭はとにかく謙遜をする。
しかし半信半疑といったところなのだろう、マルタの表情は相変わらず厳しい。
「確かに雰囲気は違うねえ、あたしは何度か会ってるし違うとは思うんだけれど……。姫様はそんな格好もしないはずだしね。まあ、よく似ているもんだ」
「はい、とても似ていると言われるんですよ」
実際の姫は知らないが、ユージィンやセルアが似ていると口にしていたのだ。蘭もしっかりと主張をしてみる。
どうにか納得してくれたらしい。マルタはもう何度目かわからない溜め息を付くと話を進めた。
「とにかくあんたをウィルナに帰さないと、変なとばっちりをくらいそうだ。町で騒ぎになってなきゃ良いんだが、ってそれは無理かね。どこらへんに住んでるんだい?」
住んでいる場所を聞かれたものの、ウィルナには何か区画ごとに名前でも付いているのだろうか。どう説明したものかと悩んでいるところにクロードの声が加わった。
「ランはあまりウィルナの事に詳しくないんだよね? 大体どこら辺かを教えてくれればいいよ」
北や南という事かと、とにかく町の造りを考えると場所は中央になる。しかし、このままそれを言っても良いのだろうかと辺りを見回した。姫ではないかと聞かれた事や、ウィルナとの関係という発言から考えると何やらあまり好ましい返答には思えないのだ。
「どうしたんだい?」
マルタが気にせず言ってごらんと、初めて笑みを見せた。だからこそ、蘭も言うしかないと覚悟を決める。
「たぶん、中央です」
この発言にはマルタの表情がまたも変わってしまう。目を大きく見開いたかと思うと、すぐに眉が潜められた。
「真ん中って言ったら城だよ? あんた似てるだけって言ったじゃないかい」
確かに似ているだけなのだ。それは本当である。
「似ているほかにも色々ありまして、お城の敷地内に置いてもらってるんです」
室内が急に張り詰めたように感じられた蘭は体を強張らせた。こちらの様子を伺っている他の大人達の視線が突き刺さるようで、何かまずい事を口走ったのかと返答を待つ。
「じゃあ。誰かと一緒にいたってのは、城の人間かい?」
しかしマルタは表情を強張らせながらも会話を続けてはくれる。どうやら大丈夫らしいと、蘭は素直に名を告げた。
「城の人間なのは確かです。ユージィンと言うのですが」
「ユージィン!」
マルタの声はもう悲鳴に近い。思いもしない反応に蘭は驚くだけであり、クロードがどうしたのかと声をかける。
「姫直属で動いている奴だよ。いや、むしろ今は姫とあの男がウィルナを動かしているのに近い。クロード、アンヘリカとウィルナの関係を壊したいのかい!」
怒鳴りつけられてしまったクロードは、目を丸くしながらも口だけは動かす。
「さすがにオレもそんな事は思ってないよ。格好も王宮の人っぽくなかったから声をかけたんだし」
セルアもユージィンも蘭に合わせて服装を変えていた。本来ならば王宮の人間が庶民的な服装で出歩くという事がないのかもしれない。二人が王宮の者だとわかる服装で出歩き、その隣に蘭がいたならばこうした事態にはならなかったとも考えられた。
「ああもう。ただ、ウィルナに連れて行けば良いって事にはならなそうだね。あの男は油断ならない、うまい事交渉するにもやっかいなんだよ、隙がなくて」
マルタのユージィンに対する印象はこうらしい。それに対してクロードはまた違うらしかった。
「隙がない? オレとしてはいつも一緒にいる男の子の方がそんな気がしたけどな」
「いつも一緒にいる?」
初めてクロードに会った時、セルアは離れた場所にいた。おそらく見ていないと思っていたのだが、どうやら違うようだと蘭は問う。
「ぶつかる前にも何度か見かけてるんだ。声をかけようとしても、あの子がしっかり見張ってますって感じで、ほんと無理だった。絶対に近づいてくるなよって雰囲気で諦めていたんだけど、今回一緒にいたお兄さんはそうでもなかったからね」
「そうでもなかったって……」
セルアは何かと口うるさくはあったが、しっかりと意味があったらしい。クロードの発言を聞いている限りでは、蘭を守ってくれていたともとれるのだ。そして、ユージィンではなくセルアと一緒だったのならここには来なかったという事にもなる。
「あんた、計画的に連れてくるつもりだったのかい!」
マルタの声にクロードがしまったと表情を変える。周囲にいる大人達も見える範囲ではあるが、鋭い瞳でクロードを見つめ針のむしろのような状態になってしまった。
「そりゃあどうも。随分と視線をくれるお前が不快だったからな」
そこでふいに混じった声は、思いがけないものであり蘭は勢いよく振り返る。
話に夢中になっていたせいか。それともマルタが大きな声を上げていた為か、誰も扉が開いたとは気付かなかったらしい。
何故か入り口にはセルアとユージィンが並んで立っていたのだ。
「セルア! ユージィン!」
蘭が名を呼ぶのと同時にセルアはこちらへ向かってくる。年齢にはそぐわない物言いと振る舞いは変わらぬままに、側まで来ると頭を軽く叩かれた。
「お前を探すのにどれだけ手間がかかったと思ってる。一人になるなと言っただろうが」
「……ごめんなさい」
散々注意を受けたのにも関わらず、迂闊な行動を取った自分を思い返す。本当に申しわけないと、蘭が座っている為に似た高さになった目線を合わせればセルアはわずかに笑みを浮かべる。だが、顔色は酷く悪いような気がした。
「まあ、お前にも原因はある。が、それよりもそこの野郎だな」
セルアの視線の先にいるのは勿論クロードだ。現在、クロードだけではなく皆が突然の来客に驚いたのだろう、何も言えずにセルアを眺めているばかりだった。
蘭自身も安堵感を得てはいるが、落ち着いていると言えるのはセルアとユージィンだけに思える。
ユージィンもこちらへ歩いては来たのだが、目的は蘭よりもマルタらしい。迷わずにマルタの側で足を止め見下ろす。
「さて、ここに私が来ているというだけでも、この方がウィルナに取って価値のある人物だとおわかりでしょう? マルタ」
笑みを浮かべている姿と低く静かな声色は不気味な程に似つかわしくなく、マルタは渋い表情を見せる。何か思案しているのだろう、随分と間を置いた。
「あの子を連れて来たのを申しわけないとは思っている。だが、これはアンヘリカの意志ではないよ。このクロードが単独でやらかした事だ」
マルタがクロードを顎で示すとユージィンの視線はそちらへ移り、その瞳の余りの冷たさに周囲の空気が凍りついたようにすら感じられる。
「目の前で連れて行かれるのを見ていたのでそれは認めましょう。このような事をしてもアンヘリカの得は何一つありませんしね。随分な問題児を抱えているという事ですか?」
(怖い)
怒らせると怖いとは聞いていたが、冷めた瞳でありながらも笑みを貼り付け怒気のこもった声をぶつけていく姿は何とも言えないものだった。冷静なのかも曖昧に感じられる雰囲気は、確かに恐ろしい。
(わたしなんて全然怒られていなかったんだわ)
たしなめる程度ではない様は、後に自分にも向けられるのかと蘭は息を飲んで流れを見守る。
正面切って向かい合うのは避けたい視線だったが、マルタは怖気づきもしないらしい。むしろ問題児という発言に同意したように口端を上げたのだ。
「当たり前だよ。事の説明はクロードがする、もちろんあたしも同伴でだ」
「結構ですね。たっぷり聞かせていただきましょう」
何やらさらわれただけとは言えない雰囲気に、蘭は固唾をのんでいた。




