一章.砂礫と岩の狭間(三)
「ごめん!」
クロードが深々と頭を下げた、というよりはもう土下座に近い格好だ。
肩に担がれたままどのくらい走ったのかはわからない。だが決して短くはない時間辛い体勢のままでいた蘭は意識が朦朧としていた。現在は壁らしき物に寄りかかり座っているが、何の上なのかがたがたという音と共に床が揺れた。
気持ちが悪く喋りたい気分ではない。蘭は苦しさに顔を歪め、息を吐く。
「水飲む?」
クロードが水筒を差し出し、素直に受け取ると口を付ける。二口飲むだけでも幾分楽になったように思えた。
「ありがと」
「オレが考えなしに走ってばかりで、ごめん。でも、どうしても君を連れてこなきゃと思ったんだ」
目の前に座り込んだクロードは泣きそうに見える。どちらかと言えば、泣きたい立場なのは自分ではないだろうかと蘭は思う。担がれて運ばれた挙句、どこにいるのかもわからないのだ。
億劫な口をどうにか動かして情報を得ようとする。
「ここはどこ?」
「乗り合いだよ」
「乗り合い?」
「乗った事がないの?」
クロードが首を傾げている姿から、どうやらウィルナの一般常識らしいが蘭は知るはずもない。
「ない。わたしここの事あまり知らないから」
「そっか、乗り合いはウィルナからアンヘリカへ歩かなくても行けるようにって、ウィルナの姫が作ってくれた物なんだ」
その説明ではわからない部分もあったが、とにかく歩かずに行けるという事から今は何かしら乗り物の上なのだろう。そして、それにはいなくなってしまった姫が関わっている。
(じゃあ、やっぱりお姫様はいたんだ)
ユージィンやセルア、ハンナの口から聞いているだけであり、どこか現実味のなかった人物。それをクロードからも知れた事が、蘭にウィルナという国の姫というものをわずかに感じさせた。
だがクロードが言ったのはそれだけではない。
ウィルナからと言うからには、蘭は壁の外へ出てしまっているらしい。わかっていながらも確認せずにはいられない。
「……ウィルナの外?」
心配そうにこちらを見つめているクロードが申しわけなさそうに眉を下げたまま告げる。
「……アンヘリカに向かってる」
「アンヘリカ? 町だっけ?」
「そう、来るのは初めて?」
確かウィルナとシェラルドが国であり、アンヘリカは町だと説明を受けていた。しかしそれがどれ程の距離で位置しているのかもわからない蘭は、色々聞こうとする。
しかし、いまだにぐらぐらと揺れるような感覚は薄れず、そのまま瞼を閉じてしまったのだった。
目覚めるとそこはアンヘリカだったという事はなく、蘭はまだ乗り合いの中にいる。
一眠りして目覚めるとすっかり調子も戻り、自分がどんな物に乗っているのかを確認する余裕も出て来た。乗り合いとは馬車のような物らしく、車の付いた荷台に幌をかけその中に客が乗る。それを何か生き物が引いているようだったが、中から見る事はできなかった。砂の上を簡単に走れるものなのかとクロードに聞けば、うまく走れるように術が使われていると教えてくれた。
ならば術が使える人がいるのかと思えば、魔力を込めた石が付いており術師が何かを施す事によって効果を得ているらしい。常に術師がいるわけではなく、ウィルナで必要な作業さえすれば大丈夫だという。
蘭は荷台の壁に背を預けて座っている。中はがらんとしているわけではなく、前から中程まではベンチ状の椅子が設置され、そこには他の客が腰かけていた。十人程が座れるであろうそこには、ほとんど空きが見られない。ベンチに座れなければ直接床に座るようであり、持ち運びができるような敷物の上でくつろいでいる者が何人かいる。
蘭とクロードは出発寸前に乗車したらしかった。それに加え蘭はベンチに座れる状態ではなく、横になれるよう敢えて床を選んだらしい。下にはクロードのコートが敷かれている。
木の板そのものに座るよりは衝撃がないのだろうと蘭はそのままおとなしくしているのだが、クロードも同じように並んでいた。
体勢を崩す程ではない振動を感じながら、蘭は左隣にいるクロードへ顔を向ける。
「そのアンヘリカへはいつ着くの?」
「あと二日かな」
力のない表情を見せられ蘭は思わず溜息をこぼす。
クロードは大人しく座っているというよりは、うな垂れていると表現すべき状態だった。ここに連れて来た張本人だというのに、落ち込みようは蘭以上である。
「もう、途中で引き返せないのはわかってるんでしょう? 着いてからの事を考えようよ」
戻れないのかと聞いた蘭へクロードは絶対に無理だと言ったのだ。とにかくアンヘリカという場所へ一度着かなければ帰れない。それはこの乗り合いというものの乗り降りが許されているのが、ウィルナとアンヘリカの二箇所だけと聞き納得した。
(バス停みたいなものよね?)
セルアに遊園地が伝わらなかったように、バスと言っても無駄だろうと蘭はとにかく終点を目指している。まずはこれから下りて考えなければいけない。
しかし、二日もかかる道のりというのは決して近い場所でもない。
本当ならば蘭が喚き、クロードがなだめるべきではないのかと思いながらも、隣にいる青年を改めて眺める。
初めて見た時は男らしくて格好良いように見えたのだが、どうもそうではないらしい。見た目とは裏腹、可愛らしい性格のようだ。膝を抱え、大きな体を小さく丸めるようにしている。
先程から蘭を連れてきたかったのは確かだが、何故か自分を止められなかったといった言いわけを何度も聞かされた。
「オレいつも考えなしって言われるんだよね。あの時も折角話せるのに何で邪魔するんだよって思ったら、つい」
そんな理由で担がれたのかと思うと蘭は頭を抱えたくなる。
「どうしたら人を持っていこうなんて思うのよ? わたしにだってそれなりに事情があるんだから。というより、人さらいなの?」
「違う、違うから。オレもどうしたんだろうって思ってるくらいなんだよ」
よくわからないが日常的な行為ではないと思う事にはした。連れ去った挙句にうな垂れるという行動は、確かに本意ではなかったようにも見える。
「とにかく、わたしはこのままアンヘリカに行く。それで構わないから、クロードはわたしをウィルナに帰して」
「うん……そうだよね」
クロードの返事はどこか歯切れが悪い。
「どうかしたの? まだ何かあるの」
まさかすぐにウィルナには戻れないのかと心配になりクロードの顔を覗き込む。するとクロードは照れたような表情を見せながら、思いもしない事を告げるのだ。
「すぐ帰るのももったいないと思わない?」
ユージィンとセルアに蘭はしっかりしていないと言われここの人はそんなにも違うのかと思っていたが、今ならはっきりと思えた。二人がしっかりしているだけであり、決して蘭が変わっているわけではないのだ。
この申しわけないと言いつつも、すぐに帰すのはもったいないと告げる男は適当過ぎる。
「そんなわけないでしょ!」
蘭は睨み付け、そう怒鳴りつけてやった。
乗り合いはそのままアンヘリカを目指すわけではなく、途中に点在するオアシスに立ち寄った。
硬い板の上にずっと腰かけているのも疲れ、気分転換に歩く事も必要だ。何より用を足したり、水を補給したりとしなければならない事も多いらしい。
「ロバかなラクダかな?」
必要な事を済ませた蘭は、乗り合いを引いている生き物を目の前に呟いた。言葉通りラクダなのかロバなのか、何やら混ざっているように思える。どっちつかずと言いたいところだが、ここではこの生き物が当たり前で砂漠を越える為に必要なのだろうと思うしかなかった。
あまり離れてはいけないと、わずかに足を進める蘭の目に映るのは本当に砂漠だ。
どこまでも続いていきそうな程に広がる砂の海。そして本当に小さな水の湧く池のようなものの周りにだけ木や草が茂っている。
乗り合いが通ってきたとわかる道はなく、本当に砂の上を走っていたらしい。車輪ではとても身動きが取れないように見える乗り物は、外観とは違う性能なのかと首を捻る。
(本当に術って事なのかしら?)
セルアによって伸ばされた髪は違和感なく蘭に馴染んでおり、今も歩くたびに揺れている。
信じられないとは思っても突きつけられている事実はあり、術という不思議な力を信じるべきなのかとも思えた。
ぶらりと歩きながら、蘭は更に呟く。
「砂漠なんだなぁ」
ウィルナを囲む壁の外は砂漠だと言われていたが、どこか真実味がなかった。しかしこうして自分が砂漠の中にいるとわかれば否定のしようはないのだ。
(やっぱり日本じゃないと考えるしかないのよね?)
じりじりと照り付ける日差しは肌が痛む程であり、クロードが羽織るようにと薄い布をくれていた。本来ならば砂漠へ出るべき服装があるにも関わらず、青年は蘭を強引に乗り合いへと押し込んだのだ。誰よりも自分が目立っているのがわかる程に軽装だった。
「ウィルナではこんなに日差しが強くなかったような気がする」
布越しに感じる日差しに疑問を漏らせば、思いがけず言葉が返ってくる。
「それは術のせいだよ」
声の方へと首を向ければクロードが近づいてくる。ここに降りてからはまず別行動だと教えられたのだ。男女別に必要な事を済ませ、また落ち合うのが規則らしい。
「術?」
またも耳にする事になった単語を聞き返せば、クロードが手をかざしながら眩しそうに太陽を見上げる。
「ウィルナには魔力のある人がいるから、それを使って調節しているみたいだよ」
「魔力を使って日差しが弱くなるの?」
「直接日差しをって事ではないよ。ウィルナを囲う壁の範囲だけを魔力で覆ってるって話、それがうまく抑えてくれるらしい」
「ふうん、便利なのね」
乗り合いにも術を使っている、ウィルナの日差しも術で抑えている。ここでは術というものは生活を良くする為に使うものらしい。
「何となく攻撃するイメージだったなぁ」
たぶんこれはゲームのせいだなと蘭が思っていると、何故かクロードに咎められた。
「そんな事を言ったら駄目だ、まだ八年しか経っていないんだよ?」
「八年?」
意味がわからずにいる蘭へクロードは不思議そうな顔をする。
「知らないの?」
「何を?」
「ずっと戦争があって、八年前に停戦したって事。だから攻撃するなんて言ったら駄目だよ。子供だってそうした事は口にしないんだから」
戦争、それは蘭がいる世界にもある。今もその世界のどこかでは起こっているであろう事もわかる。しかし、蘭は直接戦争というものを実感する機会に出会った事はない。
クロードが口にするなと言うからには、まだその傷跡が残っていて触れてはいけないのだろうと蘭は思ったが、これはただの想像であって本当の事はわからない。
そもそも自分の世界とは思っても、この場所もそのうちのどこかかもしれないのだ。
(あんまり勉強してなかったからな)
テストに必要な範囲を覚えはしたが、世界情勢に興味を持ったりはしなかった。もしかするとウィルナという国名を知る機会もあったのかもしれないと、今更ながらの後悔を覚える。
ユージィンとセルアは戦争については何も言わなかった。しかし、それも蘭が余計な心配をしない為への配慮かもしれないし、直接関係のない事だから口にしなかったのかもしれない。
本当に外へ出るには知識が少ないのだと、蘭は素直に言葉を向ける。
「ごめんね。わたしここの事は本当に知らないの」
「どうして? 記憶がない……とか?」
忘れてしまっていると思われたのかクロードの表情が曇る。
「そうじゃないの、本当に知らないの。覚えていないとかじゃない、それをわかってもらうのは難しい……と思う。けれど本当に知らない」
理由もわからず違う場所から来たと言っても、信じてもらえるはずもない。ただ知らない、そう言う事しか蘭にはできないのだ。
それにクロードは何故か納得をしてくれた。
「そっか、よくわからないけどランはここの事を知らない。それでいい?」
「ありがとう。あと、他にも色々教えてもらえるといいんだけど?」
無理やり連れてこられた人物ではあるが、今の蘭が頼れるのはクロードしかいない。とにかく必要な情報を手に入れながら、ユージィンとセルアの元を目指さなければと覚悟を決める。
「勿論、何かあったらオレに聞いて」
どうにもこちらを連れ去ったという感覚が薄そうに見えるクロードの返事に呆れていると、出発時間が近づいたらしく呼びかける声が聞こえた。
乗り合いには商人が乗っていて必要な物があれば売ってくれる。そもそも商人達に向けた乗り物であるらしく、別件の者の方が少ないという。クロードは必要だからと様々な物を購入しており、羽織った布もその一つだった。
本来は荷物を包むのが目的らしい布を羽織りながらクロードのコートを敷き、蘭は考える。
(とにかくアンヘリカって場所に向かうのは認めるしかない。そして、その後はウィルナへ戻ればいいって話なのよね?)
「このままこれに乗っていたら、すぐに引き返すんじゃないの? そうじゃなかったら別の便があるとか?」
蘭は朝食後にユージィンと買い物に出ていた為、乗り合いは昼前にはウィルナから出発していた。聞くところによると本当に丸二日という道程らしく、明後日の昼前がアンヘリカ到着となる。
先程のオアシスは毎回寄るのかと問えば、砂漠の天候に合わせて決めており絶対と言える場所はないと教えられたのだ。
(始発と終点しかないって事なのよね)
途中下車が可能ならばそこから引き返したいところだが、どうやら叶いそうもない。
「さすがにぶっ通しで運行はしないから、ウィルナに向かうのは四日後。それまでは待って」
「そっか」
どうやら毎日運行されている乗り物でもないのかと、蘭はその間についても思案し始める。
片道二日という行程ならば食料も必要であり、通貨を持たない蘭はクロードにまかなってもらわなければならないだろう。
(まあ、クロードが原因なんだから気にしないとして)
しかしこれまでいたウィルナの屋敷では随分と恵まれていたのだと改めて気付く。
何故か目覚めると見知らぬ場所ではあったが、酷い目にも合わず大切に扱われていた。姫がいなくなった代わりという理由があり、衣食住に困る事もない。
もしも砂漠の中で目覚めたのならばとうの昔に死んでしまっていただろう。乗り合いの中にいる限りは平気だろうが、蘭の服装は夜の砂漠には耐えられないらしいのだ。
ユージィンとセルアは心配しているのだろうかと、二人の姿が思い浮かぶ。限りなく近い先という酷く曖昧な言葉を理由に、必要があるのだろうと屋敷へ置いてくれた。それがいなくなった姫の代わりだからとしても、早く戻るべきだと蘭は思っている。原因がわからずとも蘭はあの場所で目覚めたのだ。帰るのもあそこからではないのかと、何かが訴えているようにも思えた。
このままアンヘリカへ到着し、四日後の朝にウィルナへと向かう。もし二人が探してくれているのならどうにか伝えたい。だが、その方法は思いつかない上に、そもそもないのだろう。クロードが最も早い移動手段は乗り合いだと言っている。それ以外に何があるのかと聞くと、徒歩かガナという乗り合いを引いている生き物に乗るかだという。
六日後にウィルナへ戻れる勘定ではあるが、知らせる事はできそうもない。
いっその事、生まれ育った場所まで走ってはくれないかとも思ったが、さすがに夢のような話だと蘭は力なく呟く。
「早く……帰りたいな」
「ごめんね」
時折心配そうに瞳を向けてくるクロードの表情が更に暗くなる。
ウィルナへ帰りたいと思われているのだろう。蘭としては元の世界の事も含んでいるが、それをわかるのは無理というものだ。
「アンヘリカもいい所だから、その間は楽しもうよ。ウィルナには必ず帰れるから、オレも一緒に行くし」
励まそうとした発言らしいが、どうにも事の重要性をわかっていないように感じられると溜息が一つこぼれる。
「当たり前でしょ? それにこうして連れてこられたんじゃなければたぶん楽しめてるから」
勝手に連れて来たくせに、帰りは一人にする気かと強く言ってやる。この世界の知識が余りにも乏しいまま単独で行動する事は絶対に避けたい蘭は、何が何でもクロードと共にいなければならないのだ。
クロードは印象だけなら格好良い。背が高く逞しい体、逆立つ程短く切った灰色の髪に切れ長の青の瞳。服装は機能性を重視した砂漠用の物だが、おそらく大抵の服を着こなしてしまう均整のとれた体に見えた。
ユージィンはクロード程ではないが背が高く細身だ。柔らかい物腰でこちらの話を聞いているばかりかと思えば、必要と感じれば注意もするし叱りもする。セルアは荒っぽい口調で言いたい放題のように思えるが、何だかんだと世話を焼いてくれる優しい少年だった。そのどちらとも違った印象を持った姿と性格に、この世界の人の法則性は見つけられずにいた。
(状況が普通じゃないから、仕方ないのかも)
屋敷にいて細々と世話を焼いてくれていたハンナは年齢だけではなく、本当に母親のように接してくる人物である。ふくよかな体と朗らかな笑顔と口調、不思議と安らぎを覚えるような蘭にとっては重要な存在だ。
おそらく三人は頼りになると言える人物であり、蘭は幸運だったのだろう。
果たしてこの者はどうなのかと隣にいる青年を眺めた。
情けない表情を浮かべて膝を抱えている姿から、とにかく見た目と性格が一致しないのが嫌でもわかる。本人にしてみればそれが普通なのだろうが、蘭にはどうも頼りなく感じられるのだ。
話しかけてきたかと思えば、強引に担いでここまで運んで来た。ならばそれらしく振舞って欲しいものだと、少々の不満すらも覚える。どうやら相当反省しているらしく何度も謝っているのを思うと、その時の感情で動く傾向があるのだろうか? 考えなしだと本人も言っている為に、ぶつけきれない感情が蘭の中ではくすぶっている。
(セルアみたいにえらそうなくらいの方が意見しやすいのよね)
ずけずけと物を言う少年は少々の発言を気にしないように思える。しかしクロードはきつく言葉を向ければ更に落ち込んでしまうのだろう。
ユージィンならばそもそも言い合うような状況にもなりはしない。ハンナも同様だった。
(自分からどうにかしないと話が進む気がしない)
「そろそろアンヘリカなんだよね? どういったところなの?」
二日という期間はそろそろ終わりを迎える予定であり、蘭は目的地の情報を得ようと声をかける。すると随分と嬉しそうな笑みがクロードには浮かんだ。
「アンヘリカはいいところだよ。ランも気に入ると思う」
大きな湖がある町だという発言を皮切りに、クロードはアンヘリカを説明し始める。
少し前までの落ち込みはどこへ行ってしまったのかと思う程の楽しげな笑みを見た蘭は、どうやら気持ちの切り替えが早い人物なのかと認識する。
笑顔でアンヘリカ到着を心待ちにしている姿は、随分と可愛らしいものに見えた。




