一章.砂礫と岩の狭間(ニ)
三週間後、事件は起きた。
「お嬢さん」
「え?」
声をかけられ振り向いた先にいたのは、逆立った灰色の髪に日焼けをした肌、青い瞳の青年だった。人懐っこい笑みを浮かべている姿に、何故かはわからないが見入ってしまう程に惹きつけられる。
「覚えてる?」
振り向いたきり何も言わない蘭に首を傾げて聞いてくる仕草が、見た目にはそぐわないが随分と可愛らしい。
「ああっ。覚えてます、あの時はありがとうございました」
以前、転びそうなところを支えてくれた青年だと蘭は礼を述べる。人目を引く姿も手伝ってはっきりと覚えていた青年は、以前と変わらず厚手のロングコートを羽織りその隙間から長袖の上着とズボンの裾を中に入れた革のブーツが覗いていた。
街にいる人の大半が涼しさを求めた服装だ。袖は短く、足元も首元も外気にさらされるような形が多い。その中にたまに暑苦しいと思うような服装の人が混じる。それは仕事等で国から出る人達、もしくは砂漠から戻って来た人だと言う。この青年もそのどちらかなのだろう。
「お礼はその時言ってくれたからいいよ、オレの事を覚えているか知りたかっただけだから」
「はあ」
「あの時は用事があって急いでいたから話もできなくて残念だなあって思ってたんだよね」
両手を掴み、握手をするように動かす。ごつごつと大きな手に蘭の手はすっぽりと隠れてしまっている。
「それはどうも」
青年が何をしたいのかがわからず蘭はされるがままだ。
ここは市場の外れ、規模の小さな店が立ち並ぶ場所である。食料品のような万人に向けた物を取り扱うのではなく、限られた人に向けた商品が多く並んでいた。日光に当たるのが良くない物もあるようで、ここには露店以外に家屋を使った店もある。
今日の蘭は珍しくユージィンと街へ来ていた。
たまには私も休暇が必要なのですよと誘われたのだが、様子を見ている限りでは仕事に必要な物を買い揃えているように思えている。ウィルナの生活に詳しいわけではないが、あまり日常的な商品を買っているようには見えなかったのだ。
普段セルアと来る場所とはまた違った雰囲気に、蘭は目を輝かせユージィンにあれは何かと説明を求める。そして、そうかと思うとすぐに側を離れようとする為、後でそこへ行くから待つようにと諭されたりしていた。セルアの気持ちがわかりますね、と小言もいただいている。
今、ユージィンは蘭が立っている真後ろの建物にいる。蘭もほんの少し前まではその中にいたが、そろそろ買い物が終わりそうなユージィンに先に外で待っていると言い出て来たところだった。ユージィンにはあまり良い顔をされなかったが、無理に出てきたのである。
その結果が、この状況だ。青年は手を掴んだまま蘭の顔を覗き込む。
「なんだか凄く君の事が気になってね。また会えないかなって思っていたんだ。オレはクロード、君の名前は?」
どうやらナンパをされているようだと気付き対応に困る。嫌という程ではないのだがどうしたものかと蘭が押し黙っていれば、目の前の笑顔が一瞬で悲しそうなものへと変わった。
「教えてはもらえない? 駄目?」
そして、ねだるような仕草が妙に心をくすぐる。
「……えっと」
名乗ってもいいのだろうかと迷っていると、後ろから声が降りかかる。
「どうしました?」
振り返ればユージィンが購入した物を入れた布袋を抱え、扉を開いていた。
「ユージィン」
名を呼んだが返事はなく、ユージィンは静かに扉を閉め蘭の隣にやって来ると空いた片手でクロードの腕を掴む。
「私の連れに何のご用でしょう?」
その動きが離せと言っているのがわかるだろうにも、クロードは蘭の手を離す気はないらしい。むしろ力が加わったように感じられた。
「それを今話しているところだけど、この子に」
何故か牽制するような瞳を見せるクロードに、ユージィンの眉も潜められる。
「お話は私が聞きましょう、その手を離してください」
「どうして? この子は自分で話せるでしょう。あんたは関係ない」
今度は不機嫌そうな表情になったクロードを見た為か、ユージィンの面持ちも更に険しくなる。
「関係がないのは貴方の方でしょう」
「もしかして、こいつと付き合ってる?」
クロードは顔の向きを蘭へと変えた。一瞬前の鋭い目付きはどこへやら優しい顔つきだ。
蘭は突然の質問に、素直に頭を横へ振って否定をした。だよね、とクロードは笑みを浮かべユージィンを見やる。勿論表情はまた鋭いものへと変わってしまっていた。
「だったらいいじゃん。オレはこの子が気になって話しかけてるんだから邪魔しないで」
「邪魔しているのはそちらでしょう、この方は私と一緒にここへ来ているのです」
明らかにクロードの発言がおかしいのだが、全く気にしていないらしい。ユージィンが珍しく大きな声を上げ、あまり多くはない通行人が蘭達に視線を向ける。
蘭も二人の会話をどうにかしたいとは思ったが、どうにも口を挟む隙が見つけられないままにクロードの話は続いた。
「うるさいなぁ、ねぇ一緒に食事でも行こうよ」
さすがに付いて行こうという考えのない蘭はすぐに否定を向ける。
「それは無理、わたしはこれから帰らなきゃいけないんです」
「ええっ」
まさか、と言った表情を浮かべたクロードの手が緩んだ隙に、蘭は自分の手を引き抜く。そしてユージィンが蘭の腰を抱くようにして引き寄せた為に、今度はその行動に驚いてしまった。
「申しわけありませんが、諦めてください」
おそらく隣にいるユージィンはにっこりと笑っているのだろう、そして目は絶対に笑っていない。確信の持てる声色を耳にしながらクロードを見れば、何も言わずこちらを見つめていた。
「行きますよ」
抱き寄せられたまま無理やり引きずられるようにして蘭は歩き出した。このまま離れてしまえば仕舞いかと思っていると、後ろから声がかけられる。
「またね」
クロードの声は妙に明るいものであり、蘭は不思議に思うだけだった。
「やはり一人になるのはよくありませんね」
振り返りクロードが見えないのを確認すると、ユージィンは腰から手を離してくれた。さすがに腰を抱かれて歩くのは恥ずかしく、蘭もようやく安堵の息をつく。
この様子に気付いたらしいユージィンが穏やかな笑みと共に詫びてくる。
「すみません。あのまま貴女を連れて行かれそうな気がしてしまったので」
「ううん、いいの。ありがとう。わたしが外に出たのが原因だし……ごめんなさい」
蘭が離れさえしなければクロードに話しかけられる事もなかったのだ、ユージィンが謝る必要など一切ない。
「それも問題ではありますね。今後はいけませんよ?」
こちらから言い出した為か目の前の瞳は柔らかく笑い、蘭も笑みを浮かべてユージィンを見上げる事ができた。
「うん、もう勝手には動かないから。まさかあんな風に声をかけられるとは思っていなかったんだよね」
「一人の女性に声をかける輩は多いのですよ。ランのいた場所にはいなかったのですか? 貴女はこの土地に疎いのですから、誰よりも警戒するくらいが良さそうですね。しかし、連れが来ても諦めないのは珍しいかもしれません」
「変わった人だった気がするかな? ユージィンがきたところで話が終わると思ったのに」
実際どうしたら良いのか困っていた気もするが、あっという間の事で何が何だかわからないというのが正直な感想だ。とにかくクロードという背の高い青年だとは理解したが、あのままついて行くには不安の残るような人物だった。
「否定はできませんね」
蘭の素直な感想にユージィンは頷いたのだが、表情がどこか優れないように見え聞いてしまう。
「大丈夫?」
「どうかしましたか? 早く戻りますよ」
しかし本人はそう思ってはいないらしく、何事もなく歩き始める。蘭は追いかけるようにするが、ユージィンはこちらの歩く速度に合わせてくれている為すぐに並ぶ事ができた。
「何だか疲れてない?」
「そんな事はないと言いたいのですが、私は先程のような人は苦手ですね」
静かに溜め息を付くユージィンに蘭は思わず笑ってしまう。
「わたしがすぐに断らなかったせいもあるけれど、会話になってなかった気はする」
「でしょう? しかし、貴女には随分興味があるようでしたね」
短時間なのに疲れました、とユージィンは空いた手で肩を叩く。あいつは年寄りくさいという、セルアの言葉を思い出させる仕草に蘭は内心で楽しみながらも答える。
「一度見ただけだと思うんだけどね」
何気ない呟きにユージィンがこちらへ目を向けた。
「初めてではないのですか?」
「うん、前に転びそうになった時の話をしたよね? その人」
「ありましたね。あの日セルアの機嫌が悪かったのは彼のせいですか」
何を思い出したのか楽しそうなユージィンの声と共に蘭は首を傾げる。
「そうだった?」
確かにぼんやりするなしっかりしろ等色々と言われた気はするなと思い返していると、ユージィンの瞳は更に細められた。
「ランが思っている以上にセルアは貴女を気に入っているんです。勿論、私もですよ」
「ふうん、わたしだって……わ!」
ちょうど二人は幅の狭い十字路を真っ直ぐ通り過ぎるところだった。蘭はユージィンの左側を並んで歩いていたのだが、左腕を誰かが急に掴み引っ張ったのだ。そのままバランスを崩しそちらに体が倒れるようになったが、道に叩きつけられはしなかった。何故かあっという間に抱えられた挙句、誰かの肩に担ぎ上げられてしまったのだ。
「ごめんね、オレ諦めが悪いから」
そう言うと蘭の体は大きく揺れはじめ、どうやら運ばれているらしいと気付く。この声は先程のクロードに違いないと声を上げる。
「降ろして! 何なの!」
何とか降りようと手足をばたつかせるが、全く気にしてはいないようだ。蘭が叩こうが蹴ろうがお構いなしに足を進める。がっちりと腰を抑え付けられているためクロードの肩に当たる腹が痛み、更には押さえつけてくる片手に何か掴んでいるのか硬い物が当たる感覚もある。
「待ちなさい!」
そこへユージィンの声が加わった。どうやら追いかけてくれたらしいと、蘭はそちらを眺めようと頑張る。
クロードの背中側に上半身がぶら下がる形になっている蘭が何とか頭を持ち上げると、ちらりとユージィンの姿が見えた。人ひとりを担いで走っている男に負けるはずもない。程なくして追いつく、と思った刹那。
クロードが振り返り、何かを地面に投げつけた。
大きな破裂音。
耳をつんざくような音と衝撃に蘭の頭はくらくらとした感覚を受け、そして狭い路地を埋め尽くすように粉塵が舞う。
「ラン!」
じんじんとする耳の奥に名を呼ぶユージィンの声が微かに聞こえたが、クロードが再び走り出した事によってすぐに聞こえなくなる。今の爆発でユージィンは怪我をして追って来られないのか、それともすぐに角を曲がった事で見失ってしまったのだろうか。
無造作に担がれた蘭は逆さまで血が上りそうな頭でぼんやりと、どこへ連れて行かれるのかと考えていた。




