九章.集う孤は楔(終)
アンヘリカの中で最も広い場所は、中程ではなく少しばかりシェラルド側へ進んだ位置だった。ここでは湖を中心に家屋があり、更にそれらを囲むように木々が生える。以前蘭が奥まった所にある墓地を気にしていた位置に近しい場所へ、アンヘリカの人々は集められていた。
広場の端に沿って円を描くように立たされている民は、理由も分からぬまま呼ばれたのか誰もが口々に不満を漏らしている。
こうも危険な時に何故こんな事をしなければならないのか。シェラルドは何を考えている。マルタもどうしてこの話を受けた。
そして、その中には蘭に対する疑問もある。あれは別人ではないのか? 誰かが口にする声が聞こえる。すると、ウィルナの姫によく似ているらしいから当たり前だと言う声も聞こえた。
はっきりと名を上げられていないのは、確信を持てないからなのかもしれない。蘭があの衣服を着ているはずがないと、疑う部分もあるらしかった。
話の槍玉にあげられているマルタも円の中に入る事は許されていない。ちょうどウィルナとシェラルドが出会う真横の位置にクロードと共に立っており、今はこちらへ視線だけを向けていた。
本来ならば立ち会う予定だったのだが、ヘンリクはそれすらも受け入れはしなかったらしい。
止まる気配のないざわめきを耳にしながら蘭は足を進める。隣にユージィンとセルア、一歩下がった位置にサイラスとデール。指定された五人という人数ではこうするほかはない。
ここへ向かう前に乗り合いの中で五人で会話をした。確実に罠がある中に向かっていく事。それでも目指しているのは平和的な結果であり、争いは望まない。
否定的な意見も飛び出しては来たが、もう引く事はできなかった。
ウィルナから出した話ではあるが発端はシェラルドにある為、全員がこの状況に疑惑を覚えている。何の思惑があり、このような場を仕立てたのかと疑いは深くなるばかりだ。室内を拒み外で会するという事態をどうにもできないまま、静かに足を運ぶ。
今回、アンヘリカに集うという話を持ちかけたのがウィルナである為、シェラルドも同じように疑ったのだろうとは思っている。しかし、そうだとしてもわからない事は多分にあり、何か嫌な予感が蘭の心に付きまとう。
「ラン様、足元にお気をつけて」
ユージィンが先に見える段差へ目を向け言った為、蘭もそちらへと視線を動かした。
決して平らではないアンヘリカの土を歩く事に蘭は慣れている。しかし、姫はアンヘリカへ訪れた事はあるものの、このような場所へは足を運ばなかったのかもしれない。
「わかっている、そなた達も同じように」
背後からわかっておりますとデールの声が聞こえ、蘭は本当に何の事情も知らない二人はどう思っているのかと、今度はそちらへ意識が奪われる。
これまでも時期を待ち、蘭が行動する度に新たな何かを知る事ができた。だが、今の状況は本当にそうなのだろうか? 動かなければと思う気持ちや、ウィルナ、アンヘリカの人々が信じる先視みや意志、全てを抱えなくてはならない不安と共に蘭は足を前へ進める。
あと二十も歩みを進めれば、ヘンリクの元へ辿り着く。彼は真っ白なコートをまとい、円の中心に立っていた。周りには四人の従者を置き、腰には以前と同じく剣がぶら下がる様は蘭の記憶と寸分の変わりもない。
近づくにつれ見えてきたヘンリクの表情は、鋭い瞳と不気味な薄笑いを浮かべる口元が特徴的だ。この土地でユージィンへ見せた瞳ではなく、自分を斬り付けたあの時に近いと蘭は認識する。
思う事があってもユージィンやセルアに相談する事はできない。姫としてならば構わないのだろうが、浮かぶのは蘭としての疑問ばかりであり、それをうまく話そうとするにはどうしても時間が必要になるのだ。
「あれがシェラルドの第二王子」
サイラスの呟く声が聞こえる。本当に書状以外ではやり取りを行なっていないらしく、シェラルドの人間を見知っている者が極端に少ない。どうやら、初めて目にするヘンリクの姿に思うところがあるらしかった。
「本当に話などできるのでしょうか?」
デールがサイラスに話しかける。二人は小声でお互いの不安をわずかに伝え合っていたが、それもすぐに終わりを告げた。
ヘンリク一行があと二歩ばかりの位置に迫ったからだ。
まずはユージィンが足を進め口を開いた。
「この度は我が国の提案に賛同していただきありがとうございます」
そうして慣例だと思われる文言を続けたユージィンに答えるのは、おそらく同じような立場の人間なのだろう。
「いえ、こちらこそ本日は平和的な会話ができると思っております」
丁寧な言葉を返す姿を見ながら、その割にはこんな場所かよとセルアなら言いそうだなと蘭は考える。
この男は前回にはいなかった者だ。今、ヘンリクの周りにいるのは誰もが見た事のない男達であり、それが何を意味しているのかと蘭は目を走らせる。
蘭は理由があるからこそセルア、ユージィンと行動を共にしているのだ。公にはできない、大きな秘密があるからこそ側に置ける人間が限られてくる。そうでなければ、本物の姫でさえあれば他の者といる事も可能なはずではあった。
ならばヘンリクもそうなのだろう。しかし、全てが変わる必要はあるのだろうか?
上辺だけの会話が続くのかと思っていると、ヘンリクが待ちきれないとばかりに蘭に向けて声を発した。
「お初にお目にかかるウィルナのラン姫。こうしてまみえる機会が来るとは思いもしませんでした」
明らかに笑ってはいない瞳を細めるヘンリクの姿を見た蘭も、応じなければならない。
「こちらこそお初にお目にかかります、シェラルドのヘンリク王子。今日は良いお話ができる事でしょう」
先程のクロードが言ったように、ウィルナとシェラルドの間でも頭を垂れるような仕草は必要としていなかった。ただ眼前にいるヘンリクへ必要な言葉向けさえすれば構わないらしい。
相手は違えどもこちらは笑んでいようと、蘭はこれから始まるであろう会話に備えた表情を作ろうとしていた。しかし正面にいるヘンリクの顔つきが一変する。
偽りだとわかる笑みではなく、何かどうでもいいものを見るようなつまらなそうな瞳を浮かべこちらを眺め始めたのだ。
いったいどうしたのかと蘭が瞳を瞬かせると、この仕草を見たヘンリクは更に嫌そうに眉を潜め、今度は歪んだ口元からくつくつと笑い声が漏れた。
何がおかしいのか、ヘンリクは一人笑いながら蘭を見据え口を開く。
「何が良い話だ。貴女はラン姫ではないだろう?」
一度出会っている人物の前に出る事が甘くないとは思っていたが、やはりそうなるかと蘭はヘンリクを真っ直ぐに見つめた。ここで焦ってはならない。
「姫ではないとは、どういった意味かお教え願えますか?」
負けるわけにはいかないのだ、例え偽者だとしても強気に言葉を返す以外はない。
「堂々と私を謀るおつもりか? 貴女……いや貴様はここであった娘だろう? 何がウィルナの姫だ」
確信を持って言葉を紡ぐヘンリクへ、黙って状況を見つめていたサイラスが声を荒げる。
「先程から何の疑いをラン様にかけていらっしゃるのか? まるでそこらにいる者のように扱うとは何事か!」
挨拶もそこそこに放たれた無礼な言葉に対する怒りをはっきりと表しているサイラスへも、ヘンリクは冷めた目を向けた。
「ほう……国の重鎮であろう位置の者すらも謀っているのか? それともウィルナの姫はこうも下々の者のような存在なのですか、兄上?」
何かが始まる以前に本題を切り出したヘンリクの言葉に周囲がざわつく。
蘭を姫ではないと言い、ユージィンを兄と呼ぶ。それは、知らぬ者にとってはどれだけの衝撃をもたらしたのだろうか。
「何をおっしゃるのでしょうかヘンリク王子、この者は我が国に仕える人間ですぞ」
ふざけた事を言っているとサイラスは口にしていたが、蘭がちらりと視線を動かせば瞳はユージィンをしっかりと捕らえ疑いの色を見せている。
シェラルドが示して来た人物は本当にいるのかと、そしてそれがユージィンなのかと確信を得ようとしているようにすら感じられてしまう。
「本当に信用できぬのなら、そのような事を言うべきではないでしょうな」
暗い闇を秘めているような瞳が楽しそうに細められ、ヘンリクはけたけたと笑い声を上げた。何がそうも楽しいのか、疑問を覚えるよりも蘭は驚いてしまう。
そのまま体をくの字に曲げ、更に大きくなったヘンリクの笑い声が辺りに響き渡る中で、周りはただ呆気に取られて見守る事しかできない。
そう長い時間ではなかったのかもしれないが、ヘンリクの行動はじゅうぶんに周囲を引き付けた。
口々に不満を漏らしまとまりを見せなかったアンヘリカの民の視線が集中し、その中に蘭やヘンリク達がいる。
先程よりも確実に、こちらの会話へ民が耳を傾けるのであろう状況が整っていた。
笑い声を潜めたヘンリクが一歩蘭へ近づく動きを見せた為、セルアが間に入るように移動する。さすがに全てを覆うわけにはいかずセルアの右腕が蘭を隠すのみだが、ヘンリクは阻まれ足を止めた。
邪魔なものを見るようにヘンリクの瞳がセルアへと向く。
「貴様も以前に会っているな。術師だとは思っていたが……金色か」
「それがどうした」
背丈が違う為、セルアが見下ろす格好になりながら会話は進められる。
「ウィルナも平和的に会話をする気はなかったという事だろう? こうも危険な術師を連れてきているのだ。最初からこの場は成り立ってはいなかった」
「術師がここにいて何が悪い? 俺は姫付きの役も担っている、間違ってはいねぇよ」
すでに真っ当な会話ができるとも思わなかったのか、セルアは普段と変わらぬ口調でヘンリクへ答えており、誰もがそれに何を言おうともしていない。
「互いに信用してはいないものを、何故このような機会を作ったのか」
鼻で笑うようにしながら、ヘンリクの目が急に蘭へと向く。
「この娘には以前会っている。右腕を晒して見せるがいい、私がつけた傷跡が必ずあるはずだ」
赤い衣装は腕を隠さぬ為、蘭の肩には薄い布がかけられていた。ヘンリクの憎々しげな眼差しを受けつつも、蘭はただ見据え続けるだけだ。
ざわつく人垣の中から、蘭だと確信するような声が聞こえた。身近な人までもが騙される程に蘭と姫は似過ぎている。しかし、ここの人は蘭をより知るのだ。姫だと思う方が難しいはずだった。
どれだけの数があれは蘭ではないのかと疑問を覚えていた事だろう。それを今まではっきりと口に出さぬままにいてくれただけでも良いのかもしれない。
そう思いながら蘭はヘンリクと対峙する。
先程よりも更に近い距離で、あと一歩踏み出せばぶつかりそうな位置にヘンリクはおり、蘭は何を口にする事がここでの正解なのかと必死に考えた。
「どうした。腕を見せる事はできぬか? 忌々しくはあるが私と同じ位置に貴様は傷を負っているはずだ」
己の右腕を左手で抑えるヘンリクへ、ユージィンの声がかかる。
「そこまでにしておきなさい。ヘンリク」
はっきりと弟の名を呼んだ姿に、全員の視線が集まった。
「……ユージィン」
声を発したのはデールであり、蘭が目を向ければ呆然と信じられないようなものを見たといわんばかりに瞳を見開いていた。
その姿を認めたユージィンは申しわけなさそうに口を開く。
「先程呼ばれた時点で無理だと思いましたので、素直に認めましょう。確かに私はシェラルドのマティアスです」
はっきりと正体を口にしたユージィンに対する反応は様々だった。どよめく群集、全てを知っているからであろう平然としているシェラルドの従者。そして、得意気な笑みを浮かべて見せたヘンリク。
中でも焦りを見せるのが、サイラスとデールだ。
しかし、すぐにお前かという状況にはならないらしい。先刻の疑いの目はどうしたのかと思える程に取り乱す。
「ユージィンがシェラルドの王子ですと?」
まさかと言いたげにサイラスが告げれば、ユージィンは頷く。
「ええ。ですが、ウィルナのユージィンとしての立場も確かな者だと思っておりますよ」
特に気にする事もないようにユージィンが笑いかけると、サイラスからかすれた声が漏れる。
「何を……」
唖然としている姿に、隣にいるデールが言葉を繋いだ。
「本気で言っているのですか?」
サイラスと同じように驚きを隠せない表情のままだが、どうにか冷静になろうとしているらしい。自身で己の腕を強く掴んでいる仕草が目に付いた。
「ようやく認めていただけましたか、兄上」
ヘンリクが上機嫌で言葉を挟むと、ユージィンが眉を潜めて目を向ける。
「貴方が何を思いこうした事を言い出したのかはわかりませんが、認めるほかはないでしょう?」
返事をする兄を見たヘンリクは、全ての陰りが取り払われたと思える程に嬉しそうな笑みを浮かべた。以前、蘭がユージィンの正体を知った時に見たものと同じ、憧れの者を見るような眼差しだ。
「何を、とは? 私は兄上に戻っていただきたい。それだけです」
だが、ヘンリクを見つめるユージィンの瞳は逆に冷めたものへと変化する。ウィルナでは見る事のできないシェラルドのマティアスとしての顔なのだろうか。
「まだ、その時ではないと伝えたはずですが?」
「もう五年以上も経つのですよ? 私だけではシェラルドは支え切れないのです。お戻りください」
すがるような声を上げるヘンリクだったが、ユージィンは受け入れはしない。
「私はただ維持する事を望んだでしょう? 何故壊すような真似をする」
語尾をきつくしたユージィンの言葉にヘンリクの表情が憂いを帯びる。何故伝わらないのか、そう言っているように見える表情を浮かべ、悔しそうに唇を噛んだ。
そうすると、突然その首が蘭の方へと向き憎しみを含んだ鋭い視線が突き刺さって来る。
「それは本当に姫という立場にいる者なのですか? 私には庶民じみた娘にしか見えない」
ヘンリクの言葉は当たっていた。蘭は決して姫と呼べるような存在ではない。この世界ではないが、ごく普通の庶民的な生活を送って来た人間なのだ。王となるべく教育をされたわけでもなく、躾の行き届いた暮らしをしてきてもいない。
しかし、ユージィンが肯定するはずはなかった。
「私の仕えるお方に向かって、そのような口を利くのは止めていただきたいですね」
家臣である事を止めはしないとユージィンの口調は常と変わらず、ヘンリクが酷く衝撃を受けたように更に唇を噛む。そして血の滲んだ口元から、憎々しげに声を絞り出す。
「その娘が本物であると?」
「ええ」
当然だと返事をしたユージィンへ、ヘンリクが初めて兄へ憎むような瞳を向けた。
「ならば……本物だとして、兄上はそれがお気に召したのでしょうか? だから、命を奪う事なくのうのうと暮らしていらっしゃるのか!」
どうしてシェラルドへ帰って来ないのか、原因は蘭にあるのではないかとヘンリクは口にする。
「お気に召しただと? ふざけるなよお前」
姫を愚弄する事に対してなのか、それとも蘭を蔑むような言葉に我慢がならなかったのか、セルアの口調は荒い。
「黙れ! ふざけているのはどちらだ。金色とはいえども先程から無礼な口を……」
「無礼なのはお前の方だろう? ウィルナの姫を偽者呼ばわりしているのに比べれば大した事でもねぇよ」
するとヘンリクの瞳は暗いままに激しい怒りを灯したらしい。忌々しげに言い放つ。
「貴様を封じる手立てはすでに施してあるのだ! 何もわかりもせずにそのような口を利くな!」
まるで子供の癇癪のように喚くヘンリクを見るセルアの口元には微かな笑みが浮かんでおり、これまでの発言は目的を持っていたのかとすら思えた。
「何をする気だ?」
だが、ヘンリクはセルアの表情など気に留めてもいないらしい。自信たっぷりにアンヘリカの民を見回した。
「貴様が下手に動くとこの者達が死に至る」
この発言には人垣となった人々がざわめき、散り散りになろうと動き始める。しかし、どうした事か誰もが見えない壁に阻まれるように一定の場所から進めないでいるのだ。押し合うように行き交う人の中を移動する事はできるらしいが、その外側へも内側へも向かう事ができない。輪状の見えない何かがアンヘリカの民を取り囲んでいるようだった。
輪の内側でまるでガラスにでも張り付いているかのようになった者が、後ろから押し寄せる力に無理だと声を上げる。しかし一度もたらされた混乱は容易に静まるはずもない。逃れられないという嘆きと共に激しさを増すばかりだった。
「そうして押し合う事でも傷付くかもしれないな。ウィルナがおかしな動きを見せぬ限りは、ただ囲われているだけだ。おとなしくさえしていれば怪我をする事もないだろう」
押し合う人々を見ながらヘンリクが薄笑いを浮かべ告げれば、人垣の中はわずかに落ち着きを取り戻したようにも見える。マルタが声を張り上げている姿も見え、そこで発された内容に蘭は思わず息を飲んだ。
「どうしてこの話を受けたのか、あんたらもじゅうぶんにわかっただろう? あたしはアンヘリカの意志を尊重する」
はっきりと言葉にはしないが、マルタは蘭がいるからこそ人垣を作る事に同意したと告げているのだ。ウィルナの姫ではなく、アンヘリカの救い主となるはずの蘭がいるからこそ許した。
するとアンヘリカの民の視線はこちらへ集中してしまう。あの場にいるのが蘭ならば、何かが起こるのではないか? 期待を含んだ眼差しが突き刺さるように向かってくる。
(……どうして)
ただ一枚の板を読んだだけだというのに、何故そこまでアンヘリカの意志というものを信じる事ができるのか。そうなのだろうと覚悟を決めたつもりではいたが、蘭は己に課せられたものの重さと不確かさが恐ろしくなる。
マルタの発言は、アンヘリカの民と蘭とセルアとユージィンにのみ伝わるものだ。ヘンリクは驚く程に静まった人々へ眼を向けると、満足気に笑んだ。おそらく自身の言葉が伝播したと捉えたのだろう。
「想像通り、こいつらは人質か」
罠に違いないと足を向けてはきたが、セルアは知らされた事実に眉を寄せているらしい。口調と視線がヘンリクへの嫌悪をはっきりと表した。
「自国の民ではないが、ウィルナとアンヘリカは随分と懇意にしているのだろう? ここへ呼び出したのはウィルナであり、これだけの命が奪われる状況を作り出した責任はそちらにあるというもの……貴様が何かをするなら、これらの朽ちる姿を楽しんでもらう」
ヘンリクにとってアンヘリカの者に嫌われる事など、気にかける必要もないようだ。ただアンヘリカの民の命はウィルナのせいで危機にさらされていると告げる。
そしてそのまま狂ったような大きな笑い声が立てられ、周囲の視線は一気にヘンリクへと注がれた。ユージィンもよく笑みを浮かべている姿から、笑うという点は似ているとも考えられるがさすがに何かが違っている。ヘンリクは何故こうも笑い続けられるのかと、蘭はただ視線を向け続け姫であろうとしていた。
この状況をお前にはどうする事もできないだろう? そう言いたげなヘンリクの瞳が向けられ、セルアは更に眉を寄せる。
「この話はウィルナとシェラルドのものであって、あくまでアンヘリカは中立の立場だ。関係のない者を巻き込むな。いったいそっちに何の得があると言える?」
当然の主張はヘンリクには響かないのだろう。嫌な笑みを引っ込めると言い切った。
「関係のないものか。どうせこの話は決裂する。そうなれば、戦いが起こり皆死ぬだろう? それが少しばかり早まるだけの事だ。嫌ならば兄上をこちらへ引き渡せ」
「お前の望みはそれか」
セルアの言葉にヘンリクは口端を吊り上げる。
本当に兄を取り戻す為だけに起こした事態と認める様子に、黙って流れを見つめていたユージィンが重く口を開いた。
「私は今、シェラルドへ戻るつもりはありません」
「ならば、これらは全て駄目になります」
ヘンリクは譲るつもりがないらしい。だが、ユージィンもそのまま聞き入れはしなかった。
「それを許すわけにもいきません。セルア、貴方ならばあの術をはね返せるでしょう?」
蘭の前に立つセルアは、ぐるりと周囲を見渡しながら告げる。
「できなくはないが、向こうの術師の命は保証できねぇぞ」
セルアの表情は明らかに嫌がっていたが、答えるユージィンの瞳に迷いは見られない。
「それでも構いません。これだけの人数を質にしようとしたのですから、相応の報いを受けていただきます」
「…………何十人の術師がいるかは知らねぇが、アンヘリカの人数と比べれば少ねぇもんだ。そっちが仕かけて来るなら返すって事でいいか?」
自らは攻撃しようと思っていないらしいセルアへ、ユージィンも頷く。
「構いません」
「だが、そうなると俺はランを守れねぇ。三人でやれるか?」
言葉を聞いてすぐに蘭の前に立ったユージィン、そしてサイラスとデールが両脇に足を進める。全員が腰に剣をぶら下げており、手をかけながら頷く。
「するほかはないでしょうね」
ユージィンが告げると、蘭の右隣にいるデールが口を開いた。
「ユージィンの正体がどうと言っている場合ではない、姫もアンヘリカも守るべき時ですね。サイラス殿?」
「異存はない。全てはここが終わってからでも遅くはないようですな。しかし我々は随分と問わねばならぬ事があるようですぞ? いったい姫は何を考えておられるのか、困ったものですな」
左隣にいるサイラスもしっかりとシェラルド側を見つめている。
マティアスと名乗りながらも、確かにユージィンはユージィンのままだったと蘭は己を取り囲む三人を見た。
疑問を抱きつつも今すべき事の為には共に立ち向かう。敵と味方の線引きはいったいどこにあるというのか、共に過ごす事で得た信頼がそこにはあった。
ただ、それがウィルナとシェラルドの間にはないだけではないのかとも思えるのだが、どうしたなら状況を変えられるのかが蘭には思い浮かばない。
「なら、任せた」
セルアはそう告げると、蘭の前に伸ばしていた腕を下ろし、わずかに離れると座り込んだ。地面に片手を置き、何かを探るように手のひらを動かして見せる。
こちらの状況を認めたらしいヘンリクが小声で何かを言うと、周りを囲んでいた従者達が動き始めた。全員が剣を持ち、こちらへと素早く足を向ける。
サイラスとデールが一人ずつ、そしてユージィンへは二人が刃を向けたが、こちらは先から身構えていたのだ。受け止める事はできた。
そうなると残されるのは守られている蘭と、この光景を眺めているヘンリクだけになる。
満足気に目を細めたヘンリクの眼差しを受け、蘭の背筋に寒いものが走った。剣を持つ全員が牽制しあう状況を避けるように、ヘンリクがゆっくりとこちらへ足を向けてくる。
ウィルナはシェラルドの者を傷つける事も許しはしない。蘭は姫としてはっきり告げていたのであり、誰もがそれを守ろうとしているはずだった。自身の正体を疑うような発言をヘンリクには向けられているが、はっきりとした答えが示されているわけではない。サイラスもデールも姫が先視みによって成そうとしている何かを信じて行動しているはずだった。
(どうするべきなんだろう)
このままでは危険だと承知してはいるが、蘭の体は強張るばかりで思うように動きそうもない。側にいた三人も剣を扱う為もあり最低限の空間を必要としている。確かな守りがあるわけでもない蘭へ、ヘンリクは悠然と足を向ける事が可能だった。
自分以外の者の手が塞がれている状態で、蘭は何一つ身を守る物を手にしていない。未来を信じるという不思議な状態のまま、ウィルナの姫の姿をしているだけなのだ。魔力を体に溜め込んではいるものの、術を使う方法などは知らず自身の非力さを痛感させられる。
本物のウィルナのランならば、己の髪を使い術で対抗しなくてはならない。しかし、そこまでの代役は無理なのだと、ただ立ち尽くしヘンリクを見つめる。
「貴女が本物ならば、術をお使いになるのだろう? 随分と顔色が悪いようだが、いかがなされたか?」
いつかのようにヘンリクの剣先が眼前へ向けられ、蘭は一歩足を引いた。
「結局狙いはそれか……」
このままでは無理と判断したのかセルアが声を上げ、目を向ければ地から手を離そうとしている姿が認められる。しかしヘンリクが許すはずもなく、アンヘリカの民の命を示された。
「そこを離れればこちらは術を発動する」
「どっちもさせはしねぇよ」
先程とは逆に見上げる格好になったセルアは鋭い眼差しをたたえていたが、ヘンリクは余裕があるらしく軽く口端を上げるばかりだ。
「ほう、無理な事を口にするな。ならばやるまで」
ヘンリクが空いた片手を上げると、ユージィンの手を止めていた従者の一人が剣を下ろし、人垣に向かって足を伸ばす。
「あれが起動させるぞ? それでも手を離すか?」
言葉と共に近づく男の姿にアンヘリカの人々はざわめいた。間近に迫っている死に怯え恐怖におののきながらひしめく姿は、止められそうもない。
このままでも怪我人が出るであろう状況に、手を離す事ができないらしいセルアは憎々しげに口元を引き結んだ。するとそこでユージィンが声を上げる。
「ヘンリク、この者の剣を下ろさせなさい」
残された一人と対面しつつも言葉を発したユージィンへ、ヘンリクが目を向けた。
「兄上はウィルナへと身を堕とされてしまわれた。私には聞き入れる事はできません」
もう憧れを含む瞳を見せはしないらしい。失望と憎しみが混ざり合あったような奇妙な表情のヘンリクへ、ユージィンはただ同意する。
「なるほど……私がマティアスの名を捨てたと判断しましたか。まあ、ここまでの状況を作るにはそこまで思わせる必要があったのでしょう」
「何故、否定なさらない。兄上はシェラルドの王でなくてはならなかったというのに! どうしてウィルナを愛される」
二人の会話は互いに顔を付き合わせるでもなく続けられた。ヘンリクは蘭に向かい剣を構え、ユージィンは目前にいる自身の家臣であるべき男と剣を持ち牽制しあっている。
「私がウィルナを愛していると? 本当にシェラルドを捨てたと思っていると? 私はいまだにシェラルドでの地位を捨てた覚えはありませんよ。先視みの力を持って命じる。下がれ」
ユージィンはヘンリクに語りかけるようで、目の前の男にも言葉を向けていたらしい。唐突な命令は何かをもたらしたらしい、ユージィンはあっさりと敵対する者の戦意を削いだ。
そうして振り返ったユージィンは、何故かヘンリクへは目を向けず蘭をしっかりと見据えてくる。
「ヘンリク、貴方はあくまで私の代理なのですよ。先視みは私が手にしているのであり、生死を決める事すら許されるのです。幼少の頃より悪しき未来を持つと言われた貴方よりも、私は信じられるべきでしょう。さあ、貴方は私に刃を向けるべきではなく、そこにいるウィルナの術師の動きを確実に止めなさい」
言葉の後半はシェラルドの者に向けられ、これまでユージィンへ刃を掲げていたはずの男が迷いなくセルアの首へ剣を構えた。
「ユージィン……お前」
地に手を着いたまま見上げたセルアの瞳は揺らいでいるように見える。蘭自身も今の状況へうまく頭が追いついていける気がしなかった。
ユージィンはいったい何をしようとしているのか。ウィルナでの身分を捨てぬままにマティアスへ成るとは告げていたが、今の彼はどちらなのかもわかりはしない。
「どうしました? 私はユージィンでありマティアスでもあると言ったでしょう? 立場上こうなる事は仕方がありません」
サイラスとデールは身動きが取れないままであり、蘭は今ヘンリクに剣を向けられていた。セルアも同じく命を危機にさらされているのであり、ユージィンと術を起動できるらしいシェラルドの男一人が自由の身になっている。
「仕方がねぇだと?」
首元に刃を突きつけられままセルアが声を上げたが、ユージィンは言葉を返す気がないらしい。
「金色に動かれては困りますからね。いつでもアンヘリカの民を殺す術を発動できるように身構えていなさい」
全員の動きが決まり、ただ一人自由にしていられるとユージィンは足を進める。視線だけはこちらに向けていたユージィンが蘭の側へ近づき、ヘンリクとの間で笑みを浮かべた。
「お二人共、随分と困惑されているようですね? ヘンリク、剣を下ろしなさい」
表情を見るだけならば、彼はユージィンと呼ぶべきなのだろう。しかし状況はとてもではないが、ウィルナの為とは言えそうもない。
「兄上は何をお考えなのか!」
混乱は特にウィルナだけに与えられたものでもないらしく、ヘンリクが剣を下ろせという発言に逆らうように更に蘭へと刃を近づける。
「この状況になってもわからないと告げるつもりなのですか?」
「兄……上?」
しかしユージィンはおかしな発言を続けるのであり、ヘンリクもはっきりと戸惑いを浮かべた視線を兄へと向けた。するとユージィンは眉を潜めながら冷めた笑みを浮かべる。
「ヘンリク、貴方は今何を望んでいますか?」
「……兄上がシェラルドへお戻りになられる事こそを望んでおります」
何故問われているのかもわからないと不思議そうにヘンリクが告げれば、ユージィンは更に表情を厳しくさせた。
「私は、今を聞いているのですよ?」
「ならば、そのウィルナの姫と呼ばれる娘を斬り捨てたいと心より願っております」
このわざとらしい質問は何なのかと、蘭は目前にある切っ先におののきつつも聞き入っていれば同じように問われる。
「そうですか。ラン、貴女は今何を願っていますか?」
「わたしが?」
理解できないままに聞き返せば、ユージィンに小さく笑われた事がわかった。
「そう怖い顔をしないでください。現状で貴女は何を願っているのか、教えていただけますか?」
このユージィンが何をしようとしているのかもわからない現状で、いったい何を望めるというのだろうか。ユージィンとヘンリクを除く人物の動きは封じられ、おかしな会話ばかりが続いていく。
「今、この場がどうなって欲しいのか、ですよ?」
決して未来ではなく今についてを語れとユージィンは言っているのだろう。ヘンリクにもユージィンがシェラルドへ戻るという点ではなく、こちらを斬り捨てたいという考えを口にさせているのだ。同じように現状に対する感情を吐き出す必要があると考えた。
(何か、意味があるって事?)
ユージィンは先視みの力にすがるとさえ告げたのだ。蘭とセルアの未来は陰っていないのであり、それを信じて道を探そうとしているはずだった。
(ユージィンは本当に姫様が戻ってくる事を望んでいる)
信じ切れない状況にはなってしまっているが、ユージィンは結果を得る為に今を作り上げたのかもしれないと蘭は口を開く。
「わたしは……ここにいる全員が無事でいて欲しいと思ってる。そして、早く姫様に帰ってきて欲しい。今こそがその時じゃないの?」
セルアやサイラス、デールというウィルナの人物。そして、魔力によって身動きを封じられたアンヘリカの人々。こちらの動きを牽制する為に準備されたらしいシェラルドの従者達。
蘭の視界で知る事ができる部分だけではなく、そう遠くもない場所にはたくさんのウィルナの者達がいた。それはシェラルドも変わらないはずであり、だからこそ人質を留める為の術を使う事が叶っているはずだった。
ユージィンはヘンリクを殺さなくてはならないという感情で、シェラルドを飛び出してきたのだと告げた。そして、アンヘリカを手に入れなくてはならないという恐ろしい感情からも逃れてウィルナへやってきた。
そして姫はアンヘリカの土地を潤おそうとしながら、ウィルナの国土を広げる為の道を探していたのだ。
アンヘリカの人々もアンヘリカの意志を信じ、救いというものを求めている。
誰もが戦うという状況を強く望んではいないのだと蘭は考えた。
「戦う事が目的じゃなくて、わたし達だけが生き残るのでもなくて、みんなが平和に暮らせる為に動いてきたはずでしょう? それは誰も変わらないはずなの」
きっかけとなった事柄は違うが、目指しているものはそう変わりもしないはずなのだと告げればユージィンの瞳は随分と優しげに微笑んだ。
「ようやく、目的を達成できそうですね。二人の願いは違っていても、未来は決して悪くはない。ヘンリク、貴方が行動し何かが変わるかもしれません、彼女を追ってみなさい。そして、ランはどうにか生き延びようと頑張ってみてください」
しかし投げかけられた言葉は、表情とは全く似つかわしくない恐ろしいものだった。
「ユージィン?」
「兄上?」
間逆の立場である蘭とヘンリクが思わず名を呼べば、ユージィンはわざとらしい笑みを浮かべて見せる。
「先視みにより、私はヘンリクがランを追うべきなのだと判断したのですよ。貴女は真剣に逃げる必要があり、ヘンリクは確実に彼女の命を奪うという覚悟を見せるべきなのでしょう」
あまりにもおかしな発言に、蘭は身動きも取れずにユージィンへと視線を向けてしまっていた。だがこちらへ刃を向けているはずのヘンリクも、兄の不思議な言葉に戸惑ってしまっているらしい。特に何かをする気配は感じられなかった。
「ラン、とにかくそこから離れろ!」
セルアの声が降りかかり、蘭はユージィンに向けられた内容をはっきりと受け止める。
(そうだ、逃げなきゃ)
ユージィンは先視みにより蘭は逃げるべきであり、ヘンリクは追うべきと結論づけたのだ。
これまでも命が危機にさらされるような事態にはなったが、蘭は全てをどうにかやり過ごしてきた。今回も同じように自身で新たな何かを掴まねばならないのだと、とにかく身を翻した。
刃を構えたまま兄に意識を捕らわれているヘンリクの手から逃れる事が、今自分のすべき事なのだと蘭は生き延びる為の道を探そうと足を踏み出す。
だが、この空間は蘭がどこかへ行こうとしても円状に囲われてしまっているのだ。隠れられるような場所もなく、以前のようにクロードが間に割って入る事も叶わない。セルアもアンヘリカ全員の命を抱えた上に、首に剣をあてがわれてしまっている。
逃げたくとも逃げられるような場所は存在すらしていなかった。
とにかく走らねばと足を進めていると、ヘンリクも兄の言葉を理解したのか蘭へと足を向けてくる。元より蘭を斬りたいと公言しているのだ。何を迷う必要があるのかと、獲物を見るような鋭い瞳が振り返った蘭の目には映る。
(いったい、ユージィンは何を考えているの?)
身動きの取れない者ばかりがいる中で、蘭はひたすらに円の中を駆けるという行為と共に考えを巡らせた。
だが答えなど見つかるはずはない。ユージィンは目的を達成できそうだと口にはしたが、果たして内容は蘭やセルアが望んでいたものと同一だったのだろうか。アンヘリカでユージィンからマティアスに成ると告げた中に潜んでいる真実が現状と考えるなら、一つではなく全てを選ぶにはこうした流れは本当に必要と言えるのか。
(本当に……先視みは今でも良い未来を映し出しているの?)
蘭は今姫としての衣服をまとっているのであり、足元はブーツに覆われ決して走りやすいとは言いがたかった。そしてあまり運動が得意とは言えず、更に砂の上は非常に身動きが取りづらいものなのだ。
細身とはいえヘンリクも体力がないわけではないらしい。小柄と言えどこちらよりも長身であり、歩幅の差が徐々に蘭との間合いを縮めていく。
(このままじゃいけない)
自身に危機が迫っている事はわかっている。このまま駆ける事で逃れられるのならば、そうしたかった。しかしどんなに足を進めても、蘭はヘンリクから遠く離れる事はできなかった。
必死に走りながら蘭は考えようとする。どうしたら、この状況は変わるのか?
しかし、解決するような名案が浮かぶ事はない。
透明な囲いの中を永遠に走り続ける事などできるはずもなく、蘭の息は切れ、足はもつれがちになった。
「貴様さえいなければ……」
間近に迫った声に恐怖を覚えながら、蘭は倒れ込むように壁にぶつかる。両手を着いた透明な壁の向こうにはマルタとクロードの姿があり、互いの瞳が一瞬だけ邂逅した。
「ラン!」
クロードが発した声の響きから背後の危険を察知する。どうにか体を反転させると、目の前には予想通りヘンリクがおり、剣先がこちらへと向けられていた。
「もう、逃げぬのか?」
何が楽しいのだろうかと思う程にヘンリクは口端を上げて蘭を見下げる。これからするであろう行為に対する疑問は特に持ち合わせていないのだろうかと、蘭は瞬きもできないままに壁に背を押し付けヘンリクを見つめ返した。
走った事と恐怖からくるものなのか、蘭の喉は乾き声が出せるような状況ではない。
ただ正面にいるヘンリクを見据え、はやる胸の鼓動を感じながら壁に体を預けるだけだ。
「答える気はないのだな」
以前はソニアと共に見た景色とよく似た場面は、蘭に妙な懐かしさを抱かせる。あの時も死を感じてはいたが、今回こそは逃れられないのかと恐怖に身が包まれた。
「ヘンリク、待ちなさい」
するとそこにユージィンが声を挟み、ヘンリクは剣をこちらへ構えたままに首のみを動かす。
「どうやら金色が言いたい事があるようです。聞く時間を惜しむ必要もないでしょう?」
何故か弟へ瞳を向けるユージィンは冷めた表情ばかりを見せる。決して優しい笑みを浮かべはせぬままに、セルアの現状を口にした。
「ユージィン、お前は何を考えてる?」
蘭と同じようにたくさんの疑問を抱えているのだろう。地に手を着くセルアは、迷いを感じさせる視線をユージィンへ向けていた。だが現在のユージィンがそちらへ目を向ける事はなく、随分と恐ろしい笑みと共にヘンリクへ言葉を放つ。
「何を考えているかと問われれば、先視みの行く先を信じて行動しているとなりますね。今、この囲われた空間の中に未来の悪い者は存在しません。ヘンリク、貴方にも理解できるでしょう?」
この時、蘭には発言の意味がすぐにはわからなかった。しかし、目前にいるヘンリクが驚いたように目を見開いた後に、呆然と言葉を紡ぐ姿に理解する。
「……私の未来が、良い……と?」
ユージィンはヘンリクの悪しき未来から逃れる為にシェラルドを飛び出したのだ。それが今、本当に先視みが存在しているのならば、何かを変えてしまったのだろうか。
信じられないと兄を見据えているヘンリクへ、ユージィンは不気味な笑みで頷く。
「ええ、ここへ辿り着くまでに随分と苦労をさせましたね。貴方の未来は確かに悪しきものから変化しつつある。私の願いは一つ叶ったと言えるでしょう。そして、これだけで終わらせるつもりもないのですよ。セルア、もし貴方が命を失う事態となれば、ウィルナの姫も同じ末路を辿るでしょう?」
突然に言葉の矛先を変えたユージィンは、蘭にとっては初耳である内容を口にした。もしもセルアが死んでしまったならば、姫すらも命を落とすのだとおかしな事を告げる。
「お前、何をする気だ?」
だがセルアも否定はしない。ただユージィンの発する内容に恐れを抱いたように声を荒げる。
それと共にサイラスとデールも混乱したままに意見をぶつけてきたが、ユージィンは全てを一蹴するように蘭へ瞳を向け口を開く。
「私はこれから貴方が最も嫌がるであろう道を選びます。その為にはセルアが身を挺して彼女を救う事を避けたかった。偶然なのか必然なのか、たくさんの贄を貴方は抱え込んでしまったでしょう?ウィルナの姫と命運を共にし、アンヘリカの民を失う事による損害もじゅうぶんに理解できる立場にいる。動けるはずがないでしょう? ヘンリク、よく私の意図を汲んでくれましたね」
いつからユージィンはこの状況を予見していたのだろう。いや、もしかするとシェラルドと何かしら情報のやりとりをしていたのかもしれない。書状には契約文字でマティアスに向けた言葉が込められていた可能性も拭いきれず、事実だとしても本人以外には知りようがなかった。
「お前……ユージィンじゃなかったのかよ!」
セルアは信じた者に裏切られたと声を上げ、蘭もユージィンの真意がわからないと同意すらしそうになる。しかし当人はまるでユージィンのような柔らかな笑みを浮かべ、こちらへと足を運んできた。
「何を言っているのです? 私はユージィンであり、マティアスでもあるのですよ。決して間違った事を口にしているとは思いません」
ヘンリクから逃れようとして追い込まれた蘭の前へ姿を見せたユージィンは、本当にマティアスになってしまったようだと思わされる。
そうして見慣れたようで知らぬ空気をまとったまま、ユージィンは更に恐ろしい事を口にする。
「ランも未来を信じると言ったでしょう? どうやら先視みは貴女の命を欲しているようです。せめて苦しむ時間を減らす事が、私にできる最後の仕事でしょうか」
首を傾げて笑む姿は見知っているが、まさかこちらの命を奪うと告げられるとは思いもしない。
「ユー……ジィン?」
乾き切った喉から微かに声を出す事は叶ったが、こちらを眺めるユージィンは表情も変えずに笑んでいるだけだ。
「私が兄上の願いを叶えてみせます。是非とも役目を」
ヘンリクがマティアスの為にと熱望し、兄は仕方がないとでも言いたげに苦笑する。
「ならば、お願いしましょうか――ヘンリク」
ユージィンは面を一度ヘンリクへ向けると、やけに嬉しそうな表情で蘭を見つめ直し告げた。
「申しわけありませんが、死んでいただけますか?」
その言葉と共にヘンリクが腕を振るう。
戦う術を持たぬ蘭が剣を受け止める事は不可能だった。
一瞬とも思える出来事が何故か不思議な程ゆったりと、まるで全てがこま送りかのように蘭の目には映る。
向かってくる刃。
危ないとわかってはいるが動く事のできない自分。
透明な壁に背中を預け、行き場のない己を嫌という程に実感しながら煌く刃を眺め続ける。
そのまま剣が胸元を刺し貫くと共に、蘭は目を大きく見開き勢いに抗う事もできぬまま背後にもたれかかるように崩れる。
ずるずると体が下へ滑り、目の前にあったヘンリクの姿ではなく高く青い空が蘭の瞳には映り込んでいたはずだった。
しかし見えるのはこの世界ではなく、自身が生まれ育った場所の景色だ。幼い頃からの記憶がまざまざと蘇り、蘭はそれらをゆっくりと眺めるようにしていた。
長い、随分と長い時間に感じられた。
だが、それと共に訪れた衝撃は確かに蘭に激しい痛みを与え、顔は苦痛に歪む。
周りで様々な声が聞こえているような気はしたが、それが誰のものであり何を言っているのかを考える余裕など全くない。
ただ、どうしようもない絶望感が浮かび、どうする事もできない自身を悟ってしまう。
(わたしは死ぬ?)
そう思う中でふと脳裏に浮かんだのはセルアの事であり、蘭はそれが何を意味しているのかと考えようとしたが、薄れ行く意識は許そうともしない。
何故ここへ足を伸ばしたのか? そう思える程に何もできないまま、蘭の意識はぶつりと途切れた。




