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六章.孤がまみえるは虚実(二)

 蘭の首につけられた痕も消え、腕の傷も塞がった。それ程の日数が経ったというのに、クロードが現れる事は一度もない。

「どうしてるんだろ」

 そう呟くと隣にいるセルアが腕を掴み、無理やりに引っ張られた。窓際に立ち庭へ視線を泳がせていた蘭は、セルアの胸元へ寄りかかってしまい不満そうに顔を上げる。

「何?」

 体を起こし反転させ窓枠へ寄りかかれば、黙って見ていたセルアは不機嫌そうにこぼす。

「クロードの事考えてんだろ?」

 向かい合い見下ろしてくる姿はとても不服そうであり、蘭は溜息をついた。

「気にするでしょ? あれだけ来ていたクロードが全然来ないんだよ」

「普通に考えたら来ねぇだろうが」

「それはそうなんだけど、ね」

 セルアの言う通りだとも蘭は思っている。覚えてはいないがこちらの首を絞めて殺そうとしたのは紛れもない事実なのだ。それを知った上でこの場所へ顔を出すとは思えなかった。

「ユージィンはアンヘリカに行くのを反対してるし、行けないなら来ないかなって思ってもいいじゃない」

 蘭はクロードの事が気になり、アンヘリカへ向かいたいと幾度か口にしていた。しかし、ユージィンが受け入れる気配は一切ない。

 当分は許可できませんと笑みと共に返して来るのだ。もちろん瞳は全く笑っていない。

「俺が一緒でも納得しねぇんだから、仕方ないだろう? こっちとしてもここまで信用されないとは思ってなかった」

 蘭がアンヘリカへ向かいたいと言い始めた時、セルアも完全に反対する姿勢を見せていた。危険な目に会った場所へ自ら赴くという発言に、本気で怒り止めようとしたのだ。しかし、クロードの様子のおかしさを知っているのは確かであり、蘭が必死に説得した結果、一瞬たりとも側を離れないと言えるのなら向かうと口にした。

 クロードとヘンリクを止める為に魔力を使う姿は、アンヘリカの者達も目にしている。セルアが術師だという事実はすでに伝わってしまっているのだ。今更隠す必要もなく最悪の場合はクロードを排除するという恐ろしい言葉を付随させながら、ユージィンの説得へと加わった。

 セルアは嫌になると言うと、だるそうに近くにあった椅子へ腰を下ろす。蘭も座ったらどうかと勧められたがやんわりと断った。

「このまま何もしないでいたら、どうにもならないと思うのに」

 蘭自身、今の感情がクロードに対するものなのか、それとも何かのきっかけを求める為のものなのかはわからない。気にかかっているのはクロードだけではなく、こちらを斬りつけてきたヘンリクも同じ事なのだ。何故、ヘンリクはああもおかしな行動を取ったのかを理解する事はできそうもない。

「ユージィンもわかってるはずだ。俺もどうにかしてぇとは思っているが、うまい案は浮かばねぇ」

 背もたれに背中を預け天井を見上げたセルアは両手で前髪を掻き上げ、そのまま何かを考えているのか動きを止めた。

 そうかと思うと今度は急に腕を下ろし呟く。

「あいつも一緒に連れてきゃいいって事なのか?」

 これを耳にした蘭は側へ近づいて行き、セルアの顔を覗き込む。

「ユージィンも一緒ならいいって言うと思うの?」

 間近にある口元が笑ったかと思えば、セルアは急に蘭の頬へ自身の唇を寄せる。不意の感触に蘭は驚き数歩後退しながら頬を押さえた。

「何、急に!」

 仕方がないと思える理由があるのなら構わないが、どうしても不意打ちは慣れない。今は違うだろうと蘭はとにかくまくし立てたが、目の前の瞳はただ真っ直ぐにこちらを見つめる。

「そろそろ口にもさせねぇのか?」

「ちょ……っと、何でそんな事言い出すのよ」

「その気になったら言えってのを忘れたのかと思ってよ」

 会話の流れを断ち切ったセルアは不敵に笑うばかりで、何故こんな事をしたのかを告げる気もないらしい。蘭は急にどうしたものかと思いながらも、流れを戻そうと口を開く。

「べ、別に忘れたとかじゃなくて、その気がないの! もう、今でもじゅうぶんに魔力は移せてるんでしょ? 今はどうやってアンヘリカへ行くかでしょ?」

「最近はランが前よりも近づいてくると思ってな。まあ暴発はしてねぇし、じゅうぶんなんだろう。ユージィンを連れて行く件に関しては、それならあるかもしれねぇくらいだな。零ではない」

 久々に距離をとる動きをした為か、こちらを見て楽しそうに笑うセルアは己の行動については触れず蘭の質問にだけ答えた。

 そのまま話を続けたいが、セルアに文句も言ってやりたい蘭がむくれているとセルアは悪い悪いと簡単に告げる。

「一緒にアンヘリカへ行って理由を確かめるのならどうにかなりそうな気もするな。自分の目の届く範囲なら、許す可能性はあるだろう」

 更に話を進められた蘭は結局不満を口に出す事はできず、直前の台詞にだけ答えた。

「納得する?」

「納得させるしかねぇってのが正解だろうな。すっきりさせねぇと俺も嫌なんだよ。クロードがいなけりゃ俺を選び易くなるだろ?」

 真面目に話しているかと思うと、そんなふざけた事を口にするセルアに蘭は肩を落とす。

「そんな理由なの?」

「ランが思っている以上に重要なんだよ、俺にとってはな」

 クロードがいないからセルアを選ぶわけでもないのにと思いながらも、蘭は呆れた声を出す。

「そんな事言ってると、かえって嫌になるかもしれないよ」

 少し意地悪をしてやろうと思ったのだが、セルアは全く動じないらしく何故か口端を持ち上げた。

「そうでもないだろうが?」

 自信ありげに視線をぶつけてくるセルアに、蘭は思わず押し黙ってしまう。だがすぐに、何をどうしたならそこまでの自信を得られるのかが理解できないと笑ってしまう。

「馬鹿みたい」

「そりゃどうも」

 セルアは椅子から立ち上がり、何かを言うでもなく扉の外へ向かって行く。

 城での仕事があるのだろうか。こうしていなくなったかと思うと、数時間もすれば帰って来るのはわかっている。セルアを見送った蘭はまだ温もりの残る椅子へ腰を下ろし、背もたれに寄りかかると溜息をついた。

「んー、よくわかんない」

 クロードの事を知る為には何をすれば良いのか。あの自信有りげなセルアの様子は意味があるのか。どうして自分はここにいて契約文字を読めるのか。魂の欠片はどんなものであり、おそらくではあるが何故姫は蘭をこの世界へ呼んだのか。分かたれたものとは何を意味しているのか。様々な疑問がぐるぐると浮かんでは来るが、どれ一つとして明確な答えは出ない。

 たくさんの出来事で情報が入って来ているようには思える。しかし、それらは解決する事なく積み重なって行くばかりだった。蘭が行動する度に新たな何かが起こるとユージィンに言われたと思いながら、全ては繋がっているのだろうか? それとも一つひとつ全く違うものなのだろうかと思いを馳せる。

「わたしがアンヘリカに行きたいと思っているんだから、そこで何かが起こるとか?」

 何となく呟いてみた蘭は、まさかそうも簡単に事が運びはしないだろうと笑ってしまう。

 だがとにかくユージィンを説得し、アンヘリカへ向かいたいと考えているのは確かなのだ。

 その為には自分も何かをするべきだと、蘭は必死に頭を働かせ始めた。



「お断りします」

 話を聞くなり即答したユージィンに、蘭は食い下がる。

「ちゃんと理由を知って納得しようよ。絶対何かあると思うの」

 ユージィンが仕事を終え屋敷へ来るのを待っていた為、今は食堂にいた。三人でテーブルを囲みまずはセルアがユージィンを説得しようとしていたのだが上手く行かず、今度は蘭がどうにか口説き落とそうと頑張っている。

 ティーカップを手にしたユージィンは茶を一口飲んだ後、困りましたねと笑った。

「そんなにもアンヘリカへ行きたいのですか?」

 蘭が大きく頷くと、ユージィンはわざとらしく告げる。

「私はクロードもマルタもアンヘリカも疑っています。正直に言えば、行きたくはありません」

 先程から行きたいのかと聞かれ、そうだと言うと嫌だの繰り返しなのだ。ユージィンはこちらが諦めるまで繰り返すつもりなのだろうかと、蘭の意気込みも徐々に弱り気味である。

「このままここにいても何も進まねぇだろうが、ユージィンだってそれはわかってんだろ?」

 蘭でも無理だと判断したセルアが口を挟み、それをユージィンは冷たく一瞥する。

「ランが怪我をした流れまでもが、必要な事だと思うのですか?」

 向けられた意見にたじろぎながらも、セルアは必死に言葉を紡ごうとしているらしい。

「それは俺達にはわからないだろう。先視みがあればどうにかできるのかもしれねぇが、今はあいつはいない。可能性にかけるしかないのが現実だ」

「難しいですね。クロードを知り、何かが変わるとでも?」

「ランが行動する度に新しい情報を得ていると言ったのはユージィンだ。今ランはアンヘリカへ行きたがっている、それは何かに向かって行ってるんじゃねぇのか?」

 セルアも蘭と同じところに行き着いていたらしい、その言葉にはユージィンも小さくだが頷いた。

「私もそこは考えていますよ? しかし、もしランが更に大きな怪我を負い、命まで失う事になったらどうするつもりですか」

 ユージィンがアンヘリカ行きを嫌がる理由もじゅうぶんに伝わって来る。しかし、行動を起こさなければ現状は変わらないとも思えるのだ。

 何か言わなければと蘭が口を開こうとすると、先にセルアがユージィンを見据え告げた。

「……今度は側を離れねぇよ」

 真剣な瞳にユージィンも笑みを潜め、セルアを見返す。

「絶対に、ですか?」

「絶対に、だ」

 お互い何も言わずにいる二人の間に長い時間が流れた。蘭はどちらが先に口を開くのだろうかと思いながら黙って見守っていると、ユージィンがわざとらしい溜息をこぼす。

「私の負け、ですかね」

 そう言いながら蘭へと視線を寄こす。 

「ランも一人で行動をしないと約束できますか?」

 その問いに蘭は、二度と迂闊な行動は取らないとユージィンにわかってもらう為にも真摯に向き合わなければと頷く。 

「何かあっても勝手な事はしないから」

「……仕方ありませんね」

 ユージィンはそう言うと冷めかかっている茶をまた一つ口にして、困ったように首を傾げた後二人を見る。

「ならば、すぐにとはいきませんが三人でアンヘリカへ向かいましょうか」

「ユージィン、ありがとう!」

 ようやくアンヘリカへ向かう事を許された蘭は満面の笑みを浮かべ、ユージィンも穏やかな笑みを向けてくる。

「本当にこれで良いのか心配ですが、仕方がありません。ランを信じますよ」



 ユージィンがアンヘリカへ行く事を許してくれた。しかし、すぐに向かうはずもなく、蘭はいまだにウィルナの屋敷で過ごしている。あれから十日以上経つというのに、日取りすら決まっていないのだ。

 すっかりお決まりになっているソファにセルアと共に座り、一向に話が決まらない事に対する不満を口にしていたところだった。

「とにかく行くとは言ってくれたから、待つしかないのはわかるんだけどね」

 ユージィンを含めてというのは思っていた以上に難しい事らしい。思い返してみれば蘭がさらわれた時以外にアンヘリカへ行く姿は見ていない。

「俺と違ってあいつは中心にいるからな。あの時は無理にでもアンヘリカへ向かったが、今回はそうもいかねぇ」

 セルアが蘭の髪に触れながら喋る。二人はいつものように並んで座り魔力を移しながら会話を進めていた。

「最近仕事量を増やしてるところを見ると、どこかで行くつもりがあるらしいのはわかるな」

「なら、へたに急かすよりも待った方がいいよね?」

 セルアの仕草を気にする事もなく蘭はただ見上げる。

「さすがにこれ以上何か言っても仕方ねぇだろうな。決めた事を簡単に破るような奴でもねぇし、何もしないのが最善だろう」

 そうなるとここは黙って待ち、ユージィンの予定に合わせるしかないのだろう。時間を作ろうと頑張ってくれているのはわかっているのだ。そしてそれは蘭が手伝える内容でもない。

「何かできる事があればいいのにな」

「無理に考える必要もねぇだろうが」

 呟くように言った蘭の頭の上へセルアの大きな手が乗せられる。ここ最近同じ事ばかりを口にしている為か撫でる動きも乱雑だ。

 髪型が乱れてしまいそうなそれを蘭は両手で押さえると、セルアを軽く睨む。

「せっかく魔力があるんだし、私にも術が使えないの? って言っても駄目って言うしさ」

「駄目なもんは駄目だ」

 今度は乗せられていた手に力が込められ蘭の体は前に傾いてしまう。押しのけるようにしながら蘭はセルアの手を振り払った。

「もう、何で駄目なのよ!」

 自分の体に魔力が溜まると知った時から使う事はできないのかと思い、蘭は幾度か口にしている。しかし、その度にセルアもユージィンも反対するばかりなのだ。

 暴発する心配もないものを無理に使う必要はないと言われても、ひたすら溜め続けるばかりをもったいないと感じるのは当然ではないだろうか。自身で確認する事は叶わないが、蘭の体には日々魔力が込められている。セルアが抱えきれない程の量とあなたが魂の欠片と記された板に入っていた魔力が、自身の中にはあるはずなのだ。

 何にも使わずただ増やすばかりでどうするのかと思ってしまう。

「この魔力で何かをするんじゃないの? だからわたしはセルアの魔力を溜めておけるんだと思うよ?」

「その何かがわかんねぇんだ、無理に使う必要もないだろう?」

「使い方を知る事が何かのきっかけになるかもしれないじゃない?」

 セルアがいとも簡単に使ってみせる術を目にしている蘭は、ほんの少しだが使えるものなら使ってみたいとも思っていた。必然性を主張しているが、興味こそが大いにあるのだ。

 それを知ってか知らずか払いのけられた手で己の髪をかき上げたセルアは、困ったように眉根を寄せ蘭へ視線を落とす。

「お前な、それだけの魔力を使おうとして失敗したらどうなると思う? 国もろ共吹っ飛ばすぞ」

「それは……前にも聞いたけど」

 わずかな魔力ならば失敗しても少々の傷で済む、だが蘭が持っている魔力はとてつもないのだ。国一番と言われているセルアの魔力を軽々と吸い取り無限にも思える程に蓄積していく。

「成功したってとんでもない事になるかもしれねぇ。ランは無意識に俺の魔力を吸い取った、それだけの事をやってのけたんだ。もし使う事が必要なら、その時になりゃどうにかなるかもしれねぇだろうが」

 そしてセルアは毎回のように時期がくればどうにかなると言うのだ。その意見にはユージィンも大いに頷き、貴女は自然と必要な事をこなすのかもしれませんよ? と言ってこちらを納得させようとしてくる。

 この世界へ呼ばれた意味があるのなら、この魔力にも役割があると考えるべきだろう。使い方を知らずにしていったい何ができるというのか。だが、これまでの不可思議な出来事を思い返せば否定もできない。確かに蘭は無意識に魔力を吸い取ってしまい、もう一度吸う事は叶わずにいるが代わりにセルアが魔力を入れる事ができている。

 それは、必要な時には何かをしているとも取れた。

「やっぱり、このままが一番って事?」

 蘭が聞けばセルアはそうだと答え、こちらが納得したと思ったのか今度は優しく髪を撫でる。

「ランはそのままでいればいい。俺達とアンヘリカに行くだけでじゅうぶんかもしれねぇだろう?」

 ただいるだけ、その言葉は蘭をどこか不安にさせた。本当にそれだけで事態は進むのだろうかと疑問ばかりが浮かび上がる。アンヘリカには向かうが、それはクロードの様子が気になっての事だ。ユージィンには自分が行きたいと思う事に意味があると言ったものの、蘭がここにいる意味に繋がる保障は一切なかった。

「せめて、どうして呼んだのかわかるようにしてくれれば良かったのに」

 おそらくこの世界へ呼んだのであろう姫へ小言を漏らした蘭に、セルアがわずかに笑う。

「それは俺も思わなくもねぇな。何を考えての事だったんだか」

 結局、姫の目的は謎のままであり、今はとにかくユージィンがアンヘリカへ行く事のできる時期を待つほかはなかった。


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