五章.孤の秘匿と影(終)
それから五日。
蘭の元にはアンヘリカの民がたくさん見舞いに訪れた。食べ物や花、小物等、様々な品を手に現れては蘭の様子を心配し、そしてソニアを救った事への感謝を述べていく。蘭はアンヘリカの意志が読める人物だというだけでも親しくしていた人達が、やはり必要な者なのだと確信するようにやって来る姿は不思議なものである。
蘭は当然の事をしたまでだと告げるが、アンヘリカの人々はきっと意味があるに違いないと期待を込めた眼差しを向けてくるのだ。ソニアを助ける事は叶ったが、自身は怪我を負ってしまっている。いったい何ができるものかと不思議に思いながら来訪者との会話を続けていた。
こざっぱりとしていたはずの部屋は、すっかり物で溢れかえっている。さすがに食べ物を全て食べる事はできず、長く置いておくわけにもいかない為に宿中の人に手伝ってもらっていた。
「そろそろ落ち着いてきたな」
だるそうに椅子に体を預けているセルアは、大量の訪問者と蘭の傷の具合、どちらも含んで言ったようだった。ベッドの上で起き上がり壁に寄りかかりながら蘭は頷く。
「まだ痛みはあるけど、動いてもいいって言われたしね」
「明日にはウィルナへ向かうか」
事の次第を伝える為にウィルナへ向かった乗り合いも、昨日戻ってきた。あまり急がず揺られる分にはもう耐えられるだろう。
「ユージィン心配してるだろうな」
「心配はしてるだろうが……」
何気なく呟いた台詞へのセルアの反応は悪い。
「どうしたの?」
聞き返すとセルアは蘭の髪に手を伸ばし何かを言いかけたのだが、言葉を飲んだ。
「何でもねぇよ。それより、クロードが顔を見せないのが気味が悪ぃ」
セルアが言うようにクロードは蘭が怪我を負った後、姿を見せていない。ソニアはすぐにマルタとやって来たというのにだ。
彼の性格を考えると真っ先に飛び込んできそうだと思っていたのだが何の音沙汰もない。
こちらもクロードがヘンリクの剣を受けてくれた事で救われている。お礼も言いたいのだが、一向に姿は見えないままなのだ。
「何か用事があるとかじゃないの?」
クロードがウィルナとアンヘリカを往復しているペースは異常だ。最近は蘭に会うのを目的にしている為にかなり多いが、それ以前から行き来は多いらしかった。
「俺もそうは思ったんだが、どうも違うみてぇなんだよな。アンヘリカにはいるらしい」
どうしてもウィルナへ行く用事がある為に来ないと思っていたのだが、違うとなると蘭も首を捻りたくなる。
「なんか、おかしいかも」
「だろ?」
「わたしがいるのにね」
自分で言うのも変な話だが、すぐ近くに蘭がいる状況でクロードが現れないのは不思議だった。普段ウィルナでもアンヘリカでも蘭にべったり付きまとっているというのに、どうした事だろうかと思うのは間違ってはいないはずだ。
「俺としては、あいつがべたべたしてるのは好きじゃねぇが、こうも姿が見えないと気になるな」
セルアは立ち上がると、窓際へ向かい外を見る。
「出歩いてる風でもねぇ」
「ただの気まぐれとかじゃないのかな?」
クロードは会話をしていても話題がよく変わり、表情が面白い程に変わっていく。興味がないものには触れない傾向もあり、クロードなりの理由があると考えてみる。
「だと、いいけどな」
セルアは呟くように言い、振り返った。
「少し調子がいいからって無理はするなよ? 今日もおとなしくここにいろ」
「もう飽きたけどな」
つまらないと口にした蘭へ、セルアは近づくと頭を優しく撫でるが最後に揺さぶる。
「飽きたじゃねぇだろ? どうせまたすぐこっちにも来れるんだ。今回は我慢しろ」
蘭はセルアを見上げながら、少し間を置いて答えた。
「わかった……おとなしくしてる」
「ならいい。俺は少し外へ出て来る」
そうして部屋の外へ出て行くセルアを見送った蘭は、立ち上がると窓際の椅子へ腰かける。怪我をしたのは腕なのだが、必要最低限の事をする以外はベッドで過ごしていた。そろそろ動き出したいと思っているのだが、周りはそれを望んでいない。明日ウィルナへ発つまではこの部屋にいるしかないのだろう。
一緒に出歩けるのならばセルアは蘭と共にいる事を望む。しかし、今回はそうもいかずセルアは一人でアンヘリカの様子を探りに出かけていた。ヘンリクがソニアを斬ろうとした一件で、町の人々の心証も変わっているらしくなるべく多くの情報を仕入れたいようだった。
「結局、ヘンリク王子に会ってもマティアス王子の事は聞けなかったしな」
ぽつりと零しながら蘭は考える。
軽く子供がぶつかっただけで剣を抜き、迷う事なく振り下ろした姿を思い出す。咄嗟に飛び出した為、途中からの表情はわからないが命の宿っている者を見ているようには思えなかった。
蘭にはヘンリクにマティアスの現状を聞こうと考えた事が、初めから間違っていたと思えてならない。だが、こうして蘭達がヘンリクを気にしていなければ、ソニアは簡単に斬り捨てられていたのかもしれないとも思える。
しかし蘭がこちらに来ていたからこそ遊んだと考える事もでき、不在で同じ状況になっていた可能性も否定はできない。
(あの子が助かっただけでもいいって思うしかないのかな?)
そう考えながらも、何か心の内が落ち着かない蘭は溜息を付く。
そして、あのヘンリクの兄とはどのような人物なのだろうかと頭を悩ませた。
本を読める可能性はあるが、その人自体に会う事が危険ではないのだろうか? 情報を仕入れたとしても手に負える人物なのかもわかりはしないのだ。
「難しい……な」
色々と頭を悩ませていると、扉を叩く音がした。
また誰かが見舞いに来たのだろうかと、蘭は慌ててベッドへ移動し腰かけると返事をする。
「どうぞー」
すると扉は静かに開かれ、顔を覗かせたのは先程まで話題に上っていたクロードだった。珍しく何を言う事もなく部屋に足を踏み入れる。
「クロード、どうしたの?」
普段とはどこか違う雰囲気に思わず、そう声をかけてしまった。弱々しい笑みを見せながらクロードがベッドの側に椅子を持って来て座り、暗い声を向けられる。
「傷はどう?」
「だいぶいいよ。このくらいで済んだのもクロードもおかげだね、ありがとう」
心配そうに視線を向けられていた為、蘭がゆっくりとだが腕を動かして見せるとクロードは良かったと呟く。
「すぐに来れなくてごめん」
こちらが気にする程姿を見せていなかったのは確かだが、謝られるのはどこか落ち着かず蘭は首を横に振って答える。
「いいんだよ。わたしもクロードに会いに行けなかったし」
「う……ん」
自身が心配されるよりも、どうも元気のないクロードが蘭は気になった。いつもならこちらが何を言わずともあれこれと話し始めクロードのペースに巻き込まれてしまうのだが、今日は表情が暗く言葉の歯切れも悪い。
先程もどうしたの? と聞いてしまったが、本当にそう思うのだ。
どのように声をかければ良いのかと悩みつつも、蘭はクロードの表情をうかがい見る。喜怒哀楽がわかり易いはずのそれが今はどこか冴えない。
「何かあった?」
理由があっての事だろうと、蘭は思い切って聞いてみた。すると、クロードは困った表情を浮かべてこちらを見返してくる。
何かを考えているらしい様子に蘭は何も言わず、ただじっと待った。話すも話さないもクロード次第だと答えを待ってみる。
たっぷりと時間は過ぎ、その間にもクロードは幾度か口を開きかけた。しかし、すぐにそれは飲み込むように止まり、視線は蘭を見たり見なかったりと定まらない。
蘭が無理に話す必要はないとクロードに告げようとしたその時、言葉が放たれる。
「死なないよね?」
思いもしなかった質問に、蘭は瞬きを繰り返してクロードを見た。
「何?」
「死なないよね?」
同じ言葉を繰り返すクロードの瞳は、真っ直ぐ蘭へ向かっている。何をどうして死ぬなどと言い出したのだろうかと思いながらも蘭は頷く。
「死なないよ?」
「本当に?」
椅子から腰を上げ、蘭のいるベッドの端に両手を付いたクロードが顔を近付ける。
ひどく間近に迫った表情はしっかりしているようでどこか虚ろにも思え、蘭はその不自然さに戸惑いすぐには言葉を出せずにいた。座っていた布団の上を後退るようにしながら、距離を取り様子のおかしさを訝しむ。
そこへクロードは急かすように言葉を続ける。
「絶対?」
「……絶対ってどういう意味?」
怪我をしたがそのせいで死ぬ事はない、それならば答えられる。しかし、クロードの物言いはどうも違うようだ。そもそも絶対に死なないという表現がどこかおかしい気もする。
蘭の返した言葉にクロードは何故か頷く。
「だよね? 絶対なんてないよね」
突然、蘭の首にはクロードの両手が伸び、何事かと思う間もなく締め付けられた。
「!」
一瞬で息苦しさを覚え、蘭は声を上げる事もできずぎりぎりと締め上げてくるクロードの腕を叩いて抵抗した。離して欲しいと懸命に訴えるが、応じられる気配はない。
息ができず頭がぼんやりすると思いながらも、どうにかこの状況から脱しなくてはならないと背後にある壁を手足でがむしゃらに叩き、蹴る。
目の前にいる人物の様子は真っ当とは言いがたいのだ。これはもう別の者に気付いてもらう他はないと、蘭はとにかく音を立てる事で危機を室外へと訴え続ける。
尋常ではない音に気付いたのかすぐに走る足音が近づいてきたが、クロードはただ虚ろに蘭を見つめ首を掴んだままだ。
(このままじゃ……だ、め)
そう思った瞬間、扉が激しく開かれマルタが飛び込んで来た。その手には階下で使用していたのか鍋が握られており、マルタは迷う事なくクロードの背中を思い切り叩いた。
「この馬鹿! 何やってんだい」
その勢いにクロードは大きく前に体を倒し蘭に圧しかかって来たが、おかげで両手は首から離され、塞がれていた気管に空気が流れ込んで来る。しかし、今度は体の大きなクロードが上にいる為、これはこれで息苦しかった。
激しく咳き込みながら押しつぶされていると、マルタがクロードの肩を掴み引っ張る。
「さあ、起きな! クロード!」
女一人の力で持ち上げられるような大きさではなく、マルタはクロードが自身で起き上がれと声をかけ続けた。蘭も早く退いてはくれないかと抵抗し続け、随分と時間が経ったようにも思える。
「……あ、れ」
蘭とマルタの必死さをよそに、突然どこか呑気な声を上げたクロードが体を起こして辺りを見回し、首を押さえて咳き込む蘭の姿を目に留めた。
「どうしたの? 大丈夫」
まるで今までの流れを知らないような素振りに蘭は驚き、途切れ途切れにだが声を上げる。
「大……丈夫……って」
言葉を続けようとするが、苦しくなりまたも咳き込む。そこへマルタが手を差し出し蘭の体を起こすと、背中を優しくさすってくれた。
「無理に話す事はないよ。まずはちゃんと息をして」
「ん……」
蘭は静かに呼吸を繰り返し、どうにか落ち着かせると二人を見上げる。マルタはわかるのだが、クロードまでもが心配そうにこちらを見ている姿はおかしい。
「首が赤くなってる」
手を伸ばしたクロードに蘭は慌てて後退りをしたが、ベッドの上をわずかに移動し壁際に背中を付けるばかりだ。
この動きに驚いた表情を見せ手を引いたクロードを、蘭は不思議に思いながら見上げる。
「クロ……ド?」
どう聞けば良いのかがわからず、蘭は掠れた声で名を呼ぶ事しかできなかった。自分がどんな表情をしているかはわからないが、クロードが浮かべているのは随分と悲しそうなものだ。
「オレ、何かした?」
眉を寄せながらこちらの様子を見ていたマルタが、今度は素手でクロードの背中を叩いた。持って来た鍋は床に放り出されている。
「あんたがやらかしたんだよっ! また覚えてないって言うのかい」
「覚えてないって何を?」
不思議そうに目を丸くするクロードは、本当に自分が何をしたのかをわかっていない。そうとしか思えない様子に見える。
どうも誤魔化しているわけでもなく本気で言っているのかと蘭が思っていると、マルタは大きく溜息を付いた。
「……本当に覚えてない、のかね」
「本当に?」
咳き込みはしなくなったものの、どこか調子の悪い声で蘭は聞く。するとマルタはクロードの頭を一つ叩く。
「全然覚えてないって事だよ、今の自分の行ないを」
「何で叩くんだよ!」
理由もなく叩かれたと言いたげなクロードを蘭は何事だろうかと見つめ、マルタは睨み付けて告げる。
「あんたがランの首を絞めてたんだよ! 二階からすごい音がするのとクロードがぼんやり登ったって話を聞いてこっちはすっ飛んで来たから間に合ったものの……殺す気かい!」
「え?」
何を冗談を言っている、初めクロードはそんな表情を見せた。しかし、その瞳が蘭の首に残る痕へ向き、表情は変わる。
「オレ……が?」
何かを確かめたいのか再び蘭に手を伸ばそうとしたクロードを、マルタが間に入り遮った。
「今回ばかりは洒落にならないよ」
「ほんと……に? オレが締めた?」
マルタは今回と言った、それは同じような事が過去にもあったとも取れる。そしてクロードは覚えていない事ではなく、本当に首を締めたのかだけを聞いた。
自分の行動を覚えていない事などあり得るのだろうか。そう思いながらクロードから向けられた視線に、蘭は無言で頷く。詳しく説明する必要があるのかもわからなかった。
「……なんで、だろ」
蘭の答えを知るとクロードは両の手のひらをじっと見つめ呟いた。何故なのかわからない、そうはっきりと汲み取れる声で言い視線を蘭へと動かす。
「どうして、だろ……オレ、何で?」
声も瞳も揺れ、クロードは何度もどうして? と呟き、その声は次第に泣いてしまうのではと思う程に変わっていく。
「駄目だ、わからない。オレ……」
そう言うと、クロードは部屋を飛び出して行った。蘭は声をかける事もできずその姿をただ見送ってしまい、困ったようにマルタを見上げる。
「しばらく放っておくといいよ」
マルタは冷たく言い放ち、蘭はそれにすら戸惑う。
「でも……」
「本当にわからないんだよ。クロードにもあたし達にも、どうしてやったらいいのかずっとわからない」
困り顔になったマルタは蘭の首を覗き込みながら、小さく息を吐く。
「これはすぐには取れないだろうね。セルアが戻って来たら何て言うか……まあ、誤魔化すべき事でもないし、本当の事は伝えるよ。ランもちゃんとあった事を言うんだよ?」
そして、クロードが側に寄せた椅子にマルタは腰かける。
「しばらくはここにいようかね。あの子がここに戻って来るとは思えないけれど、今は一人じゃない方がいい」
柔らかな笑みを向けられたが、蘭はそれにどうしていいかわからず曖昧に頷いた。一人でいるのは確かに怖い気もしたが、飛び出して行ったクロードも気にかかるのだ。
「わたしはもう大丈夫だよ? クロードの方が心配かも、行ってあげて」
そう言った蘭にマルタは首を横へ振る。
「そうはいかないよ、ランも大切なんだからね」
「じゃあ、少しいてくれたらでどう?」
何度も繰り返す蘭にマルタも折れてくれたらしい、渋々ではあったが頷いた。
「仕方ないね。もう少ししたらクロードの所へ行くから、ランもセルアにちゃんと話すんだよ?」
言い聞かせるようなマルタに、蘭はしっかりと返事をする。
「わかってる、大丈夫だから」
二人は会話のないまましばらくの時を過ごし、マルタは部屋の入り口に誰かを置いておくと告げ去って行った。
「あの野郎!」
部屋から飛び出して行きそうなセルアの腕を左手で掴み、蘭は必死に止める。
「今すぐじゃなくたっていいでしょう?」
「自分が殺されかけたってのに、どうしてそうなんだお前は!」
掴んでいる腕を振り解こうとしたセルアだったが、蘭が怪我をしている事を思い出したのか動きを止め、怒りに染まっている瞳をこちらへ向けて来た。
ベッドの端に座っている蘭は、目の前に立つセルアを見上げる。手はまだセルアの片手を掴んでおり、このまま部屋にいて欲しいと願っていた。
「行ってどうするの? クロードは本当に覚えてないんだよ?」
「その覚えてねぇって意味がわかんねぇ。そんな事あるかよ」
とにかく落ち着いて欲しいと蘭は何度も訴え、どうにか苛ついているセルアを隣に座らせる事に成功した。その上で手を繋ぐように掴むと、セルアはわずかながら笑う。
「ランからってのはありがたいが、今は複雑だな」
どうしてもクロードの所へ行かないで欲しいという言い分を、セルアは納得していない。蘭の話を聞いた途端、一つ二つではなく殴ってやると言ったのは、おそらく冗談ではないだろう。
しかし、クロードの様子を思い返す限り、今セルアが彼を殴ったところでどうにもならない。そう思えるのだ。
セルアは蘭に手を握られたまま器用に体を動かしベッドの上であぐらをかくと、空いた手でこちらの首に優しく触れた。
「あいつが本気で体重をかけてたらとっくに死んでたんじゃねぇのか?」
痛々しく赤くなった指の痕をなぞるセルアに、蘭はどう答えるべきか悩む。
確かにクロードが本当に息の根を止めようとしたなら、一思いにできたとも思える。多少なりとも迷いがあったからこそ、今自分は生きているのかもしれないとも考えられた。
だが、クロードが望んであの行動をとったのかはわからない。とんでもない事をした、そんな表情を浮かべて飛び出して行った姿も真実なのだ。
何も言えずにいる蘭へセルアは更に言葉を続ける。
「どんな理由なのかは知らねぇが、クロードはお前を殺したかったって事だろ?」
殺したい。実感のない感情に思いを馳せるが、答えが出るはずもない。蘭は今まで誰かを殺したいと思った事など微塵もありはしなかった。
「……そう、なのかな」
呟いた蘭に、セルアも表情を曇らせる。
「そうは言っても、俺にもあいつがそんな事をするとは思えねぇ。だが証拠はここにある」
触れられたままの首に蘭も手を伸ばしてみる。自身で見る事はできないが、先程鏡で見た時と同じく赤くなっているのだろう。
「本当に駄目かな、って思ったもんね」
息を吸い込めずに意識が遠のきそうだった寸でのところでマルタが来てくれた。それがなければ今頃どうなっていたのかは想像したくもない。ヘンリクに斬られたよりも更に危険な目に合うとは思いもしなかった。
「それでも俺があいつのとこに行くなって言うのか?」
少しは穏やかになったセルアだが、まだ諦めてはいないらしい。
「わたしが怖くて逃げた時、クロードは悲しそうな顔をしたの。そして、マルタに首を絞めたって言われて、信じられないものを見るように自分の手を見つめてた。何かおかしかったんだよ?」
「見てねぇ俺には不思議なんだよな、自分でここに来たんだろう? どうおかしかった?」
どうおかしいのか、これはとても難しい質問だった。蘭はクロードが部屋に入り出て行くまでの流れを必死に思い返し、考える。
「全部……だと、思う。ここに来た時からいつもと雰囲気が違ってた気がする」
「いつもと違う……か。そういやランが斬られた辺りからぼんやりしてたな」
言われてみると、あの時からクロードはどこかおかしな様子を感じさせていた。
「あの時からなのかな?」
「あの時?」
「わたしが斬られた後からそのままって事なのかなと思って」
「そのまま、か」
セルアは蘭の首から手を離すと、自分の前髪を掻き上げながら何かを考えている様子だった。唸るようにしながらたっぷりと時間を置いて最終的に首を横へ振る。
「わっかんねぇ。やっぱクロードに直接会うしかねぇだろ」
そうして繋いでいた手をセルアは静かに解こうとし、蘭ももう無理に止めようとも思わなかった。このまま二人で考えても、解決する事ではないのだ。
「行くの?」
不安そうに聞いた蘭へ、セルアは笑みを見せた。
「ああ。そんなに心配しなくていい、さっきよりは俺も落ち着いてるからな」
そうは言われても気になる蘭は口を開く。
「なら、わたしも行きた」
「それは駄目だ」
しかし、蘭に全てを言わせる事なくセルアは否定をする。
「俺だけが行く。大丈夫だからランは休んでろ。扉の外には誰かをつけておくからな」
そしてそう言うとゆっくりと立ち上がり、部屋の外へ出て行った。
翌朝、蘭とセルアはウィルナへ向かう乗り合いの中にいた。
いつもならばたくさんの人に混じり見送ってくれるはずのクロードも、今回ばかりは不在だった。
昨日、セルアはマルタを通してクロードに会ったらしい。しかし、セルアが話をしてもやはり自分のした事を覚えてはいない様子で、あまりの落ち込みように会ってすぐに一発殴れただけだったと戻って来たのだ。
それでも殴ってはいるんじゃないと蘭が言うと、セルアはこう答えた。
「クロードに何も聞かずにまず手が出てたから殴れたんだ。そうでなきゃ、そのまま帰って来ていただろうな」
それは本当にクロードが見ていられない程の有様だったという事なのだろう。
セルアはあまり詳しく話そうとはせず、蘭もどこか聞きづらい気がした為、話はそれ以上進まなかった。
「大丈夫なのかな……」
何に対してかを口にはしなかったのだが、セルアにはじゅうぶん伝わったらしい。
「そう思うしかねぇだろ」
おそらくセルアも蘭と同じように気にしているのだろう。しかし、二人はウィルナへ帰らねばならず、クロードへ何をすべきなのかもわからない。
並んで座りセルアが蘭に触れる事はいつも通りだったが、会話はどうしても弾まない。
心配事を残したまま乗り合いはウィルナを目指していた。




