五章.孤の秘匿と影(三)
それからも蘭とセルアは度々アンヘリカを訪れていた。最近はヘンリクに会えればと思う事も薄れ始める程に、変化のない生活ばかりを過ごしている。
無理に出会う必要はないとユージィンも言って結果を急く事はない。蘭とセルアも期待し過ぎるのは良くないと、あくまで魔力を消費しアンヘリカの内情を知る事に専念していた。
そうは言っても蘭が特にしなければならない事はない。ただ乗り合いで移動しアンヘリカでマルタ達と話し、子供達と遊ぶくらいのものだった。
しかしそれにも意味があるとセルアやユージィンは言うのだが、蘭にはどうも遊び呆けているとしか思えない。
「ここにいる意味ってなんだろ」
一人呟きながら、町中にある一つの建物の影に蘭はしゃがみ込んでいた。
今は町の子供達とかくれんぼをしている。子供達が十人と蘭とクロード、それが始めた時の人数だった。近頃は途中で宿以外に住む子供達が増えていたりと、何人で遊んでいるのかがわからなくなる事も多々あるのだ。
(鬼はクロードだし、もう少しここでおとなしくしてようかな)
壁に身を寄せながら辺りの様子を窺っていると、どこからか、見つけた! とクロードの声が聞こえ、見つかっちゃったかと少年が笑う声がする。
どうやら着実に見つけているらしい様子に、次はどちらへ足を向けるのかと思っていると、聞こえた声とは逆方向へ駆けて行く少女が目に入った。どこかに隠れていたのだろう、クロードの声をきっかけに場所を移動するようだ。
確かソニアと言う子だと蘭が小柄な少女の向かっていく先へ目を向けると、五人の男が固まって移動をしている事に気づく。
白いコートをまとう集団は、中心にいる人物が主と呼ぶべき存在なのだろう。細身の少年が堂々と足を進める姿は常に見かける光景ではなかった。
(あれは……? もしかして)
蘭は無意識に息を潜め一行を見つめる。どうにか顔を確認できそうな位置にいる彼らは、初めてここへ訪れた時に見た人達ではないだろうか。慌てて宿へ戻らされ詳細など知りはしないが、町に暮らす人物とは思えない。
(シェラルドのヘンリク王子……?)
とうとう目的の人物が現れたのかと蘭はセルアの姿を探す。遊びには参加していないが、こちらの居場所を見失うような場所にはいないはずなのだ。自身が隠れている建物の影から眺められる場所へ必死に瞳を走らせると、セルアはすぐに見つかった。
町中を使っては広すぎると遊ぶ範囲を決めていた為、セルアは全体を見渡せる位置に腰を据えていたらしい。
少し遠いが蘭は大きく手を振ってみせる。とにかく気付いてもらわなければと、数度手を動かすとセルアが首を傾げながらこちらに向かって歩き始めた。現在の位置からではわからないだろうが、もう少し近づくとヘンリク王子一行にも気付くはずだと必死に動きで呼ぶ。
このままセルアはやって来ると感じられた為、蘭の瞳は再びヘンリク達へと向けられる。合流し次を考えなければと頭を悩ませ始めれば、ソニアがヘンリクらしき人物にぶつかった。
隠れ場所へ向かう事に集中し過ぎたのだろうか、ソニアが謝っているらしい動きが見えた。
するとその謝られている人物が剣を抜き、隣にいた男がおやめくださいヘンリク様! と大きな声を上げる。
「え……?」
蘭の感覚ではあのままソニアが謝罪し大人達が許す。それで全てはうまく収まると考えていた。しかし、目の前にある光景は程遠いものだ。
明らかに彼はソニアを斬ろうとしている。
このままでは、いけない。
それだけが脳裏に浮かび、蘭はとにかく駆け出した。
「やめて!」
眼前に振り上げられた刃におののき動く事ができないでいるソニアへ蘭が駆け寄り、小さな体を自身で覆うように抱き寄せる。
それと同時に衝撃が右腕に走り、蘭は顔を歪めた。
「ラン!」
遠くからセルアの呼ぶ声が聞こえたが、今の蘭には応える余裕などない。切りつけられた痛みを感じながら閉じた瞳を開き、目の前に立つ人物を見上げる。
まるで虫けらでも見ていると思えるような表情で、ヘンリクは蘭とその体で隠されたソニアを見下ろしていた。
長く伸ばした銀髪に紫がかった淡い色の瞳、整っているように思えるその顔は薄気味の悪い笑みを称えている為か酷く醜く思えた。たっぷりとしたコートから覗く腕は青白く不健康そうに細い為、本当に剣を扱ったのかと思える程だ。
細く吊り上がっている瞳が、更に鋭さを増し蘭を睨みつける。
「邪魔をするな」
こうも憎しみのこもった眼差しに蘭は出会った経験がなく、おそろしさにすぐには反応できない。
しかし何かしなければと必死に相手を見据え、ゆっくりと呼吸を繰り返し心を落ち着けようとした。
傷口は激しく痛み、血が溢れ腕を伝い地面へと滴っていく感覚がある。蘭はソニアを庇ったまま傷口を左手で抑えると、口を開いた。
「この子はぶつかっただけじゃない! 斬る必要なんてないでしょう」
ただふざけていた子供がぶつかっただけで剣を抜く、その感覚が蘭には理解できない。だが、向こうもこちらを理解する事はできないのだろう。
「私に触れる事は死に値する。それも知らぬか?」
くつくつと喉の奥で笑いながら、ヘンリクは剣の切っ先を蘭の目前に向けた。
傷口から溢れる温かいものの感触と痛みの事を考えながら、蘭は何も口にはできぬままにそれを見つめる。切れ味はすでにわかっており、このままどうなるのかも気付いてはいた。しかし蘭は逃げる事も立ち向かう事もできない。
いつの間にかたくさんの人が集まり蘭達を囲んでいたらしい。誰もがこの状況に心配そうな表情を浮かべてはいるが、声をかける事も行動を起こす事もできないでいる。蘭は正面にいるヘンリク達の隙間から見える者をわずかに認識しただけが、おそらく全体がそうなのだろう。
ヘンリクは周囲には興味も示さず、楽しそうに口元を歪めた後に告げる。
「命乞いはせぬのか……それもいいだろう。一瞬で楽にしてやる」
更に大きく口の端を吊り上げるとヘンリクの腕は高く掲げられる。太陽の光を浴び眩しいくらいに煌いた刃を見つめながら蘭は息を呑む。
「やめろ!」
そこに大声を上げて駆け込んで来たのはクロードだった。
蘭とヘンリクの間に飛び込むように現れたクロードは短剣を手にしており、振り下ろされた刃を受け止めている。細腕のヘンリクと屈強な体を持つクロードでは力に差があるのだろう。クロードは両手で握っていた短剣の柄から片手を外し、自身の衣服の中へその手を差込みながらヘンリクを鋭く睨み身構えた。
何が起こるのか、そう思った瞬間。
「斬るな!」
クロードが動くと同時にセルアの声が聞こえ、物凄い勢いで光の塊のようなものが二人の足元へ飛び込んできた。クロードとヘンリクの間で砂が激しく舞い上がり、周囲の視界を阻む。
そのわずかな間に蘭とソニアはセルアに抱え上げられ、大した距離ではないがヘンリクから遠ざけられた。
「ヘンリク様っ!」
従者が主を心配する声を上げ、蘭はセルアに抱えられた格好のまま事の成り行きを見守る。
砂塵に紛れたヘンリクを従者の一人が引き出し、クロードはただ立ち尽くし相手を睨みつけている。今は両の手に一つずつ短剣がしっかりと握られており、セルアの斬るなという発言は二本目に向けられたものらしい。
「クロード、こっちへこい」
呼びかけるセルアの声が聞こえているのかどうか、クロードは何も言わず微動だにしない。
数度繰り返し呼んだもののクロードが答える気配はなく、セルアは舌打ちをする。
「仕方ねぇ、おとなしくしてろよ?」
そう言うと蘭はセルアの腕から開放され、力なく地面にへたり込んだ。すでにソニアを抱えている力もなかった為に、小柄な少女も一緒に座り込む格好となる。
蘭の元を離れたセルアはシェラルドの者へ目を向けながらも、クロードの腕を掴み無理やり引きずるようにして戻って来た。
抵抗するのかと思えば、クロードは何を言う事もなく素直にセルアに腕を引かれている。どこかぼんやりとしている姿に、セルアが活を入れた。
「しっかりしろ!」
しかしそれにも応える様子はなく、クロードはただ立っているだけだ。
「クロード?」
蘭も心配になり声をかけたが反応がない。
どうした事かと思っていると、ヘンリクの声が聞こえた。
「術師か……」
五歩も近づけばぶつかりそうな距離に彼らはいる。剣を手にしたままのヘンリクを挟むように両側に二人ずつ男が立ち、こちらとヘンリク双方の動きを気にしているようだった。
従者に守られる形で立つヘンリクが、視線をセルアに向けた。
「身なりからここの民と思っていたが……ウィルナだな?」
語尾が上がりはしたが、確信しているらしい口ぶりだ。ただでさえ余り良いとは言えない目つきが、憎々しげにこちらを睨み付けてくる。
「アンヘリカとウィルナは随分と仲がよろしいらしい」
そう言うと何故かヘンリクは笑い出した。どこかおかしいのではないかと思う程に大きな声で笑い、それをしばらく続けると今度はつまらなそうに剣に目を落とす。
蘭の目には相手がどう行動するのかがわからず、セルアも身構えてそちらを見ているだけだ。
一体何をする? 誰もがそう思いヘンリクを眺めているらしい空間が続く。
そこで動きを見せたのはヘンリクを取り囲む従者達だった。四人全員が王子の肩や腕を抑え、まるで身動きをするなと言わんばかりの力ずくな様子を見せる。そして一人が言葉を向ける。
「ヘンリク様、お止めください。マティアス様のご意向をお忘れですか」
ヘンリクの瞳がやけにゆっくりと従者へ目を向けられ、力ない声がこぼれるように漏れた。
「……兄上の意向、か」
何か迷っているのか、その目は従者と剣の間を幾度も往復し静止を受け入れたようには見えない。
「ここはお引きください」
丁寧ではあるが有無を言わせぬ雰囲気を漂わせ、ヘンリクの腕を掴んだまま男は頭を垂れる。するとヘンリクは自嘲したかのような笑みを浮かべ、緩慢な動きで剣を納めた。
「先視み……か」
そして不機嫌そうな表情で帰ると言うと悠然と蘭達から離れ始め、ヘンリクの向かう先にあった人垣が自然と割れる。
こちらへの興味など一切失ったかと思える程に進んでいくヘンリクを従者達が追い、蘭はただ座り込んだままに呟く。
「助かった……の?」
決して急ぐ事なく歩いて行く姿を見つめる蘭の腕に、セルアが布を巻き付ける。傷をきつく締め付けられる痛みに蘭は顔を歪めた。
「今はじっとしてろ、まずはお前の治療だ」
そう言いながらセルアは蘭を簡単に抱え上げると、足早に歩き出す。
「クロード! お前もぼんやりしてねぇで、そいつを連れて帰って来い」
先程から何を言うでもなく立ち尽くしているクロードへ、セルアが振り向きながら話しかけた。
お姫様抱っこをされている蘭には、その様子を見る事はできない。特にクロードが応える声も聞こえず、むしろソニアが震える声で話しかけているらしかった。
「お兄ちゃん大丈夫?」
それに応える声も聞こえなかったが、セルアが黙々と歩みを進める為クロードがどうしているのかはもうわからなかった。
「剣に向かって突っ込むな、馬鹿!」
宿へ戻り、腕を水で洗われ包帯を巻かれた蘭はベッドへ横になっていた。
医者らしい人はいるらしく、二人が宿へ戻るとマルタが急いで連れて来てくれた。おとなしくしていれば命に関わる事はないらしい。
腕はじんじんと痛むが、血の量のわりに傷は深くないと診断された。傷跡は残るが後遺症はないだろうとの事だった。
そうして、人払いをした後のセルアの言葉である。
「とっさに動いちゃったんだもん」
本当に、ただ危ないと思いソニアを庇ってしまったのだから仕方がない。それ以上の説明は思いつかなかった。
起き上がっていても良い気がするが、セルアやマルタに寝ているようにとしつこく言われた為、蘭は仰向けでベッドにいる。首だけを右に向け、側で椅子に腰かけているセルアを見た。
「そうだったのはわかってる。でも言わずにはいられねぇんだよ」
大きく溜息を付きながら蘭の額に手を乗せ、優しく撫でセルアは続ける。
「代わりにお前が傷付いたら意味がないだろう? 俺だってクロードだっていたんだ。もっと違う方法もあった。次からはこんな事はするなよ」
セルアの辛そうな表情を目にした蘭は、とにかく少女が斬られてはいけないと考えなしに動いた自分を思い出し頷く。
「ごめんなさい。もうこんな事にならないようにする」
「わかってるならいい。後はある程度傷を治す事だな。明日に帰るのは止めて数日ここにいるからな」
アンヘリカにいるのは丸一日、そう決めていたのだが大丈夫だろうか。セルアには城内での仕事があるはずなのだ。最近は蘭の側にばかり来ているが、城内へ呼ばれる回数は多く不在は避けるべき状況にも思えた。
「大丈夫なの?」
蘭が聞くと、セルアは大丈夫だと言いながら笑みを浮かべる。
「傷口がある程度塞がるまではアンヘリカにいる。乗り合いは一度、御者だけでウィルナへ帰らせてユージィンにも知らせる。そうすりゃ何とかなるだろう」
おそらくユージィンが何とかするという事なのだろう。確かに今あの乗り合いに揺られるのはさすがに辛いと蘭は礼を口にする。
「ありがと」
「今は寝てろ、あと食えるもんは食え。血が足りねぇからな」
疲労を感じていた蘭は素直に頷くと瞼を閉じ、すぐ眠りに付いた。




