二章.止められた孤に灯る想い【一】(五)
「ったく、だりぃな」
クロードを屋敷の外へ出したらしいセルアがぼやきながら入ってくる姿を眺めながら、ソファに移動した蘭は聞いてみる。
「ねえ、この建物ってセルアの術がないと入れないんでしょ?」
「ああ。どうした?」
己の席にあぐらで座るセルアは、どうしてわかりきった事を聞くのかと眉を寄せた。
クロードは毎回セルアの許しを得て出入りをしている。そして、ユージィンやハンナも初めは何かしらの術を施されているらしいのだ。しかし蘭はそういったものを一切されていないように思える。
「初めてここから出た時に、セルアが扉を開けろって言ったじゃない? あれってもしかして……」
何気なく扉を示され開いた事を不思議に感じた理由にようやく思い至ったのだが、セルアの返答は簡単なものだった。背もたれに体を預け、当然のように言い放つ。
「お前が吹っ飛ぶかどうか確認しただけに決まってるだろ」
「やっぱり! あんなに酷い目にあうのに試させたの?」
勢いよく吹き飛ばされ地に叩きつけられたクロードは気を失ってしまったのだ。自分も同じ目にあうところだったのかと、声も自然と大きくなった。しかしセルアは特に悪かったと言うでもなく、気だるそうに髪をかき上げるばかりだ。
「仕方ねぇだろう? 俺だって見極めない事にはどうしようもなかったんだ」
「わたしもクロードみたいになるところだったんだよ?」
「ならなかったんならいいだろうが? 最初から中にいたんだ。おそらく大丈夫だとは思っていたぞ」
「後付けじゃないの? 吹っ飛んでも構わないと思ってたんでしょ」
どうしてこんな話をするのかと言いたげな表情のセルアに告げれば、鋭く睨みつけられた。
「知らねぇ奴にまで気を配ってられるか。お前は完全に不審者だったんだ」
「不審者って何よ! こっちだって知らない場所にいて驚いていたんだからね。今だってよくわからないままだし……」
「状況は変わってるだろうが? 俺もユージィンもハンナもいる。クロードは納得はいかねぇが会いに来るだろう? 自由に出歩けないのは不自由だろうが、あのまま放り出さなかっただけでもありがたがれ」
結局は蘭はこの世界を知らず、ユージィンやセルアによって留められなければ更に困った事態になっていたはずなのだ。現時点でも姫がいなくなり似ている自分がいたという理由があるからこそ、こうしてセルアと言葉をぶつけ合う事が叶っている。
「それもわかってはいるんだけど、納得いかない」
ようやく気付いた事実に不満を漏らせば、セルアは大きく溜息をついた。
「今の状態ならそんな事はさせねぇよ。お前だってこっちを警戒してただろうが」
「それは確かだけれど……なんか無理やり納得させようとしてない?」
「無理やりでもいいから納得しろ、あれがあったからクロードも入れなかったんだ。むしろありがたがっとけ。しかしクロードが入り浸ってるのが気にいらねぇ。こんなにしょっちゅう来やがって、俺が疲れる」
セルアの魔力はだいぶ回復したものの、いまだ万全ではないらしかった。一ヶ月以上とそれなりの時間が経っても戻りきらない魔力というものは、好きなだけ使えるわけではないようだ。
その為かユージィンにも仕事は程々にして休めと言われているらしく、アンヘリカへ向かう以前よりも頻繁にやってくる。別に自室でも構わないだろうとも思ったが、来なくなるのも寂しい気がした為、蘭も口にはしていない。
クロードへ術を施す回数が多ければ負担も増すらしく、セルアが不満を漏らすのも仕方がないのかもしれなかった。
「今日はそうでもなかったでしょ? すぐに帰ったし」
昨日のように一日中居座らなかっただけでも良いと言えば、セルアは渋面を作る。
「そりゃそうだが、俺はあいつが気にいらねぇんだよ。ユージィンはなんであいつなんかを受け入れたんだ?」
心底嫌がっているのがわかる口調ではあったが、好みではどうにもできない理由もあった。
「うーん、でもクロードがきっかけでアンヘリカとの間がうまくいきそうなんでしょ?」
「それはそうかもしれねぇがな。別に他の奴だって問題はねぇはずなんだよ。クロードにはアンヘリカで会えるだろう? はっきりとした理由が見えないんだよ俺には……だが、おそらくランもそう言うはずなんだ」
「姫様も?」
セルアは蘭を名で呼ぶ事がなく、姫のみに使っている。しかし、基本的には姫すらもあいつと表現している為、あまり名を呼ばないだけなのかもしれなかった。
「全てとは言わねぇが、ユージィンはあいつと気が合うんだよ。おそらく近い答えを出すはずだ。単に俺が国の事に興味が薄いってのもあるけどな」
クロードが嫌だと言いつつもユージィンの意見を受け入れた理由が見えたとは思えたが、理解しきれるものではない。
「なんだか不思議な感じ。セルアは姫様が生きてるってわかるんでしょ?」
先視みだ術だと見知らぬ力があるのだから、蘭は可能なのだろうと思い込もうとするだけだ。セルアにもそれは伝わっているのか、苦笑交じりの言葉を返される。
「不本意ながらな」
「そしてユージィンは姫様と考え方が似てるんだ? だから二人はここに出入りしているの?」
「そう言われりゃそうだが、他にも事情はあるんだよ。ったく面倒ばかりが増えやがる。静かに寝させろってんだ。しかしクロードだけは気に入らねぇ」
「別に今は害もないじゃない」
クロードが帰るとセルアは決まって苛々している。はっきりと文句を口にし、面白くないと態度にも表してくるのだ。最近は来れば騒がしいものの、大きな問題を起こしてはいない。今日もやるべき事をしろと言えば素直に帰って行ったのだ。
「そう言やそうだが、気に入らないものは気に入らない」
むすっとした表情でソファにあぐらをかく姿もだいぶ見慣れて来た。
蘭は気に入らないとばかり繰り返すセルアに思わず笑いながら立ち上がる。
「まあ、しばらくはこないだろうからいいでしょ? 喉乾いたから、何か持ってくるね」
自由に動ける場所は決まっているからと、最近の蘭はできる事は自分で行なうようにしていた。ハンナの仕事という部分もありはするが、茶の支度くらいは許される。
「なあ?」
セルアの座るソファの脇を通ろうと足を進めると同時に問いかけられ、蘭は何事かと立ち止まった。
「どうしたの?」
目前にいる少年を見下ろしながら聞けば、不思議な事を聞かれる。
「お前、俺をどう思ってる?」
ふいにセルアは立ち上がっている蘭の手を掴み乱暴に引いた。突然の事に体勢を崩しはしたが、どうにか踏みとどまる。
「何?」
急な行動に蘭は首を捻りセルアを見下ろし、手を掴んだままにこちら見上げる少年は口端を上げた。
何も答えぬセルアは少年が浮かべるには不釣合いな色気のある笑みを見せると、立ち上がりついと蘭の肩を手のひらで押す。軽い力ながらも的確にバランスを崩され、蘭は数歩後退し今まで座っていたソファに逆戻りする形になった。
座るというよりは背中から半ば倒れこんでいる格好なのだが、何故かセルアが蘭の顔の横に両手を着く事により、押し倒されているような状況ができ上がってしまう。
いや、今の状況を考えると押し倒されたが正解だろう。
さすがに蘭も危機感を覚え何とか押し戻そうとセルアの胸元を両手で押してみるが、意外にもびくともしない。セルアはだからどうしたと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。
「セルア、どうしたの急に?」
押しているばかりでも仕方がないと聞いてみれば、眉を寄せた表情で思いもしない言葉が返ってきた。
「あいつがお前にべたべたするのが気にいらねぇ」
「そんな理由? 挨拶代わりに最後に抱きついてくるだけじゃない? ハンナもしてくれたし、普通なんじゃないの?」
「違ぇよ。あれは誰にでもするもんじゃない」
「そうなの?」
今ひとつこの土地の常識がわからない蘭は、疑問に出くわす度に問うてはいる。しかし、聞いた相手はクロード本人であり、どうやら騙されていたらしい。
「知らないでやってるのはわかっていたが、正直面白くねぇんだよな。お前、クロードをどう思ってんだ?」
「友達になろうとしてるくらいだと思うよ?」
「まあ、そうだろうな」
「じゃあ、いいんじゃないの?」
「しかし、いい返事を待ってるのは確かだろ? お前がどうあれ向こうはそれなりに好意を持っていると考えるべきだ。アンヘリカの意志が読めるとかいう理由もあるが、今でも連れてこうとするくらいに気にしてんだよ」
可能性は零ではない、それを信じてクロードは蘭に構ってくれているという部分はある。
「……それは、そうだけど。ウィルナとアンヘリカの為にもクロードを屋敷に入れているのもあるじゃない」
蘭がアンヘリカへの出入りが自由である事は、ウィルナに大きな影響を与えるかもしれないとユージィンは言っていたのだ。本来ならばさらう原因となったクロードを受け入れるべきではないが、アンヘリカでの評価は大きなものになっている。そこを跳ね除けるよりは蘭を使って取り入るべきだと、確かに狙っているものがあるのだ。
「確かにそうだな。だが、それはそれなんだよ。あいつに触られてもお前は嫌がりもしないだろう?」
「別にあれくらいなら困らないじゃない? セルアもいるし何も起きないでしょ? セルアだってわたしの腕を掴んだりとかするじゃない」
決してクロードを特別扱いしている事はなかった。ユージィンは滅多に触れたりはしないが、セルアもハンナも触れる動作が多いのだ。蘭にはそれらの違いがよくわからなかった。
「俺は構わないだろう? 見た目もこの通りだからな。似ちゃいないが、せいぜい姉と弟といったところだ」
確かにセルアは随分と年下の為、異性という意識は薄い。
「少ししか変わらないけれど、クロードだって年下よ? それに抱きつかれるのも一般的じゃないなら次からやめてもらうし」
「早々に止めさせろ。しかしな、本当にそれだけか? 迷ってるんじゃないのか?」
何となくだが理由はわかったが、セルアは更に聞いてくる。
「迷ってる?」
「ああ、お前も少しは迷ってるってこったろ? 理由はどうあれクロードが側にいるのが嫌ではない」
しかし蘭の本音はこの世界での知り合いを失うのが嫌だから、クロードの気持ちを利用しているなのだ。
(クロードが好きとかそういう感じではないんだけどな)
蘭はどうしたら帰れるのかと情報を求め、あやふやではあるが契約文字を読めるというところに辿り着いた。クロードはそのきっかけとなった人物であり、更なる可能性があるのかもしれないと期待している部分があるのだ。
「わたしは帰る為にどうしたらいいのかを知りたいんだよ? もしかするとアンヘリカやクロードが何かに繋がっているのかもしれないじゃない。だから、ここに来てもいいと思ってるの」
いつか大きな結果を得られるかもしれない。わずかな可能性も逃さない為には、知り合った人物との間は良好に保っていたいのだ。自分自身が自由に動けないのなら、せめて周りにいる数を増やし情報仕入れられる環境を作りたい。
「ああ、それもあるだろうな」
「なら構わないじゃない」
目前にいるセルアはふざけてはいないらしい。真剣な眼差しをぶつけたままに言葉を続ける。
「今は、別に異性として見なくたって構わねぇだろうな。ただ、本当に先があるかもしれない」
「先が……ある? だって何とも思ってないんだよ? むしろ利用してるくらいなのに」
クロードがどうして自分を気に入っているのかはわからないが、蘭はそれすらもうまく使おうと考えていた。気にかけている部分は自分がいる理由を知るきっかけにならないかであり、異性である部分はあまり重要ではない。
「それもわかってる」
「じゃあ、どうして?」
まるで自分がクロードを好きになるとでも思っているように見え、蘭はとにかく聞く。するとセルアの目が更に不機嫌そうに鋭くなった。
「気に入らないもんは、気に入らねぇんだよ。可能性はあるだろう? お前には悪いが、もしかすると帰れないのかもしれない。そうしたらクロードを選ぶんじゃねぇのか?」
「え……?」
確かに絶対に帰れるという根拠はなく、蘭の中には常に不安が付きまとっている。しかしそれは最悪の場合であり、現時点では帰る為に動こうとしているのだ。
まさかそんな不確かな未来の為に押し倒されたのかと蘭は絶句する。
「なら、俺のものにならねぇか?」
挙句に俺のものなどというとんでもない台詞が飛び出した。いったい何が起きたのかと蘭は声を荒げる。
「ちょっと待って、そんな先の事わからないじゃない! あと、ほらわたし達年も離れているし」
年が近ければいいという問題でもないのだが、とっさに思いついてしまったのだから仕方がない。
実際に七歳差がある上に、蘭は十九、セルアは十二。蘭の常識の中ではありえない。
「なるほどな」
セルアは大した事でもないと思っているのか、笑みを浮かべ蘭の顔を覗き込んだままだ。
「なるほどなじゃなくって! ここではどうだかわからないけれど、私の住んでたところでは確実に駄目なの!」
こちらは焦っているのにも関わらず、目の前の少年は気にも留めずに問うてくる。
「どうしてだ?」
「どうしてって、セルアはまだ子供じゃない!」
「十二では若過ぎるって事か」
「そうなの! わたしよりも七つも年下じゃない。釣り合わないでしょ?」
何やらうまく言い含められるのではないか、そんな希望が見えてきた。なんとか笑みを浮かべるとセルアをどかそうと再び両腕に力を込める。
だが、それはあっさり掴まれ外された。更に仰向けになる蘭を跨ぐようにセルアの両膝がソファに乗った為、むしろ悪化したように思える。
「なら俺がお前より年上だったらどうだ? さっき年上の方がいいって言ってただろ?」
「え?」
セルアから意味のわからない事を言われ、蘭は目をしばたたかせる。
「年上って何よ?」
「俺がお前より年下なのが気に入らないのなら、年上だったら構わねぇって事だよな?」
それは、まるで年上になってやろうかと言っているようにも聞こえる。
そんな事はあり得ないと思いながらも、蘭は何故か聞き返した。
「な……にを言ってるの?」
「だって、そうだろ? お前は俺を子供だと言った。それが嫌がる理由なんだろ?」
目の前にあるセルアの瞳はまっすぐに蘭を見下ろしてくる。嘘を告げているようには思えない逸らせない程に真剣な瞳が迷いを呼ぶ。
「そうは言ったけど……」
「なら問題ない、お前が俺に戻れと願え」
どかそうとしていた事も忘れてしまった腕は解放され、セルアの両手は蘭の頬を優しく包むようにし、顔が更に近づいた。
「俺に戻れと願え、俺が年上になると思え」
「…………」
言葉も出せずに瞬きを繰り返していると、セルアに強引に抱きつかれた。十二の小さな体では蘭を包み込むとは言えないが、確かな温もりをぶつけられ戸惑いが生まれる。
「俺が大人になる姿を思い浮かべてみろ、見てみたいだろ?」
「セルアが大人になる? 戻る?」
その時、確かに見てみたいと蘭は思った。それは否定しない。もし、この子が大人になったらどのような容姿を持つのだろう? と素直に思ったのだ。
ただ、まさか本当にセルアが大きくなるとは考えていなかった。
そして、そのまさかが今目の前にある、らしい。抱き締められている為に全貌を知る事はできないが、蘭の体に当たる感触が違っている。そう、抱きつかれた程度に感じる大きさだったはずのセルアが、なぜか蘭をしっかりと抱き締めているのだ。
「これならどうだ?」
声変わりも迎えていない高い声はどこへいってしまったのか、低く甘い見知らぬものが蘭の耳元から吹き込まれる。
「は……?」
「さすがにこの姿で乗っかってるのはまずいだろうから、勘弁してやるよ」
ソファの上に二人で倒れ込んでいる格好から、一人起き上がったセルアらしき人物は立ち上がる。
腰に巻かれていた布を取り外し広げる姿を眺めながら、蘭は事態を把握しようとはするが思い浮かぶものはない。
「服だけは上手い事いかねぇんだよな」
確かに上半身の服は随分ぴったりと体に張り付き、ズボンは丈が足りていないように見える。
ユージィンの物と似ている黒のコートを羽織りながら呟く男は、釣り上がった碧の瞳を細めると腰を曲げた。
「これなら問題ねぇだろ?」
仰向けのまま見上げる蘭の顔を覗き込んだ表情は、意地悪そうに細められた瞳と軽く上がった口元が印象的だ。
全く違う人物のように見えるが、知らぬとは言えない雰囲気が彼はセルアであると訴えているようには思えた。
しかし、受け入れられるものではない。
「え……ええっ! はあ?」
何かを言いたいのだが言葉にならない蘭に、今度は満足げな笑みが向けられる。
「え?」
セルアは不機嫌そうにしているのがほとんどであり、笑みもどこか陰りが見えた。そして、満面と言えるような表情は全く見えず、いつも意地悪そうな雰囲気を称えていたはずなのだ。
(違う……人?)
別人なのではないかと感じる様子に驚けば、男は蘭の手首を強引に掴むと引っ張り上げる。
(やっぱりセルア?)
小さな手に引かれて歩く時に近い持ち方のまま、蘭はソファの上での体勢を正しいものへと変えた。
すると男は乱暴に隣へと腰を下ろし、何故か蘭の肩に腕をかける。
「このくらいだったら構わないだろう?」
そして、当たり前のように引き寄せられた。
寄りかかる格好になった蘭は、大慌てで体を起こそうとするが許されない。力強い腕ががっちりと肩を押さえているのだ。
「なんで?」
決して相手に向けた言葉ではなかった。突然起きた出来事に蘭はとにかく疑問だけを抱き、呟いてみただけだった。
どうしてこのような事態になったのかと思考を巡らせていると、不機嫌さを表す声がぼやく。
「クロードだって、べたべたしてるじゃねぇか。俺は駄目か?」
「いや……えっと」
いまだに何を言ったら良いのか、それを考える余裕がない。
(セルアなんだよね? でも、本当にそうかしら?)
向けるべき言葉も見つけられずにいると、随分と間近に顔が近づいた。
「どうした?」
覗きこんでくるセルアらしき顔を見た途端、蘭の顔は何故か赤くなってしまう。すると嬉しそうに目の前の人物が笑った。
「悪くない反応だな」
そして、そのまま顔が近づいてくると気付いた瞬間、蘭は咄嗟に腕を振るう。
「ちょっと待って!」
突然霧が晴れたようにぼんやりとした思考が動き出したのだ。容赦なく右の掌でセルア? の顔面を押し返す。
「いってぇ」
力加減もせず結構な力で叩いてしまった為、男は片手で顔を押さえ喚いた。
「痛ぇだろうが!」
それと共に押さえられていた肩の力が緩んだ為、とにかくソファの端へと逃れる。
そしてあまりにも普段と変わらない口調へ、蘭はようやく言葉を向けた。
「痛いじゃないでしょ! セッ、セルア? が悪いんだから」
「ん……確かにな。なんだよ、その疑問形は?」
叩かれた為に押さえた手を外した顔には、うっすらと手形の跡が見える。
「だって、どこか違う人みたいなんだもの。本当にセルアなんだよね?」
「ああ、そうだ。どう見たって俺だろう?」
当然だと言われるからこそ蘭も普通に話しかけはするが、やはりおかしさは拭えない。
「それがわからないの! 何でそんな事になるのよ?」
「なるんだから仕方ねぇだろうが? そんなに怒るなよ」
余りにも変わったこの姿は、別人。いや、癖のある金髪やこの表情、喋り方はセルアだとは思う。
はっきりとした理由はわからないままだが、蘭はとにかく不満をぶつける。
「あれだけクロードを怒ったくせに、今のはないでしょう? しかも何で大人になるのよ、非常識!」
「非常識とはなんだよ。俺にとってはこっちが普通なんだよ。ったく、本当にやっちまおうとか思ってないからな」
「本当に?」
「本当だ。さすがにあいつにあれだけ言ったのに無理やりってわけにもいかないだろ?」
「でも、今……」
キスされるかと思った。
蘭はそう言いきれず言葉を濁す。
それにセルアは乱暴に頭を掻いた。やはり見慣れた動きである。
「ん、俺としても予定外だな」
「何よ、予定外って」
「可愛い反応に、つい、ってこった」
その言葉に再び顔を赤くした蘭へセルアが笑う。
「それだ、それ」
「なにがそれよ! さすがにびっくりしたの。本当に大人になるなんて思ってなかったんだから! っていうか、その前の行動だって問題でしょ?」
自分でも顔が熱いのはわかる、でもこればかりは仕方がない。早く戻れと思ってもなかなか治まらず、蘭は構わないようにしながら話を続ける。
「びっくりしたの、本当にそれだけだから!」
「だったら、驚くだけでいいじゃねぇかよ」
セルアは余裕の笑みを見せると、こちらに体を動かし蘭の頬に触れた。
蘭はびくりと体を震わせ慌てて振り払うと、立ち上がってセルアから逃げ出す。
「もう何なの! わけわかんない。非常識! 急にあんなに近づかれたら誰だって驚くに決まってるの」
「悪い悪い、何もしないから落ち着いて座れ。普段通りだ、普段通り。いつもは気にしないだろうが?」
蘭の混乱をよそにセルアは随分と上機嫌な様子を見せる。謝ってはいるが、どうにも面白がられている気配が感じられた。
「だって、見た目が違うんだもの……」
「なんだよ? 見た目で差別するのか?」
「差別? 違うわ……これは区別なの!」
子供だと思っていた人物が急に大人になってしまったのだ。自分がおかしな反応をするのは当然なのだと蘭は言い放つ。
「なるほどな。まあ、悪くはねぇからいいか。本当に何もしないから座っとけ」
ソファの座面を叩きながらセルアは戻れと言うが、蘭は再度確認をする。
「ほんとに?」
「本当だ。無理に触ったりもしないから、座れ」
わざとらしく腕組みをするセルアに念を押した。
「言ったからね、何もしないって言ったからね」
再度確認をしながら蘭は隣に腰かける。視線はずっと腕組みをして座っているセルアに送り、警戒しながら眺め続ける。
するとセルアは声を出して笑う。
「面白過ぎるぞ、お前」
「セルアが悪いんじゃない! 何もなければこんな事しないわよ」
姿が変わるのならばせめてもっとわかり易くしてはもらえなかったのかと蘭がぼやくと、何故かセルアはばつが悪そうに髪をかき上げ、拗ねたように告げた。
「仕方ねぇだろ。俺としても一か八かってとこだったからな」
「何よその、一か八かって」
「色々あんだよ」
背もたれに体を預け足をテーブルに乗せる仕草は、行儀は悪いがセルアらしいものである。
(セルア、なんだよね)
いまだに信じきれないが、改めて目の前の人物を確認しようと蘭は視線を移動させた。
足首までもある長いコートを羽織っている為、服装は普段とは違う。しかし、いつものセルアがだぼつかせて着ていた衣服は確かにこの中にあるのだ。サイズが合わなくなった事を気にしながらこれを羽織ったのであり、蘭はしっかりと見ている。
浅黒い肌の色は変わらず、癖の強い金髪は少々長いようにも感じられるが髪型は同じままだ。瞳の色も碧ではあるが、すべてが大人になってしまっている為に印象は違う。
細い腕は筋肉のついた逞しいものになっているはずだった。目ではわからないが確かに蘭は抱き締められ、瞬間的に変化した感触を知っている。
「もう慣れちまったのか?」
何も言わずに見つめ続ける蘭にセルアは聞いたが、慣れるようなものではない。
「そんな事はないわ。今も悩んでいるところだもの」
「なるほどな。でも、これが俺だ」
口端を上げる仕草も見慣れたものであり、蘭はやはりセルアなのだと思ってはいた。




