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序章.夢じゃない世界(一)

「起きてください」

 気持ちよく眠っていた蘭は、妨げる声に不満を覚える。

(今日は休みなんだから、もう少し眠っていてもいいじゃない)

 ぼんやりとそう思い、首元までかかっていた布団を頭が隠れるまで引っ張り上げた。普段、寝坊をしようが気にも留めず放っておくはずの家族が何を今更起こしに来るのかと、中途半端な目覚めのままに新たな眠りを求める。

(なんか声色まで違うし)

 そこでふと疑問を抱く。

(声?)

 蘭が考えていた相手は母なのだが、今聞こえてきた声はどうも男性のように思えた。

 家族は両親のみであり、普段から自由に自室へ入って来るのは母だけだ。父は何か用事があれば扉越しに声をかけてくるはずであり、間近にいるなどありえもしない。

 第一、聞こえてきた声は父とは全く似ていない。

 布団を被ったままの覚醒しきらない頭が必死に動き出す。

 昨夜は普段と変わらず自宅で眠りに付いた。残念ながら蘭には現在付き合っていると言える男性はいない為、泊まりに行くという事もない。絶対にここは自分の部屋であり、耳に入った声の持ち主がいるはずなどないのだ。

「蘭、どうなされたのです? 体調が優れないのですか?」

 見えはしないが再び聞こえた声は、蘭の名を呼んだ上で体調すらも気遣っている。どうやらこちらを知っている人物のようだが、残念ながら声だけでは思い出せそうもない。

(何? どういう事?)

 まさか覚えもしないうちに誰かを家へ呼び込んでしまったのだろうか? それとも蘭が誰かの家へ入り込んでいるのか? 疑問ばかりが頭の中を回り続ける。

(でも、どこにも出かけてなんていないし……)

 我が家へやってきた誰かがいるのかと考えつつも、このままで疑問が解けるとは到底思えない。

 被ったままの布団のおかげで蘭の視界は闇しか見えないのだ。引っ張り上げる前は確かに光を感じていた事を考えると、室内は明るいはずだった。

(なんだか、この布団すら知らないような気がする)

 とにかく蘭は今布団の中にいるが、どうも感触が日頃馴染んでいるものではないようにも感じられてきた。この柔らかさは心地良いが、見知ったものとは言いがたい。

 思い切って声の主を確認するのが一番なのだろう。恐る恐る両手でかけ布団を掴むと、ゆっくりと動かし瞳を覗かせる。柔らかな光が飛び込んでくるかと思えば、何故か視界は暗かった。

 声をかけられたにも関わらず潜ってしまった為か、相手が覗き込むようにしていたらしい。

 蘭はその顔を見て驚く。

 さらさらとした黒い髪に透き通るような白い肌、そこにある穏やかそうな黒い瞳が心配そうにこちらを見つめている。随分と整った顔立ちではあるが、まったく見覚えがない。

「だ……誰?」

 おかしな事態だと考えてはいたが、どうやら想像以上の状況が目の前には広がっている。蘭の口から飛び出した言葉はそれだけであり、目の前の青年は一瞬不思議そうな表情を浮かべはしたがすぐに柔らかに微笑んだ。

「どうしたのです?」

(知らない人、だよね?)

 見知らぬ者へ向けているとは思えない表情に蘭は戸惑う。こうした笑みは信頼できる人物に向けるべきものであり、どうにも落ち着かない。

 こちらの反応を待っているのか覗き込んでいた格好を止めた青年の動きを追えば、自分はベッドに横たわっているらしいと知る。馴染んだシングルベッドよりもずっと幅のある布団の側に、青年が姿勢よく立っていた。

 黒に金の刺繍が入った長いコートのようなものを羽織っている事は確認できる。まるで芝居でもしているような服装が、蘭に更なる違和感を覚えさせた。

(変な格好)

 だがこれでどうやら自室にはいないようだと確信を持ち、ようやく聞くことができる。

「ここはどこでしょう……?」

 向こうは自分を知っているようだがこちらは全く覚えがないのだ。とにかく一つずつ質問をしようとすれば、青年は不思議そうに目を瞬かせた。

「貴女のお部屋でしょう? 蘭」

(わたしのお部屋?)

 名を呼ばれているからには、青年は蘭を知っているのだろう。しかし、自分の部屋と言われたものの違和感は拭えない。

 青年から視線を横へずらしてみると、見て取れたのは随分と広い室内に豪華な家具が置かれている事だった。

(全然知らない)

 ただ、彼が言ったように名は蘭なのだ。まるで顔見知りのように話しかけてくるが、蘭は彼を知らないとはっきり思えた。

「確かにわたしは蘭だけれど、この部屋は知りません。そしてあなたも」

 とにかくそう言うと体を起こし、寝ていたのはやはりベッドだったのかと思いながら立ち上がる。随分と大きな赤い絨毯が敷かれている床には驚いたが、まずは自分の姿だと確認すれば服装は寝る前に着替えたパジャマのままだ。

(やっぱり家にいたんだよね?)

 記憶は違っていないはずだと蘭がパジャマに触れていると青年が息を飲んだように思えた為、瞳は自然とそちらを向く。

 とにかく見知らぬ場所で見知らぬ人がいる状況だ。後ろをベッドに阻まれている為、数歩横へ移動し距離を取って青年と向かい合う。

 先程までの柔らかな表情を潜めた青年は、まず蘭の顔をじっくり見つめたかと思えば視線をゆっくりと下へ降ろして行き、足先まで見ると再び瞳を合わせてきた。

 まるで値踏みをされているような落ち着かない状況ではあったが、蘭もどうしようもない。とにかく相手は自分を知っているのだろうと言葉を待った。

 しかし、蘭の考えは間違っていたらしい。急に眉を寄せた青年は素早くこちらへ近づくと、突然腕を掴み身動きが取れないように後ろへ回された。

「とてもよく似ていますが、私の知っている方ではないようですね」

 声色すらも冷たくなった青年の手は蘭の両腕を後ろ手に掴んだままであり、出会った事のない状況にとにかく声を上げる。

「痛い、痛いってば! 何なの?」

 振りほどこうにも蘭の力ではびくともしない。動きの止められていない頭と足で抵抗を試みるが、背後からはただ冷めた声が聞こえるばかりだった。

「貴女は敵ですか? それとも、まさか味方とでも言うのでしょうか? 彼女と同じ顔で何を企んでいるのでしょうね?」

 優しい笑顔で接してきた為に気を抜いたのは間違いだったのかと、蘭は混乱したままに叫ぶ。

「ちょっと! な……にっ。やめて! やめてってば!」

「何とはどういった意味なのでしょう? 質問するべきはこちらであり貴女は真実を語るだけで構わないのですよ。被害者のような口ぶりはやめていただけますか?」

 どうやら相手の求めている言葉を返せなかったらしく、腕にぎりぎりと力が込められた。

「い、痛っ。ちょっと、待って! 敵とか味方とか何の事ですかっ。わたしはどうしてここにいるのかも知らないんです。あなたが何か知っているんじゃないですか? お願いだから離して!」

 とにかく自分の状況を告げるしかないと必死にわめくが、何故か鼻で笑われるような反応を得た。

「本来いるはずの人物がいなくなり、見知らぬ貴女がいる。さて、どういう事でしょうね? 彼女はどこにいるのです? 早く口にしてしまいなさい」

 こちらの発言など信用してはいないらしい。青年の声は蘭こそが理由を知っているのではないかと告げる。

(もうなんなの? 意味がわかんない)

 このままでは腕がどうにかなってしまいそうだと、蘭は泣き声交じりで訴える。

「それはわたしも聞きたい事です。家で寝ていたはずなのに何でこんな知らない所にいるのか! 本当に知らないの。ここはどこなの?」

 どうしようもない状況に蘭の瞳から涙が溢れるが、掴まれている腕の力が緩む事はない。

「気付いたら見知らぬ場所で寝ていたと?」

 そんなふざけた事があるかと言いたげな抑揚に、蘭は頭だけで思い切り振り向く。

 その瞬間、青年の瞳は何故か驚きで見開かれた。

 蘭自身、こんな話を突然されても信じられないだろう。しかし、実際にそうした状態になってしまっているのだ。信じたくないと言われても、信じてもらうほかはない。

「本当に自分の部屋で眠ったはずなのに、起きたらここにいたの! お願いだから信じてよ」

 背の高い青年を見上げながらも言い切れば、その瞳がどこか迷いを感じさせた。 

「信じられると思いますか?」

 しかし返ってくる言葉は否定であり、蘭はどうすれば相手の信用を得られるのかと思考を巡らせる。

(このままじゃ駄目。とにかく何かを言わないと)

 すると突然、扉を開く大きな音と共に新たな声が割って入ってきた。

「ユージィン! 遅いぞ」

 広い室内の為に蘭から扉までの距離は随分と遠かった。だが、相手を判別できない程ではなく浅黒い肌をした金髪の少年が現れたと認識はする。少々形は違うようだが青年のものと似た黒と金の衣服を着ており、腰に巻いた同色の布をはためかせながらこちらに近づいてきた。

 ユージィンと呼ばれた青年とその目の前に腕を掴まれ立つ蘭、二人の視線は少年へ向いており相手は勿論こちらを眺めている。

「なんだ?」

 訝しげに眉を潜めながら近寄ってきた少年はまず蘭を見上げ、次にユージィンへ視線を移した。

「誰だこいつ?」

「どなたでしょうね」

 ユージィンの素っ気ない返答を耳にしつつも少年の瞳は再び蘭へと向く。

 少々遠慮しても良いのではないかと思う程のぶしつけな視線に蘭がどうする事もできないでいると、何故か名を呼ばれた。

「蘭みてぇだな」

「そう思いますか?」

 しかしどうも知られているような物言いにも聞こえず、蘭はただ二人を眺める。

「見た目はな、それ以外は似ていない。だが、近いんじゃねぇか?」

 少年の発言にユージィンの顔色が悪くなったように見えた。

「近いとはどういった意味でしょう?」

「さあな、俺は勘で言ってるだけだからな。だが、こいつは蘭じゃねぇが蘭に近い。ところで、その蘭はどこにいる?」

 少年が辺りを見回す仕草から、この部屋には誰かがいたらしいと蘭は知る。

「ランっていう人がいたんですか? 私も蘭って言うんですが」

 とにかく話に割り込もうと口を開けば、二人の視線が一気に注がれたじろいだ。

「お前もランなのか?」

「は……はい」

 随分と年下に見える少年ではあるが、何故か圧力すらも感じてしまいおどおどと頷く。

「貴女もラン……しかし、随分と似ていますね」

「ああ、こんなに似ている奴がいるのかと思うくらいだな」

 確か先程もユージィンに似ていると言われたのだ。二人が呼ぶランという人物に蘭は似ているのだろう。しかし、近いとは何なのかとも思う。

 質問すべきかと口を開こうとした瞬間、少年は蘭の額に手のひらを合わせた。突然の事にびくりと体を震わせ首を引こうとしたが、少年は意地悪そうな笑みと共に告げる。

「別に酷い目に合わせるわけじゃねぇよ。じっとしてろ」

 何をしたのか全く分からなかったが少年はすぐに手を離し、今度はその手で自身の髪をかき上げた。

「やっぱり似てるってよりは、近いって感じだな。どういうこった? ユージィン、あいつは何か言ってなかったのか?」

 どうやら別人のランという人物の話がされているらしいのだが、口を挟めるような雰囲気でもない。蘭はただユージィンに腕を掴まれたまま、交互に二人の顔を眺める。

「そういえば、見えない時期があると言っていましたね」

 首を捻りながらの様子からユージィンにとっては曖昧な言葉らしい雰囲気が感じられたのだが、少年の視線が厳しいものへと変化した。

「見えない? あいつがそう言っていたのか? いつだ?」

「昨夜ですよ。限りなく近い先は見えない、しかし少し遠い先は見えるような気がする……と。意味がありそうですか?」

「なるほどな」

 随分と年上に見えるユージィンが敬語を使い、少年がぶっきらぼうに喋る姿は不思議な関係にしか見えない。だが、その蘭には全くわからない会話が二人には何かを与えたらしい。

 少年の瞳が鋭くこちらを見据えてくると、ユージィンも同じように蘭を眺める。

「お前がその限りなく近い先ってやつか」

「やはり、そうなりますか?」

「そうなるだろうな。ったくランの奴は肝心な事は口にしねぇからな。ユージィンもそれ以上は聞いていないんだろう?」

「ええ。しかし、ラン自身もはっきりとはわからない様子でしたよ」

 少年はただ言葉に対しての意見を述べているようであり、ユージィンは何かに対する不安を示すような表情を見せている。限りなく近い先という言葉が指しているのは蘭だとは言われたが、やはり意味がわからず困惑する。

 どういう事かはわからないが今ならば大丈夫だろうと口を開きかけた時、今度は掴まれていた腕が突然解放された。

「え……?」

 驚いて見上げるとユージィンは穏やかに微笑んでおり、急な行動にいったいどうしたのかと蘭は瞳をしばたたく。

「どうやら敵ではなさそうですね。痛かったでしょう? すみませんね。セルア、この方自身何故ここにいるのかはわからないようですよ」

 何がどうなって敵ではなくなったのかわからないが、状況は変化したらしい。

「知らねぇか」

 難しい顔をしているセルアを蘭が眺めれば、ユージィンが提案する。

「とりあえず、落ち着いて話す事にしましょう」


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