『sister/D to M』
・思いつきショートショートですがよろしければ。
・拙作『sister』の続編に当たります。そちらも【シリーズリンク】からご覧頂ければ幸いです。
親父が家に寄りつかない奴だと知ってから、妹は遠慮が無くなった。
と言っても、勿論悪い意味じゃない。実の父親とは言え、妹にとっては見知らぬおっさんだ。比較的年の近い俺よりも、余程緊張する相手であるのは間違いない。その相手がいないとなれば、自身の欲求を我慢する必要もない。具体的に言えば、周りを気にせず俺に甘えられる、と言うことだ。
妹と暮らす母親は仕事で帰りが遅いことが多かったから、妹はそれこそ毎日のように、学校が終わるや喜び勇んで俺のところへやって来た。勿論、ただ遊びに来ているわけではなく、十人中十人が想像するであろう通りの、通い妻状態である。
少しばかり引っ込み思案なところのある妹にしては、図々しいくらいの積極性である。勿論、俺にとっては歓迎すべき図々しさであるし、実に嬉しい甘えん坊っぷりである。
今日も今日とて、妹は俺の世話を焼きにやって来るらしい。
が、ただ待っているだけが兄の勤めではない。最近では、単車を転がし学校まで妹を迎えに行き、その足で買い物をして帰る、と言うのが密かなブームだったりする。勿論、俺に用事がない時に限られるが――……学校とバイト以外の用事は、ある方が珍しい俺だったりする。
要するに暇人なわけで。俺は今日も、校門から少しばかり離れたところで、単車を傍らに妹を待つ、妹想いな良い兄貴なわけである。
妹の行動はいつも決まっていた。校門を出るや、落ち着き無くきょろきょろと辺りを見回して、程なく俺を見つけるなり、
「――にーさーんっ♪」
なんて、辺りも気にせず、満面の笑みで俺の元へ駆けてくる。……まあ、何のことはない。今日もいつも通りだったと言うだけだ。
妹は運動神経があまり良くない。微笑ましい光景ではあるものの、勢いよく駆けてくる妹を見る度に、いつ転ぶか気が気ではなかったりもする。柄にもなく走るな、とは言っているのだが、言うことを聞きやしない。……まあ、それも可愛いところであるがゆえに厳しく言えない俺が悪いんだが。はい、兄馬鹿ですが何か。
しかし、『お約束』ってやつは期待を裏切らないから『お約束』なわけで、要するに、それは起こるべくして起きたことなんだが――俺の側までもう一息と言うところで、妹は盛大に足を引っかけた。うひゃあっ、なんて間抜けな奇声を上げる我が妹。何をやっているんだか。
とは言え、その『お約束』を随分前から予見していた俺としては、バネ仕掛けの玩具の如く咄嗟に飛び出すのも吝かではない。結果的には、妹が地面の野郎にキスをするのを防ぐことは出来た。……まあ、客観的に見た場合、それよりも恥ずかしい構図になっていることは否定しないが。
簡単に言えば、妹の華奢な体は、すっぽりと俺の胸の中に収まっている。見方によっては、妹が俺の胸の中へ一目散に飛び込んでいったように見えるだろう。妹もそれに気づいているからか、顔を真っ赤にして、正に茹で蛸状態である。
そんな妹を観察しているのも兄冥利に尽きると言うものではあるのだが、往来でいつまでもそうしているわけにもいかない。おかえり、と俺は笑いかけてやった。
妹は赤い顔をおずおずと上げると、
「……ただいまです、兄さん♪」
そう言って、えへへ、なんて嬉しそうに笑った。
そんなこっ恥ずかしい兄妹を、妹と共に校門を潜ってきた友人たちが、呆れたような笑みで眺めている。……程度の差こそあれ、これもいつも通りの光景ではある。
兄同様、交友関係のあまり広くない妹は、いつも同じ少女たちと連んでいる。彼女たちは所謂幼馴染みであって、俺の元に送られてくる妹の成長記録の中にも、必ずと言って良いほど登場していた。
……何故か不機嫌になるのであまり妹には言わないが、俺にとっては妹と同じくらい、親近感を感じる子たちだったりする。
だからこそ、挨拶がてら、悪いが今日も妹は頂いていくぜ! なんて言う軽口も叩けるわけだ。
……しかし、それに追従して妹まで、頂かれてくねー♪ なんて笑ってるのはどうなんだろう。悪影響も良いところだとは思うのだが――まあ、本人も友人たちも楽しそうに笑っているから良しとしよう。何より可愛いし。つーか可愛いし。
その後はいつも通り、単車の後ろに妹を乗っけて、夕飯の食材を買い込んで、俺の部屋へ、と言ういつものコース。背中に感じる妹の温もりとか、何が好きとか何が嫌いとか何が食べたいとか、そんな取り留めもない会話をしながらの買い物とか、妹と過ごす何気ない時間が幸福だと思う。そんな時間が永遠に続けばと思う。
……だけど、幸せな時間てのは長続きしない。そんなこと、俺は骨身に沁みて分かってる。妹と引き離されたあの日の痛みを忘れるわけもない。幸せを噛み締めている時にこそ、嫌なことってのは襲ってくるもんなんだ。
単車を停めて、買い物袋を片手にマンション前まで行った時だ。見覚えのある人影が、誰かを待つようにしてじっと佇んでいた。
うちのマンションはオートロックだから、解除キーを知らないと建物内に入ることすら叶わない。だから、そんなところで何するでもなく立っている人間なんてのは、大抵は部外者ってことになる。
そう、間違いなく部外者なのだが――俺は、そいつを……その女を知っていた。
「あら、出かけてたの」
なんて、馴れ馴れしく声をかけてくる女。正直うんざりはしていたが、今更引き返すわけにもいかなかったので、俺は無視して歩を進めた。
「相変わらずクールね。……そんなとこもお父さんそっくり」
いやらしい笑みを浮かべながら、そんなことを言ってくる。ふざけんな、とは思ったが、俺の神経をわざと逆なでしてくるのは、この女の常套手段だ。この女のペースに飲み込まれてはだめなんだ。
誰なんですか? と、背後にいる妹が控えめに問う声が聞こえたが、詳しく説明する気にはならなかった。
「ああ、ごめんなさい。お父さんよりクールでいい男よね。――今まで、いったい何人の女の子を泣かせてきたのかしら?」
無視を決め込んで横を通り過ぎようとした時、女は俺の耳元でそんなことを言った。
俺を親父と一緒にするんじゃねえ! ――と、気がついたら語気を荒げていた。普段なら我慢出来たかも知れないが、妹に変な誤解をされるのだけは我慢がならなかった。
正直やっちまったとは思ったが、一度振り上げた拳を引っ込めることほど滑稽なこともない。俺は、相変わらずのいやらしい笑みを浮かべる女を睨み付けた。親父のことは親父に言え、俺には関係がない。
「確かに、あなたのお父さんのことは好きだったわ。けど、もう昔のことだもの。今はあなたに興味があるの」
そんなことを言って、女は俺に歩み寄ってくる。――正直、俺にはこの女が何を考えて
いるのか分からなかった。
そもそもこの女は、親父が会社で手を付けた遊び相手の一人だった。詳しいことなど知らないが、しばらく前に親父に捨てられて、それから頻繁に親父を訪ねてくるようになった。勿論、親父はいつだって家にいないし、無駄なこと。……ここまでなら、まあいつものことだったのだが。
この女は、幾ら俺が無視を決め込んでも突撃訪問をやめてくれないもんだから、いつだったか、親父ならいねえよとっとと諦めて帰りやがれ、ってキレてやったんだ。そしたら、今度は俺につきまとうようになりやがった。
嫌がらせとか、実害のあることなら警察呼んでバイちゃっちゃってなもんなんだが、この女は引き際が上手いと言うのか、上手い具合に間を開けて現れるし、こっちが本気でキレる寸前で引くタイミングを心得ているから、うやむやの内に今日まで来てしまった。元をただせば親父が悪いわけだし、出来れば手荒なことはしたくないってのもあるし。
……あと、何だかんだ言っても、この女は年上の美人であって、俺は年頃の男子であるわけで。事実として、危うく貞操を奪われそうになったこともあったりなかったりなわけで。それが、相手を調子に乗らせる原因になったのも否定は出来ない。
とは言え、付きまとわれることが迷惑なのは変わらなかったし――何より、どこまで行っても、振られた相手の息子に言い寄るこの女の神経が理解出来なかった。
「あら、今更そんなこと? いい男と付き合うのに、親がどうとか振られた相手がどうとか、関係ないでしょ?」
事も無げにそんなことを言ってくる。やっぱりだめだ。こんな女は理解出来ない。
「だぁかぁらぁ~、これから理解し合うんでしょお~?」
冗談だろ。徒労に終わるわそんなもん。
「何事も経験よ♪ 今付き合ってる子とかいないでしょ? ちょっと試しに遊んでみてよ。今なら、お試し価格にしとくから……」
だあああああ! そう言いながら顔を近づけてくるんじゃない、離れろ、馬鹿女! ――そう、胸中で悲鳴を上げた時だった。
どんっ、と言うふいな音。同時に、きゃあ、なんて声を上げながら、女がよろよろと数歩ばかり後退った。
見れば、女と俺の間には、華奢な肩を精一杯に怒らせて、微かに息を荒くした妹の姿。……どうやら、女は妹に突き飛ばされたらしかった。
何なのよ、などとぼやく女。俺は、妹の思わぬ行動に眼を丸くすることしか出来ない。
「――このヒトに……触らないで下さい」
静かな、けれどはっきりとした声で妹が言った。
「いい男だからとか……ちょっと試しに、とか……そんなの、変です、おかしいです。ヒトを好きになるのって、そんな軽いことじゃないっ……そんな簡単でいいことじゃないですっ……そんな……そんな理由で、そんな理由でこのヒトに触らないでっ……!」
ふいに割り込んだ妹に、女は一瞬呆気にとられたようだったが、すぐに気を取り直すと、必死に歯を食いしばる妹に、子供ね、と笑った。
「子供……かも知れません。……我が侭、かも知れません。でも、それでも、わたしは――……このヒトに触れて良いのは、わたしだけだって……そう、思いたいんです」
泣き出す寸前の声で絞り出すように言った妹に、女はやれやれと言った様子で肩を竦めながら、この子誰? と俺を見た。
何て答えるべきかな、なんて打算的なことを考えたのも事実ではあるが――その答えに至ったのは、ごく自然なことだったように思う。
――この子は俺の彼女だよ。そう言って、妹を背中から抱きしめてやった。
嘘でしょ? と女が声を上げた。
「どう見てもこの子、十四、五くらいじゃない。あたしに靡かないくせに、こんな子供と付き合ってるって言うの? ロリコンじゃあるまいし」
自分で分かってるんじゃん、俺があんたに靡かない理由。とっと帰れよおばさん。そう言ってやったら、女は見る間に顔を赤くした。正に般若の形相と呼ぶに相応しい表情。
それが何だかおかしくて、お前も何か言ってやれ、と妹に促してみる。ちょっとした悪ふざけのつもりだったのだが、
「えっ? え……えと……その――こ、このヒトはわたしのかっ、彼氏っ、なのでっ、えとっ……お――おばさんっ、わっ、とっとと、帰って、下さいっ……!」
予想外に辛辣な妹の言葉。引っかかりながらの拙い言葉だったが、効果はあったらしい。悔しそうに歯ぎしりしながらも、女は競歩選手さながらの速度で去っていった。
そんな光景がおかしくて、俺はいつの間にか声を出して笑っていた。妹には何が何だか分からない様子だったが、それも含めておかしかった。
不思議だ。本当なら吐き気を催しかねないバッティングだったと言うのに、妹がいるだけで、愉快な出来事の一つになってしまうんだから。
――後になって。何で俺のことを『このヒト』なんて言ったのか尋ねてみた。妹自身良く分かっていなかったようで戸惑ってはいたものの、
「……あの場では、『兄さん』て呼びたくなかったんです。あの女の人に兄さんが『兄さん』だって知られるのが何だか嫌で……悔しい、って言うのかな」
そんなことを言った。なるほどな、と思った。要するに、我が愛しの妹君は、彼女に一人の女として張り合いたかったってことなんだろう。……何となく分かる。俺にも、そんな気持ちが無いわけではないから。
けど、それを認めてしまうのは兄としての沽券に関わってくるし、何より、気恥ずかしいから。兄さんこそ何で彼女だなんて言ったんですか――なんて言う妹の問いは、はぐらかしておくことにしよう。
いつかきっと、告げるべき時は来ると思うから。
……その日までは、どうか良い兄貴でいさせてくれ、妹よ。
※『D to M』=『Desire to monopolize』