萌える構造の影、痛み、数え
問題は、作者がどのような人間なのかではない。
作者が差別主義者なのか。悪意があったのか。ロシア文化をどれほど理解していたのか。私はそれを知らないし、断定するつもりもない。
ここで問いたいのは、もっと単純で、もっと逃げ場のないことである。
この作品は、何を「かわいい」として読者に差し出しているのか。
『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』のヒロインは、ロシア語ならば主人公には伝わらないと思って、本音を口にする。彼女にとってロシア語は、普段は隠している感情を、相手に知られず外へ逃がすことのできる言葉である。
ところが主人公は、そのロシア語を理解している。
そして、理解していることを彼女に告げない。
ここにあるのは、単なる「すれ違い」ではない。二人が同じ情報を持ちながら誤解しているのでもない。一方だけが相手の認識の誤りを知り、その誤りによって得られる親密さを享受し続けている。
彼女は、自分の言葉が届いていないと信じている。
主人公は、それが届いていることを知っている。
読者もまた、主人公と一緒にその言葉を受け取る。
この三層構造によって、読者は主人公と同じ側に置かれる。私たちは彼女の信頼を裏切っている本人ではない。しかし、彼女が知らないまま開示している感情を、主人公と共有して楽しむ位置には立たされている。
ロシア語は、彼女を守る言葉ではなくなる。
彼女の知らないところで開かれた覗き穴になる。
少数者の言葉が、本人のものではなく、多数者のための字幕に変えられている。
ここに、この構造の救いようのなさがある。
仮に、留学先にいる日本人の少女が、日本語なら周囲には分からないと思って本音を話していたとする。ところが現地人の男性は日本語を理解しており、そのことを隠したまま、彼女の羞恥や好意や弱音を聞き続けている。そして作品が、その一方的な情報格差を「異国の少女のかわいらしさ」として売り出していたとしたら、私たちは同じように笑えるだろうか。
笑えないとすれば、元の構造との違いは何なのか。
登場人物がロシア人だからか。日本の読者にとってロシア語が十分に遠く、十分に分からず、意味より先に「異国的でかわいい」という記号として見えるからではないのか。
分からない言葉だから、消費できる。
その言葉を生活の中で使い、その言葉によって家族と話し、その言葉の中に記憶や痛みや安心を持つ人間の姿を想像しなければ、言語はいくらでも無害な装飾にできる。出自も、容姿も、文化も同じである。具体的な人間から切り離された属性は、多数者の物語を彩る便利なギミックになる。
これは、ブラックフェイスや「マジカル・ニグロ」とまったく同じ表現だという話ではない。歴史的背景も、暴力の深度も異なる。
しかし、少数者の属性が当事者自身の生から切り離され、多数者の快楽や成長や恋愛を成立させるための装置になるという点では、同じ方向を向いている。
そして、この問題は「二人は結局両思いなのだからいい」という言葉では救えない。
好意は、同意ではない。
のちに恋人になることは、過去の秘密の開示に遡って許可を与えることではない。彼女が主人公を好きであることと、主人公が理解していると知ったうえで同じ言葉を口にするかどうかは、別の問題である。
もし知られても同じように話すというなら、理解できることを告げればいい。
告げた瞬間に話さなくなる可能性があるからこそ、告げないという選択が物語上の利益を生む。つまり、このギミックは彼女の自由な選択を尊重することによっては成立しない。彼女から判断材料を奪い続けることでしか維持できない。
秘密を明かせば壊れる親密さを、秘密を明かさないまま「親密さ」と呼んでいる。
それが、この構造の本質である。
作品はそれを暴力として描かない。裏切りとしても描かない。むしろ、主人公だけが知っているヒロインのかわいい本音として、繰り返し読者への報酬にする。
だからこそ深刻なのだ。
露骨な侮辱なら、多くの人が立ち止まれる。だが「かわいい」という感情に包まれた搾取は、搾取として認識されにくい。ヒロインが魅力的に描かれていることさえ、その構造を免罪する材料に使われる。
愛されているのだから、尊重されているはずだ。
かわいく描かれているのだから、差別ではないはずだ。
けれど、愛玩と尊重は同じではない。
人は、相手の尊厳を想像しないまま、その属性だけを愛でることができる。
私は、作者に謝罪を求めたいのではない。読者に作品を楽しむなと命令したいのでもない。ただ、この物語が何を代価にして快楽を作っているのかを、見えないままにはしておきたくない。
ヒロインの言葉は、最初から読者のために存在していたのではない。
彼女が届かないと信じたからこそ、口にできた言葉だった。
その信頼を利用して聞き取り、秘密を知る側だけが満足し、それを異文化恋愛の魅力として商品にする。そこでは少数者の言語が、ひとりの人間の内面を守るものではなく、多数者が安全な場所から覗き込むための装置にされている。
この構造には、救いがない。
なぜなら、救おうとするなら、彼女に選択権を返さなければならないからだ。
理解していると告げること。
欺かれていたと知った彼女が怒ること。
関係が壊れる可能性を引き受けること。
そのうえで、もう一度二人が言葉を交わすこと。
そこまで描いて、初めて親密さは対等になりうる。
それをしないまま続く「かわいさ」は、彼女のものではない。
彼女から奪った言葉を、主人公と読者が分け合っているだけである。
私たちは、属性の違いで、絶望したくない。
私はロシデレが嫌いだったのではない、怖かった。
Надежда умирает последней.




