第3話 何てことはない日常
起きて最初にやることと言やぁ、ヤニを吸うことだ。
枕元に置いてる硬木製のパイプ──もう10年以上は使っている代物だ──を手探りで掴むと、上半身を起こしながら口にくわえる。
昨晩の燃え差しに火を点けりゃ、苦味と酸味の混じった煙が、舌の上に広がっていく。
最高に不味い。
「…………あー」
気の抜けた声と一緒に吐き出した煙が、涎みてぇに無精髭にまとわり付いてくる。
親指と人差し指で顎を擦れば、ジョリジョリと硬い音がする。
流石にそろそろ剃らねぇとな。
「あークソ。頭痛ぇ……」
気だるさと、頭の芯を突かれるような痛み。たぶん、ちゃんと眠れてねぇからだろう。
パイプの焦げた葉の臭いが、昨晩の気配を覆っていく。
酒の匂い。安い香水と化粧品の匂い。汗の匂い。
昨日はあの葬儀を終えた後、着替えてから馴染みの娼館に行ったんだっけな。で、そのまま一晩、て訳だ。
弔いの後は、無性に女を抱きたくなるときがあるんだよ。
理由は……んなモン考えたくもねぇ。葬式の禁欲明けでムラつく。女を抱く動機なんざ、そんな単純なモンでいいじゃねぇか。その方が『俺』らしいだろうがよ。
思考を遮るように、もう一度パイプから煙を吸う。
さっきよりもヌルい、苦味の増した煙。やっぱり、不味い。
「本当にひどい顔ね。女と寝た次の日くらい、満足げな顔したらどうなの?」
さっきまで隣で寝息を立ててた女は、いつの間にか起きてやがった。
ハンナ。俺の馴染みの娼婦だ。確か、まだ30にはなってなかったか。
「おまけに何なのよ、その目の下のクマ。しかもこの世の終わりみたいな顔してるし。アンタのその辛気臭い顔を寝起きに見せられるこっちの身にもなって頂戴」
女にしちゃあ少しだけ低い声。トゲのある言い方だが、これがコイツの『いつも通り』だから仕方ねぇ。
「残念だが、辛気臭ぇ顔は生まれつきなんでな。見たくねぇなら目隠しでもしてろ」
パイプの火はいつの間にか消えていた。
まだ口の中に残る煙の匂いを、盛大なため息と一緒に吐き出す。
「どうせまた、何か小難しいことでも考えてたんでしょ? 眉間にキツめにシワ寄るの、アンタの癖だもの」
コイツは意外と人を見てやがる。いや、娼婦だからこそ、かもな。
「止めときなさいな。アンタ一人が考えてグダグダやったところで、世の中なんて何も変わりはしないんだから」
まあ、そりゃそうなんだがよ。
「お前みてぇに割り切れりゃ、よっぽど楽なんだがな」
「割り切れなきゃやってられないわよ、この商売は特にね」
横目でハンナを見りゃ、俺に背を向けていた。
「嫌な客だって相手しないといけないし、殴られることだってあるんだから。おまけに、金払いは良いけど辛気臭い男だってたまに来るし」
「最後俺じゃねぇか」
間髪入れず突っ込んだ直後、ドアの向こうからデカい音が響いてきた。
あれは、廊下に置かれてる柱時計の鐘の音だ。てことは、もう昼か。
俺はベッドから抜け出すと、床に散らばってる服から俺のものだけ拾い上げていく。
くわえたままのパイプから灰がこぼれそうになるが、別に気にしねぇ。どうせ火は消えて冷めちまってるんだ。掃除だって、コイツがやる訳じゃねぇし。
「帰るの?」
「ああ。明日の準備やら用意やら何やらがあるからな。ギルドに書類も出さなきゃならねぇし」
下着を穿きながら、ハンナの問いに答える。
無味乾燥な受け答えだが、こんくれぇで丁度いい。所詮は金で繋がってるだけの関係なんだから、個人的な感情なんてモンは重すぎる。
「冒険者って仕事も、中々面倒なのね」
「面倒なのはお互い様だろうが。楽な仕事なんてモンがあるってんなら、今すぐ教えてくれや」
ズボンを引き上げながら答えりゃ、ハンナの動きが止まったのを背中越しに感じた。
ポケットの中には、昨日フューネに渡された指輪の感触がある。
「……それもそうね」
一々見るつもりはねぇが、もしかして笑ってやがる、のか?
服を着終えた俺。前払いの代金とは別に、銀貨を2枚テーブルに置く。
「じゃあな。次来るときまでは生きてろよ、クソ女」
「アンタこそ。野垂れ死ぬんじゃないわよ、クズ男」
壁に立て掛けていた無骨な金属製の杖を手にして、俺は部屋を出て行った。
廊下の床板がギシリと鳴る。
俺は振り向きはしなかった。
逃げ場ってのは、逃げるときに用意されてるから逃げ場になる。
また逃げ込めるように、どれだけゴミでもカスでも戻らねぇとな。現実ってモンに。
外に出りゃ雨が降っていた。雨っつっても、ほとんど霧に近い面倒なヤツな。
真っ昼間のはずなのに薄暗くて、おまけに見通しも悪い。
普段なら、通りには人が溢れ返っているような時間だ。だが、今日は人っ子一人歩いちゃいねぇ。
傘なんて持ってる訳がねぇ俺は、外套のフードを被って、娼館の軒下から一歩踏み出した。
生暖かい空気と少し冷たい霧雨。無精髭の隙間に水滴が溜まって、顎の先から滴り落ちていく。
いつもは露店が並んでるが、今日は流石に出てねぇ。商店にも客の姿はほとんどねぇみてぇだ。開店休業。商売上がったりだな。
ふと顔を上げりゃあ、迷宮城砦の姿は雨煙に遮られて、輪郭が薄ぼんやりと判る程度だった。
静かだ。
細かい雨が外套のフードを打つ音で、耳の中が一杯になる。
まるで、俺だけが世界から切り離されたような錯覚すら感じちまう。
……あの時もこんな雨が降ってやがったな。
俺の親友が──行方不明になった日。
遺体すら帰って来なかった親友を、俺は弔うことが出来なかった。
知らず知らず立ち止まっていた俺を現実に引き戻したのは、腹の虫の音だった。
そう言やぁ半日以上、何も食ってなかったな。情けねぇが、誰にも聞かれてねぇだけまだマシか。
ギルドに向かおうとしたその足で手近な酒場に入る。中は、冒険者らしき連中で大方の席は埋まっていた。
静かでもなけりゃ賑やかでもねぇ。活気があるともまた違う、間延びしたような空気。店の中は外よりも更に暗くて、小声のしゃべくり合いが、まるで虫が這い回る音のように聞こえてきやがる。
雨が上がるのを待っているだけのだらけた連中。俺にそう思われてるなんてのを知ったら、コイツらどんな顔をするんだろうな?
店の主人を捕まえて、とっとと注文する。豆と肉の煮込みと白パン。銅貨20枚。
席に着く気すら起きなかった俺は、さっさとメシを食ってさっさと酒場を後にした。
メシは美味かったと思う。だが雰囲気は最悪だった。俺に言われるくれぇだから、よっぽどだ。
あの店、今度は晴れた日の人が少ねぇ時間帯に行ってみるとするかね。
ギルドに着いた頃には、雨はすっかり止んでいた。まあ、雲はまだ残ってて薄暗ぇんだが。
ご多分に漏れず、ここも人は少ねぇ。冒険者っつう職業にとっての一番の敵は、魔物でも同業者でもなく、天気なのかもな。
「よお」
軽く手を挙げて、受付のエイミーに声を掛ける。暇だったのか、嬢ちゃんはアメを舐めてたようだ。
そういうのに無駄にうるせぇ奴もいるから気ィ付けろよ?
「あ、ゴオトさん、こ、こんにちは。何かご用ですか?」
少しばかりの動揺が垣間見えるエイミーの口調。言葉と共に、柑橘系の匂いが鼻に届く。よく見りゃ、カウンターの隅には包み紙が落ちてら。
俺は別に何も言わねぇが、他の連中が来る前に早く食っちまえ。
「明日の分の書類出しに来たんだ。こっちが立入申請書で、こっちが潜行届な」
鞄から取り出したは良いものの、少し湿ってるな2枚とも。
実を言うと、申請書すら出さずに迷宮城砦に潜っちまう奴等はかなり多い。盗賊とか追い剥ぎとか、そういう真っ黒な類じゃねぇ普通の冒険者でもな。
ギルドもこの街の役所連中も、書類の提出は『努力義務』にしちまってるんだから仕方ねぇ。
じゃあ何で俺は毎回一々出してんのかってぇと、まあ、保険だな。迷宮城砦に限らず、ダンジョンの中では予測不能な事態は起きるモンだ。
「はい、ありがとうございます。立入申請書と潜行届、確かに受理しましたので」
エイミーはいそいそと立ち上がると、近くの棚から綴じられた紙の束を2冊取り出す。
……おいおい。ちゃんと乾かしてから綴じろよ。
そう言やぁ、潜行届といえば。
「一昨日ちょっくら話したんだが、あのうるせぇガ…………ジュリアの奴、ちゃんと潜行届出しやがったのか?」
出してねぇんだろうな、たぶん。
「あ、出していただきましたよ。ゴオトさん以外に出す方ってほとんどいないから、珍しいなって」
あのガキにしては珍しいこともあるもんだ。コイツぁ雨が降るかもな。いや、もう降った後か。
「ほら、この通り」
言いながらエイミーは、紐で綴じられた薄っぺらい紙の束の一番上を見せてくる。
確かに提出者はジュリア名義で、代表者はパーティのリーダー──確かギルとかいう名前だったなあの坊主──になっている。
だが、俺は少しだけ引っ掛かりを覚えてしまった。本当に、ほんの少しだけ。
「で、帰還の報告には来やがったのか?」
潜行届を出した場合、ちゃんと無事に戻ってきたことを報告しなけりゃならねぇ。これもたぶん、潜行届を出したがらない冒険者が多い原因の一つなんだろう。
「あ……。そういえば、まだ、ですね。もしかすると忘れてるのかも?」
嫌な予感がした。
今気付いたが、今日はあのうるせぇのに一度も遭遇してねぇ。街を歩いてりゃ、俺の姿を見つけた瞬間に空気も読まずに声掛けてきやがるってのに。
振り向いてギルドの中を軽く見渡してみるが、ジュリアの姿も、アイツが組んでるパーティの面子もいやしねぇ。
改めて潜行届に視線を戻せば、帰還予定は昨日の夕方になってやがる。
腹の中に、何か重たいモンが渦巻いてきた。イライラするっつうか、落ち着かねぇっつうか。
クソ。何を考えてんだ俺は。
「…………済まねぇが嬢ちゃん」
止めろよ、俺。
本当に何考えてんだ。
そんなことしたって、誰にも感謝なんざされねぇんだぞ。
「急ぎで今からの立入許可申請してぇんだ」
言っちまった。
エイミーは驚いたような顔でこっちを見てる。
「あ、はい、その、じゃあ、こちらの書類に一応……」
エイミーの声は、半分頭にまで入って来なかった。
何で言ったんだっていう自問自答。それと、知ってる人間の遺体なんぞ回収するハメにゃなりたくねぇっていう『言い訳』。
でも、たぶんどっちも違う。
繰り返したくねぇんだ、俺は。
「あ、これで結構です。さっきのと併せて出しておきますね」
上の空でも書類って意外と書けるモンなんだな。結局、記入した以上は行くことになっちまったが。
改めてギルドの中を見回せば、やっぱり人は少ねぇ。何があるか分からねぇから、助っ人は欲しいところだが……。
あ、一人だけ顔を知ってる野郎がいた。
併設の酒場の片隅で、ボーっとしてやがる兄ちゃん。一昨日、俺のこと色々言ってたなコイツ。
「おい、そこの戦士の兄ちゃん!」
俺が声を掛けりゃ、そいつは岸に打ち上げられた魚みてぇにビクッて動いた。
「テメェ、名前は?」
あからさまに迷惑そうな表情。絡まれてるとか思ってんのか?
「ア、アレフだが……」
「アレフ、急で悪ィが俺についてきてくれや。駄賃なら先にくれてやる」
言いながら、銀貨3枚をテーブルに置いた。『駄賃』にしては高過ぎる気もするが、まあ、人を動かすには何よりも金だからな。
念を入れるなら、一人よりも二人の方がいいに決まってら。
アレフは一瞬迷ったような顔をしたが、思い切りイヤそうな表情をしながら銀貨を右手で掴んだ。
「交渉成立、だな。じゃあ行くぞ。迷宮城砦第2階層の17号区画だ」




