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元公安のエース、中学校に通う

「これ……本当に俺の顔なのか?」


薄暗い病院の個室。ベッド脇の全身鏡に映る姿は、どう見ても中学生の少年だった。つるりと輝く肌、透明感のある大きな瞳、ほっそりした体躯。だが、最も衝撃的なのはその小ささ――身長は160センチに届かず、細い腕には少年らしい柔らかさが残っている。とてもじゃないが、つい数ヶ月前まで公安の暗部で命を削り、国際テロ組織「シャドウ・シンジケート」を壊滅に追い込んだ男――コードネーム「ファントム」こと黒崎悠真、33歳の姿とは思えない。


悠真は鏡に近づき、震える指で自分の頬をつついた。柔らかい感触が、まるで現実を嘲笑うように返ってくる。だが、視線は顔から下へと移り、愕然とした。かつて180センチを超える屈強な体躯で戦場を駆け抜けた男が、今は小柄な少年だ。身長が20センチ以上も縮んでいる。


「ふざけるな! このガキの姿……しかも、身長まで縮んでる!?」


悠真は鏡を叩き、拳を握り締めた。鈍い音が響くが、ガラスはびくともしない。180センチの威圧感ある体は、公安のエースとして敵に恐怖を与える武器だった。潜入任務では堂々とした体格で相手を圧倒し、戦闘では長いリーチで敵を制圧した。それが、今は158センチ。まるで、戦士としてのアイデンティティを根こそぎ奪われた気分だ。


病室のドアが静かに開き、白衣の医者が入ってきた。五十代の落ち着いた男で、名札には「山本」とある。後ろには、スーツに身を包んだ公安の上司・佐藤が控えている。二人とも重苦しい表情で、まるで死刑宣告を下す判事のような沈黙をまとっていた。


「黒崎さん、落ち着いてください。あなたは約1年もの間、ずっと意識不明だったんです。iPS細胞による再生治療は成功しました。全身の損傷は完全に修復され、身体機能は以前を凌駕するレベルにまで回復しています。しかし……」


「しかし、なんだ! この中学生みたいな顔! それに、この身長! 俺、180センチあったんだぞ! 20センチも縮むってどういうことだ!?」


悠真の叫びに、山本医師は目を伏せた。手に持ったタブレットを握りしめ、声を低くして続ける。


「治療の過程で、細胞の若返りが予想を遥かに超えて進行してしまいました。現在、黒崎さんの外見年齢は14歳前後、身長は158センチです。骨格や筋肉も少年期の状態に再構築されており、元に戻すのは……現時点では不可能です」


「158センチ!? 14歳!? 俺の19年分の人生、身長まで奪われたのかよ!」


悠真はベッドのシーツを握りしめ、震える声で吐き出した。180センチの体躯は、任務でどんな危機も乗り越える自信の象徴だった。それが、今は子供のような体。怒りと屈辱が胸を焼き、喉を締め上げる。


あの任務――国際テロ組織「シャドウ・シンジケート」の壊滅作戦。敵のアジトに単身潜入し、爆発物の起爆装置を解除する寸前、罠に嵌った。全身を炎に焼かれ、骨まで砕けるような衝撃が襲った。意識が闇に落ちる直前、仲間の叫び声がこだました。


「ファントム、逃げろ!」――それが最後の記憶だ。


命は助かった。だが、身体はズタズタ。皮膚は焼け落ち、筋肉は溶け、臓器は機能を失っていた。最新のiPS細胞技術で全身を再構築した結果、見た目は中学生に逆戻り。身長まで縮んでしまった。


「それだけじゃない……記憶の断片化も確認されています。脳へのダメージの影響で、任務の詳細や過去の出来事はほぼ失われています。戦闘技術や反射的な動作は体に残っていますが、具体的な内容は……」


「つまり、俺が公安のエースだったってことだけ覚えてて、何をどうやってたかは全部吹っ飛んだってか? それに、このチビな身体!」


悠真の声は、怒りを通り越して虚無に染まっていた。彼はベッドに倒れ込み、天井を睨んだ。頭の中には、断片的な映像が浮かぶ。闇夜の潜入、銃声の響き、血の匂い。そして、仮面をかぶった仲間たちの冷たい視線。だが、それらが何を意味するのか、つなぎ合わせることができない。まるで、パズルのピースが散らばったままの状態だ。


「で、俺はどうすりゃいいんだ? この姿で公安に戻っても、誰も信じねえ。『お前、誰だよ?』ってなるだけだろ。こんなチビで、どうやって戦うんだよ!」


佐藤が一歩前に出た。無表情だが、瞳には微かな同情――いや、冷酷な決意が宿っている。


「黒崎、君には新しい人生を歩んでもらう。戸籍を一新し、一般人として生きる。具体的には……中学三年生としてだ」


「中学校!?」


悠真はベッドから跳ね起き、佐藤の襟首を掴みそうになる。だが、佐藤は動じず、淡々と続ける。


「君に選択肢はない。この姿で公安に戻っても、誰もお前を黒崎と断定するものはいないだろう。シャドウ・シンジケートの残党も君の生存を知る可能性は低い。だが、慎重に事を進めなければならない。君の存在は、彼らにとって最大の脅威だ。その脅威の存在が中学生になってしまったら脅威でなくなってしまう」


佐藤の言葉は刃のように鋭く、悠真の反論を切り裂いた。彼は拳を握り、唇を噛む。確かに、この小さな姿で公安の闇に飛び込むのは自殺行為だ。だが、中学生の日常に戻るなんて、19年分の経験を積んだ男にとって、まるで別世界の物語だ。しかも、158センチの身体で、どうやって自分を取り戻せというのか。


佐藤はブリーフケースから分厚い書類の束を取り出し、悠真に突きつけた。新しい戸籍、名前は「佐伯悠斗」。住所は東京から電車で約90分の栃木県渡川市にあるマンション。転校先は「渡川西中学校」、ごく普通の公立校。来週月曜日から登校しろという。


「渡川の公立中からやり直す……? このチビな身体で、こんな悪夢、誰が書いたんだよ……」


悠斗――新たな名前を刻まれた少年は、書類を握り潰しながら呟いた。鏡に映る自分の小さな姿を再び見つめる。そこには、ファントムの影はなく、ただの無垢な少年が立っていた。だが、胸の奥で燃える炎は、決して消えていない。


「佐伯悠斗、か……いいだろう。やってやるよ。この人生、俺がどうにかしてやる」


悠斗は唇を歪め、静かに決意を固めた。


一週間後、渡川西中学校の校門前。悠斗は紺のブレザーに身を包み、ぎこちなくネクタイを締めた。制服はサイズがピッタリだが、鏡で見た自分の小ささが頭から離れない。158センチ。クラスメイトに頭一つ抜かれるかもしれないと思うと、33歳のプライドがズタズタになる。公安の戦闘スーツや、闇夜に溶け込む黒マスクの方がよほどしっくりくる。肩に背負ったカバンには、教科書とノート。そして、誰も知らない秘密の過去。


「マジで中学生か……こんな地方都市の日常、33歳の俺に耐えられるのか? それに、このチビな身体で……」


渡川市の朝は、東京の喧騒とは異なる穏やかさがあった。渡川沿いの通学路には、自転車をこぐ高校生や、渡川駅に向かうサラリーマン。近くの老舗そば屋「三茶庵」から漂う出汁の香りや、朝霧に包まれた住宅街の静かな空気。だが、悠斗の脳裏には、銃声、爆発音、暗闇の潜入任務がフラッシュバックする。無意識に周囲の音を解析し、視線で人の動きを追ってしまう。――これは、ファントムの呪いだ。


「ちっ、こんなとこで警戒モード入ってどうすんだ……」


3年A組の教室に足を踏み入れると、生徒たちの視線が一斉に突き刺さった。転校初日。担任の山本先生――眼鏡の似合う優しそうな女性が、にこやかに紹介する。


「みんな、今日から仲間になる佐伯悠斗くんです。親御さんの都合で東京から渡川市に越して来られたそうです。皆さん、仲良くしてあげてください!」


「お……よろしく」


悠斗はぎこちなく頭を下げた。教室が一瞬静まり、すぐにざわめきに変わる。女子たちの「めっちゃイケメン!」「なんか大人っぽい!」「でも、ちょっと小さい?」という囁きが耳に届く。この若返った顔は整いすぎているが、身長の低さが目立つらしい。180センチの威圧感を失った自分に、悠斗は内心で歯ぎしりした。


「分からない事があったら、クラス委員の瀬川さんや先生に聞いてください。じゃ、佐伯くん、そこの空いている席に座って」


指定された席に着くと、隣の少女が満面の笑みで話しかけてきた。ショートカットの活発そうな子で、目が星のように輝いている。


「ね、佐伯くん! はじめまして! 私は藤井彩花、よろしく! どこから来たの? なんか、普通の中学生っぽくないよね?」


「は? いや、普通だよ。めっちゃ普通」


悠斗は慌てて誤魔化した。だが、彩花はニヤリと笑い、追及の手を緩めない。


「ふーん、絶対隠してる! ま、いいや! 部活は何に入るの? サッカー? 野球? それとも文化部?」


「部活? いや、別に……」


「私、サッカー部のマネージャーやってるの。良かったら練習参加してみない?」


公安の訓練に比べれば、部活なんて児戯だ。だが、彩花の無邪気な笑顔に、なぜか断る言葉が喉に詰まる。33歳の感覚では、こんな子供っぽい誘いに乗るなんてありえない。なのに、この小さな身体と彩花の純粋さが、どこか心を揺さぶる。結局、流されるままにサッカー部の見学を約束させられた。


渡川西中学校での生活は、悠斗にとって予想以上の試練だった。まず、身長の低さが気になって仕方ない。教室で立ち上がるたび、背の高いクラスメイト――特に高橋のような180センチ近い男子に頭一つ抜かれる。33歳のプライドが「こんなガキに負けるか!」と叫ぶが、158センチの現実は無情だ。授業中、数学の二次方程式や英語の現在完了形に頭を悩ませるクラスメイトたちを横目に、悠斗は内心でため息をつく。33歳の頭脳には、これらの内容は子供の遊びのようなものだ。だが、問題は知識じゃない。問題は、この時代とのギャップだ。


「佐伯くん、スマホ持ってる? どんなアプリ使ってる?」


昼休み、彩花が弁当を広げながら無邪気に聞いてきた。悠斗は一瞬言葉に詰まる。公安時代、スマホは暗号化された通信機器だった。だが、今の子供たちは?


「え、アプリ? まあ……普通のやつ?」


「普通って何!? ねえ、NowShotやってる? インストは? Tikdokでどんな動画見る?」


「NowShot? なんだそれ?」


悠斗は首を傾げた。彩花が目を丸くして笑う。


「え、佐伯くん、NowShot知らないの!? 毎日ランダムな時間に通知来て、2分以内に今やってること写真で投稿するやつ! めっちゃリアルで楽しいよ!」


「リアル……? それ、ヤバくないか?」


悠斗の声に、彩花がキョトンとする。


「ヤバいって、なにが? みんなやってるよ!」


「いや、だってよ、毎日自分の居場所とか何やってるかネットに上げんの? それ、敵にバレバレじゃねえか!」


悠斗は思わず本音を漏らした。33歳のスパイの感覚では、リアルタイムで位置情報を公開するなんて、自ら標的になるようなものだ。シンジケートがまだ動いていないとはいえ、こんな無防備な行動は危機感しか湧かない。

彩花は一瞬ポカンとした後、腹を抱えて大笑いした。


「ははは! 敵って誰よ!? 佐伯くん、めっちゃ面白い! なんかスパイ映画の見すぎじゃない?」


「いや、映画じゃねえよ! 現実的に考えて――」


「現実的にって、ここ渡川だよ?こんな街に 敵なんていないって! ほら、佐伯くんもNowShotやろうよ! 今、通知来た!」


彩花はスマホを手に、嬉々としてカメラを起動した。画面には、教室のテーブルに置かれた弁当と、向かいに座る悠斗の困惑した顔が映る。彩花が


「はい、撮るよ!」と笑う瞬間、悠斗は思わず身を引いた。


「待て! 俺の顔、ネットに上げるな!」


「えー、なんで!? 佐伯くん、めっちゃイケメンなのに!」


「イケメンとか関係ねえ! プライバシーって知ってるか!?」


悠斗の必死な叫びに、彩花はさらに爆笑。隣にいた高橋も加わって、二人でからかうように笑う。


「佐伯、マジでおじいちゃんかよ! プライバシーとか、昭和の話?」


「昭和じゃねえ! 平成……いや、なんでもねえ!」


悠斗は顔を赤らめ、誤魔化すように弁当をつついた。33歳のスパイの感覚では、ネットに自分の情報を晒すなんて、敵にGPSを渡すようなものだ。だが、2025年の中学生たちにとって、NowShotやインスタは日常の延長線上。19年のジェネレーションギャップは、こんなところにも現れる。

その後も、ギャップは尽きなかった。放課後の教室で、彩花が突然「佐伯くん、推しは誰?」と聞いてきた。


「推し? なんだそれ?」


「え、知らない!? 好きなアイドルとか、YourTuberとか、アニメのキャラとか! 私の推しはね、K-POPのLUGNARのユンホ! めっちゃカッコいいんだから!」


「アイドル……? 俺、音楽ならCOWYとかZ JAPANとか……」


悠斗の呟きに、彩花と高橋が同時に「誰!?」と叫んだ。

「COWY?Z JAPAN!? それ、めっちゃ古くない!? 佐伯くん、ほんとにおじさん!」


「Z JAPANって、なんかビジュアル系のバンドでしょ? 私のパパが好きだったって言ってた!」


二人の爆笑に、悠斗は頭を抱えた。90年代のJ-ROCKに心を震わせた青春時代が、2025年では「パパの趣味」扱いだ。ガラケーでメールを打ち、MDプレーヤーで音楽を聴いていたあの頃と、スマホでストリーミングやショート動画を浴びる今の子供たち。まるで異なる次元だ。


「佐伯くん、COWYのCDとか持ってるの? めっちゃレトロ!」


「CD? いや、MDだろ……」


「MD!? なにそれ!?」


彩花のキョトンとした顔に、悠斗はさらに追い打ちをかけられた気分だった。MDプレーヤーを握り潰すほど聴いたあの頃、音楽は「物」だった。2025年の子供たちにとって、音楽はクラウド上のデータだ。このギャップに、悠斗はただただため息をつくしかなかった。


放課後、渡川西中学校のグラウンドに響くサッカーボールの蹴る音。悠斗は彩花に連れられ、サッカー部の練習を見学していた。グラウンドでは3年生の男子たちが汗を流し、激しいパス回しやシュート練習を繰り広げている。だが、悠斗の目は、自分の小さな身体と、背の高い部員たち――特に高橋の180センチ近い身長に釘付けだった。


「こんなデカいやつらと一緒にプレーするのか……」と、33歳のプライドが疼く。

顧問のコーチ――髭を生やした熱血漢が、悠斗に目を留めた。


「君は確か転校生だな? サッカー経験あるか? ちょっとピッチに入ってみろ!」


「いや、俺、サッカーなんて……それに、この身長じゃ……」


言いかけた瞬間、彩花が横から割り込む。


「やろうよ、佐伯くん! 絶対カッコいいって! 身長なんて関係ないよ!」


「いや、関係あるだろ! 158センチでどうすんだよ!」


悠斗の呟きに、彩花がクスクス笑う。


「佐伯くん、なにそのこだわり! ほら、ピッチ行こう!」


周囲の「やれやれ!」という野次に押され、悠斗は渋々ピッチに立つ。ボールを渡され、軽くドリブルしてみる。――その瞬間、体が勝手に動いた。

ドリブルは滑らかで、まるでボールが足に吸い付くよう。相手のディフェンスが迫ってくるが、悠斗の目は彼らの動きを瞬時に解析していた。身長のハンデを補うように、低重心で鋭いボディフェイントを入れ、軽々と抜き去る。ゴール前に切り込み、鋭いシュートを決めた。

グラウンドが一瞬静まり、すぐにざわめきが広がる。


「す、すげえ! 佐伯、なんだその動き!?」


「ちょっと待て、転校生、サッカー部だったのか?ちっちゃいのにヤバすぎだろ!」


部員たちが騒ぐ中、チームのエースらしい高橋が、ムッとした表情で近づいてきた。


「へっ、ビックリしたけどちょっと油断してただけだ。もう一回やろうぜ、佐伯。今度は攻守交代だ。お前がディフェンスな!」


「別に、いいけど……」


悠斗は肩をすくめ、ディフェンスに回った。高橋がドリブルを始め、鋭い目で悠斗を睨む。フェイントを織り交ぜながら突っ込んでくるが、悠斗は冷静だった。――そして、仕掛けた。


パチン!


悠斗が高橋の顔の前で両手を叩き、鋭い音を響かせた。高橋が一瞬怯んだ隙に、悠斗の足が蛇のように伸びボールを弾いた。弾いたボールをそのまま同じ足のつま先で引っ掛けて高橋の後ろに流すと、身体を入れ替えるように少しだけ屈んで高橋の脇の下をすり抜ける。遅れて迫ってくる3人のディフェンスの目の動きを追いながら、相手の重心の逆をつき、まるで幻影のようにすり抜けた。ゴール前に飛び込み、強烈なシュートを叩き込む。グラウンドが凍りついた。次の瞬間、爆発的な歓声が響く。


「な、なんだそれ!? 佐伯、すげえ!」


「プロだろ!? ちっちゃいのに、どこかのクラブに所属してたのかよ!?」


彩花が目をキラキラさせながら駆け寄ってくる。


「佐伯くん、めっちゃカッコよかった! 身長なんて全然関係ないじゃん!」


「そんな大げさな……」


悠斗は照れくさく答えたが、内心では冷や汗をかいていた。無意識に、敵の動きを予測する訓練が発動したのだ。サッカーの経験なんてない。なのに、体が勝手に動く。158センチの身体でも、ファントムの技術は健在だった。だが、高橋の180センチの影がちらつき、悠斗の心に小さな棘が刺さる。


「俺だって、昔はあんなデカかったのに……」


「佐伯、スゲェよ!これなら即レギュラー候補だ!」と高橋が言い出すと、

「稀に見る逸材だな!是非入部してくれ!」と、コーチの豪快な笑い声が響いた。


悠斗は引きつった笑顔をするしかなかった。

(まずいな……あれ、完全に“訓練”のクセだ。次は使えないな)


と、そのとき、コーチがふと真顔になって口を開いた。


「ただし、猫騙しみたいに手を叩いて相手の注意をそらすのはな――非紳士的なプレーで、正式な試合なら反則取られるんだけどな。でも……」


再び口角を上げて、笑う。


「その後の攻撃は凄かったな。動きが理にかなってる。ずっとトゥキックだったしサッカーをやってる訳じゃなさそうだが何かスポーツをやってたんだろう?素人には見えないぞ、お前」


「……ありがとうございます」


悠斗は軽く頭を下げたが、内心では冷や汗が止まらなかった。――“訓練”を、こんなところで使ってどうする。


公安時代、敵の隙を突くための音響戦術、暗闇での高速移動、戦闘中の状況解析――それらが無意識に発動したのだ。サッカーの経験なんてない。なのに、体が勝手に動いた。158センチの身体でも、ファントムとして培った技術は健在だった。


だが、この場でそんな動きを見せてしまうとは。目立ちすぎた。とても「普通の中学生男子」には見えなかっただろう。


――もっと、溶け込まなければ。


その後のミニゲームは、なんとか無難にこなした。派手なプレーは避け、パス回しとポジショニングに徹した。

練習が終わるころには、周囲の興奮もいくぶん落ち着いていた。


シャワーを浴びたあと、ロッカールームに戻ると、少し汗くさい空気の中で、誰かがペットボトルの水を投げ合っていた。そんな中、高橋がぽつりと話しかけてきた。


「なぁ佐伯、少しはサッカーとか観てたんだろ?好きなサッカー選手って誰だ?」


「選手? まあ……ジダヌとか、ララドーナとかかな?」

悠斗の答えに、部員たちが一斉に「誰!?」と叫んだ。


「ジダヌ!? それ、めっちゃ古いじゃん! 親父がDVDで見てた!」


「ララドーナって、なんか伝説の選手でしょ? 佐伯、ほんと年寄りくさいな!」

「今はヤマリとかホーランドだろ! 佐伯、YourTubeでハイライト見ろよ!」


部員たちの笑い声に、悠斗は唇を噛んだ。90年代から2000年代初頭のサッカー黄金時代を知る自分にとって、ジダヌのマルセイユルーレットやララドーナの神の手は永遠のアイコンだ。だが、2025年の子供たちには、まるで歴史の教科書だ。YourTubeでハイライトを見る? 悠斗の時代、試合はテレビかVHSだった。


「佐伯、ほんとズレてるな! でも、ピッチでの動きはバッチリだからいいか!ホントに入部してくれよ!」


高橋の軽口に、悠斗は苦笑するしかない。33歳の感覚と14歳の身体。このギャップは、日常のあらゆる場面で顔を出した。


笑い声、汗のにおい、遠くから聞こえる放送部の下校時間を知らせるアナウンス。夕焼けに染まる校舎を背に、悠斗は一人、ゆっくりと帰路についた。今日一日の出来事を胸にしまい込みながら。



次の日。


授業中も、ギャップは容赦なかった。社会科の授業で、先生が「最近の時事問題」としてAIの進化や環境問題を取り上げた。クラスメイトたちが

「AIって、Chat CRTみたいなやつ?」「TokdokのフィルターもAIだよね!」と盛り上がる中、悠斗は黙り込む。公安時代、AIは監視システムや暗号解読のツールだった。Tokdokのフィルター? そんなもの、任務に何の役にも立たない。


「佐伯くん、なんか静かだね。何か意見ある?」


先生に突然当てられ、悠斗は慌てて答える。


「え、AI? まあ……監視カメラの顔認証とか、データ解析とか……」

教室が一瞬静まり、すぐにクスクス笑いが広がる。


「顔認証!? 佐伯くん、なんかガチすぎ!」


「監視カメラって、ドラマの刑事みたい!」


彩花の笑い声に、悠斗は頭を抱えた。33歳のスパイの知識が、14歳の教室ではまるで浮いている。公安の極秘任務で使った技術が、中学生には「ドラマみたい」だなんて。


放課後も、ギャップは続いた。クラスの同級生がスマホで音楽を流し、最新のK-POPやJ-POPで盛り上がる。悠斗は聞き慣れない曲に首を傾げる。


「これ、誰の曲?」


「え、佐伯くん、知らないの!? これ、OASOBIの新曲! めっちゃバズってるよ!」


「OASOBI? なんか、お遊びでバンドやってるって意味?」

悠斗の呟きに、クラスメイトたちが爆笑した。


「お遊び!? 佐伯、ほんと昭和! OASOBIはアーティスト名だよ!」


「昭和じゃねえよ! 俺は平成……いや、なんでもねえ!」


悠斗は顔を赤らめ、そっぽを向いて誤魔化した。90年代のLrcan~CielやMr.Childを知る自分にとって、OASOBIのエレクトロなサウンドはまるで宇宙の音楽だ。ストリーミングで音楽を聴く文化も、CDを握り潰すほど聴いたあの頃とは別世界のようだった。


――俺は、もうこっちの「普通」に追いつけないかもしれないな。


笑い声が遠のいていく教室を後にして、昇降口に靴音を響かせながら、悠斗はひとり校門をくぐる。夕陽がオレンジ色に世界を染め、田舎町の影が静かに長く伸びていた。


放課後の喧騒が夢だったかのように、静まり返った渡川の街。

この静けさが、どこか逆に落ち着かない。


渡川市での生活は、悠斗にとって奇妙な二重生活だった。

昼間は中学生として振る舞い、笑い、走り、戸惑う。

だが夜になれば、33歳の自分――ファントムの残滓が、必ず顔を出す。


マンションの部屋に戻ると、照明も点けぬままソファに沈む。時間通りにスマホが震え、シークレットモードのメールサーバーに公安からの定時連絡が届く。そこにはいつも決まり文句が添えられていた。


『現在の身分においての積極的行動義務は課していません。

必要以上の情報収集は控え、日常生活への適応に専念するよう努めてください。現在の生活は、あくまで「特別移行措置中の自由生活」として管理されており、現時点では再召集・現場復帰の予定はありません』


「毎回同じ文章だな?機械で打ってるのか?情報収集は控えって……こんな田舎で何が起きるってんだよ。それにこんなチビな身体で、どう戦えってんだ」


スマホを伏せ、天井を見上げる。

今の状態じゃ“任務”なんてしたくても出来ない。けれど――背中から抜け落ちない緊張感が、それを許してはくれなかった。


ある日、放課後に彩花と学級委員長である瀬川由香里が「みんなで大門通りのカフェ行くんだけど、佐伯くんも来る?」と誘ってきた。


「カフェ? いや、俺、コーヒーとか苦手で……」


「え、コーヒー飲まなくてもスイーツあるよ! NowShotで撮ったら絶対バズるパンケーキ、めっちゃ美味しいんだから!」


「またNowShotかよ……お前ら、ほんとすぐネットに上げるな」


悠斗の呟きに、彩花がキョトンとする。


「なんで? みんなやってるじゃん!」


「いや、だって、敵に――」


「また敵!? ははは、佐伯くん、マジでスパイなの!?」


彩花の爆笑に、悠斗は顔を赤らめて黙り込んだ。33歳のスパイの感覚では、こんな無防備な行動は理解不能だ。だが、彩花の笑顔を見ていると、なぜか反論する気が失せる。悠斗は渋々頷き、放課後のカフェ行きを了承した。


大門通りの「蔵姫カフェ」は、色とりどりのスイーツとキラキラした内装で、中学生や高校生たちで賑わっていた。彩花が注文したパンケーキは、確かに「映える」見た目だ。悠斗はストローをくわえ、抹茶ラテをすすりながら、内心で毒づく。


「こんな甘ったるいもん、食えるかよ……」


だが、彩花がスマホを構えると、悠斗は反射的に身を引いた。


「おい、彩花! またNowShotか!? やめろって!」


「えー、なんで!? ほら、佐伯くんも由香里も笑って! めっちゃいい感じの写真になるよ!」


「いい感じとかどうでもいい! ネットに上げんな! 敵にバレるだろ!」


彩花はテーブルを叩いて大笑いした。


「敵!? ははは、佐伯くん、ほんとウケる! 敵って誰よ!?」


由香里も加わって、二人でからかうように笑う。


「佐伯くん、めっちゃパラノイアじゃん! ここにテロリストとかいるわけないでしょ!」


「テロリストってわけじゃないけど……備えあれば憂いなし、って言うだろ?」


悠斗は少しだけむくれながらも、真剣な顔で答える。


その様子がまたツボに入ったのか、由香里がニヤリと笑ってからかう。


「えっ、それって――まさかの厨二病!? 佐伯くんって実は『この右手には封印された力が…』とか言うタイプだったりして?」


彩花がすかさず右手を胸に当てて芝居がかった声で乗っかる。


「『封印を解いたら、世界が滅ぶ……』ってやつ!? やだもう、面白すぎ!」


「言うわけないだろ!」


悠斗は苦笑しながら顔をそらしたが、内心はまるで笑っていなかった。


(封印、ね……。笑える話だよ)


公安の暗部で、“ファントム”として任務をこなしていた頃。

標的の裏切り者を処理した手。

敵を欺くために赤外線ゴーグル越しに相手の瞳を読み取った目。


厨二病どころか、本物だった。


「右手が疼く」なんて、冗談でも言いたくない。実際に、その手が何人の命を奪ってきたか――自分が一番知っている。


(俺の過去は、笑えるようなものじゃない)


それでも、目の前で無邪気に笑う彼女たちを見て、どこかホッとする自分がいた。


この場所では、その“封印”が解けないように――

そう願っている自分が、確かにいた。


悠斗はムキになって反論したが、彩花のキラキラした目と委員長のニヤニヤした顔に、だんだんバカらしくなってくる。33歳のスパイの感覚では、NowShotの通知が来るたびに位置情報を晒すなんて、敵に「ここにいるぞ」と叫ぶようなものだ。だが、2025年の渡川の中学生たちにとって、そんな危機感は皆無らしい。


「佐伯くん、ほんと面白い! ね、サッカーの試合、来月あるよね! 出るんでしょ?絶対勝とうね!」


「油断するな。俺がここにいる以上、何が起きてもおかしくないんだ…」


悠斗は心の中でそう呟いた。けれど、彩花の笑顔はまぶしく、どこか痛い。


この感覚――忘れていた。

誰かに笑われるのが、ただ「楽しい」だけだった頃の自分。

もう戻れないと思っていた、日常の一コマ。


……守りたい、なんて思ってしまうあたり、自分も変わったのかもしれない。



次の日。

昼休みの教室には、じんわりとした湿気が漂っていた。

5月も下旬に差しかかり、制服の袖をまくる生徒や、すでに半袖で登校している生徒もちらほらといる。


「ねえ、佐伯くんってさ、普段どんな服着てるの?」

隣の席の彩花が、ふと顔をこちらに向けてきた。

「ZORA? それともSHEN?」


「服? まあ……Tシャツとジーンズ。ユニシロの無地で十分だろ?」


「ユニシロ!? 佐伯くん、めっちゃ地味! 今はオーバーサイズのスウェットか、韓国系のコーデがトレンドだよ!」


「韓国系? なんだそれ?」


「え、知らない!? ほら、こんな感じ!」


彩花がスマホで写真を見せる。バギーなパンツに、ビッグシルエットのシャツ、キャップを斜めにかぶったスタイル。悠斗は眉をひそめる。


「これ、ダサくね? 90年代のスケーターみたいじゃん」


その一言に、教室の少し離れた席から由香里が口を挟んできた。


「スケーターって……どこの時代よ! 佐伯くんって、時空が歪んでるよね?」


由香里の笑い声に、悠斗はため息をつく。90年代のグランジやストリートファッションを知る自分にとって、2025年の「韓国系」はまるでコスプレだ。ユニシロの無地Tシャツとエーバイスの501で十分だったあの頃と、SHENでトレンドを追う今の子供たち。ファッションすら、時代を超えたギャップの象徴だ。


「てか、佐伯くんって普段カバンとか何? ポーチ派?それとも地味にリュック?」


由香里が興味津々に聞いてくる。彩花も「気になる~!」と笑いながら身を乗り出す。


「え……普通のリュックだけど? 黒いやつ。ポケット多くて使いやすいし」


彩花がうれしそうにツッコむ。

「うわー! ガチ実用重視タイプだ! 地味すぎ!」


由香里が続けてニヤリと笑う。

「じゃあ中身は? 何が入ってんの? ミニウォレット? スマホで決済派?」


「え? まあ、財布と……小銭入れと、ハンカチと……」


「え、小銭入れ!? それって昭和のサラリーマンじゃん!」


彩花がまた吹き出す。


「今どきはミニウォレットでしょ? スマホで決済するから、現金とか全然使わないし!」


「ハンカチって……おじいちゃんかよ!」


突然、悠斗の前の席に座っていた男子――田代圭太が、くるりと振り向いて身を乗り出してきた。


「今どき、ポケットティッシュでよくね? ハンカチとか昭和じゃん!」


「ティッシュだけじゃ手拭けないだろ……」


悠斗は困ったように返すが、さらに由香里が畳みかける。


「まさか佐伯くん、腕時計とかしてないよね? しかもアナログの針のやつとか……」


その言葉に、悠斗は一瞬、言葉を詰まらせた。


「……ああ、してるよ。アナログの。機械式のやつ。」


「出た! レトロ趣味!」


「だって、充電いらないし、ずっと動くし、……それに、思い出の品なんだ。」


ふざけた空気が、一瞬だけ和らぐ。彩花がふっと表情をゆるめた。


「そっか。そういうの、ちょっとカッコいいかもね。」


「まあ、昭和っぽいけどね! エモいよね!」と由香里が茶々を入れる。


「……エモいって、何だよそれ」


「え? “エモーショナル”の略。感情が揺さぶられるような、心に響く感じのことを言うの。最近はそういう意味で使うのが定着してるよ」


「……なるほど。便利な言葉だな」


悠斗も苦笑いしながら、内心では腕に巻かれたその時計に指先を触れた。

それは、公安にいた頃――まだ“人間らしい時間”を信じていた仲間の一人がくれたものだった。


「いつか、お前が普通に笑える日が来たら。そのときのために」


そう言って託された、無骨で、静かに時を刻む機械式の時計。


穏やかに時を刻めるように――

あいつの願いは、今もこの秒針の音の中に生きている気がする。


チャイムが鳴った。

午後の始まりを告げる音に、教室の空気が一瞬ピンと張る。


そのタイミングで、教室の扉が開く。

白いブラウスにベージュのスラックス姿の眼鏡の女性――担任の山本先生が、資料の束を抱えて入ってきた。


「はーい、席ついて。おしゃべりは後でねー」


軽い口調とは裏腹に、手にした書類が今日の“特別感”を物語っている。

生徒たちの視線が自然と前へ向く。


「さて、いよいよ修学旅行の準備に入りますよー。今日は班分けを決めます」


「出た! 班決め!」「どーせまた自由って言って揉めるやつ!」


「はいはい、落ち着いて。今日は“仮”だからね、あとで先生が調整します」


教室の空気がざわつく中、山本先生がプリントを配り始める。


「行き先はもう知ってるよね? 京都・奈良。三泊四日。全体行動もあるけど、班別で動く時間もあるから、行きたい場所は事前に話し合ってね。今日はまず、その班を決めま〜す」


「はい、みんな注目~。基本は5人1組で、7班に分かれてもらいます」


生徒たちが一斉にざわめく。すでに「一緒の班になろうね」と視線を交わすグループもあちこちにいる。


「今回は人数の都合で、1班だけ男女混合になります。そこは、希望や事情を考慮して決めるつもりです」


「えー! 混合ってやりにくそう!」「むしろ盛り上がりそう!」

教室のあちこちで声が上がる中、静かに席を立ったのは、委員長の瀬川由香里だった。


「先生、いいですか?」


真っ直ぐに教壇を見て、落ち着いた声で話し始める。


「佐伯悠斗くんは、転校してきてまだ間もないですし、クラスの雰囲気やメンバーに慣れていないと思います。なので、普段から隣の席で接している藤井彩花さんと一緒に、混合班に入ってもらったほうが安心だと思います」


「ふ、普通に言うじゃん……」と彩花が少し照れながら笑う。


しかし由香里はそれだけで終わらなかった。


「それと、私もその班に入りたいです。委員長として、フォロー役に回ります。佐伯くんが過ごしやすいように」


一瞬、教室が静まった。


「……いい心がけですね」

山本先生が微笑んでうなずく。


「じゃあ、混合班は藤井さん、佐伯くん、瀬川さんの3人を中心に編成しましょう。あと2人は後で希望を聞きます」


由香里は静かに席に戻りながら、ふっと悠斗の方を見て小さく笑った。


「勝手に決めてごめん。でも、その方が楽でしょ?」


由香里がそう言って席に戻ろうとしたそのとき、後方の男子席から元気な声が上がった。


「じゃあ俺も立候補するぜ!」


手を挙げたのは、高橋だった。陽に焼けた腕をピンと伸ばして、ニッと笑う。


「佐伯と最近、サッカーしてんだよ。な、佐伯?」


急に話を振られて、悠斗は少し驚きながらも、うなずいた。


「……ああ。まあ、ちょっとだけな」


「だからさ、同じ班ならサッカーの話とか出来るし楽しいかなって。別に面倒見るとかじゃなくて、普通に一緒に回れたらいいなって思ってさ」


その言葉に、教室のあちこちから「へぇ~」「意外といいやつじゃん」などと囁く声が上がる。


「はい、高橋くんもね。じゃあ混合班は今のところ、藤井さん、瀬川さん、佐伯くん、高橋くんの4人。あと1人は……」


悠斗の前の席に座る田代圭太が、ちらりと振り返りながら、控えめに手を挙げた。


「……おれも、その、入っていい? 佐伯ってちょっと面白いし」


教室がどっと笑いに包まれた。


「何それ理由!」と誰かが突っ込み、

「いや、別に深い意味はないけどさ」と、田代は照れくさそうに頭をかいた。


教室はまだざわざわしていたが、多くの班はすでに顔を見合わせてグループを組み終えていた。

仲のいいメンバー同士が自然と集まり、「うちら、このままでいいよね?」と確認し合う声があちこちから聞こえてくる。


「はい、混合班は藤井さん、瀬川さん、佐伯くん、高橋くん、田代くんの5人で決定します」


山本先生はプリントにさらさらとメモを取りながら、教室を見渡した。


「他の班も、リーダー決めと班名の記入をしておいてね。特別な事情がある人は放課後に聞きます。今日は“仮”だから、あとで微調整は入るかもです」


ざわつく教室の中、どこか浮いたような混合班の5人。

でも、そこに嫌な空気はなかった。


むしろ、妙なバランス感と、不思議な安心感があった。


由香里はさりげなく悠斗の方を見やって、目だけで「よかったね」とでも言うように微笑んだ。


「はい、これで班はすべて決定です。残りの詳細はこのあと配るプリントを見ておいて。リーダー決めとか、班別の行動計画とか、今週中にやってもらいます」


「えー!リーダーとか面倒〜!」という声に、


「最初に声を出した人が自動的にリーダーね」と、先生が軽く流すと、また教室に笑いが起きた。


そのままチャイムが鳴って、午後の授業へと切り替わっていく。

でも、生徒たちの意識はもう、遠く――京都と奈良に向かっていた。



そして、数日後。


朝の学校は、集合時間よりも早くから生徒たちの声でにぎわっていた。


キャリーケースを転がす音。リュックを背負い、記念撮影を始める班。

慣れない制服のブレザーに、少し照れたような笑顔が浮かぶ。


悠斗も、その中にいた。


少し距離を置いて立っていたが、すぐに彩花と由香里、そして高橋が合流する。


「おっす! お前、なんか今日だけちゃんと中学生してんな!」


「失礼な……」


「田代は?」「さっきジュース買いに行った」


そんな何気ないやりとりをしながら、悠斗はふと、自分の腕時計に目を落とす。


機械式の針は、静かに時を刻んでいた。

あの日、あの言葉とともに託された時間が――

ようやく、少しずつ動き出しているような気がした。


「班毎に集合するよー!班長はメンバーが揃ったら先生に連絡してねー!」という先生の声が響く。


悠斗は小さく息を吸い、顔を上げた。



渡川から東京までは貸切バスで約二時間。車内は、いつもよりちょっと特別な空気でざわめいていた。お菓子を交換する女子、スマホで音楽を共有する男子、そしてなぜかテンションが高い田代。


「俺、今日寝てねーから! 今めっちゃハイ!」


そんな声が飛び交う中、悠斗は窓の外に目をやりながら、静かに風景を眺めていた。


東京駅に着くと、生徒たちは軽く興奮気味になりながら移動する。

そしていよいよ、東海道新幹線のホーム。


「おおおお、新幹線だ! のぞみだ! 初めて乗る!」


「自由席じゃないの!? マジかー!」



車内に乗り込むと、さらに興奮はヒートアップした。

座席の背もたれをいじってはしゃぐ高橋、窓側を勝ち取ってガッツポーズする田代。

通路を挟んだ席に彩花と由香里が並び、その後ろに悠斗と高橋が座った。


新幹線が東京駅を離れると、生徒たちは一斉に車窓に顔を向けた。


「うわっ、速ぇ!」「ちょ、カメラ間に合わない!」「え、富士山ってどっち側? 左? 右?」


あちこちから興奮した声が飛び交う。

そんな中、悠斗は荷物からペットボトルを取り出し、キャップをひねりながら、ふと前方の車窓に目を向けた。


「右側。進行方向のね」


「へ? 何が?」と高橋が聞き返す。


「富士山。もう少しで見える。最初に工業団地が見えて、次に茶畑。その先のカーブを抜けると、ちょうどいい位置に出てくるよ」


その静かな説明に、一瞬、周囲の声が止まった。


「……なんでそんなに詳しいんだよ。予習でもしてきた?」


高橋がぽかんとしながら聞く。


「昔、何度か乗ったことがあるだけ」


悠斗はあくまで淡々と答える。まるで乗り慣れた通勤電車でも眺めているかのような余裕だった。


「なんかさ……お前、いちいち大人っぽいよな。中学生って感じしないっつーか」


そのつぶやきに、前の席の藤井彩花がくるっと振り返った。


「それ、思ってた! 佐伯くんって、なんか“人生二周目”みたいな感じだよね」


「……」


悠斗は水を一口飲み、ほんのわずかに目を細める。


「……さあ、どうだろうな」


苦笑まじりに答えると、周囲から「やっぱそれっぽーい!」と笑いが起きた。


「てか、佐伯さーん! 富士山まだですかー?」


誰かが茶化すように声を上げる。


悠斗はちらりと腕時計を見て、前方の窓の方を指さした。


「……あのカーブの先。そろそろ見える」


そして数秒後――


「出た出た出た!」「うわあ、本物!」「マジで富士山だ!」


歓声とスマホのシャッター音が車内に広がる。


「マジかよ……GPSでも内蔵してんのか?」

「怖いわ、こいつ」と、高橋が肩をすくめた。


悠斗は窓の外、青空の下に浮かぶ富士山の姿を静かに見つめていた。

見慣れた風景――けれど、今は少し違って見える。


(任務でもなく、義務でもない。ただこうして、誰かと同じ景色を見ている)


それだけのことが、妙に新鮮だった。


悠斗はふと、腕時計に触れる。公安時代に比べれば――今は、ずいぶん“騒がしい”旅路だ。でも、悪くない。むしろ、少しだけ懐かしさすらあった。


(……この時間が、長く続くのも良いのかもしれないな)


富士山を見届けたあと、車内は一旦、落ち着きを取り戻していた。


興奮気味だった周囲の会話も、やがて雑談へと変わり、誰かがカードゲームを始めたり、菓子を回したりと、思い思いの時間を過ごし始める。


悠斗も時折、高橋や彩花の話に軽く相槌を打ちつつ、持ってきた文庫本に目を落としていた。


名古屋を過ぎ、トンネルを抜けると、緩やかな丘と低い町並みが広がっていた。赤茶けた瓦屋根が連なり、その奥には深緑の山々が見える。


「なんか、京都っぽくなってきた!」


そんな声に車内がざわめき始め、悠斗は本を閉じて顔を上げた。


「まもなく、京都に到着いたします。お忘れ物のないよう――」


車内アナウンスが流れ始めると同時に、生徒たちの空気が一変する。


「うわっ、もう着くの!?」「カメラどこ!」「キャリーどこだっけ!」


誰かが椅子に立ち上がり、別の誰かが網棚に手を伸ばす。車内はちょっとした混乱状態に突入していた。


悠斗も自分のキャリーケースを取ろうと、椅子に膝をかける。


(……届かねぇ)


指先がわずかに触れるが、引き寄せるには足りない。ほんの数センチの差が、やけに遠く感じられた。


「しゃーないな。よいしょっと」


隣で、高橋が迷いなく棚から荷物を下ろし始める。がっしりした体格と長い手足で、班員のキャリーケースを次々と地面に並べていく。


悠斗はその様子を、どこか複雑な気持ちで見上げていた。


(……俺も、いずれこうなるのか?)


今の自分の体は、治療の副作用で“中学生相当”の肉体に再構築されたもの。戸籍も、年齢も“十四歳”として登録された。


けれど、もしこの姿がただの副作用ではなく、文字通り時間を巻き戻した結果なのだとしたら――

(……若返りなんて普通に、国家レベルの事件だよな)


あり得ない。そう思いたい。

ただの治療。医学的処置。

だが、ふとした瞬間に湧く疑念は、どうしても消えなかった。


「よし、全部下ろしたぞー」


「助かるー!」「さすが高橋!」


クラスメイトたちの声に混じって、自分のキャリーケースが床に下ろされる音がする。


「……あ、ありがと」


「ん? ああ、気にすんな」


高橋は軽く笑って、ほかの荷物のチェックを続けた。


(体力も、背丈も、握力も、年相応。なのに意識は――)


ふと窓の外に目をやれば、京都の街並みが近づいていた。

見慣れているはずの景色なのに、なぜか少しだけ、懐かしい。


やがて新幹線は速度を落とし、京都駅のホームへと滑り込んでいく。


「うわあ、京都だー!」


「初めて来たー!」


生徒たちの歓声が響くなか、悠斗も立ち上がり、足元のキャリーを転がしながら扉の前に向かった。


プシューという音とともに、ドアが開く。


湿り気を帯びた独特の空気と、わずかに香る線香のような匂いが鼻をかすめる。


(……何年ぶりだ、ここに立つのは)


公安の任務で何度も訪れた駅。けれど、あの頃の自分とは何もかもが違う。ホームに降り立った足裏に、じんわりと現実味が広がっていく。


(今の俺は、修学旅行の“中学生”か……)


わずかに自嘲を滲ませながら、悠斗は混雑するホームへと踏み出した。



ホームに降り立つと、山本先生が手にした黄色い旗を高く掲げ、「はーい、班ごとに並んでー」と声を張り上げる。


各班が点呼を済ませると、そのまま京都駅ビルの2階テラスへと引率された。昼食はそこで、あらかじめ用意された弁当を全員で食べるらしい。


幕の内弁当には湯葉巻きやちりめん山椒など、“京都らしさ”を押し出した品々が詰め込まれていたが、生徒たちはあまり気にせず、弁当そっちのけでスマホのカメラを構えたり、景色に歓声を上げたりしていた。


その後、チャーターされたバスに乗り込み、いよいよ観光スタートとなった。


初日の行程はかなりの強行軍だ。


金閣寺、二条城、銀閣寺、清水寺、八坂神社――バスで移動しながら順に見学し、そのまま今夜の宿泊先となる旅館に向かうという。


(……移動だけで一日終わりそうだな)


バスの座席に沈みながら、悠斗はそんな感想を抱いた。けれど、まわりの生徒たちは、浮かれた表情で窓の外を見つめ、誰も疲れなど感じていないようだった。



最初の訪問地、金閣寺。

梅雨の合間の晴れ間が広がり、湿気を帯びた空気の中で、金色の屋根が陽光にまぶしく輝いていた。

観光客のざわめき、カメラのシャッター音、ガイドの拡声器――様々な音が混じり合う中、悠斗の班――彩花、由香里、高橋、圭太、悠斗の5人――は、南の駐車場エリア近くで次の予定を待っていた。


班長は彩花だが、実質的にはクラス委員長の由香里が班の進行を取り仕切っている。

その彩花が「トイレ行ってくる!」と赤いリュックを揺らし、ピンクのスニーカーを鳴らして走り去ったのが、もう10分前だ。


「彩花、遅えな。また迷子か?」

高橋が180cmの長身を伸ばし、スマホでサッカーのハイライトを流しながら呟く。サッカー部のエースで、6月の蒸し暑さにネクタイを緩めていた。


「アイツ、NowShotに夢中で時間忘れてんじゃね?」

圭太が野球部のキャップを後ろにずらし、ニヤリと笑う。ショートカットの快活な少年で、高橋とは悪友同士だ。


「彩花ちゃん、方向音痴なのに……私がちゃんと見ておくべきだった!」

由香里がロングヘアをかき上げつつ、スマホで金閣寺のマップをチェックしている。真面目な性格だが、天然な一面がときどき顔を出す。


「悠斗くん、どこにいると思う?」

「俺が探す。班はここで待機してて」

悠斗の声は落ち着いていて、どこか中学生らしからぬ鋭さがある。


「佐伯、マジで行くの?」と高橋が眉を上げ、

「チビなのにやるじゃん」と圭太がからかい、

「悠斗くん、頼もしいけど……戻ったらちゃんと報告してね!」と由香里が念を押す。


(チビ言うな……)


悠斗は内心で毒づきながら、すでにロジックを組み立てていた。

彩花は見学を終えてトイレに行くと言って離脱。再び本堂や池に戻る理由は薄い。トイレは近くに二箇所あるが、彩花の性格――SNS好きで、NowShotに夢中、“映え”スポットが好き――を踏まえると、トイレの後、北側の売店エリアで写真を撮っている可能性が高い。金閣寺を背景にしたアイス片手の自撮りは、確かに「映える」。


売店エリアのベンチに目を移すと――いた。


ショートカットの少女が、赤いリュックを脇に置き、ピンクのスニーカーを揺らしながら、金箔が載ったバニラアイスを手に自撮り中。

スマホを構え、「よし、バズる!」と満足げに呟く。


(……迷子どころか、完全に夢中じゃねえか)


呆れたように息を吐いた悠斗だったが、ふと悪戯心が芽生える。

「ちょっと脅かしてやるか」


低重心で足音を殺して近づく。158cmの体格を感じさせない、元公安の無音の動き。

彩花がフィルターを選ぶ瞬間、悠斗はその背後に忍び寄り、指先でそっと背中に触れる。


「お嬢ちゃん、動くな」

肩がピクッと跳ね、スマホが止まる。


「ゆっくり手を上げろ。ゆっくりだ」


その声と同時に、アイスを奪い取り、ニヤニヤとした口調に切り替える。


「一人で勝手に動いた罰として、アイスは没収する」


「えー! 佐伯くんじゃん、ひどい! びっくりした〜、返してよ〜!」


「集団行動できないと、山本先生がマジでキレるぞ。さっさと戻れ」


「ふふっ、じゃあ……その前に激写してやるっ!」


突然、彩花がスマホを構え、連射モードでシャッターを切る。

金閣寺を背景に、金箔アイスを手にした悠斗の不意打ちショット。


「おい、やめろって! 撮るな! 敵に――」


「敵!? ははっ、佐伯くんマジ面白い! これ絶対バズるって!」


悠斗は慌てて顔を隠すが、時すでに遅し。

チビな上にダサい姿でNowShotに上げられたら……!


(くそっ、180cmの“あの頃の俺”なら様になったのに……)


そこに班員たちが駆け寄ってきた。


「佐伯、すげーな! よく見つけたな!」と高橋が感心し、

「悠斗くん、ありがと! 私、委員長なのに管理できなくて……」と由香里が頭を下げ、

圭太が「ほら見ろ、バズってる! 彩花の写真も佐伯のもイイ感じ!」とスマホを覗き込む。


そこには――金閣寺の金箔を背景に、顔の大半を光で飛ばされた可愛らしい中学生男子の写真。

金色に反射した光が絶妙に顔を隠し、何とも間抜けな構図になっていた。


「……なんだかドッと疲れが出た……」

アイス片手に呆然と立ち尽くす悠斗は、魂ここにあらずの顔でバスの方へ向かっていく。


彩花が少し申し訳なさそうに「私……やり過ぎちゃった?」とぽつり。

由香里が苦笑しながら「かもね。でも、ちゃんとフォローしてあげて」と肩を叩く。


二条城に到着した班は、石垣と堀に囲まれた城門をくぐり抜け、重厚な空気の中に足を踏み入れた。

江戸時代の威厳が漂うその佇まいに、誰もが自然と背筋を伸ばす。


(……この近くに、京都府警本部と公安委員会があるんだったな)


悠斗は何気ないふりをして視線を遠くに向けた。城の外の、観光マップには載らない位置に、過去の自分が何度か出入りした建物がある。あの建物の廊下を歩いた記憶は、今のこの静かな風景とまるで繋がらない。


でも、それでも――。


「佐伯くん、写真撮るよー」と彩花が声をかけてくる。


「……ああ」と短く応じて、悠斗は今の自分の“班”の方に歩み寄っていった。


ガイドの案内に従って進んでいくと、班は鴬張りの廊下に差し掛かった。

足元からキィキィと鳴る音が響くたびに、時代の記憶が床下から立ち上ってくるかのようだった。


「これ、忍者対策なんでしょ!? 超カッコいい!」


彩花が目を輝かせながら言うと、悠斗が自然に応じる。


「まあ、そうだな。わざと床板が鳴るようにして、侵入者の足音を感知する仕組みになってる」


その説明に、由香里が感心してメモ帳を取り出す。


「悠斗くん、詳しい……。これはテストに出るかも!」


班はそのまま大広間へと移動し、ガイドが立ち止まると、声に少し重みを乗せて語り始めた。


「こちらが、大政奉還が行われた場所です。1867年、徳川慶喜が政権を天皇に返上しました」


「大政奉還って……幕府が終わったやつ、だよね?」


彩花が首をかしげると、悠斗はふと壁の装飾から目を離し、無意識のように口を開いた。


「大政奉還? 表じゃ慶喜が天皇に政権を返したって話だけど、裏じゃ薩長がイギリス製の武器でガチガチに武装して、慶喜を追い詰めたんだよ。幕府はフランスの支援で何とか持ちこたえようとしたけど、金欠と内輪もめでボロボロ。結局、武力を見せつけられて、慶喜は降参したようなもんだろ」


……その場の空気が、一瞬にして止まった。


「え……それ、ガイドさんも言ってないし、教科書に載ってたっけ……?」


彩花がまばたきも忘れたように呟いた。


「お前さあ、歴史オタクかよ? それ、完全にマニアの知識だろ」


高橋がニヤリと笑いながら肩をすくめた。


悠斗はしまったという顔で慌てて手を振った。


「いや、あの……図書館で読んだだけ。ほんとにそれだけ」


(まずい……これ大学時代に読んだ資料の記憶だ。中学で習う訳ねぇ……!)


「悠斗くん、まるで幕末を生きてた人みたい!」


由香里が天然な笑顔でぱちぱちと拍手。

圭太が吹き出しながらスマホを構える。


「これはもう、“歴オくん”だな! ほら、タグつけとこ」


「ちがっ……歴オくんじゃねえし! 二周目でもねえ!タグつけるな!」


必死に否定する悠斗だったが、時すでに遅しだった。銀閣寺に到着すると、班の視線が一斉に悠斗に集まった。スマホを構える圭太が言う。


「じゃ、歴オくん。解説よろしく」


「ちょ、お前ら……俺は、ガイドじゃねぇっての!」


由香里が天然な笑顔で首を傾げる。


「でも、悠斗くんに聞いたほうが分かりやすいし……」


しぶしぶ口を開いた悠斗が、ぼそっと話し始める。


「ここは、そんな面白い話があるわけじゃないけど……ここを作った足利義政って、応仁の乱のときの将軍だったんだ。京都が戦で焼け野原なのに、庭とか文化に逃げちゃった。家は跡継ぎ争いでボロボロ、家臣もまとめられなかったからね。だから、せめて庭とか茶の湯で、幕府の威厳を見せようとして銀閣寺を作ったんだよ」


「なるほど、将軍も必死だったんだな」

高橋が腕を組む。


「将軍っていうより、美術部引退寸前の部長みたいな」

圭太が笑いながら言い、彩花も吹き出す。


「でも、その趣味の結晶が今も残ってるってすごいね」

彩花がしみじみ言う。


「文化遺産って、そういう矛盾の上に立ってるもんなんだよ。争いと美意識の同居というか……」


「ちょっと、名言っぽいこと言わないでくれる?」

彩花が苦笑し、場が和んだ。


すると、高橋がぽつりと呟く。


「……正直さ、昔の寺とか神社って、ただの古い建物って感じだったんだけどさ。悠斗の話聞いてると、なんか興味出てくるな」


その言葉に、彩花も「うん、わかる。ちょっと見え方変わってきたかも」とうなずき、

由香里も「説明、すごく分かりやすいし……悠斗くん、先生になれるんじゃない?」と笑った。


悠斗はほんの少しだけ目を見開き、バツが悪そうに視線を逸らす。


「……だから、俺はガイドでも先生でもないっての」


そう言いながらも、悠斗は内心、ほんの少しだけ頬が緩むのを感じていた。

(公安として生きてた頃には、こんなふうに誰かに教えたり、感心されたりなんてなかったな……)


でも、この中学生の体になってしまってから、

――もし違う人生があったとしたら。

公安じゃなくて、歴史のガイドとか、先生とか……そんな道もあったのかもしれない。

第二の人生を歩んでるようなこの感覚が、思ったより悪くない。


それが照れくさくて、悠斗はひとつため息をついてから、無言のまま班の前を歩き出した。


駐車場に着くと、すでに半分以上の生徒がバスに戻ってきていた。すぐ後ろからも、同じ組の生徒たちの笑い声が近づいてくる。

このあとバスに乗って清水寺と 八坂神社を巡り、夕方には徒歩で市内の民宿へと向かう――それが、今日の行程だ。


清水寺では、悠斗の「清水の舞台は、釘を一本も使わずに組まれてるんだ」という説明に、彩花が「へぇー」と素直に感心し、由香里が「テレビで聞いたやつだ」と笑った。清水寺は情報がいっぱい出てるからね。


清水寺の本堂に入ると、観光客の流れに従って、悠斗たちもぐるりと柱のまわりを歩くことになった。


「これ、みんな無意識に柱に手を添えて回るんだよな」と悠斗が言いながら、自分もそっと手を当てた。


「なんか、そうしたくなるよね」と由香里。


「でさ、そのせいで、この柱の下の方だけ、何百年もかけて手の跡みたいに削れてるんだよ。ほんの浅い溝みたいになってる。人間の手だけで、少しずつ」


「え、マジで……」と圭太が目を丸くする。


「こすれて削れるって、そんなことあるんだ」と彩花も思わず柱を見下ろした。


「人間って、すごいな……」と高橋がぼそっと言って、みんなが思わず笑う。


悠斗はちょっと肩をすくめて、「すごいのはこの柱をここまで削った人の数だよ」とだけ言った。その後、舞台で写真を何枚か撮って、次の目的地へと向かう。

観光客の流れにまぎれて坂道を下っていくと、視界が開けてくる。


石畳の続く風情ある通りに、班の誰かが小さく声を上げた。


二寧坂――京都らしい古い町並みが続く、有名な観光スポットだ。


「ここが二寧坂。名前の由来は、近くに“二年坂”って呼ばれてたお寺があったとか、昔の元号の『二寧』から来てるとか、諸説あるんだけど……」


悠斗がいつもの調子で話し始めると、圭太が「出た、ウンチクタイム」と笑う。


「でな、この坂で転ぶと、二年以内に死ぬって言われてる。昔からある言い伝えらしい。気をつけろよ、高橋」


「おい、なんで俺限定なんだよ!」と高橋が軽くつっこむ。


「いや、高橋、さっきから足元ふらついてるから」と由香里が笑い、

「でも、こわ……私、絶対転ばない」と彩花が階段を慎重に下りる。


悠斗は笑わずに少しだけ間を置いて、「昔の人は、ただの迷信って片づけなかった。転ぶってことは、それだけ不吉だったんだろうな」とぽつりと言った。


軒を連ねる土産物屋の前を通り過ぎながら、悠斗がふと立ち止まる。


「あと、写真を撮るなら、ここ。高台寺方面を見下ろす場所とか、八坂の塔をバックにすると絵になるよ。京都の旅行パンフレットに、必ず載る場所だな」


その言葉に、圭太が「おお、見たことある!」とスマホを構え、

彩花も「わっ、ホントだ。ここだ〜!って感じ」と嬉しそうに声を上げた。


「これはインスタ映えってやつですな」と由香里が笑い、

高橋も「観光客になった実感出てきたな」と頷く。


悠斗は、少しだけ口元を緩めながら、みんながシャッターを切る様子を眺めていた。


八坂神社に着くと、境内は観光客で賑わっていた。

班のみんなが写真を撮りながら見ていると、悠斗がぽつりとつぶやく。


「……ちなみに、祇園祭ってあるだろ。夏に山鉾が町中を巡行するやつ。あれって、ここ、八坂神社の祭りなんだよ。山鉾はあっちで組んで練り歩いて、最後はこの神社に帰ってくる。終点ってやつ」


「マジで!? ここが終点なんだ?」と圭太が反応し、

「それ、テストに出るレベルじゃん」と由香里が笑った。


「そういうの、よく覚えてるねぇ」と彩花が感心したように言うと、悠斗は少し照れくさそうに目をそらした。


「……好きなだけ。別に暗記してるわけじゃない」


「観光ガイドのバイトできそうだな、マジで」と高橋が言って、班のみんなが笑った。


「ねえ、そういえばこの坂の近くに、おしゃれなラテアートのお店があるのよね」

そう言いながら、彩花がスマホを操作して画面をみんなに見せる。

表示されたのは、白いカップに繊細な葉の模様が描かれた、美しいラテの写真だった。


「ほら、これ!見て見て、超かわいくない?“アラビカ”ってお店らしいよ。地図だと……あ、すぐそこ!」


由香里がのぞき込んで「これ絶対映えるやつじゃん」と食いつき、圭太も「こういうの、修学旅行っぽいな〜」と笑う。


「お前が言うと妙にリアルだな」と高橋が茶化すと、

彩花は「うるさい、ほら行くよ!」と軽く笑いながら先に歩き出した。


悠斗は一歩遅れてついていきながら、内心ほんの少しだけ、苦笑していた。

(まるで引率の先生みたいだな、俺)


店の前に着くと、ガラス張りのカウンター越しに、バリスタが丁寧にラテアートを描いているのが見えた。

「わ、ホントに本格的……」と由香里が感嘆の声を漏らす。


それぞれ好みのドリンクを注文し、カウンター席でラテが提供されるのを待つ。

しばらくして、五つのカップが並んだ。ハート、リーフ、チューリップ、猫、そしてウサギ。


「せっかくだから、写真撮ろう!」と彩花が声を弾ませる。

五人がテーブルの上にカップを寄せ合って、まるで花が咲いたように並べた。


「もっと寄せて。悠斗、ほら、手が入ってない」と、由香里が軽く笑いながら指示を出す。

「はいはい」と言いつつ、悠斗も静かにカップを差し出す。


全員の手が写るように、彩花が角度を調整し、パシャッと一枚。


「うん、完璧! これ、あとで共有ね!」


その一瞬だけ、まるで何もかもが普通の“修学旅行”だった。


八坂神社に着くと、境内は観光客で賑わっていた。

楼門の朱塗りが鮮やかで、どこを切り取っても写真映えする。


山本先生が黄色い旗を掲げ、班ごとに集合をかけている。

「これから境内でお参りしたら、あとは徒歩移動で民宿まで。けっこうハードだな」

と高橋が少し顔をしかめると、由香里が「これぞ修学旅行ってやつだよ」と苦笑した。


班の皆が写真を撮りながら境内を歩いていると、悠斗がふと、楼門の方を見上げる。


「……ちなみにさ」

皆が足を止めた。

「祇園祭ってあるだろ。夏に山鉾が町中を巡行するやつ。あれって、この八坂神社の祭りなんだよ」

「え、そうなの?」と彩花が振り向く。

「山鉾は街なかで組んで、町を練り歩いて、最後はこの神社に帰ってくる。終点ってわけ」


「マジで!? ここがゴール地点なんだ?」と圭太が驚き、

「それ、テストに出るレベルじゃない?」と由香里が笑った。


そう言った意味もあってここが初日の最終地点なんじゃないか?


「そういうの、よく覚えてるねぇ」と彩花が感心したように言うと、悠斗は少し照れくさそうに目をそらした。


「……好きなだけ。別に暗記してるわけじゃない」


「観光ガイドのバイトできそうだな、マジで」と高橋が言って、班のみんなが笑った。


八坂神社での参拝を終えると、空はすっかり夕方の色になっていた。

山本先生の「じゃあこれから宿まで歩きまーす!」という声に、班の何人かが「まじか……」と小さくつぶやく。


だが、歩き始めると、思ったよりも悪くない。

石畳の道が続き、格子戸の並ぶ町家、ほのかに灯りのともる行灯。

祇園の街は、まるでタイムスリップしたかのような空気をまとっていた。


「……なんか、ほんとの京都って感じだね」

由香里が足を止めて、赤提灯の下を見上げる。


「わかる。観光地じゃなくて“暮らしてる場所”って雰囲気」と彩花も言う。


「でも、たまに芸舞妓さんが本物なのか観光客なのか分かんないよな」と圭太。

「写ルンですで撮ってそうな人が本物だよ」と高橋が笑いながら言って、みんなもつられて笑う。


悠斗はというと、少し後ろからそのやりとりを見守りながら、

(……この形じゃなかったら先斗町に行きたかったよな〜)と心の中でひとり思っていた。


歩き疲れた足を引きずるようにして、ようやく民宿にたどり着いたとき、あたりはすっかり夜になっていた。


宿に到着したときには、あたりはすっかり暗くなっていた。

木造二階建ての小さな民宿で、昔ながらの雰囲気がどこか落ち着く。


チェックインを済ませ、靴を脱いで玄関を上がると、木の床がぎしりと鳴った。

部屋ごとに荷物を置いて一息ついたところで、山本先生が「男子は先にお風呂ねー」と声をかける。


「やったー! 風呂風呂風呂!」

と、なぜか高橋が三回唱えてタオルを振り回しながら浴場へ走る。

「小学生なの……?」と由香里があきれた。


悠斗も小さく笑いながら、タオルを肩に引っかけてあとに続く。


* * *


風呂は意外と広く、洗い場も湯船も清潔だった。

湯気に包まれた浴室に足を踏み入れると、誰もが同じように「はー……」と声を漏らす。


「この瞬間のために今日があった……」

「足が完全に死んでたけど、復活したかも……」

「俺、明日も歩ける気がしてきた」


そんな中、悠斗は静かに湯に浸かり、目を閉じた。

――湯気の向こう、誰かが笑っている。湯船でふざけている。

でも、その風景は、どこか遠い。過去の記憶に重なるような、懐かしい風。


(……俺、何やってんだろうな、ほんとに)


ぽつりと思う。だがその思考は、高橋の声でかき消された。


「おい佐伯! 明日もガイドよろしくな!」

「……考えとくよ」

笑って返すと、また湯船の中に笑いが広がった。


* * *


夕食は広間に用意された。

湯豆腐、天ぷら、小鉢に季節の炊き込みご飯。豪華すぎず、でも丁寧に作られた料理が並ぶ。


「うまっ……これ、実家のよりうまいかも」

「お前、帰ったら親に怒られるやつな」


男子も女子も混ざって、にぎやかな食事。

テーブルの向こうでは圭太と高橋が箸でたけのこを取り合っていた。

由香里がそれを見て、「子どもか」と言いながら自分のをそっと悠斗の皿に置く。


「……ん、ありがと」

「今のうちにちゃんと栄養取っときなよ。明日も歩くんだから」


彩花も笑いながら頷いて、班の空気がすっかり馴染んでいるのを悠斗も感じていた。


* * *


次々に舞う枕の中、悠斗はひとり、どこにも当たらない。

当てようとしても、さりげない体のひねりやステップで、ふっと枕がすり抜けてしまう。


「おい! なんで佐伯だけ当たらねぇんだよ!」

「スナイパーでもかわされるってどういうこと!?」

高橋と圭太が頭を抱えて叫ぶ。


すると、襖の向こうから、


「……もう、うるさいってば!」

「子どもかっての!」


彩花と由香里が顔を出した。浴衣姿のまま、あきれたように睨んでいる。


「明日の予定の確認に来たんだけど」と彩花が言うが…


「はいはい、ごめんごめん」と高橋が手を挙げた瞬間――


ぽふっ。


「ちょ、何すんのっ!?」


高橋の手元が滑ったのか、それともわざとなのか、枕が彩花の肩に直撃した。


「……あんたねぇ……」

彩花がゆっくり枕を拾い上げる。


「やるしかないか」と由香里も苦笑い。


二人が静かに部屋に入ってきて、それぞれ枕を手に持った時、男子たちは一瞬固まった。

次の瞬間、再び枕が宙を舞う。


「そっち行ったよ彩花!」「了解っ!」


「由香里、それは反則! 顔面はやめてー!」


とはいえ、先生に見つかって怒られるのはマズい。

声のボリュームは抑え気味、布団の山の間で身をかがめながらの“静かな枕合戦”が続く。


悠斗は相変わらず一発も当たらず、枕がかすりもしない。

むしろ、当てようとした側がバランスを崩して転ぶ始末。


「佐伯、ほんと動きおかしいって……!」

「中学生の動きじゃないよそれ!」

「忍者かよお前!」


そのたびに布団の山に笑い声がこだまする。


そんなこんなで、ようやく先生の足音が聞こえてきた頃、

全員が布団に潜り込み、「すやすや演技」に切り替えるまで、あと十秒とかからなかった。


「おい、なんで佐伯悠斗だけ当たんねーんだよ!」

「おかしいだろ、それ! ステルス技能持ちかよ!」


「別に避けてるつもりはないけど……?」と肩をすくめて返すと、

「それがまたムカつく!」と叫ぶ高橋に、部屋が爆笑に包まれる。


誰かが電気を少し暗くして、布団を敷き直す頃には、もうみんな汗だくで、笑い疲れていた。

窓の外には、京都の夜の静けさが広がっていた。


もちろん、中学生が同衾するわけにはいかない。

女子二人は「はいはい、じゃあねー」と名残惜しそうに男子の部屋を出ていき、襖がそっと閉じられた。


一気にしんとした空気が戻ってくる。

さっきまで枕を投げ合っていた部屋とは思えないほど、静かだ。


「……なんか、あっという間だったな。今日」と高橋が布団に潜りながらつぶやく。


「ほんと。詰め込みスケジュールすぎだろ」と圭太が返し、誰かが小さく笑う。


悠斗は仰向けになって、天井を見つめていた。

部屋の明かりはもう消えていて、窓のカーテンのすき間から、外の街灯がうっすら差し込んでいる。


(“二回目”の修学旅行か……)


自分だけが、違う時間を生きている。

でもそれを、誰にも悟られず、こうして同じ布団の並びで笑っていられる。

それが、少しだけ――あたたかかった。


どこかの布団から、微かな寝息が聞こえ始める。


悠斗はそっと目を閉じた。

夜の京都に、静かで穏やかな時間が流れていた。


* * *


修学旅行もいよいよ二日目。今日からは、班ごとの自由行動が始まる。


悠斗たちの班は、まず嵐山に向かい、その後、伏見稲荷大社を訪れる予定になっていた。

時間に余裕があれば、市内に戻って仁和寺や南禅寺、平安神宮といった名所にも立ち寄るつもりだ。


事前に立てた計画では、観光ルートも食事場所も一通り決めてある。けれど、予定通りに進むとは限らないのが、こういう旅の常。


ましてや――事件が起きるなんて、この時点では誰も思っていなかった。


竹林を抜けると、すぐ先に渡月橋が見えてきた。遠くに小さく桂川がきらめき、観光客で賑わっている。


「やっぱ京都っていいなぁ〜」と、圭太がスマホで景色を撮りながら感嘆する。


だがその平和な時間を打ち破るように、由香里が青ざめた声で叫んだ。


「ちょ、ちょっと待って……! 財布がない!」


「え?」と、班の全員が振り返る。


「バッグに入れてたのに……嵯峨野のソフトクリーム屋で買ったときはあったの。でも、そのあとは触ってない」


一瞬、緊張が走る。班全員の目が由香里のバッグに集中する。財布は確かに、消えていた。


「落としたんじゃね?」と高橋が言うが、悠斗は眉をひそめて首を振る。


「落としたなら、何か音がしたり、重さで気づくはず。でも、由香里はまったく気づいてなかった。それに、財布が入ってたポケット……開いてた?」


「ううん、チャック閉まってたと思う……」と由香里。


悠斗は竹林の道を振り返った。観光客でごった返していたあの狭い通路。そのときのことを頭の中で巻き戻す。視線を走らせ、記憶のディテールを探る。


(――あのとき、由香里のすぐ後ろにいたのは……)


「東南アジア系の団体客だ」悠斗が小さくつぶやく。


「え?」と彩花が聞き返す。


「竹林の中で、俺らの後ろにピッタリ張りついてた。普通の観光なら距離をとるはず。でもあのグループ……やたらと近かった」


「まさか、スリ……?」


「おそらくね。混雑に紛れて、バッグのチャックを開けて中身を抜いたんだろう。バッグ自体に乱れがないのはプロの手口だ」


悠斗はすでに視線を先へ向けていた。渡月橋へ向かう道の端、あの団体客らしき集団が見え隠れしている。


「行くぞ」悠斗が声をかけ、足早に追いかける。


悠斗は周囲の観光客を縫うように、目を離さずに歩き続ける。視線の先には、竹林ですれ違った東南アジア系の団体の姿があった。小さなバックパックを背負った若者たちが数人、笑い合いながら川沿いを歩いている。


「いた……あいつらだ」


「え、マジで?」圭太が驚いたように目を見開く。


「証拠は?」高橋が冷静に尋ねた。


「まだ無い。でも怪しい。警察に突き出すなら、それなりの材料が必要だ。少し様子を見る」


悠斗は川沿いのベンチに腰を下ろすふりをして、スマホを取り出し、画面越しに団体の挙動を観察する。彼らは、周囲をやたらと気にしながら歩いている。時折立ち止まっては、仲間同士でひそひそ話をしていた。


そして、その中の一人――赤いウインドブレーカーを着た青年が、川辺の茂みに不自然に立ち寄った。


「……あれだな」悠斗がつぶやく。


青年がポケットから何かを取り出し、植え込みの中にそっと落とす。すぐに何事もなかったように引き返した。


「今、何か捨てた」


「もしかして、由香里の財布!?」彩花が息を呑む。


悠斗は周囲を確認してから、すぐに茂みに駆け寄り、中をのぞき込んだ。


あった。紫色の小さな財布。


「間違いない。これ、由香里のだよな?」


「うん、うん、絶対そう! 私の!」


彩花と由香里が頷く。


「中のお金は全て抜き取られてるけどね」


「じゃあ、警察に通報しよう!」高橋がスマホを取り出しかけたが、悠斗はそれを制した。


「いや、ちょっと待て。いま職質しても、証拠はこの財布しかない。それも、“落ちてた”って言われたら終わりだ」


「でもどうすんの? 逃げられたら……」


悠斗は一瞬黙り、目を細める。


「方法はある。あいつらはたぶん、別のターゲットも探してる。尾行する」


「え!? そんなの……」と由香里が言いかけたが、悠斗は既に歩き出していた。


団体客は観光バス乗り場の近くまで来ていた。そこでまた何組かの観光客に紛れ、周囲をうかがっている様子だった。


「見て……また誰かのバッグに近づいてる!」彩花が小声で言う。


「よし。これで二回目。決定的な瞬間を撮る」


悠斗はスマホを構え、バッグに手を伸ばしかける一瞬を動画で撮影する。青年は気づかずにその場を離れた。


数分後――悠斗は近くの交番に向かい、財布の回収と状況の説明、そしてスマホで撮影した動画を提示した。


若い警察官とベテランらしき警部補が交互に画面を見つめ、真剣な表情になる。


「……この映像、決定的ですね。完全に手を伸ばしてます」


「本人の証言もあるし、現場から財布も見つかってる。これは動けるぞ」


警部補が立ち上がり、無線を手に取った。


「こちら交番、本部に連絡。観光地付近でのスリ事案、映像証拠あり。容疑者は東南アジア系の旅行者グループ、現在も現場付近に滞在中。職務質問の準備をお願いします」


若い警官が悠斗に向き直る。


「君、よく冷静にここまで動いたね。正直、君みたいな中学生は見たことないよ」


悠斗は小さく笑ってごまかす。


「……図書館でよく本を読んでただけです」


「いや、これ“図書館”レベルじゃないよ。ありがとう。本当に助かった」


警察官はそう言い、深く一礼した。


警察の警官が悠斗のスマホを確認しながら頷いた。赤いウインドブレーカーの青年と仲間たちは、やがて警察に呼び止められ、事情を聴かれることになった。


財布は中に入っていたショップのカードの名前で由香里のものと判明し、拾得物として本人に返された。けれど、中の現金――七千円ほどは、きれいに抜き取られていた。


「現金は……まあ、仕方ないよね」


そう言った由香里の声には、少しだけ悔しさが滲んでいた。


悠斗は、しばらく何も言わずに彼女の横に立ち、ふと小さくつぶやく。


「お土産とか、あるんだろ?」


由香里が顔を上げると、悠斗はポケットから財布を取り出しながら、視線を逸らした。


「……俺、キャッシュカードある。必要なら、少し貸すから」


「え……でも、それって……」


「困ってるときは、助け合いってことで。返すのはあとでいい」


由香里は一瞬、言葉に詰まり、それからそっと笑った。


「……ありがとう。じゃあ、遠慮なく甘えさせてもらおうかな」


「返すのは、次の登校日でいいから」


悠斗はそっけない口調で言ったが、その視線はどこか気まずそうに泳いでいた。


「それと……ほんとに、ありがとうね。財布、見つけてくれて」


由香里が小さく、でもまっすぐに言った。


「中身はなくなっちゃったけど……それでも、財布がなくなったままより、ずっとよかった」


「別に、大したことしてないよ。偶然あいつらが落としたのを見ただけだから」悠斗はそう言って手を振った。


「それでも、助かったの。ありがとう、悠斗くん」


そう言ってにっこり笑う由香里の顔は、どこかいつもより大人びて見えた。


* * *


嵐山では思わぬ事件に巻き込まれ、予定よりも行動が遅れてしまった。

それでも財布が見つかったこと、そして由香里の冷静な報告により、班は無事、次の目的地――伏見稲荷神社へと向かうことになった。


「先生には、私から連絡しておいたよ」

電車に揺られながら、由香里がそう言ってスマホを胸元に戻す。


「ありがと。おかげで、怒られずに済みそうだな」

悠斗が少しホッとしたように言うと、圭太が笑いながら口を挟んだ。


「ていうか、財布事件がなかったら、俺たち今ごろ抹茶ソフト3本目だったかもな~」


「それはそれでヤバいけどね」

彩花が吹き出し、車内にちいさな笑い声が広がった。


ふと、由香里が窓の外を眺めながらぽつりとつぶやく。

「でもさ……この事件があったから、たぶん今回の修学旅行、ずっと忘れないと思う」


「うん。行動も分析も、マジで探偵だったわ」

圭太が笑いながらスマホをいじる。


「しかも、歴史の知識までフル活用してるし」

彩花が頷く。


高橋がニヤリとして言った。


「名探偵・歴男の誕生だな」


その言葉に、全員がどっと笑った。


悠斗は軽くため息をつきながら、窓の外に流れる鴨川を眺めた。

(名探偵に、歴史オタク……そんな肩書きいらね〜よ)


* * *


電車に揺られてたどり着いたのは、JR奈良線・稲荷駅だ。

駅のホームを出てすぐに、伏見稲荷大社の赤い大鳥居が目に入る。


「駅からすぐなの、便利だよね」と由香里がスマホで撮影を始める。


「なんかもう、いかにも観光って感じ」と彩花が笑い、

「いや、修学旅行だから観光で合ってる」と圭太が返す。


鳥居をくぐり、参道を歩くと、午後の時間帯でも人の姿は多い。

観光客の熱気と、ほんのり汗ばむ陽射しに、皆の足取りもややゆっくりだ。

外国人観光客の姿も目立ち、境内はにぎわっていた。


「やっぱ人気あるんだな、ここ」と高橋が言うと、悠斗は頷いて答えた。


「伏見稲荷は、全国の“お稲荷さん”の総本社だからな。観光だけじゃなく、信仰の場としても特別なんだ」


「うわ、出た。名探偵・歴男」と圭太がすかさずツッコミを入れ、由香里がクスクスと笑う。


やがて、本殿を横に抜けると、山の麓にずらりと並ぶ“千本鳥居”が現れた。

朱塗りの鳥居が、山の中へと続く小道を覆い尽くしている。


「わあ、写真では見てたけど…これが全部鳥居なの?」と彩花が感嘆の声を漏らすと、悠斗が歩きながら、ぽつりと話し始める。


「この鳥居ってさ、毎日少しずつ建て替えたり、メンテナンスされてるらしいぞ。常に数本単位で更新してるから、こうやって綺麗な状態が保たれてる。探せばペンキ塗りたての鳥居もあるかもよ」


「へえ〜、知らなかった」と彩花が振り向き、

「毎日って……管理してる人、めっちゃ大変じゃない?」と由香里も驚いたように言う。


「鳥居には寄進者の名前が書いてあるだろ。企業とか個人が奉納してるんだ。有名人の鳥居を探すのも面白いかもよ」


「へぇ、そんな楽しみ方もあるのか、よし!有名人探すぞ!」


圭太が意気込んで駆け出す。由香里と彩花もつられるように、朱色のトンネルの中をきょろきょろと見回しながら歩き出した。


「ちょっと、先に行きすぎないでよー」と由香里が言うも、すでに圭太は鳥居に顔を近づけ、柱に刻まれた名前を読み上げていた。


「うーん……株式会社なんとか建設……あ、これは違うな」


「読めない漢字ばっかり」と彩花が苦笑しながらも、スマホをかざして撮影を始める。


「意外と、芸能人とかの名前は奥の方にあるって聞いたけど」と悠斗がぼそりと言うと、由香里が驚いたように振り向く。


「え、そうなの? じゃあ、登る?」


「結構距離あるけどな。山の中腹くらいまで行くよ」


「よっしゃ、遠足ついでに運動だ!」と圭太が軽快に歩を進め、班は鳥居のトンネルを上へ上へと進んでいった。


だが、しばらく登ると――


「ねぇ、これ……思ったより、登るね」彩花が額の汗をぬぐう。


「完全にハイキングじゃん、これ……」と由香里も息を整えながら言う。


「もう少しで途中の分かれ道だ」と悠斗が案内する。


「……ふうっ。意外と、長いなここ」と高橋が少し息を切らしながら呟いた。


「最初テンション上がりすぎたかも……」と由香里も足を止め、振り返る。


「でもなんか達成感あるね。千本鳥居をここまで登ったって」と彩花が笑う。


「まだ山の途中だけどな」と悠斗が小さくツッコむと、


「えっ、マジで!? もう終わりかと思ってた……」と圭太が思わず天を仰いだ。


「まあ、この辺で折り返そっか」と由香里が提案すると、誰も異論はなかった。


「千本鳥居、舐めてたわ、こんなにハードだと思わなかった!」


鳥居を下り、再び本殿付近まで戻ってくると、境内には参拝客の姿が増えていた。


「ねぇ、あそこにおみくじあるよ」と彩花が指差す。


「引いてみる? せっかくだし」と由香里が言い、班の全員が列に並ぶ。


賽銭を入れて、順番に小さな木箱からおみくじを引いていく。


「やった! 中吉!」と彩花が声を上げ、


「お、俺も中吉。恋愛運が“想いは通じる”だって!」と圭太がにやにや笑いながら紙を見せる。


「私は小吉……うーん、可もなく不可もなく、って感じかな」と由香里が苦笑いする。


悠斗はひとり、淡々とおみくじを開いた。


「……凶か」


周囲が一瞬、静まり返った。


「えっ、マジで!?」と高橋が覗き込む。


「“旅:災難あり。慎重に行動せよ”って書いてある……」と悠斗が紙を指で摘みながら、苦笑する。


「こわっ。そんなの出るんだ」と彩花がやや引き気味に言うと、由香里が「もう私は既に災難に遭ってるんだけど、これ以上何か起きるのかな?」


「逆にレアなんじゃない? ある意味ラッキーだよ」と圭太がフォローを入れた。


「……これ、持って帰っていいやつかな」と悠斗が神職の方を見やる。


「たぶん結んで帰るのが定番でしょ」と由香里が答え、みんなで境内の一角に設けられた結び所へと向かう。


それぞれのおみくじをくくりつけていく中で、悠斗はふと、少し空を見上げる。


(旅行で災難、か……)


何気なく口元を引き締めるその横顔に、仲間たちは気づかなかった。


* * *


班別行動の二日目が終わり、修学旅行も三日目を迎えた。

この日はクラス全体での団体行動。朝の集合時間に遅れる者もなく、バスに乗り込んだ一行は、宇治にある平等院へと向かう。


バスの窓から見える景色が徐々に静かな町並みへと変わっていく中、彩花がぽつりと呟いた。


「……なんか、京都よりのんびりしてる感じ」


「お茶の香り、しそうだな」と高橋が言い、圭太がそれに鼻をすんすんさせて笑う。


やがてバスは平等院のすぐ近くに到着。悠斗たちの班も、引率の先生の後について平等院鳳凰堂の正門をくぐる。

朝の光を浴びた池のほとりに、翼を広げたような優雅な姿の建物が現れた。


「わぁ、10円玉と一緒だ……!」と彩花が目を丸くする。


「……ってことで、はい、比較タイムです」


悠斗が懐から10円玉を取り出すと、他のメンバーも続々と財布から取り出し、みんなで鳳凰堂を背景に10円玉をかざす。


「うわ、本当にそっくり!」


「本物のほうが立体感あるな。って当たり前か」


「これって何時代の建物?」と由香里が尋ねると、


「平安時代だよ。藤原頼通が建てたんだ。極楽浄土をこの世に表現したって言われてる」と悠斗がすかさず答える。


「また出た、名探偵・歴男」と圭太が茶化し、皆が笑いながら池の周りを歩いていく。


その後、鳳翔館という資料館に入り、建物の構造模型や壁画の展示をじっくりと見学。中でも全員の足を止めたのは、金色に輝く「鳳凰像」だった。


「これ、国宝なんだよね……なんか、飛んでいきそう」


由香里の言葉に皆が頷いた。悠斗も、しばし無言で鳳凰を見上げる。

(……理想郷を夢見た時代の“祈り”か)


修学旅行という賑やかな行事の中で、思わず時間を忘れるような静かな空気が流れていた。


* * *


平等院の見学を終えると、バスはそのまま南へと進み、奈良へと入った。


「鹿せんべいってまだ売ってるかな〜」と彩花が車内で言えば、


「売ってなかったら、自分で焼くしかねーな」と圭太が冗談を飛ばす。


「そんなスキル持ってる中学生いるか!」と高橋が即ツッコミを入れ、車内に笑いが広がる。


奈良公園に到着すると、すぐに鹿たちが出迎えてきた。


「おー、ほんとに人懐っこいな……ていうか、馴れすぎじゃない?」


「せんべい持ってないってばぁ!」


鹿たちは観光客に慣れており、せんべいを持っていると見るや否や、遠慮なく寄ってくる。

彩花がビニール袋を開けただけで、数頭の鹿が群がってきて、彼女が小さく悲鳴を上げた。


「圭太、助けて〜!」


「おれ!? いや、こいつら意外と力強いって!」


「うわ、制服に鼻水つけられたー!」


一方で悠斗は、少し距離を取って、鹿の群れを眺めていた。

人間と動物の距離がこれだけ近い場所も珍しい、とふと感じる。


やがて班は、東大寺へと向かった。大仏殿の前に立った瞬間、その巨大な木造建築に誰もが言葉を失う。


「これ、建てた人すごすぎない?」


「昔の人のスケールって、ほんとバグってるわ……」


靴を脱ぎ、堂内に入り、悠然と座する奈良の大仏――盧舎那仏像を見上げると、さらに圧倒される。


「……写真で見てたより、ずっとすごい」


「なんか、優しい顔してる」


悠斗はしばらく無言のまま、その目を見つめていた。

(壊そうとする人間がいても、それを超えて、造る人間もいる)


何気なく、掌を合わせる。言葉はなかった。


その後、班は大仏殿の柱くぐりにも挑戦。

「この穴を通れると、無病息災らしいよ」と言われて、彩花と圭太が面白がってチャレンジ。


「意外と狭っ! 腰ひねって……よいしょっ!」


「うわ〜っ、ぎりぎりセーフ!」


無事通り抜けて拍手が起きたあと、高橋が「いや、俺は無理だって!」と尻込みし、皆に促されながらも最後はトライする羽目になっていた。


「観光って、結構体力いるよな……」と帰り道で圭太が言うと、


「でも、思ったより楽しいよ」と由香里が笑顔で返す。


「これが思い出ってやつか」と悠斗も静かに口元を緩めた。


そうして班の一行は、再びバスに乗り込んだ。


土産物屋の軒先。鹿の絵葉書や奈良限定のお菓子が並ぶ一角で、数人の男子高校生が女子グループに距離を詰めていた。


「いや、ほんとにRINEだけでいいって。写真も撮ろーぜ?」


「ちょっと離れてくれない? こっち、買い物中なんだけど」


真ん中にいたのは、3組の大沢美沙希――由香里の地元小学校の元クラスメイトだった。彼女を含む女子5人は明らかに困っていたが、男子たちはしつこく絡み続けていた。


その様子を目にした由香里の表情が固まる。迷いなく歩を進め、割って入った。


「――やめてくれない? これ、普通に迷惑だから」


唐突に割り込んできた中学生に、男子のうち一人が眉をひそめた。


「んだよ、お前も誘って欲しいのか?……」


「そんな訳ないでしょう。ほら、あんたたちこそ修学旅行中でしょ? トラブルになったらどうなるか、分かってる?」


「へー……口は達者みたいだな。でもさ、中学生がいきってんじゃねーよ」


もう一人が挑発的に肩を揺らして前に出てくる。

その瞬間だった――


「――っ!」


バタン、と乾いた音が響いた。


一人の男子が、唐突にバランスを崩し、膝から崩れ落ちるようにして倒れた。


「……え? ちょ、おい、大丈夫か!?」


仲間たちが一斉に駆け寄るが、本人は目を見開いたまま、うまく反応できず、呂律も回らない。


その脇から、悠斗がすっと現れた。手には買い物袋を提げたまま、いかにも“何かに気づいた風”な表情をしている。


「――彼、熱中症かもしれませんよ。顔、真っ青。倒れる直前、ぐらついてましたから」


「え……?」


「すぐに日陰で座らせた方がいい。このままだと倒れた時に打った頭の方が危ないですよ」


男子高校生の一人が顔色を変え、倒れた仲間の肩を抱えるようにして立ち上がらせようとする。


「おい、大丈夫かって、マジで……やべえじゃん」


「救護所はあっちにあるはず。早く連れて行ってあげてください」


「……チッ。わかったよ。行くぞ、お前ら!」


空気が一気に変わり、男子たちは倒れた仲間を支えるようにして引き上げていった。


悠斗はその背中を見送り、誰にも聞こえないくらい小さくつぶやく。


「顎の下を掠めるくらい……正確に、脳を揺らせば、3秒で崩れる」


すぐ隣で様子を見ていた由香里が、視線を向けてくる。


「……まさか、今の悠斗くんがやったの?」


「これ以上のトラブルは勘弁してほしいからね」と言って、悠斗はわざとらしく肩をすくめてみせた。


「……とぼけ方が慣れてるっていうか、逆に怪しいし」と由香里が呆れ顔で返す。


「気のせいだよ。ちょっと空気を読んだだけさ」


「その空気の読み方、特殊技能すぎるって」


そう言いながらも、由香里の声はほんの少し安心していた。悠斗の“何か”が状況を収めてくれたことは、誰より彼女自身が分かっている。


「でも、ありがとね。私だけじゃ、うまく止められなかったかもしれないし」


「礼なんていいよ。こっちの修学旅行まで台無しになったら困るから」


「……うん」


二人の間に少しだけ沈黙が落ちる。けれど、それは居心地の悪いものではなかった。


やがて土産物屋の外に出ると、彩花が手を振って駆け寄ってきた。


「やっと戻ってきた! 何してたのー? さっき、ちょっと騒がしかったけど?」


「……ちょっとね。由香里が鹿に睨まれてたんだよ」と悠斗がとっさに作り話を挟むと、


「ちょっと! 人聞き悪すぎるでしょ!」と由香里が思い切りツッコミを入れた。


笑い声と共に、班は再び奈良公園の賑やかな空気の中へと歩き出した。

トラブルはひとつ越えた。だが、修学旅行はまだ終わっていなかった。


最終日、最大のトラブルが待っていた。


* * *


京都駅の地下に広がる土産物店の通りは、平日にもかかわらず多くの観光客で賑わっていた。

渡川西中学校の3年生たちも、修学旅行最後のお土産タイムに心を躍らせ、店先をあちこち巡っていた。


「やっぱ八つ橋は鉄板でしょ。ほら、この抹茶味も美味しそう!」と彩花が目を輝かせて言うと、

「うちは家族みんなニッキが苦手だから、チョコにする」と由香里が別の箱を手に取る。


「おい、この『生』ってのは何が違うんだ?」と圭太が首をかしげ、

「賞味期限が短いやつだよ。家に着いたらすぐ食べてもらわないとダメなやつ」と高橋が答える。


悠斗は少し離れたところで、包装紙の裏面をじっと見つめていた。

(原材料、製造元、保存方法……成分にやたら詳しいな、と言われるのにも慣れた)


「佐伯くん、誰にあげるの? その真剣な選び方、気になるんだけど」と彩花が笑いながら覗き込む。


「……まあ、ちょっと世話になってる人に」


その一言に、何となく班の空気が和らぐ。


――そして、その後。


「14時に駅のホームに向かいます。お土産はそこまでで買い終わるようにね」先生の声が通路に響き、同時に各班の班長たちは周囲を見回し始めた。


「全員そろってる?」「あと高橋だけ……あ、来た来た!」


名残惜しそうに袋を提げた生徒たちが、ひとつまたひとつ、改札へと向かって歩き出す。


そして東海道新幹線「のぞみ448号」が午後14時15分、大阪駅を発車。その15分後京都駅に到着した。渡川西中学校の生徒も京都駅から、のぞみ号に乗車した。


16両編成、乗客数、約850名――静かで、平穏な移動のはずだった。


だが、列車が名古屋駅を過ぎたあたりで、公安の緊急回線に一本の通信が入った。


「――我々は、“シャドウ・シンジケート”。要求はただ一つ。拘束されている仲間の解放だ。応じなければ……“のぞみ448号”を爆破する」


30秒にも満たない音声通話。

だが、それは日本の中枢に警報を鳴らすには十分だった。


直後、1号車から6号車までの監視カメラが一斉にブラックアウト。

公安指揮所に設置された大型モニターが赤く点滅し、緊急対応態勢へと切り替わった。


警視庁公安部・臨時指揮室。

重い空気の中で、佐藤は沈黙のままタブレットをスクロールし、ある団体の名前を見て指を止めた。


――渡川市立西中学校 生徒105名。引率5名 計110名――


その中学校には表面上、田舎の中学に通う14歳の少年。

だがその正体は、公安の元諜報員にして、対テロ作戦のスペシャリスト。

コードネーム「ファントム」が在籍していた。


佐藤は思った。(なんというピンポイントでその新幹線にお前が乗ってるんだ。悠真、お前、呪われているんじゃないか?)


佐藤は短く息を吐くと、即座に専用通信を開いた。


『……悠真、聞こえるか?』


「……佐藤さん? その声、久しぶりですね。いやな予感しかしないんだけど」


『ああ、的中だ。お前、今、のぞみ448号に乗っているだろう?何号車だ?』


「渡川市立西中学校は11号車と12号車に乗ってますね」


『今、お前が乗っている“のぞみ448号”がジャックされた。犯人は“シャドウ・シンジケート”の残党を名乗っていて、仲間の解放を要求している。要求が通らない場合、列車を爆破させるそうだ』


「……マジかよ」


『1〜6号車の監視カメラが同時にダウン。修学旅行の団体は11〜16号車に集中している。つまり、テロリストは修学旅行の子どもたちも含めて新幹線ごと人質にとった訳だ。前方6両が全て貸切車両で、3校の生徒が乗っている。そして犯人はそれより“後方”の車両に潜伏している可能性が高い』


「……子供が人質ですか、悪趣味な奴らですね」


『ああ。そして爆弾も、既に車内に持ち込まれていると見ていい』


悠斗は小さく舌打ちし、目を伏せる。

(あいつら……まだ生き残ってたのか)


『すまんが動いてくれないか。今、内部で対応できるのはお前しかいない』


「もう、こんななりになっちまったから、お役御免なのかと思ってたんですけどね。了解。装備は……レザーマン一本だけですけど、文句は言えませんよね」


『使えるものは、中学生でも使うのが我々だよ。装備については、お前ならそれで十分だろう。スマホのカメラで怪しい人物を中継してくれ。こちらで顔認証をかける。同時に、ネゴシエーターを準備中だ。犯人に通話を繋げば、反応から仲間の位置を洗い出せる』


「……現場分析と心理戦、両方ですか。まさに“嫌な予感”的中ってわけですね」


『頼む。乗客850名の命が、お前の目と判断にかかっているんだ』


悠斗はひとつ息を吐き、背筋を伸ばした。


「ラジャー」


悠斗はスッと立ち上がり、自分のキャリーケースからガジェットケースを取り出すと隣に座っている彩花に「ちょっとトイレに行ってくる」とだけ言い残しデッキへと姿を消した。


「あんな荷物持って、トイレで何するつもりなんだろう?」

彩花がぽつりと呟いた。


隣の由香里も小首をかしげながら、「さぁ? トイレ用に、マイティッシュとか持ち歩いてるのかな?」と笑った。


「いや、ティッシュにしちゃ、やたらゴツいよね。あれ。工具箱みたいな感じだったけど……」


「男子って、たまに妙なコダワリあるからねぇ」


そんなやり取りを交わしながら、二人は特に深くは考えず、車窓の風景に視線を戻した。




10号車のデッキ。


悠斗はスマホを立ち上げ、カメラを起動して佐藤に映像を中継しながら、静かに前方車両へと進む。


(乗客の目線、手の位置、呼吸の速さ、荷物の位置、表情の硬さ……すべてがヒントになる)


9号車、8号車、7号車。

監視カメラがまだ生きている範囲。ここまでは問題なし。


そして――6号車。


(ここからが“闇”だ)


監視カメラの死角。

車内は静かだが、異様な緊張が張り詰めている。


そんな中、悠斗は一人の男に目を止めた。


黒のスーツ。薄いレインコート。右腕を妙に庇い、足元のバッグを不自然な位置に引き寄せている。


悠斗はスマホのカメラをそっと男に向け、佐藤に囁く。


「6号車、右窓側。40代男性。スーツ。右腕にワイヤーのような膨らみ」


『映像受信中……照合開始』


数秒後、佐藤の声が低くなった。


『……カール・ミナミダ。シンジケートの爆破工作担当。記録上は死亡扱いだったが、どうやら生きていたようだ』


「電話を。ネゴシエーターを通して、奴らの端末に発信してください」


『10秒以内に発信する』


悠斗は身を沈め、6号車の通路を見渡す。

ミナミダが通話に応じる。周囲がピクリと反応する――


3列後方、ノートPCをそっと閉じた男。

窓側にいた女性が、不自然に背中をこちらに向けて庇うような動き。

もう一人、通路側の男が上着を握り直した。


悠斗の中で、全てが繋がった。


(6号車に3人、5号車に1人。起爆装置と爆弾はこの2両に分散して持ち込まれてる)


彼は静かに佐藤に報告する。


「犯人は4人。起爆装置保持者は6号車・ミナミダと、5号車後方の男。5号車の最後尾座席の後ろに、不自然に置かれた黒いスーツケースあり」


『確認。爆弾の主装置は5号車か。車掌に5号車のドアを封鎖させる。隔離が完了次第、一斉拘束に移る。それまでに爆弾を無力化してくれ』


「……最悪、誤爆もありますね」


『信じている。お前を』


悠斗は、スーツケースが置かれている後部座席の通路を一度素通りし、トイレのふりをして後部デッキの扉に身を寄せた。


(――あのスーツケースだ。間違いない)


監視役と思われる男は、通路を背に新聞を広げている。だが、視線は明らかに紙面ではなく、反射で車内全体を監視しているようだった。


悠斗はシャツの袖口に手を入れ、小型ミラーをそっと取り出す。反射越しに角度を調整し、男の動線を読み取る。


(あと10秒……新聞をめくる瞬間が来る)


ほんの数秒前、自分がこの通路を通ったとき、男はまったく警戒の色を見せなかった。


(やっぱり“中学生の修学旅行生”ってだけで、完全にノーマークになるな……。この見た目も、悪くないな。いまのところは)


にやりと口元だけで笑みを作ると、悠斗は呼吸を整えた。

身を低くし、新聞の“隙”が生まれるタイミングを、正確に、冷静に待ち構える。


やがて、男が指を滑らせて新聞を折り返した。その一瞬の「意識のブレ」を突いて、悠斗はしゃがみ込み、両手でスーツケースのハンドルを握った。


車輪の音が出ないよう、ケースを少し浮かせ、低姿勢のまま滑るように後部デッキへと運ぶ。車両の揺れに足を合わせ、呼吸を潜めて移動した。


――移動完了。わずか十数秒の攻防。


悠斗は5号車の後部デッキにしゃがみ込み、スーツケースを前に置いた。サソリナイト製の旧型――だが、鍵は明らかに改造されていた。


(……市販品じゃないな。キーシリンダーが封印されてる。電気式のロック?)


慎重に耳を寄せると、内部からかすかに「チチチチ……」という電子音が聞こえる。回路が生きている。


悠斗はレザーマンの小型ツールを取り出し、ロック部分の縁に刃を当てた。外殻を切るのではない。“撫でる”ようにして接触電極の反応を探る。


「……これ、センサー仕込みか。電気ショックを加えたら即起爆ってタイプか?」


軽く息を吸い、電極とケースの間に薄く削ったプラスチックシートを差し込む。


――カチリ。


小さな音と共に、ロックが静かに開いた。


「……やれやれ、素直に開けさせてはくれないか」


フタを開けると、黒の緩衝材の中に埋め込まれたリチウムイオン電池と3系統の圧力センサー、そして一際目立つタイマー式起爆装置が姿を現した。


(……やっぱり来たか。三重起爆方式。しかも、正面から開けたらアウトのやつ)



金属製のボックス。その中に詰め込まれていたのは、工業用のタイマーと自作の回路基板、そして手製のプラスチック爆薬と思しき灰白色の塊だった。


(……C4か、いや、この配線……混ぜ物がある。アセトンと過酸化物の臭い。家庭で作られた即製爆薬だ)


すぐに視界の端で、通路側に立っていた若い男が不自然に動いた。


(!)


男の手がジャケットの内ポケットに伸びた。


悠斗は即座にスマホのマイクに囁いた。


「佐藤さん、5号車前方通路、男が通信しようとしてる。おそらく処理を妨害する指示を出すつもりだ」


『了解、5号車のドアを即座にロック、車内放送で“通信障害”を偽装する。時間を稼げ』


その間にも、爆弾内部のタイマーは音もなく稼働を続けていた。悠斗は汗を拭く暇もなく、工具を走らせる。


(メイン電源ラインが2本ある。表の赤がダミーで、本命は裏の青か。……でも逆だったら即起爆)


レザーマンの極細ピンセットで、導線に触れる。が――


ピリッ。


突如、車両が大きく揺れた。ポイント通過の衝撃だ。悠斗の手がわずかにぶれ、ピンセットが端子を擦った。


ピピッ。

タイマーの表示が突然早送りになった。


「……やりやがったな、ミナミダ!」


悠斗は顔をしかめながら、スーツケースに潜り込むように姿勢を低くする。爆薬の上部に小型の電波受信モジュールがあるのを確認。


(こいつ……タイマーの加速指示まで組み込んでたのか。最低だな)


『タイマーが動いたな。残り時間は?』


「3分を切った。ここからが勝負だな」


悠斗は、電波遮断フィルムを破ってスマホのアルミ製ケースを使い、即席のジャマーを形成。

爆弾の受信部にかぶせて、電波を遮断する。反応が止まった。


「これで通信は断てた……でも、残りの回路は自走モードに切り替わったっぽい」


主電源の切断に失敗した以上、次は回路そのものの中和だ。


悠斗は細いドライバーで導線を1本ずつ追い、必要最低限のラインのみを切断していく。

1本でも誤れば、爆弾は即座に起動する構造だ。


(ここの抵抗……色が……グレー、青、オレンジ。抵抗値は3.6kΩ。これは……熱起爆用のプリヒーターと繋がってる)


「くそっ、熱起爆も仕込んでやがる……っ!」


残り1分20秒。


しかも――


ガコン、と車両の自動ドアが開いた音がした。


(誰かが突破した!?)


一人、5号車のデッキ側にマスクをした人物が現れた。彼の手には、金属バット。


「あぁ、ガキ?おい、何してるんだこのガキ。それに触るなよ!」


(まずい。起爆係じゃない……“破壊係”だ!)


悠斗は静かにツールを置いた。


「落ち着いて。これ、君の組織の命綱だろ?」


「うるせぇ。ガキが首突っ込むなって言ってんだ!」


男がバットを持ち上げ、スーツケースごと吹き飛ばそうと振りかぶる――その瞬間、


パシュッ!


車内の天井から何かが噴き出すような音とともに、閃光弾のような刺激臭の煙が充満した。


佐藤の声がイヤホンから入る。


『鉄道警察隊が5号車デッキ前に展開した。時間を稼いだな、悠真。もう1分だけ、猶予をやる』


(くそ、最初からこうしてくれれば……!)


悠斗は、男が煙に咳き込み、屈んだ隙に再びスーツケースへ。

残り40秒。


最後のセーフティを切断するには、基板の裏を外さなければならない。時間は足りない――


いや、賭けるしかない。


悠斗はレザーマンの鋸刃を使って基板の裏カバーを一気に破壊。

ホコリと鉄粉が舞い上がる中、基板の最奥に見えたのは……一本の白い、極細なファイバー線。


(これがトリガー……!)


「カットする!」


そして――ぱちん。


「…………」


表示はゼロ。反応はない。


爆弾は、止まった。


最後の導線が切られた瞬間、信管がカチ、と静かにロック解除音を鳴らした。

モニター上のタイマーがゼロを示し、何事もなかったかのように沈黙する。


『こちら佐藤。……爆弾、処理完了か?』


「済みましたよ。トリガーも機能停止。今なら、同時拘束が可能です」


その言葉を待っていたかのように、鉄道警察隊が突入し5号車と6号車で、ミナミダを含む犯人4名を拘束した。起爆装置はすでに解除済みで、爆発は防がれた。


全乗客に負傷者なし。情報は外部に漏れず、事件は“未遂”として処理された。


『よくやった、ファントム、いや今は佐伯悠斗だったな、ありがとう』


「これって職場復帰とかになるんですか?」


『いや、この後は引き続き佐伯悠斗を演じてくれ。お前がいて助かったけどな』


「……これから旅行に出るときは、おみくじ引いてから行動するようにしますよ。こんなの、大凶でもおかしくないくらいだ」



「……これから旅行に出るときは、おみくじ引いてから行動することにしますよ。今回のは、大凶でも文句言えないくらいです」


そう言って通信を切ると、悠斗は深く背もたれにもたれかかった。

窓の外を、新幹線は静かに走り続けている。

騒がしかった修学旅行最終日は、ようやく終わりを迎えた。


──しかし彼の“中学生活”は、まだ始まったばかりだ。


 


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