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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
愛のある関係がいい

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エピローグにかえて

 そんな甘い仕草のまま最前会った千晶のことをちょっと話した。つわりもなく元気そうだったことや千晶の勘は女の子だと感じているようなこと。彼はわたしに手を預けたまま、三枝さんが今では彼女の家にしょっちゅう顔を出すようになったことを言う。ちょっと苦い顔で「すっかり元鞘だな」。


「でも、来てくれれば千晶だって頼もしいし…」


 千晶の前ではしなかった話になった。


「奥さんと話したよ。条件付きなら認知を認めるそうだ」


「条件って?」


「「社長夫人にしてやる」って三枝さんが約束したら、認知も許すそうだ」


「なれるの? 社長に」


「さあな、一応派閥もあるしどう転ぶかわからない。なれなくたっていいんだよ、奥さんは」


 そうだ。奥さんは約束したら、とのみを条件にしている。社長になれるなれないは関係ない。どうしてそんな条件を出すのか。どうでもいいのなら言う意味がない。


 長い夫の不倫に目をつむりながら自身の病気も乗り越えた人だと聞く。裏切られ続け、なぜ離婚しなかったのか。そこには奥さんにしかわからない感情があるに違いない。意地、または見栄など体面的なことを憚った末の選択かもしれない。


 どうであれ、三枝さんはもちろん千晶もまた謝罪をしなくてはいけない。別れを選ばない奥さんの非を、逃げてばかりの三枝さんは責められない。


「寛大な人だよ。三枝さんはあの奥さんに甘え過ぎてる」


 彼が「見くびっている」ではなく「甘え過ぎてる」という言葉を使ったことに、会うこともないその人となりがふと浮かぶ。名門出であり気位高いその人は、夫の部下などにも細やかに気を配り親しみを見せる。また病気にも気丈に耐え、帰らない夫を待たずに颯爽と暮らしている…。


 強く弱みのない人に思われるがそんな人などいない。どこかできっと苦しんでいる。それは奥さんにとって既に過去のものかもしれないが。


「どうしたって社長にならないといけないね。何が何でも。奥さんの条件は叶えて見せないと」


「え」


「ならないと。それだけは叶えてあげないと」


 繰り返すわたしの言葉に彼は何を感じるのか、そうだな、と頷いた。重ねたままの手を彼は何となく振った。


 わたしたちは人の話をしいつもの日常を語り、どうでもいいことに笑う。


 まだ籍も入れずなのに家族の形を作り生活している。ちょっとした違和感には怯えもあるが、それを新鮮な刺激と捉えられなくもない。沖田さんではないが、それも「年の功」なのかもとも思う。


 子供の面倒を見て家のことを済ませれば、自分の好きな同人の仕事に時間を割く。その間には煮込み料理の具合を確かめに何度かキッチンにも立つ。ちょっとしたことにわたしはいろはちゃんと相談したがるが、それを彼はあんまり気を使わなくていいぞ、とたしなめる。「自分の妹みたいに思えばいい」と。


 気を使っていないというのは嘘だ。遠慮もある。わたしが鈍感なのか卑下もあるのか、彼女の存在に圧迫感がないのだ。教えてもらいたいという気持ちが湧く。知りたいのは、彼女と彼とが培ってきたこの家の空気感やこだわりを含んだ雰囲気だ。説明の利かないそれらをわたしは彼女から自然に吸収したいと願う。


 そうやって自分と総司がここに溶込んでいけたら、と思うのだ。何かをわたしが持ち込むのではなく…。彼らと生活を始めてそう感じるようになった。


 わたしは大きな決断で元夫ではなく沖田さんを選んだ。そのことを、功利的だとどこかで感じ恥じてもいた。その気持ちは今も多分小さく残る。だが、立つ場所が変われば景色が変わる。そこから見えるもの感じることも、違っていっておかしくはないはず。


 同人を始め自分でやろうと動き出したときから、わたしはそれ以前のわたしとは別な場所に立ったのだろう。そこでの新しい景色に気持ちが動いていったのだ。


 だから、いいじゃないか。そう思う。偽善的な罪悪感を持つわたしに、かつて千晶があっさり言ってくれた。「いいじゃん」。きっとあれでいいのかもしれない。


 ゆるく、ゆるく。


 元夫もどこかで立つ場所が変わり、見えるものが変化した。そうして、わたしたちはすれ違いいがみ合い、とても嫌な別れ方を経験することになった。


 立つ場所、見える景色が違ってしまっただけ。


 そう考えれば、少し楽になる。少し前、元夫へ持った怒りをも忘れることはないが、そういうものなのだと捨て去ることができる気がする。互いに見るものが違ってしまっただけ。それだけのことなのかもしれない。


 ゆるく、ゆるく。




 その日は、約束の時間に遅れないようにすごく気を張った。千晶に以前回してもらった挿し絵の仕事の件で、本を書く大学教授の研究室に向かう。


 わたしのイラストは千晶を経由して既に数枚見てもらい、OKをもらってあった。今回の訪問は細かな打ち合わせだ。挿し絵程度にそこまで、と思ったが、ある章の内容の一つを短いマンガで描いてほしいとの先生の要望だ。なら、詳しく話をしなければ無理だった。


 大学の最寄り駅で降りる。華やかで可愛い女子大生たちとすれ違った。お嬢様大学と有名で、同じ女子大でもわたしや千晶が卒業したところより一つ二つはレベルが上のはず。初対面のしかも仕事をいただく教授にお会いするというので、服装から困った。


 迷った挙句、このためにブラウスに膝丈のスカートを買った。どうでもいいが、沖田さんには大好評だった。


 研究室の集まる棟に入り、壁の案内図を見て目当ての部屋に向かう。二階の208室矢嶋藍子教授…。近世社会女性学がご専門…。頭でつぶやきながら歩いた。


 ほどなく208室に着く。ケイタイで時計を確かめ息を整えた。ノックする。すぐに返しがある。


「失礼します」


 よそ行きの声を出し静かにドアを開けた。中は八畳ほどのスペースの両サイドに作り付けの書架がありぎっしりと本が詰まっていた。手前に手軽な応接セット、そして奥のガラス窓を背に教授のデスクがあった。


「どうぞお掛け下さい。下のお名前でお呼びしてよろしい? 女性は旧制・結婚性、ややこしいでしょう? そうさせていただいてるの」


 立ち上がり、椅子を勧めてくれたスーツの女性にわたしは目が吸いついた。同じく、相手もわたしを認め、顔を強ばらせている。


 タマさんだった。


 以前、同人の資金稼ぎにやっていたやばいバイト『紳士のための妄想くらぶ』のバススタッフ仲間!! 


 あんなフィールドワークを自らやるのか、この先生は。そして何の調査だ。


 しばし驚きを十分に味わった後、まだその余韻の残るわたしへ、タマさん…矢嶋藍子教授は、艶っぽくぬれるように笑う。


 ああ。若いファンを虜にさせた湯気に香る『超熟』の声がよみがえる…。


「スミレちゃん、だったわね。あなたとなら色々気が合いそうだわ。よろしくね」


 人生って何があるかわからない。


 でも、こんなに楽しい。


 気が抜けたようになり、そして心の底からおかしくなった。

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