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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
愛のある関係がいい

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2

「何だよ、お前」


 背中をぽんとはたかれた。ぶすっとした声が「焦らすなよ」と言う。


「やっとここまで漕ぎつけたのに、また何かあるのかと思っただろうが…」


 思いがけない告白に胸がきゅんとなった。着替えを抱えた腕で浴衣の胸を押さえた。いろいろあったな、とわたしも思い返す。


「ごめん」


 彼の手を取って握った。


「大丈夫、もう何もないよ」


 彼とこんな場所にまでやって来ている。もうわたしたちの間に何のハードルもない。不格好でも派手に足を引っかけながらでも。いつしかそれらを一つ一つ飛び越えてしまっていた。


 これからに不安はある。


 でも…、


 彼がうんと頷くのとちょっと離れた総司が、「僕、トイレ!」と叫ぶのが重なった。


「部屋まで我慢できる?」


「ビミョー」


「ええ!」


 トイレの位置がわからない。駆け寄ると少し遅れた沖田さんが総司を抱え上げた。この方が速いと言う。


 ばたばたと部屋に戻った。急かして総司をトイレに向かわせる。彼が足を投げ出し畳に座っていた。運転や総司につき合い、風呂上りもあって疲れたのだろう。


「疲れた?」


「え」


 子供の持つ瞬発力には母親のわたしもやや圧倒される。個性もあろうが、そのときそのとき発するエネルギーがすごい。振り回される感じでぐったりとなることも多い。慣れない彼には驚きや気持ちのしんどさもあったに違いない。


 そうでもない、と小さなあくびをしつつ彼は首を振った。


「言葉が通じる今と違って、もっと小さいとき、赤ん坊の頃なんかも大変だったんだろうな」


 しみじみとそんなことを言う。わたしの顔を見た。


 往時は夢中で、瞬く間に日々が過ぎた。気づけば歩き出しもう幼稚園だ。


「さあ…、どうだったかな。でも、赤ちゃんのときは転がしとけばいいから、案外楽だったかも」


 気持ちに余裕がなくなり始めたのは、やはり生活の悩みが増え、一人で総司を抱え込んだ頃だ。寝足りないくせに寝つかれない。そんな日が続いた…。


 手は離れつつあっても今の方が、そしてこれからの方が親をやっていくのはきついことが多い気がする。楽しみや嬉しさも大きくなるだろうが。


 そんなことを軽い調子で口にした。


「覚悟、要るよ。わかってると思うけど」


「あるよ」


 あんまりあっさりと簡単に言うので拍子抜けした。彼は、トイレの後で手を洗った総司のまだぬれた手を浴衣になすられて笑いながら言う。



「自分のためだけに時間を使うことにもう飽きた。何をしたって楽しくない」


「え」


 彼の言葉に軽く衝撃を受けた。胸にぽんとゴムまりでもぶつけられでもしたように。驚きの余韻がぽんぽんと跳ねて足元に残る気がした。


 彼はぽけっと聞いているわたしに、ダグみたいな人にもちょっと憧れがある、と続けた。


「彼は人のために、なのになんか軽やかに生きてるだろ。ああいうのかっこいいよな。いいなって思うようになった」


「ダグはごくレアケースだよ。得度って大変みたいだよ。本山行ったりそこでお籠もりしたり。出家はよく考えた方が…」


「誰が坊さんになりたいって言った?」


 まあ、ね。


 社会的地位もあり俗っけ満々の沖田さんが、出家する訳がない。家族のために身軽に動き、それを自分の喜びにしてしまっている、そんなダグが彼に影響を与えたのだろう。


 どこがとは指摘できないが、父もそうだ。よく接する地域の人々にもそんな感化はあるように思う。いつしか、実家の周囲にはダグの味方が大勢に増えているのだ。


 …それにしてもあの姉は、一番身近にいながらダグからの影響を感じさせない。時にキーキー言いながら、自分流にのどかに生きている。ま、人のことは言えない。わたしだってダグのすごさに甘えている身なのだから。


「一人が長くて、身勝手に見えるか?」


 ぼけっと姉のキンキン声を反芻していると、彼がそんなことを訊く。


 わたしは首を振った。歳の離れた妹をずっとそばで後見してきた人だ。独身であっても、ただお気楽に過ごしてきたとは思っていない。


 仲居さんが料理を運びに現れ、総司がそれに興味しんしんでうろうろする。


 配膳が終わり席に着いた。一杯だけ互いに酌をしてもらい、仲居さんは下がっていく。冷えたビールが喉を通り、その途端ほっと寛いだ気分になるからアルコールの威力はすごい。


 話しながらの食事の最中、バックでメッセージの着信音が鳴った。出先でもあり、気になり断ってから確認してみる。


『やっほー。帰ったらメールちょうだい (‘ω’)ノ』


 千晶だった。


 沖田さんと旅行に行くことは、恥ずかしいが伝えてあった。帰ったら、この報告義務が待っていると思うと照れ臭い。いちいち言わなくてもいいのだろうが、彼女との間で隠すのも変だ。彼と千晶はわたしと彼以上に親戚のごとく親しい。


「千晶だった。ねえ、最近会った?」


「三日ほど前に電話で喋った。次の仕事先の件で。契約をまとめた人間が俺の知人だとかで」


 信頼の置ける人かどうかを彼に聞いたのだという。


「俺より三枝さんの方がずっと詳しいんだ、そのことは。前に、あの人の下で働いていたんだから。まあ、話したくないんだろうな『さーさん』とはまだ」


『さーさん』こと三枝さんは沖田さんの上司で、千晶のデビューから大ヒットまでの大恩人だ。そして長年の愛人だった人。その関係を一方的に彼女が断ち切ってまだ日が浅い。彼が言うように、千晶の側からは用があっても話しかけることはしたくないのに違いない。


「ふうん」

 

 きれいな器に可憐に盛られた和食で、目にも舌にも非常においしかった。こんな食事は久し振り(以前を覚えてもいない)で感激だった。総司には食べ易いビーフシチューがメインのメニューになっていた。


 厚いほろっと崩れそうな肉をフォークでしながら、総司は不思議そうだ。


「うずらがないね、お揚げもないね、お肉ばっかり…」


 シチューなのにおかしい、と首をかしげている。


「ママのとは違うの。これは特別なシチューなの。ね、すごくおいしいでしょ?」


「うん、おいしい。ボーノ!」


 わたしが市販のルーで作るビーフシチューには、ビーフすら入れないことが多い。豚挽き肉の団子で間に合わせ、嵩増しにゆで卵や厚揚げも入れてしまう。そこにさらに野菜摂取量を上げるためにあれこれ入れるから、もう完全に別の料理だ。

 

「ボーノ、ボーノ!」


 沖田さんが総司の反応ににやにやしてこっちを見る。お喋りより食べなさいと子供をせっついた。

目を戻してもまだおかしそうに見てる。ど庶民の食卓で自慢にもならないが、わたしが買ったルーに何入れようが、勝手じゃないか。

 

「何よ」


「…お前も母親なんだな、と思って。千晶と一緒にふらふらしてたのにな。手料理作って子供に食わせてんだもんな」


 そっち?


 何を言っていいかわからない。返事の代わりに、彼のグラスにビールを注いであげた。


 それを一口飲んだ彼が、


「今度、俺にもウズラの卵の入ったシチュー作ってくれよな」


 と笑う。


「カレーにももちろん、入ってるよ」


 口の周りをビーフシチューで染めた総司が補足した。そう、何でもウズラ。子供も喜ぶし、パックで買っても安いから。


 カレーでもいいよ、と沖田さんが笑う。


 ウズラ三昧のチープな料理とか彼に手料理をねだられることとか…。何だか、いろんな意味で恥ずかしくなる。答えもせず、ごにょごにょ言ってビールを飲んだ。



 豪華な食事は思いがけず長引き、済ませば九時近くなっている。テレビをつけたり外を眺めるなどしたら、すぐ時間が経つ。総司を歯磨きさせ、敷いてもらった布団に転がした。そろそろ寝る時間だ。


 興奮してるのかなかなか寝ない。向こうの部屋の沖田さんに小さな音量でテレビをつけてもらう。総司の隣りに寝転がった。総司は全く静かな方が寝てくれない。少し話し声があった方が安心するらしい。三十分もそうしていると、うとうとし出した。


 そこへ襖を開け、沖田さんがやって来た。総司を挟んで彼も寝転がる。


「ワイン飲むか? 頼んだけど」


「え、嬉しい。飲む」


「白でいいか?」


「うん」


 枕もとの行灯のぼんやりとした明りの中で小さく喋るうち、総司は目を閉じて眠ってしまった。可愛い寝息が聞こえてきた。


 身を起こすのがちょっと惜しい。そのままでいた。お湯に入っておいしいものを食べて、ふかふかの蒲団に寝転んで…、いい気分なのだ。


 それにしても、


 この沖田さんと総司を挟んで川の字を作ることになるとは…。食事のとき彼が述懐した「千晶と一緒にふらふら~」と同じで、しみじみしてしまう。


 彼とのこれまではわたしの記憶に生々しい。なのに、今の状況が経験してきた出来事の延長にあることしっくりこない感じだ。いきなり目の前に、総司を挟んで寝転がる沖田さんが現れたようで、不思議な気分になる。


 自分を包む景色がふっと変わったみたいに。物事って、突然に開けるのかもしれない。知らぬ間にわたしはこんな場所にいる…。


 目新しさと意外さと。そしてちょっとしたおかしさに頬が緩んだ。


 長く生きていれば落とし穴にはまることも、また奇跡のような信じがたい飛躍もある。


「何、笑ってんだよ」


 身を起しかけた彼が言う。


「あの沖田さんと将来川の字を作るとは思わなかったな、って」


「「あの」って何だよ」


 今よりずっと身軽な肩書の若い彼は、口うるさかったがさりげなく優しくて、イベントではよく『ガリガリ君』や飲み物をおごってくれた…。


「へへへ」


 答えずに笑いながらきゅんと思う。わたしは嬉しいのだ。

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