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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
それぞれに懸命

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43/70

8

 夫の実家へ連絡を取ったのは、翌日のことだ。総司を幼稚園に送り出した、まだ早い午前に電話をかけた。

 

 もしや居留守でも使われるのではとも思ったが、意外にも姑はすんなり彼へつないでくれた。

 

『何?』

 

 久しぶりに聞く声はそっけない。朝食でも食べていたのか、咀嚼する音をやり過ごし、わたしは切り出した。これまで散々姑に言伝をしてきたが、その返しがないことには触れなかった。

 

 宅配便が届いたことと、その件で夕べ隣りの安田さんが現れたことを告げた。

 

『ああ…、そっか』

 

 気の抜けたような声は、荷物のことなど忘れていたかのようだった。そこにやる気など見えない。軽い怒りの混じったあきれと一緒に、ちょっとほっとした自分がいる。

 

 やっぱり、と。

 

 今頃彼にやる気を出されても困る、という利己心と、寝つかれずにたっぷりと味わった罪悪感がなだめられるのだ。

 

『こっちに送ってくれよ、悪いけど。俺から連絡して、送り返すから』

 

「やらないの?」

 

『元々、「返品しても構わないから、頼むから」ってことでハンコついてやっただけだよ。興味ないよ、あんな仕事。…当分、実家で暮らすから』

 

 こっちで仕事も見つけた、と簡単に言い添える。完全にわたしを無視だ。

 

「ふうん…。安田さんが、奥さんのこと知らないかって。夕べ帰りが遅いって、連絡も取れなくて心配してたから」

 

『知らない。何で俺に?』

 

「さあ、あの仕事のことで、親しくしてると思ったみたいだけど」

 

 夫は黙って、言葉を返さなかった。「関係がない」と突っぱねているようにも、わたしに奥さんとのことを勘ぐられるのを避けているようにもうかがえた。

 

 どうでもいい、面倒でそれ以上触れなかった。宅配便をそっちへ送ることを言い、いいチャンスだと、離婚の件を口にする。

 

「もう、一緒には無理なの」

 

『ああ、それがいいだろな』

 

 この返事は予定通りだ。こんな関係で、彼が修復を望んでいるとはまさか思えない。

 

 次いで、総司のことを言う。自分が親権を取りたいこと。面会の権利や養育費に関しては、夫の意見に従うつもりだと、何度か頭で整理したことを伝える。

 

 夫はまた黙った。そこにひやりと心が冷えた。親権を彼も欲しがっているのかと焦れた。それでも、幼い子に関しては母側がかなり有利なのだと、弁護士さんに聞いた話を思い出す。必要があれば、それも言うつもりだった。

 

 怒りでこっちが固くなれば、彼にもそれは伝わる。きっと話はこじれる。やはり、最後の最後に無駄に争いたくはない。

 

 淡々と淡々と。心に念じるように言い聞かせた。

 

『親権はいいよ。好きにして。ただ、養育費は勘弁してくれ』

 

「うん、でも仕事が落ち着いたら、少しは…。それは子供の権利だから」

 

 彼から送金されても、それを生活費に回す気持ちはない。総司のこれからのために蓄えておくつもりでいる。だからもらえるものは、少額でもほしい。

 

沖田さんは「気にするな、任せとけ」と言ってくれた。でも先はわからない。ずるくても出来るだけ安全パイを切っておきたいのだ。


『自分の子じゃないのに、払えないよ』


 え?

 

 夫の言葉に耳を疑った。突然の言葉に怒りも遅れた。無責任な。と、じわじわそれがやって来たとき、かぶさるように声が届く。

 

『俺の子じゃない。DNAでの親子鑑定の結果も出てる。医学的に総司は俺の子じゃない。そんな子供に金が払えるかよ、今後ずっと』

 

「何を言ってるの? 意味がわからない。…そんな、DNAの鑑定だなんて、そんなことがどうして出てくるの?」

 

 急いて聞いた。この期に及んで責任から逃げようとする夫へのいらだちと「DNAでの親子鑑定」という突拍子もない言葉にうっすらと怯えがある。夫が、ただの逃げのためこんな妙なことを持ち出してくるのはおかしい。

 

 意味を問うても、彼は電話では伝えにくい。とそれ以上教えようとはしない。代わりに、会って今後の取り決めをしよう、と言う。

 

『その方が証拠も見せられるし、お前も納得できるだろ』

 

 ほいっと、こちらへものでも投げるような響きだった。その声にゆとりさえ感じた。

 

 わたしにはわからない「何か」を彼は持っている。その余裕がのぞくのだろうか。

 

 胸の中がもやもやと泡立つような、嫌な気分だった。

 

「これから、そっちに行く。構わないでしょ」

 

 慌てた声でそう告げた。夫は姑に何か訊いているようだったが、ほどなく返事が来た。『ああ』と。

 

『一人でも、誰でも一緒に来いよ』

 

 やはり、強みのある返しに胸が騒ぐ。わからないが、彼は「何か」を持っているのだ。

 

 電話を切った後で、時計を見てざっと予定を立てる。頭を働かせ、準備に動いた。気持ちは急いて、あちこちに激しく揺れた。悪いことばかりが、わからないからこそ浮かんで尾を引き、消えない。

 

 悩ましさをひととき振り払うよう、頬を叩いた。今はしっかりしよう。今だけでいい。悩むのも気を滅入らせるのも、後でいい。今は止めよう。

 

 とにかく、行こう。


 すべてはそれからだ。



 夫の実家までは片道一時間超かかる距離だ。これからすぐ出れば、二時半の総司の幼稚園のバスの迎えには、少しだけ余裕が持てる。

 

 念のため、思いついて実家に連絡を入れた。もし帰りが遅れたとき、実家の誰かが総司の迎えに出てもらえると、とてもありがたい。

 

 姉が出て用事を頼んだ後で、なぜかダグに代わった。

 

『ハイ』

 

 落ち着いた明るい彼の声だ。肌の色の異なる彼のとびきり背の高い身体を作務衣に包んだ姿が目に浮かぶ。ダグは墨染め衣もよく似合う人なのだ。

 

『コージの実家に行くって?』

 

 そう聞かれた。姉はわたしの用件を繰り返していたから、そばのダグに伝えていたのだろう。

 

「うん、ごめんね、総司のことお願いするかも。…話があるみたい。」

 

『コージが?』

 

 今朝の電話の内容はここで打ち明けにくい。わたしだって混乱しているし、何があるのか知らないが、こちらの不安をあおるだけあおる夫に対して腹も立てている。

 

「うん、…よくわからないけど、電話で言えないって…」

 

 これを言うだけで胸が波立った。実家に電話をしている甘えからか、ちらりと涙が浮かぶ。それを時計を眺めることでやり過ごした。早く出ないと、時間が足りなくなる。

 

『一緒に行こう。一人じゃない方がいい』

 

「え」

 

 すぐ車で迎えに来るという。答えがすぐに出ない。頭でちょっとあわあわ言っている間に、電話の奥で「そうしてあげて、ダグ」と姉の声が聞こえた。

 

 車で行けるのは時間のない中都合がいいし、何より一人は心細いのは確かだ。

 

「ありがとう、助かる」

 

 素直に甘えて、電話を切った。

 


 夫の実家に向かう車中、ダグには事のあらましを話した。

 

 ハンドルを握るダグの向こう、車窓の景色が流れていく。

 

「…どう思う?」

 

「一つ二つ答えは浮かぶけど、それが正しいかはわからない。コージの口から聞くまで、待った方がいいね」

 

「一つ二つって、どんな? ねえ、教えて」

 

「雅姫も想像はしているだろう? ああじゃないか、こうかもしれないって。それと大して変わらないよ、きっと。僕の考えと君のを答え合わせしたって、今は意味がないだろう」

 

 ダグの冷静な様子がちょっと憎たらしい。意味はないかもしれないが、ああだこうだと答案の見せ合いっこでもした方が、もんもんと不安に埋もれるよりましだ。

 

 それに、ダグとわたしの意見が合ったのなら、多分答えはそれなのだろう。なら、夫に会う前に話し合いに臨む覚悟もできるかもしれないのに…。

 

 そこでダグが、通りかかったファーストフード店に乗り入れた。ドライブスルーの列の最後に付く。

 

「コーヒーでも飲もう。今朝、コーヒーが切れかかっててね、足りない分を、咲姫(雅姫の姉)がココアで増やせばいいって入れたんだけど…」

 

 順番が来て、彼が備え付けのマイクに向かいコーヒーを二つ頼んだ。

 

「悪くなかった。でも…、コーヒーじゃなかった」

 

 注文のコーヒーを受け取り、わたしに一つ渡してくれた。気持ちが落ち着かず、礼を言う声も小さくなった。

 

 ただ窓の景色に目をやった。唇を焼きそうになるコーヒーをすするように飲んだ。喉を暖かな飲み物が通ると、少しだけ心が凪いでいくのがわかる。

 

「やっぱり、旨いね、本物は」

 

とダグはにっこりと笑った。

 

 やみくもに不安がるわたしの口をやんわり封じ、代わりに熱いコーヒーを流し込む。それで事態は変わらない。

 

「わかっていることで、悪いことはないよ」

 

 ダグは差し込む日の光に目を細め、実においしそうにコーヒーを飲みながら言う。やや薄めの、熱いだけが特徴のありふれた味なのに。この人なら、姉がごまかしにココアを混ぜたコーヒーでも「悪くないよ」と易々と飲むのだろう。

 

「コージは離婚に前向きだ。そして、雅姫がまずこだわるソージの親権にも、興味がなさそうだ。どっちも君に都合がいいね」

 

「でも、あの人DNAが何とか言って…」

 

「それも、彼の逃げ口上だけなのかもしれない」

 

「そう、だね。…そうかもね」

 

「わからないよ、コージの話を聞くまでは。でも、君は欲しいものはもう手に入れてる。大事なのはここだよ」


「うん…」

 

 ダグの言うことはわかる。今わたしに不利なことはない。電話での話は養育費を逃れるための夫の言い訳なのかもしれない。卑怯としか言えないが。

 

 それにしたって、もっと別な口実があるだろうに…。腹立ちがふつふつとわく。それをコーヒーを飲むことで紛らした。

 

「心配は要らない」

 

「そうだね」

 

 とダグの言葉に何度も頷いた。よく理解しながら、不安な心は納得しないままだ。

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