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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
ビジョンの中でもがく

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31/70

5

 

 その日、夫が帰宅したのは午後の十一時を少し回った頃だった。


「面接できた~」と残したメモの通り、彼はスーツを着ている。幾らかか飲んでもいるらしく、目元を若干赤くしていた。


 わたしは昼の疲れもあり、彼を待つこともなく寝てしまうつもりだった。そのそろそろ眠ろうとしたときのことだ。


「向こうの人に面談の後引き止められて…」


 と、ごめんの一言もない。


「どうだった? 本の売れ行きは?」


 機嫌がいいのは少しの酔いのせいもあろうが、面接が好感触だったことが大きいのだろう。その後酒の席にも招かれたのなら、ほぼ採用も固いはず。その手応えからだ。


 返事をせずにいると、付け足しのように総司のことを聞いてくる。そののんきさ危機感のなさ。怒りを通り越し不意におかしさが込み上げる。


 わたしの笑みを何と取ったのか、夫は明るい声だ。


「眠そうだったから、寝かして出たけど。大したことなかっただろ、やっぱり」


 悪意はない。ただ決定的に配慮が足りない。だから風邪気味の子供をクーラーの効き過ぎた部屋に、タオルケットの一枚もかけてやらずに気軽に置いていける。


 だから能天気なことを平気で言う。恥じもせずに。


 何の返しもせずにおこうと思っていた。何か言ってしまえば、余計なことも口にしそうで、それが面倒でややこしそうで…、


 そうわかっていながら、遅れてやってきた彼への怒りが思いを捻じ曲げた。


「総司、結構高い熱出したよ」


 乾いた口調で言ったつもり。なのに、言い切った後で、ねっちりと不満に湿ったものだと気づく。


 夫はふうんと返し、わたしを見た。「俺のときはそんな風でもなかったぞ」。無責任に逃げを打つ男の弁解はひどく聞き苦しい。


「帰ってすぐダグが来てくれて、お医者さんに連れて行ってくれた」


 それに感想すらない。身内とはいえ、ダグがしてくれた親切に対して感謝の素ぶりも見せない。


「今はもういいのか?」


 それには頷いて応え、わたしは問わないつもりのことをやはり口にしてしまう。


 どんな答えが欲しいというのか。単に抑え切れない憤りのはけ口か。


「何であの子を一人にしたの?」


「何で、って…。俺が出たのは二時頃だし、三時ぐらいにはお前も帰るって言ってたじゃないか。一時間くらい大したことじゃないだろ?」


「あんなに強くクーラーをかけて? あんなに気をつけてって言ったのに。ただでさえ風邪っぽかったのに、それで身体が冷えて、熱まで出し…」


「熱中症にさせるよりマシだろ? 考えてみろよ、日中の気温を」


「総司を一人にさせるのは絶対おかしい。あんな小さい子を…」


 夫はそこで面倒そうに上着を放り投げた。吐き捨てるように、「だから黙って行ったんだよ。お前に言うとすぐそれだろ? 「あんなに」「あんなに」…」。


「結局、平気だったんだから構わないだろ。何をごちゃごちゃ…。ダグにアメリカ仕込みの知恵つけられて、理論武装したつもりか?」


「下らないこと言わないで。結果大丈夫だったからって、もし間違いがあったらどうする気だったの?」


 それに夫は答えない。むっつりとした表情でソファに座り込み、テレビをつけた。全くの居直りだ。


 ちょうどテレビはスポーツニュースの時間で、新進気鋭のゴルフプレイヤーがどうのこうのと和やかな話題を振りまき出す。


 それが頭にきて、リモコンでテレビを消した。夫はリモコンを持つわたしの手をぱちっと勢いよく払いのけた。フローリングの床に大きな音を立てリモコンが落ちる。


 とっさに払われた手をかばい、胸に引っ込めたわたしを、彼は上目に眺めた。じろりとした視線だった。すぐに逸らす。


「自分ばっかりが働いてる気になるなよ」


 その言葉に、夫が開き直る態度を取る理由がのぞいて見えた。不本意に長く主夫まがいのことを任せられ、不満が溜まっているのがわかった。


 彼に任せたのは総司の相手くらいで、家事を頼むことなどなかった。それが根に持つほどのことなのか。理解が及ばない。


 わたしへの態度はともかく。総司に行ったことへの自覚も反省もない。この彼を相手にこれ以上話しても意味がない。


 リビングを出ようとわたしは彼に背を向けた。その背中に、


「どうせ、気持ちの悪いホモ漫画描いて、素人相手に売りつけてるんだろ。偉ぶる身分かよ」


 と嘲笑の声が届く。


 この野郎…。


 懸命に描いている自分も含め、同人を底から馬鹿にする声に身体が反応する。それに自分でも驚いた。


 つい、口火を切った。


「その「気持ちの悪いホモ漫画」のお陰で、数ヶ月人間らしく暮らしてこられたこと、忘れたの?」


 これ以上は本当に不毛だ。


 わたしはリビングを出た。


 夫からの返事はない。



 翌日、夫は昨夜の暴言などなかったかのような、相変わらずの様子で起き出してきた。


 一晩眠り、彼の中ではさっぱりしてしまえたことなのかもしれない。しかし、わたしにとってはそうではない。


 彼のために何をするのも苦痛、とまではいかないにしても、単なる同居人としての視点でいる自分がいた。もうこの人との将来は考えられないと、まざまざと目の前に突きつけられた出来事だった。


 沖田さんのことがあったとしても、なかったとしても。きっと…。


 子供の存在を盾ではなく背負うような意識を持てば、自然に視線が上がる。前を向く。女は強くなれるのだと思った。


 家庭と現状にすがらなくても、と別の視野を持つことができるのではないか。



「総司、図書館行こうか」


 ソファでだらりと寝転ぶ夫の足元から総司が立ち上がった。


「うん」


 子供にかけた声に夫がこちらへ視線を向けた。気づきはしたが何も言わなかった。


 幼稚園は夏休みだ。図書館へ行くことは昨夜から総司に約束してあった。いつも行くそこは、子供向けの本のコーナーが充実していて楽しいらしい。わたしは次の作品の調べものがある。


『~今なら、更にお得な新車乗り換え割引実施中!!』


 テレビから流れる車のCMを背に家を出た。昼前でも屋外は既にじりじりと暑い。帽子をかぶった総司の手を引いた。


 目の前を通ったピカピカの車にさっきのCMが耳によみがえる。新車を契約するお客には割引や種々の特典が付くというありふれた内容だった。


 歩きながら、自分がそのCMの『乗り換え』というフレーズに反応しているのだと気づく。


『乗り換え』。


 嫌な響きだった。


 先日ダグが、わたしの心変わりを見抜いたのはなぜだろう。彼の勘のよさの他、理由は考えなかった。


 でも、


 たとえば、


 古い服を捨てられるのは新しい服を買ったためだろう。散々着古した服は新たな服の前に対して惜しくもないはず。


 女が築いた家庭を壊せるのは次の目当てがあるから……? ダグはそれを感じ取ったのかもしれない。


 そうだとしたら…、


 子供、自分の収入、前向きな意思、違った視野。


 わたしが手にしたと信じるそれらのものは、詭弁の材料でしかない…?


 まさか、


 わたしは夫を捨て、沖田さんに乗り換えようとしているだけ…?


 まさか。


 熱い日差しを受けながら、胸の奥がひやりと冷えた。



「乗り換えて何が悪いっつーの」


 電話を切るなり、千晶はつぶやきには大きな声でそう言った。リビングのソファに戻り「ごめん」と腰を下ろす。


 証券マン、と彼女は長くもなかった電話の相手を告げた。


「あんまり態度がよくなかったから、変えたの、よそに。時々舐めた友達口調も気になってたし」


 あり余る資産の運用か…。自分には縁遠く「へえ…」と気の抜けた感嘆の相槌しか出ない。


 白を基調のモデルルームに似た設えのマンションは、千晶の自宅だ。仕事場も兼ねているため、人の出入りがしれるほどの生活感はある。しかし、優雅な女性の城といった趣の美しい住まいだ。


 壁に(高価そうな)水彩画が掛かる隣りに、自身の作品のキャラのイラストが数点。その一つが『ガーベラ』時代の同人誌の表紙だった。見た瞬間、懐かしさが何もかもを越えて込み上がる。


 今の大きな成功へのステップの一つ一つの作品のその原点に、彼女は過去の『ガーベラ』を置いている。その証は慕わしさと共につんとわたしの胸を揺さぶった。


 こうして昔の一端を身近に置き、眺める。


 そんな彼女とは異なり、わたしは処分を免れたほんの数冊のノートですら、段ボール箱に押し込めたまま。どこにあるのかもわからない…。そもそも同人を再開する以前は、千晶はともかく『ガーベラ』を振り返ることも稀だった。


 自分との差を恥じることはない。しかし、日々の忙しさに埋もれていた悔いなら、ある。きれいに壁に飾らなくても。ときにあの楽しさを思い起こす。たとえば古びたノートのページを繰る、そんな程度でもよかったのかもしれない…。


 家族や日常の慌しさは、思い出をしまい込む言い訳だったはず。忙しい日々を送ってきたのは、千晶だって同じなのだから。


 そして、そんな過去を大切に振り返る人にこそ、幸福は降るような気がする。


「客に電話する時間じゃないだろ、普通。がやがやうるさい店から、コンパのノリで営業すんなって。こっちがカタギじゃないからって」


「まあまあ」


 半笑いで愚痴をなだめながら、空いた彼女のグラスに白ワインを注いだ。少しだけ奮発した国産のワイン。わたしの手土産だ。


 この日、久々に会おうということになった。きっかけは、以前のイベントからメッセージのやり取りが復活した流れだ。


 どこでどうしよう、となった。千晶の「うちにおいでよ。よかったら、泊まれば?」との誘いに飛び乗った。「総司もいいよ」の言葉に甘え、お互い時間のいい晩の夕食後にやって来た。


 よそのお宅にはしゃいでいた総司も、十時を過ぎた今、客間に用意してもらった布団で眠ってしまっている。


 Tシャツにスウェットの寛いだなりに着替え話すのは、昔話ばかりではない。『ガーベラ』の話題はわたしたち共有のものだが、当たり前過ぎて掘り下げて口にするほどでもない。そんな空気になる。


 あまり変化のない近況を交わし合う。それが尽きた頃だ。千晶が以前のイベントで渡したわたしのBL作品を持ち出してきた。


 にやにやしながらページを開いて見せる。


「はまる人の気持ちがわかったよ。男女の話だと自然に女に感情が入っちゃうじゃない。BLだとそこまで受けと読み手が一体にならないのね。「こいつはきれいでも男だ」フィルターが効いているから」


 だから一歩引いて眺めることができるのだという。


「緩い時間に読むのに最適」


「このシーンが好き」だの「このセリフと横顔は泣ける」とコメントをくれる。


 昔から余計なお世辞は口にしない人だ。なので、まんざら宗旨替えした旧友へのリップサービスばかりとも言えないだろう。


「ありがと。でも千晶BLいけた?」


「雅姫の読んで幕末BLモノに興味が出て、ネットで何冊か買ったよ、この系の同人誌。土×高(土方歳三×高杉晋作)もいいけど、わたしは土方と沖田が好みだな~」


 などとマニアックなことを言い出すから、人ってわからない。一昔前は売れっ子同人していた、誰もが知る人気漫画家が、一周回って今、素人の同人誌を通販…。


 同人ってつくづく『沼』だなと思う。ひたひたとぬるく底がない。ある種のツボを持った人に対しては、鬼門ともいえるのかもしれない。


 千晶は更にノリよく続ける。


「新撰組って響きがもう萌える。次描かない? アイディア出すよ。土×沖だったら、たとえばさ…」


 薩摩藩邸に囚われの身となった沖田総司。恋しい彼の身を案じ、気も狂わんばかりになった土方が救いに行くが、とき既に遅し。沖田は討幕志士らの巨魁西郷隆盛の魔の手に落ち…、


「助け出された沖田は身も心もぼろぼろの状態なのね。それを土方が献身的に支えてあげるわけよ。隊内も微妙な雰囲気で…。そんなデリケートな時期に、あれ、池田屋事件が起きる!! そして土方の長年の恋のライバル坂本龍馬がついに江戸から帰って来るんだって…」


 知らねーよ。坂本龍馬がその時江戸に行ってたことなんか。


 本職では、惹きつける意外な展開の底に純愛や愛情の絡む見事な物語を描く人だ。それが本人いわく「ちょいハマり気味」の同人BL話になれば、


「受けに受難はつきものだって。生ぬるい話なんか萌えないじゃない。描く方も盛り上がらないしさ」


 などと面白がる。どこかスタイリッシュな線が特徴のタッチで「こういう絡みが欲しい」と目を輝かせ、自らデッサンを始める。


 そうなれば、昔よくやった会話交じりの筆談のようなもの。わたしも応えてペンを動かす。あれこれと話につながっていく。


 ラフに始めたネームを千晶がぐりぐり線で消した。


「うわ、もったいな」


「駄目だ、理由のないエロを前面に出すと、読み手が引くね(わたしは引かないけど)。物語を書き込まないと」


 そう言い、思案するようにペン先をくるくる回した。


「エロじゃなくて受難なんでしょ?」


「そう。受けの必須。つーか、通過儀礼」


「あははは」


 ワインを一口飲み、チョコをつまんだ。そのとき、ぽろりとした彼女の声を拾う。


「いいな、雅姫。楽しそうで」


 え。


 聞き違えたのかと思った。酔うほど飲んだつもりはなくても、楽しさに場に酔うことはある。それで聞き違えたのか…。


「好きなもの描かなきゃね、やっぱ」


 何かにほっと息をつくようなため息の後で、千晶はワインを口に運んだ。わたしが向けた視線に照れ臭そうに立ち上がった。「もう少し飲もうよ」。とキッチンに向かいつつ背を向けたまま、


「飲むよね、まだ?」


「うん…」


 間もなく戻ってきた彼女はロゼのボトルをテーブルに置き、ラグを敷いた床にすとんと腰を下ろした。きれいにカラーリングされた髪が、肩の辺りでふんわり踊った。


「あ、これ前にうちに来たとき沖田さんがお土産でくれたやつ」


 不意に飛び出した彼の名にぎょっとなる。


「人が仕事してんのにあの野郎、寛いでさ~」


 砕けた口調から、ここに彼がやって来るのは珍しいことでもないようだった。


「ふうん」と答えつつ、胸が変にざわめいた。


 ふうん。


 テーブルには棒っきれみたいな人物のラフが載っている。ほんのさっきBL話でネタにして笑ったものだ。


 それを目にやり彼女は何か言う。このときどうしてか笑えなかった。馬鹿な話なのに。言った千晶自身もおかしくもないのか、空笑いをした。


 しばらく間があった。


 互いに多くないグラスの中身を空にするほどの時間だ。


「もう描くのが嫌になること、よくあるよ」


 重くもない口調で千晶は言う。


 予想外の告白だった。漫画に関していつだって彼女は真摯でプロ意識が高く、前を向いていたから。

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