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出来たチャーハンと小鉢は評判がよかった。箸を止めずに食べている。よほど空腹だったようだ。わたしは彼に代わって、セリフの作業で手を動かした。
ちらりと壁の時計を見る。帰りの最終電車に少し余裕があった。食べ終わるのを待って、お皿くらい洗って帰ろう…。
問われるままに話していて同人に関しての話題が、ふと途切れた。
静かな空間が堪らなくなる。思いついたままのことを口にしてしまう。
「沖田さん結婚しないの?」
「は?」
機嫌が悪いような声がした。見ればチャーハンを口いっぱいにしている。いつぞや、アンさん辺りが、イベントのわたしが頬をハムスターのようにして鯖寿司をがっついていたと言っていた。こんな感じか、と納得した。
ちょっと可愛い。
聞き逃したのかと、もう一度聞いた。「だから、結婚。そろそろ晩年でしょ?」。
飲み込んだ後で声が返る。
「誰が晩年だ」
「へへ」
この人であれば相手はわんさかいるはず。それこそよりどり見どりだろう。
若い頃の彼の一面を知るが、生意気を言えば、ピンとくるタイプではなかった。ぽんと石を投げれば必ず当たる、そんなありふれた若者だったと思う。そこそこ外見がよくてちょっと面白い。そして女の子にも優しい…。
その当時の延長線上に今の沖田さんがある。面影もあるし、わたしへの対応もそれほど変わらない。なのに時のフィルター越しでは、こんな人だったのか、と目を見はりたくなる変容がある。
地位に伴う貫禄もあれば、そこへ至る経験にもきれいに歳を重ねた理由があるのだろう。歳の離れた可愛い妹がいることも一つの要素に違いない。
「いろはちゃんがお嫁に行くまでは、その気にならない? 心配だもんね」
「はは。いつまでも行ってくれないんじゃないか。『萌え』だの『神』だのにどっぷりで。まあ今どき、シングルは多いからな」
「同人は沼だって。ハマると「一生の業」だって、誰かが言ってたよ」
「その「業」を背負ったやつが何言っている」
「かもね。だからまた沼に戻ってきちゃった。ははは」
キッチンに空いた食器を下げた。「置いておけよ」というのを、すぐだからと洗う。実際五分とかからない。
そろそろ時間だ。手をふいたハンカチをバックにしまう。プリントアウトしてもらった紙を整理して、これも大事にしまう。
「ありがとう、すごく助かった。今度何かお礼します」
「大したことじゃないだろ、旨い飯も作ってもらったし。気にすんな」
彼の前だとなぜか気が緩む。多分きっと何でも許してくれるから。ほろりと軽口が出る。
「ああ、沖田さんにしておけばよかった」
「そうだろ? もらってやらないでもなかったな。はは、見る目がないな」
彼も冗談で返す。その後ですぐわたしの夫の状況を思い出したらしい。しまったという表情になる。
「すまん、そういう意味じゃ…」
「嫌だな、気にし過ぎ。平気」
笑って受けながら、ああ、と気づく。
変わったのは沖田さんではない。彼はわたしの目に「ピンとこなかった」あの頃から、今ある素質を持った人だった。そこに気づけなかったのは、わたし側の事情だ。
それを見る目がなかったと言ってしまえば、今の夫を否定することになる…。彼がいけないのではない。あの頃の悩みも不安も夫はすっぽりと引き受けてくれたではないか。それにわたしはほっとして、嬉しくて…。
知らず落ちた視線が、テーブルの上の野菜の栄養剤のスプレーをなぞる。
「…暇なら、沖田さんみたいに野菜でも作ってくれたらいいのに」
愚痴ほど重くないつもりだった。思わず「よいしょ」と言うくらいの。そんな程度の心の吐露だ。
「余裕がないと何も出来ないときもあるさ」
「余裕なんて自分で作るものじゃないの? 沖田さんだって時間がないのに、都合つけて野菜の世話をするでしょ?」
「余裕は時間ばかりじゃないんだろ。気持ちの問題もある。仕事や家庭や、身辺の環境が整わないと動けないのは、誰だって同じだ」
知りもしない夫をかばい、わたしをなだめる口調の沖田さんが、なぜだかシャクに障る。同じ男として同情を込めた思いなのかもしれないが。
「一年以上も整うのにかかるの?」
沖田さんは「環境が整わないと動けない」と言う。わたしは日々欠けたものばかりの中、それでも動いてきた。「環境」だのそれを「整えて」からだの、悠長なことを言っていられる余裕すらなかった。
不満顔でにらめば、彼はちょっと困った顔で視線を受け止めた。わたしの額をぽんと指で突いた。
「今、就活で結果が出ないのは相当にきついぞ。一番焦ってるのはお前じゃないはずだ。少し考えてやれ」
「ふうん」
多分その相槌はかなりドスの効いたものだったはず。軽くいなすような仕草もたしなめる声も、カチンときていた。
あの夫が失業して以来、真剣に焦った様子でいたことをわたしはもう覚えてもいない。
いつからか始まった深夜から朝方までのネットゲーム。昼まで寝ていて、家計の財布から幾らか抜けばどこかへ出て行く。
どこで何をしているのか、外出を止めも詮索もしないわたしにも落ち度はある。原稿がはかどるから夫の留守は気が楽だったのは事実だ。思いやりや気遣い、足りないものもきっとある。
でも、
流暢じゃなくても不格好でも。わたしはやるべきことをやろうとしていて、やっている。そんな自負がある。
だから、自分がそれほど間違っているとはどうしても思えない。
そして、沖田さんに向けた方向違いの怒りの根が、夫へのいらだちだと今更思い知る。わたしは彼に憤っていた。どうしてわたしにだってできることを、彼がやろうとしてくれないのか。その気配すら見せてくれないのか。
幾度かの口論を経て、夫への期待も頼む気持ちも小さくなっていくばかり。何かを懸命に提案しても「俺はそういうのじゃない」「こっちの身になれよ」が返ってくる。それらは考えて出した答えではないはず。瞬時、気に入るかそうでないかの反応でしかない。
それが不審で、いぶかしくて…。
じゃあどうしたらいいのか。どうであれば前向きになってくれるのか。
沖田さんはわたしの肩に手を置く。大きな手のひらだと思った。
「俺だって、もし…」
やんわりと言いかけた彼の言葉を遮って首を振る。
「沖田さんなら違う。いろはちゃんのためなら何だってしてあげるでしょ?」
「それはまあ、嫁に出すまでは見てやらないとな。俺が親代わりだしな」
その言葉に、彼のご両親が他界していると聞いたことをぼんやり思い出した。結婚を考えないことにもつながる気がする…。
「運も風向きもあるから…」
沖田さんの慰めが耳に届く。悪いが、ちっとも気持ちが動かない。雑誌の占いのような当てのなさだと思う。腹の足しにもならない。
「ははは…」
やっぱり気のない笑いしか返せない。
「おい…、雅姫」
馬鹿みたい。
愚痴を垂れたって、
何を悔やんだって、
適当に看過しここに至るよう選んだのは、まぎれもない自分だ。
この沖田さんにあって夫にないものをあげつらい比較するのは、自分をみじめにするだけだ。
何とか励まそうと言葉を選び、肩に置いた手のやり場に迷っている。この人は自分に属さない手の届かない人だ。そのことのやり切れなさに今頃焦れたって…、
もう遅い。
「馬鹿」
自分に向けてこぼした後で唇を噛む。目に涙がにじむ。何の涙なのだろう。ひたひたに溜まった夫への怒りはもう凪いだ。いつしか癖になった静かなあきらめのせい。
あるのは、後ろ髪をひかれるような、消せないこのときへのこだわりだ。
帰りたくない、と思った。
「もう、無理…」
知らずそんな甘えを口にしている。
わたしは、
どうしたいのだろう。
どうして欲しいのだろう。
バックの中でケイタイのアラームが鳴った。終電を逃さないようにセットしてあった。もう時間がない。駅に急がないと。
「…帰る」
向き合った彼に背を向けた。気恥ずかしさから目を合わせられなかった。「ごめんね、家庭のことで、愚痴ったりして」。敢えて軽い口調で言った。
「気にしないで」
リビングを出たところで手首をつかまれた。ぎゅっと。それは、ときにある有無を言わさない彼の口調に似ていた。
「雅姫」
引き寄せられて身体が彼へ傾いた。ゆらりと腕の中に倒れながら、それを聞いた。
「遅いのか?」
え。
「取り返せないくらい、遅いのか? 俺たち」
驚きと心のざわめき。それらが抗う力を止めてしまう。夫ではない人の腕の違和感に戸惑いながら、うろたえながら、
確かにわたしはときめいている。
「…え?」
ずるくとぼけた声で応じながら、
離して欲しくないと、心は訴えている。
「お前はどうしたい? なあ、俺はどうしたらいい?」
沖田さんは急くのでもなく、と意を重ねる。その裏にはわたしの気持ちをどうかで拾っただろう強みがのぞく。それが堪らなく照れくさかった。
「知らない」
そう返し、ようやく腕から逃れようと身をよじった。彼はその動きを封じるように抱きしめる。
「取り返す」だの「遅い」だの、しゃあしゃあと。何にも始まってなどいなかったくせに。
「ちょっと…、沖田さん」
強く抗うとやっと腕の力を抜いてくれた。それでもゆるく抱き寄せながら同じ問いを繰り返す。
わたしがどうしたいのか。
彼にどうして欲しいのか…。
「わからない…」
わたしは手のひらで顔をおおった。そのまま心の声だった。
ただ、火照った顔の熱を手のひらに感じ、思いばかりがくるくると回る。
結局、惑うのは彼と同じ疑問。
もう遅いのだろうか。
わたしたち…。




