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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
ため息と吐息の違い

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 先日沖田さんからもらった言葉には、耳に痛いものが幾つもあった。


『時間を置くな。次、すぐ描け』。


『描くと決めたら、千晶は早かったぞ』。


『コンスタントに、多少無理をしても描いた方がいい』。


『いつまでも名前の威力も効かない』…。


 それらを忘れ難いのは正しいからだ、と心が告げている。


 気持ちばかりが変に急いた。


 けれども時間のやりくりをしても足りない。次作には、時代背景を描き込みたいから、その調べ物も必要になる…。


 解決策は睡眠時間を削ることぐらいだった。その無理の反動は間もなく身体に現れてきた。


 いつものパートで持ち場のレジに立っていたときのこと。お客の多い忙しい時間帯は気が張っていいが、暇な時間は立っているのすら辛い。


 何とかやり過ごしてきたが、あるとき、堪らない立ちくらみに襲われた。


「あなた、顔が真っ青よ。大丈夫?」


 サカキとヤクル⚪︎を買った老婦人に気遣われ、「ええ…」とうすら笑顔で答えた。しかし足に力が入らず、ふにゃりとそのばにしゃがみ込んだ。


 額を冷たい汗が頬に伝わるのを感じた。吐き気こそないが気分は悪い。立ち上がろうとカウンターに手をかけた。ない力で踏ん張ったところを肩から背へ人の腕が回されるのを感じた。


 ぎょっとするが抗う力が出ない。目ばかりを動かし、腕が誰のものかを確かめる。浅い紺の作業着の男性とわかる。胸に黄色い『ヤマザキ産業』の縫い取りがあった。首を回せば手に何かを持っている。


『エロリータ・フェニックス・ジャポンDX』…。


 嫌な予感がした。


 社長だった。


 社長は社員を大声で呼び寄せる。


「おいお前、手を貸せ。足にじかに触るな。靴だ。靴を持て。靴と言ったろ、どうして足を触る!」


 社長に上半身を担がれ、足を店長に持たれ、わたしは休憩室に運ばれた。横になれるような設備もない。スチール椅子に掛けさせてもらう。社長が『エロリータ…』と一緒に買った(らしい)『よーいお茶』二リットルをとにかく飲むように勧められた。ボトルの下部分を店長に支えてもらう。


 何口か飲むとすっきりした。むかつきも楽になる。


「病院は行かなくていいですか?」


 店長が心配げに聞いてくれる。原因は無理な寝不足がたたったもののはず。わたしは面倒を詫びた後で、様子を見てから受診すると答えた。


「今日はこのまま早退していいですよ。レジはわたしか小林君に入ってもらいますから」


 店長は壁のシフト表を見ながら、明日も大事をとって休んで構わないと言ってくれた。


「あの…」


 パートを辞めることは、喉まで出かかってずっと飲み込んできた。思い切ってこの場で口に出してしまう。厚意を受けて明日休みをもらえば、また言い出しにくくなりそうだった。


 社長もいる変なタイミングであったが、無理は続けられない。今日の変調も、若くもない身体が訴えているようでもある。


 今は漫画を描くことを優先したい。


「それは店でのイジメが原因ですか?」


 社長の手前もあり、普段以上に生真面目に店長が問う。小林君辺りから耳にはしていたのだろう。何の手も打ってくれなかったが。


 イジメらしきもの? はあったがそれを話すと厄介だ。辞める理由もそれではないし。


 わたしは首を振り「皆さんには仲良くしてもらった」と、舌が苦くなるような嘘をついた。


「う~ん、店に慣れてお客様の対応もよかった高科さんに辞められると、痛いですよ…。う~ん」


 まんざら社長の手前のお世辞だけとは言い切れない口調と表情だ。急なことだし申し訳なくなる。しかし、辞める意思は固まっていた。


「子供のことや家庭のこともあって…、本当にすみません、急に」


「ご主人、就職が決まられたんですか? なら辞められるのも何よりですが。リストラに遭われたと聞いていましたから…。他人事ではないと胸がふさがれる気持ちがしましたよ。

 雇用者に非のない急な解雇は、経済的にも精神的にも家族に非常な負担を強いる残酷な企業上層部の経営判断ですよねえ、まったく…」


 社長を意識したリストラへの予防線めいた言葉に、はは…と曖昧に返した。


 当の社長は、一店長のめぐらせた予防線などいっかな見えないようで、


「リストラ…?」


 とわたしへもやもやとした目を向ける。その瞳の奥で、わたしはがバススタッフをしていた事情が簡単に結びつくのだろう。さっきからわたしの顔へ風を送ってくれていた『エロリータ~』を持つ手が、止まっている。


 社長は『紳士のための妄想くらぶ』で沖田さんと顔を合わせている。夫だと偽って…。それらの経緯にどきりとする。あの『夫』が本物でないと知られれば、ややこしいことになりそうだ。


 社長は店長に部屋を出るように言った。


 二人きりになり、また胸が押されるような気がした。この人が『のぞき穴』の看板からわたしをガン見していたあの目を嫌でも思い出してしまう…。


 社長は胸のポケットから折りたたんだ茶封筒を出した。わたしへ差し出し、受け取れと、と言う。


「とりあえず、三十万」


 厚い封筒の中を見た。言葉通り一万円札の束が入っている。札のふちが泥で汚れているのは何の演出か。


「そんな苦労をしているとは知らなかった。どうして知らせなかった?」


 封筒を返すわたしの手を止める。


「これで子供にピカチュウでも買ってやりなさい」


「受け取れません。いただく理由もありませんし…」


「そっちになくとも、こっちには理由がある」


 更に封筒を押し返すわたしの手を社長がぎゅっと握った。


「月に百万渡す。それでわたしの世話にならんか?」


 は?


「あんな店で不特定多数の安い客にスケべな妄想を売るくらいなら、悪いことは言わない、わたしの専属になりなさい」



へ?


 まだやや頭のぼんやりも残る。拒絶の言葉もすぐに出なかった。


「亭主のことを気にしているのだろう。だが、成功したわたしの眼力が、残念ながらあの男はうだつが上がらないと見切ったのだよ。

 黒目の下が開いていた。ああいう三白眼はわたしは嫌いだ。自分勝手で奢侈に溺れ、家庭を顧みない…。以前見た三白眼の男はそういう性質だった。これは確かだ」


 それはその男の性質だろうが。三白眼はこじつけで…。


 ツッコミどころがあり過ぎて言葉を失う。この人、沖田さんが子供でも知る大手出版社の重役だと知ったら、どんな顔をするのだろう。


「えてしてそういった手合いは女房に苦労させてものうのうと。そのくせ独占欲だけは一丁前なのだ。一目でピシリと見抜いた」


 ははは。


 沖田さん、今頃くしゃみを連発してるんじゃないかな。


 社長は言い返さないわたしに、その気があると取ったのか、ぐっと身を寄せる。気味悪くて、逆にわたしは身を引いた。


「あんたのために部屋を用意しよう。訳あり事故物件が、わたしたちのような世を忍ぶ者には風情があっていい。そう思わないか? 折りたたみのちゃぶ台とツードアの冷蔵庫を買おう。隣りか下の部屋には勝てないボクサーが住んでいそうな…」


 あんたアホか。


 そこでわたしも正気に戻り、一人妄想に調子に乗る社長から手を取り返した。床に落ちた封筒を拾い、改めて突き返した。


「お断りします」


 立ち上がってロッカーの荷物を取り出した。ここで着替える訳にもいかず、腕に抱えたまま社長に背を向けた。ドアノブを握る。


 部屋を出しなだ。


「なぜだ?」とつぶやく声がした。


 こっちこそ「なぜわたし?」と問いたい。


「なぜ気づかない。女の愚かさか?」


 愚かなのはお互い様のような…。あれこれおかしくて、失笑が口元に浮かんだ。その軽い笑いは次の社長の言葉に消えた。


「早晩壊れる家庭なら、すでに壊れているのだ」


 え…。



 懸案のパート問題も片付いた。店長には改めて急な退職を詫びた。身勝手には違いない。すんなり受け入れてもらえてありがたかった。


 帰路、自転車のペダルを軽く感じた。


 得ていた定期の収入が今後途絶えるのは痛いが、時間が出来ることは大きい。明日、空いた時間で図書館に行って調べ物をしてこよう…。


 原稿に向ける意欲も力も入る気がした。


 そうだ。余裕ができた今、本格にペン入れした原稿も描いてみたい。どうだろう、筆の速度を優先した方がいいのか。仕上げの綺麗さをとった方が読み手に親切なのか…。


 そんなことを思いめぐらせていれば、もう家に着く。車もない空いた駐車スペースに自転車を停め、キーを探った。


 ドアを開け中に入る。すぐに夫が留守であると気づいた。就職活動もあろうし、出かけることはおかしくない。


 時計を見れば、総司の幼稚園の終わる二時にまだ間があった。


 むっとするリビングの窓を開けて風を通す。部屋の散らかりが目についたが、少し横になりたい。とソファに寝転んだ。


 昼下がりの明るい部屋だ。カーテンを通して入る風が心地いい。いつもと違った風景が、知らない場所のようでちょっと不思議だ。


 一人でそうしていると、くるくると思いが回る。社長から切り出された「月に百万渡す。~」というトンデモな申し出。


 何でわたしなんだろう、と今でも納得がいかない。


 でも百万か…。


 わたしなんかにはとても融通できる額ではない。それが毎月…。


 大きいな…。


 でも、


 ないな。


 と思い出し笑いと共にけりがつく。


 スーパーのきつい冷房に慣れた身体には、ぬるい温度の部屋が気持ちいい。ついうとうとしてしまった。


 ドアの開く音で目が覚めた。廊下をこちらへやって来る夫の足音だ。


「あれ、帰ってたのか?」


 寝ているわたしを怪訝そうに見た。夫はシャツにジーンズの普段着だ。以来、ハローワーク等には出かけてくれているが、そこ止まりだ。面接に進まないのだろうか…。発しない心の声がする。


「具合でも悪いのか?」


「ううん、平気。あのね、パート辞めてきた」


「え?」


「だから、パートを辞めてきたの。言ったでしょ? 同人の方、専業できちんと頑張ろうと思って。だったらその時間をもっと…」


「大丈夫なのかよ」


 わたしの声を遮って夫が問う。その声になじる響きがあるのを感じた。むっとするのを抑え、家計に関わることで、相談ぐらいするべきだったか…、と己を振り返る。


 同人の資金作りとはいえ、いかがわしい店で働いていたことも。その場を社長に押さえられ、沖田さんに救ってもらったことも。夫には内緒にしてきている。彼は何も知らない。


 使えるお金が欲しくて、無理もしんどさもあった。でも通り過ぎた今では「喉もと過ぎれば何とやら」の心境が本音だ。わたしは性根の図太い女なのだろう。


 最後の日だ。『紳士のための~』の控え室で、タマさんに刺された釘のような言葉がふと浮かぶ。「ここでの勤めがばれても、わたしたちはしばらく気まずいだけでも、知った家族はどう?」。


 夫が知ったらきっとショックだろう。嫌な気分になる。怒るだろう、わたしを違った目で見るようになる…。


 ごめんね。


 黙って詫びつつ、知られていないことに安堵の息をつく。ひっそりと。


 身体を起こし、着替えの入ったバックを探る。まだパートのユニフォームのままだ。近いうちクリーニングして返却だ。


「ごめんね、勝手なことして。でも同人頑張るから。あのね、言ってなかったけど、実は昔もやってて…」


「しっかりしてくれよ」


 え?


「まったく…、頼むぞ」


 夫は吐き出す口調で言った。わたしと入れ替わりにソファに倒れ込んで長くなる。大あくびをしながら、


「パート辞めたんなら、これから総司の園バスの迎え、お前がやってくれよ」


 と付け足した。


 それはママが多い中、男の彼が出迎えに混じるのはいい気がしなかっただろう。休職中で面白くないのもわかる。


 理解はできても、分担していたはずの家の用事だ。パートを辞めたと聞けば、すかさずわたしへ投げて寄越す彼へ、腹立ちがふくれそうになる。


 パートと同人の原稿の二つの他、手抜きながらも家事をこなしてきた。時間をやり繰りして無理に無理をしてきた。漫画への情熱もある。が、今は純粋に好きだけで描いていない。趣味で描く余裕などわたしにはない。


 そんなこと知っているはずなのに…。


 黙ったままのわたしに、さすがに気まずいものを思うようだ。夫が取り繕う。


「総司もやっぱりママのお迎えが嬉しいって。それにやっぱり俺があの場に毎日顔出すの、精神的にしんどいよ」


 返事を返す気になれなかった。


「一人二人、しつこく飲みに行こうって誘う母親もいてさ、ごまかすのにちょっと参ってたんだよ。子供の手前そっけなくもでいないし…」


 夫は派手なタイプではないが、見た目がいい。それでそれなりにもてる人だった。なまじでまかせとも言えない。以前の職場では技師だったから、作業着が常だ。地味なそれが彼にすっきりとよく似合っていた…。


 着替えを持ってリビングを出た。着替えたらそのまま総司の迎えに出ようと思った。


「しっかりしてくれよ」。


 それは、わたしが言いたくて、でも言えずに長く飲み込んできた言葉だ。なのに夫はあんなに容易く口にできる…。


 リビングに戻りバックを取った。ついでにユニフォームのクリーニングにも回るつもりだ。もの言いたげな夫を置いて、家を出る。


 ポーチのところで宅配業者とかち合った。一抱えには小さい段ボール箱を渡される。わたしか夫か、いずれかの実家からだと思った。だが、送り主の名には、なんといろはちゃんの名と住所が記載されている。


『野菜』と種別の欄に記されている。


『野菜』?


 重くもないが、そう軽くもない。足元に置きガムテープを裂き中を開けてみた。新聞紙をかぶせた下に、まずつやつやしたトマトの姿がのぞく。他、ゴーヤーも見えた。サイズこそ小ぶりだがとうもろこしも入っていた。


 首を傾げた。


 同人を通して知り合ったいろはちゃんには、年下なのにあれこれ世話になり、仲良くしてもらっている。しかし、こんな風にいきなり前触れもなく野菜を送ってくれる意味がわからない。


 手紙でも入ってないかと箱を探るが、特に見当たらない。そこで、思った。


 彼女じゃない。


 では、


 なら…、


 答えは一つだ。沖田さんが送ってくれた。妹のいろはちゃんの名を使ったのは、わたしに家庭のあることを配慮してくれたのだろうと想像がつく。


 でも、なぜ?


 実家がある地方だと聞いたことがあった。そちらから送ってもらった野菜を、思いついてわたしにしもおすそ分けしてくれたのかもしれない。お金に困っている現状は知られてしまっている。


 どうしよう、お礼をどうしようか。


 隠れていた底にバナナまでがあった。トロピカーナのタグが見えた。


 箱を抱え玄関先に移した。物音に夫がリビングから顔を出す。


「野菜もらったの、知り合いから。置いておいて。後で片付けるから」


 それだけ言って家を出た。

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