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8 ミュージカルの夜

 ロンドンは、ニューヨークと同じくらい、ミュージカルのメッカだということを、ご存じだろうか。

 ニューヨークはブロードウェイ(ブロードウェイ・シアター)。では、ロンドンは?


 正解は、ウエスト・エンド(ウエスト・エンド・シアター)だ。ブロードウェイとウエスト・エンド。この二カ所が英語圏の商業演劇の最高峰と考えられている。私はお芝居やミュージカルが大好きなので、ロンドンを訪れる度に、1~2公演は最低でも観ることにしている。


 ロンドンに於ける劇場文化はイギリスの宗教改革(ヘンリー八世が、離婚を機に英国国教会を開いた)の後、1576年に始まった。ショーディッチ地区イースト・ロンドンエリアにシアター座という劇場が作られる。その後、サザーク地区にグローブ座が開設。だが、1642年にピューリタン革命の内乱により、一時期閉鎖を余儀なくされた。その後オリバー・クロムウェルが国王を処刑し、共和制という名の軍事独裁体制を敷いたが、長くは続かず1660年に王政復古し、演劇を再度上演する許可を国王に求めることとなった。やはり軍事体勢、軍事国家の元には、こうした娯楽は否定されるのだろうか。


 当時は、多くの劇場が元来別の目的のために作られた建物を転用して、上演したという。一番最初にウエスト・エンドに建った劇場は、ロンドン大火で燃えてしまった。その後、クリストファー・レンが設計し、同じ場所にドルリー・レーン王立劇場という名で建てられることとなる。

 現在ウエスト・エンドで見ることのできる劇場の多くは、19世紀後半頃に作られたものだ。後期ヴィクトリアン、またはエドワーディアンといった建物様式で、クラシカルな演目を見るのにうってつけだが、古い建物のために通路が細かったり、水回りが古い。そして残念なことに、エレベーターがないのである。安いチケットは上層階だが、そこまで階段をえっちらおっちら登っていくのは、なかなかの重労働。でもまぁ、それすらも楽しく感じてしまうのだが。


 階段を上がっていく途中には、バーが併設されている。そこで多くのイギリス人たちが開演まで酒を飲んで楽しんでいるのを、横目で見ることだってできるのだ。え? 私? 上演中にトイレ行きたくなったら困ると思って、まだバーで飲んだことがない。一度くらい、試してはみたいものだが……。


 そして、特筆すべきはそのロングランぶりだ。


 『レ・ミゼラブル』や『オペラ座の怪人』、『ライオン・キング』『SIX』『ブック・オブ・モルモン』あたりは、いつ行っても公演している。それに、チケットも安いのだ。公演数が多く、観る人も多い。それで安くできるから、さらに人が観に行く。とても良い循環ができている。

 日本でミュージカルを観る向きの中には驚く人がいるかもしれないが、チケットを買うときに座席を選ぶことができるのだ(本来それが正しいことだと思っている)。価格と値段が見合うのか、それを自分で判断して購入することができる。だからこそ、文化として浸透しているのか。もしくは、文化として浸透しているからこそ、こうなのか。ただし、古い建物なので、見切りの席が存外多い。購入時にはきちんと明記がしてあるし、劇場によっては、その見え方がバーチャルで表示されているので、自分が納得できるか否かを確認して欲しい(安くて前の方なのに空いていて、どうしてだろうと思ってチェックしたら、見切り席だったということもあった)。


 さて、今回私が見るのは『SIX』。これはミュージカルというよりもライブのようなものだ。だが、内容は非常にイギリスらしいウィットに富んだ物語。

 ヘンリー八世の六人の妻たちがガールズバンドを結成し、誰が一番ヘンリーに酷い目に遭わされたかを歌うストーリーだ。日本でいえば、織田信長の家臣が集まってバンドを組んで、誰が一番信長に酷い目に遭わされたかを歌うようなものだろうか。妻だからちょっと違うが。

 宗教革命を起こしたヘンリー八世の名は、前にも話題に上げた。このヘンリー八世、今の感覚で言うと


「好色エロジジイ」


 とついつい口にしてしまいそうになるほど、結婚と離婚を繰り返している。


 もちろん、国王なので、お世継ぎを作ることも大切な仕事だろう。薔薇戦争直後の王朝二代目だ。この乱世を乗り切り、貴族を押さえるためには男の王を彼が望むのも、時代背景を考えれば仕方がないのかもしれない。だが、それにしても、だ。相手の選び方がエグい。妻の侍女に手を出すとか……する? 普通。しかも姉妹両方に、だなんて。それが二人目の奥さん、アン・ブーリン。ちなみに一人目はキャサリン・オブ・アラゴン。兄の元嫁だ。キャサリンの子が、後のメアリー一世となるメアリー。このメアリー一世はカトリックで、当時ヘンリー八世が英国国教会を作って国教とした後だったので、いきなりカトリックに国教を戻し、カトリックではない国民プロテスタントをおよそ300人処刑した。そのため、ブラッディ・メアリーと呼ばれている。同名のお酒の元ネタはこれだ。


 アン・ブーリンはエリザベスを生む。後のエリザベス一世だ。その後、彼女は姦通罪という酷い冤罪(当時もそう考えられていた)をかけられ、ロンドン塔で処刑される。こうしてヘンリー八世にとって邪魔者が一人消えた。次の妻はジェーン・シーモアだ。ジェーン・シーモアもまた、アン・ブーリンの侍女である。だから、侍女に手を出すなって。


 ジェーン・シーモアはヘンリー八世の待望の男児を生むが、産褥死してしまう。その後アン・オブ・クレーヴスという女性と政治的思惑で結婚するも、すぐにヘンリー八世から離婚を申し立てた。この離婚に関しては、結婚を無効とし、王の妹という立場を与えた穏便な離別となる。同じアンでも、アン・ブーリンとは雲泥の差である。ちなみに、アン・ブーリンは未だにロンドン塔に魂が残り、幽霊としてさまよっていると言われていて、ロンドンの怪談にも加わっているそうだ。そりゃぁ……無念だよねぇ。


 では今度はヘンリー八世誰に手を出したのか。またしてもアン・ブーリンの侍女だった女性だ。王妃の侍女とは、誰もがそれなりの身分ではある。だからこそ、安心して手を出せたのかもしれない。

 今回の侍女の名はキャサリン・ハワード。なんとアン・ブーリンの侍女であっただけでなく、従姉妹でもあった。若い彼女に、ヘンリー八世はもうメロメロ。なのに、キャサリン・ハワードは元婚約者と体の関係を持ち続けた。ヘンリー八世、気に入らないことがあったらどんどん処刑する男だって……わかってただろうに。そうして姦通罪でキャサリン・ハワードが退場してしまう。今回は、冤罪ではない。


 最後の奥さんはキャサリン・パー。彼女は非常に教養深いプロテスタントで、ヘンリー八世の跡継ぎとなっているエドワード王子の教育を任された。キャサリン・パーは、エドワード王子の邪魔にならないようにと庶子に落とされ継承権を取り上げられていた、メアリーとエリザベスの身分を王女に戻し、エドワードの次となる継承権を復活させる。ありがとう、キャサリン・パー。あなたのおかげでエリザベス一世が誕生したのだ。


 こうして六人の女を妻としたヘンリー八世は、多くの物語などにも登場するようになる。一番有名なものは、シェイクスピアの『ヘンリー八世』だろう。だが、今回私が見た『SIX』も、なかなかどうして負けてはいない。


 ヘンリー八世の妻について話が長くなったが、ミュージカルに話を戻そう。

 コヴェント・ガーデンのすぐ近くの建物に、大きく『SIX』と書かれてある。開場が始まったばかりらしく、列ができていた。


「軽く何か食べておくかな」


 そう思って通りを渡るが、食べたいと思うものが何もない。ここならば、とイギリス中に出店している赤い看板のチェーン店を覗いてみるも、どれも品切れ。残っているものはそれなりの理由がありそうな、いまいちなアイテムばかりだった。仕方がないので、公演後に何か食べることにする。いっそのこと、夜になる方がパブなどが開いていて良いかもしれない。それもあまり期待できないが。


 電子チケットなのでスマートフォンを読み込んで貰う。階段の登り口を案内されたので、必死で登ることツーフロア。トイレを済ませ座席に向かう。私は背が低いので、できるだけ前の人がいない場所を選ぶようにしている。今回はフロアは上だが、最前列が空いていたので、その席を押さえた。とても良く見える席だ。


 劇場はとても狭く、舞台の広さはまるでライブ会場のようだった。やがて照明が落ち、始まる。

 舞台背後からの強い光、華やかに落ちる紗幕。そして派手なロック調の衣装を身に纏った六人の女性たち。

 そう。彼女たちが、今回の主人公。ヘンリー八世の六人の妻。

 ガールズバンドを組んだ彼女たちは、誰がリードボーカルをするかを決めているところだ。そこで、ヘンリー八世に一番酷い目に遭わされた人を、リードボーカルにしようとなったのだ。どういう決め方だ。


 一人一人が語るヘンリー八世とのこと。けれど最後は皆、ヘンリー八世を中心に考えることで自らの個性が奪われていたと気付き、誰か一人のリードボーカルではなく、個々人を生かす、グループでの歌に変えよう、となるのだ。そうして、六人それぞれが歌っていたヘンリー八世との関係の曲を使用したマッシュアップを演奏し、舞台は大盛り上がりで終了する。


 ラストはもう、会場中が立ち上がった。

 拍手をし、体を揺らせ、声を出して笑う。

 この作品はケンブリッジ大学の学生が作った戯曲が元だそうだ。トニー賞他多くの賞を受賞したのもわかるくらい、勢いのあるストーリーで、しかも女性たちへの訴える力がものすごくある。男に振り回されて良いのか? 男に頼って良いのか? むしろあなたの良さは、あなたが決めることではないのか? 熱のあるミュージカルに、終った後も脳内には曲が流れていた。──英語の歌詞はわからないので、残念ながらメロディを鼻歌で歌うことしかできないのだが。


「あと、キャサリンとアンが多すぎて、途中ちょっと良くわからなくなったけど」


 ──つい、本音が出てしまった。


 すっかり夜も遅くなったけれど、お腹は空いている。パブはどこも人で溢れていて、疲れてしまいそうだ。


「そういえばパディントン駅近くに、フィッシュ・アンド・チップスの店があったっけ」


 遅い時間に、ロンドンのフィッシュ・アンド・チップスは少々脂っこいかもしれないが、何も食べないよりはマシだ。あぁ、こんなときに立ち食いそばがあれば、と思ってしまう。夜遅い時間の外食にはもってこいなのだ。

 とりあえずホテルのあるパディントン駅まで戻り、駅の近くのフィッシュ・アンド・チップスの店に入った。


「まだやってる?」

「大丈夫だよ。何にする?」

「えーと、コッド。チップスもつけて。あとコーク」


 フィッシュ・アンド・チップスのフィッシュは、多くの店で選ぶことができる。ただ、正直何が何だかわからないので、私はいつもコッドにしてしまう。

 大抵は『ハドック(モンツキタラ)』『コッド(マダラ)』『ハリバット(オヒョウ)』の三つがメニューに書かれている。マダラが一番馴染み深いので(そして読み方に迷いが生じないので)ついつい選んでしまうのだ。


 少しすると、揚げたばかりのフィッシュ・アンド・チップスが届く。コカ・コーラは久しぶりに見る三五缶だ。そしてフィッシュは……デカい。


「あー、やっぱりおっきいねぇ。食べきれるかな」


 25センチから30センチはありそうなタラに、山盛りのフライドポテト。食べきる自信はあまりないが、それはいつものことだ。フィッシュ・アンド・チップスを一人で食べきることは、イギリスでは難しいと思う。


「塩……お酢がないや。すみません! ビネガーちょうだい、ビネガー」


 味が一切付いていないフィッシュをもそもそと食べながら、


(やっぱり日本のフィッシュ・アンド・チップスは美味しいんだなぁ)


 そんなことを思ってしまう、夜であった。

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