(6)炎色反応
翌日、学校に行くのは気が重かった。心は、深い苦しみの中にあった。
教室では、琴美に無視された。彼女にまで相手にされなければ、だれも彼の事を構ってくれないのだった。
一日、孤独だった。
学校帰り、一人で駅に向かった。秋になって、手をつないだり腕を組んだりして歩く二人連れが増えたような気がした。寒くて日の短い季節になると、人は人の温もりを求めるのだろうか。それなのに、彼は孤独だった。しかし、カップルを見てもうらやましいという気さえ起こらなかった。
それは、周りの事に無感動、無関心だった、彼の本来の性格とはまた異質のところから出てきていた。むしろ、夢幻燈を使い始めてからのここ二、三日ほどは、それまで平坦だった感情に起伏ができていた。そして、その起伏は適度な緩やかさを持ったものから徐々に激しいものへと変化しつつあった。
そうだ、以前の彼だったら、父親の法事に行かなくてもなんとも思わなかったのではなかろうか。あるいは琴美に嫌われても、そんなに深く悩まなかったに違いない。かずねえの事も、過ぎ去った過去の甘美な記憶としてしか心に抱いていなかったはずだ。
それらは夢幻燈の影響なのか……そこで彼は、教授と千代の事を思い出した。
バス停を通り過ぎ、駅から市街地の方へ向かう電車に乗った。
教授のところに行って、どうしようというのか自分でも分からなかった。ただ、どうしても行きたくなった。
まばゆいアーケードとは対照的に、裏通りは暗かった。居酒屋の看板はうらぶれた暗い光を放ち、スナックの入口には猫が一匹うずくまり、由夫を見上げてか細い声で鳴いた。ビルの間を吹きぬける風の冷たさに思わず首をすくめた。
博士と千代が住むビルは、一階のラーメン屋には忌中の張り紙がしたままで、狭い階段は、二階と三階の間の踊り場の白熱灯が切れていた。四階のドアの前に立ったが、中からは人のいる気配は漏れ出てこなかった。
軽くノックして、それから強くノックしたが、返事はなかった。
誰もいないのか、そう思い階段を下りかけた時、ドアが開く音がした。
「山下のお兄ちゃん?」
振り向くと、千代がドアの隙間から顔を覗かせていた。上目使いに由夫を見る目は、寂しそうで、そして彼にすがるようだった。
「や、こんばんは。ちょっと近くまで寄ったもんだから。教授……じゃなかった、おじいさんは?」
「おじいさんは、まだ帰りません。一人でお留守番しているんです」
「あ、そう。じゃぁ、よろしく伝えといてね。さよなら」
由夫が今度こそ階段を下りようとした時、千代が部屋から飛び出してきて、彼の腕に抱き付いてきた。
「ね、一緒にいて。寂しいの。おじいさんが帰ってくるまで、遊びましょ」
由夫は少々躊躇したが、千代に導かれるように部屋の中に入った。
居間のコタツの上には漢字の練習帳が広げられていたが、千代はそれを片付け、ままごと道具を箱から取り出そうとした。
(また、これか……)
彼はそこで、ふと、居間に来る途中で覗いた教授の仕事部屋の事がひらめいた。棚には薬品が並び、作業台の上にはブンセンバーナーがあったはずだ。
「そうだ、千代ちゃん、面白いものを見せてあげようか」
「面白いもの?」
「というか、きれいなもの」
由夫は千代を連れて、仕事部屋の中に入った。
「勝手に入っちゃ、おじいさんに怒られます」
「大丈夫、使った事が後で分からないようにしておけばいいさ」
彼はそう言いながら、薬品棚から薬瓶を探した。
塩化ナトリウム。塩化カリウム。水酸化カルシウム。硫酸銅。由夫はその日、授業中にめくっていた化学の教科書の口絵にあった、炎色反応の写真の鮮やかさを目にして、その一瞬だけ悩みから少し遠ざかったのだった。
薬品をそれぞれビーカーに薬匙で少しずつ入れ、精製水でそれらを溶かした。硫酸銅は目も覚めるような水色の液体となった。千代は、不安そうに、そして不思議そうに眺めていた。
バーナーに火を点けた。青い炎が筒の上に吹き上がった。
「電気を消して」
千代はスイッチを切った。バーナーの炎はさほど明るくなく、覗きこむ二人の顔と手元をほのかに明るく照らすだけだった。
由夫は、作業台の上に転がっていた白金耳の先を塩化ナトリウムの溶液に浸し、滴が落ちないように取り上げ、炎にかざした。黄色い炎が白金耳の先から立ち上った。
「へえ……?」
千代は、目をくりくりとさせ、首を傾げた。
次に、塩化カリウムの溶液で同じようにして見せた。今度は、紫色の炎になった。
「わぁ、きれい!」
千代は喜んだ。塩化カルシウムのオレンジ色の炎、硫酸銅の緑色の炎でも千代は嘆声とも歓声ともつかぬ声を上げた。
それから、代わる代わるに次々と四種類の溶液を炎にかざし、色付きの炎を出しては面白がった。
千代が、はっと顔をこわばらせた。スイッチが入り、天井の蛍光灯が点った。
教授が知らない間に帰ってきて、部屋の入口にいた。眼鏡の奥の目は鋭く、表情からひどく怒っている事は明らかだった。
由夫がどうしよう、とうろたえている間に、教授は大股に部屋に入り、ガスのコックをひねってバーナーの炎を消した。
「山下君……と言ったかな。困るよ。非常に困るよ。非常識だよ!」
その言葉は厳しかった。心に深く突き刺さり、俯いた顔を上げることができなかった。
「私は薬品や器具の扱い方を知らない子供が危険な目に遭わないよう、千代にはこの部屋に決して入らぬよう、言い聞かせてきた。千代が君に頼んだのか、それとも君が千代をここに入れたのかは知らないが、危険極まりない事だ」
千代が、言った。
「私が、お兄ちゃんに頼んだの。何か実験して見せて、って」
千代の嘘に、由夫は、顔を上げた。このままでは、千代が悪い事になってしまう。本当に悪いのは彼なのに。
「違います、僕が面白いものを見せてあげる、と言って、ここに連れてきたんです」
「違う、違う、私がお願いしたの。寂しいから、面白いもの見せてって!」
千代は、由夫をかばおうとしていた。けれども、千代を悪者にする訳にはいかない。由夫は、千代をさえぎって、教授に訴えかけようとした。しかし、教授は一喝した。
「もう、いい! どっちもどっちだ!! もし仮に君が主導的だったとしても、千代はそれを止めなければならなかったのだ」
由夫は、「それは違う」と反論しようとしたが、教授は有無を言わせぬように言った。
「君は帰りなさい。もう遅い時間だ」
博士に追い立てられるように、部屋を出た。
階段を下りながら由夫は、取り返しのつかない事をしてしまったと、深い自責の念に駆られた。千代がこれから後、教授に叱責されるかもしれないと思うと、いたたまれなくなった。教授の迫力に気圧されず、千代を守ってやるべきだったのに、それができなかったのは、たまらなく辛い事だった。
打ちひしがれ重い足取りで、暗い道を、明るい通りに向かって歩いた。
それから由夫は毎晩、夢幻燈をセットした。
本当は教授と千代の事を思い出しそうで、夢幻燈を使う事はためらわれたのだったが、教授からの信用も失われ、千代にも会いづらくなった今、すがるものは他になかった。
けれども、夢幻燈は決まった映像を繰り返しスクリーンに投影するばかりで、それから眠りに落ちてから見る夢も、味気ないというよりは寂しく、茫漠とした、虚しいものばかりだった。
いや、そんな毎日の末に、何がしかの印象を与えてくれる夢があった。
夢幻燈のカートリッジは、「祭」だった。日本の祭りだけでなく、世界中の祭りの映像が、スクリーンに映し出された。
いつの間にか眠りに落ちた夢のなかで、彼は見覚えのある部屋を、逆さまに見ていた。彼の目の前には、厚い水色のガラスのようなものが立ちふさがり、部屋の中は青くうすぼんやりとしていた。
彼は、逆さまになったまま、何か液体の中にプカプカと漂っていた。なんだか、彼はサイダー瓶の中にいるようだった。そして、厚いガラスの向こうの部屋は、彼が幼い頃に住んでいた家の一室だった。
まだ幼い由夫と、まだ若い彼の両親がテーブルを囲んでいた。母親の手作りのちらし寿司をみんなで食べていた。幼い由夫は、子供用の浴衣を着ていた。彼は、「早くお祭りに行きたい」などと駄々をこねていた。父親が、「それを食べてから」と彼をたしなめた。由夫は、「肩車したい」と父親に言った。父親は、「おう、やってやるぞ。うんと高い肩車してやるぞ。お星様にも手が届くぞきっと」などと言った。母親は、可笑しそうに笑った。
そんな夢だった。
目が覚めてから、由夫は熱い涙が目に滲むのを感じていた。彼が幼い頃までは、あんな温かい団らんがあった事を、十年以上ぶりに思い出した。そして懐かしさと、両親を無性に慕う気持ち、そして、それでもまだ両親を許す事のできないという気持ちの間で、揺れていた。
しばらく布団の上で彼は考えていた。
壁に掛かったカレンダーの日付を見ると、父親の命日だった。彼は、決めた。
バスで駅まで出たが、そこから学校へは向かわず、駅の窓口で切符を買った。
父親の実家まで、特急で三時間あまりだった。平日の昼間で乗客の姿も少ない特急列車は、ある時は海に沿い、またある時は山の中に分け入り、坦々と走って行った。窓からは、透明な秋の陽が静かに降り注いできた。車輪がレールを刻む音だけが、もどかしく短調なリズムを延々と奏でていた。
バスを乗り継いで、昼過ぎに由夫は田舎の祖父母の家に着いた。
そこには、祖父母と叔母、そして大叔父の四人しかいなかった。制服を着て、学生鞄を持った由夫の突然の来訪に、四人とも驚いた。
「なんで連絡もよこさんの」
「坊さんはもう帰ったのに」
「学校はどうした。お母さんには言ってあるのか」
そんな事を口々に言いたてられ、今朝決めた事だから、そして学校にいくふりをして家を出たから、と説明した。
線香を上げ終わった由夫に、叔母が、養母のもとに連絡を入れておいたから、と言った。養母のところには、その少し前に学校から無断欠席の連絡が入ったばかりのようだった。そして結局は、法事で欠席したという事で改めて連絡する事になったらしい。
お坊さんに出すつもりで作ったのに遠慮されてしまい、残ってしまったという精進料理を食べる由夫に、祖父が独り言のようにつぶやいた。
「あいつも、本当にしょうもないやつで、誰も法事に来てくれんかったなあ。でも、その息子はちゃんと命日を覚えてくれて、さぞやうれしかろな」
「本当にねえ」
祖母も目頭を押さえながら相槌を打った。
それから五人で、近くの墓地まで歩いて、墓参りに行った。新聞紙に包んだ菊の花は、由夫が持った。柔らかい太陽の光の下、刈り入れの終わった田んぼの中の砂利道を、物静かに話しながら、歩いて行った。
墓地の片隅の、先祖代々の墓には、誰かその日のうちに先に来たらしく、まだ新しい花が活けてあった。
誰が来たのだろうかと由夫が言うと、叔母が、
「由夫ちゃん、あんたのお母さんよ」
と答えた。聞くと、由夫の母親は、父親方の親族との永年の確執があって葬式には出られず、法事にも出て来なかったものの、毎月の月命日には必ず墓参りに来ているようだ、という事だった。
「そりゃあ、憎くて別れたんじゃないから、それだけは仕方ないだろね」
叔母が言った。
両親の間の情愛がどんなものだったかが、由夫には少しだけ分かったような気がした。
彼にとって、おそらく一生許せない両親ではあるけれども、彼の幼い頃の団らんと、なおも父親を慕う母親の心だけは確かなものとして、また別に心に置いておこうと思った。
彼は、夜遅くに養父母のもとに帰った。
「行くなら行くで、言ってくれたら良かったのに」
養母は珍しく小言を言った。それから、そうそう、学校からこんな連絡があった、と教えた。
「あなたと同じクラスの萩原琴美さんって女の子が、学校帰りに事故に遭われたんですって。幸い軽いけがだったけど、一週間から十日程度は入院するんですって。事故は怖いわねえ。由夫さんも気を付けてね」
由夫は、思わぬ知らせに激しく動揺した。
その夜は、夢幻燈もセットせず、まんじりともせずに明け方近くまで琴美の身の上を案じていた。
次回で完結します。