(4)砂漠の隊商
その日の由夫は、学校ではいつも通りに影の薄い、目立たない生徒には違いはなかった。しかしそれは他人から見ての話であって、彼自身は晴れ晴れとした心持ちで机に向かっていた。決して居眠りする事もなく……校庭の向こうにある街並みや、その向こうにある大工場の煙突を眺めたり、前晩の夢を思い返したりした。
だが、いくら晴れ晴れとした心であっても、授業の分からなさについては、「分からんもんは分からん」だった。意識は教室の外に向かいながら、教師の視線を気配として感じると机の上に広げた教科書やノートに目を移し、シャープペンシルで何か書くふりをした。
夢に出てきた少女は、琴美に違いなかったと、彼は思っていた。
確かに、琴美はいい娘だ。何かにつけて彼女は由夫のことを批判するが、決して攻撃的ではなく、むしろ親身になって忠告してくれているようでもあった。クラスの中で影の薄い彼の事を気に留めてくれる数少ないクラスメートのひとりに違いはなかった。そんな彼女の事を、うるさいなと思ってはいたが、ほのかに嬉しくもあった。
窓の外から目を移し、こんどは反対側の前方の、琴美の後ろ姿を眺めた。
夢の中では、ふくよかで、美しい裸体だった。現実の世界では、制服の紺色の上着にそれは隠されていた。背中には、太くて濃い、そして艶のある黒髪が束ねられ、流れていた。
同じように豊かな髪を、由夫は過去に見ていた。彼の意識は、その当時に飛んだ。
彼は、中学生の頃、近所に住む女子大生と親しくしていた。彼はその女性の事を「かずねえ」と呼んでいた。かずねえは「よっしゃん」と呼んで可愛がってくれた。
当時の由夫は、自分の家庭ではろくに育ててもらわなかったように感じていた。家には両親の影はなく、毎日の食卓の上に置かれた夕食費と小遣いだけが、親子を繋ぐ、か細い絆だった。
そんな由夫を受け入れてくれたのが、かずねえだった。彼女は、初めは年下の少年にちょっかいを出していたに過ぎなかったのかもしれない。しかし、そのうちに由夫の境遇を不憫に思い同情したのか、彼の話し相手になってくれ、手作りの食事も用意してくれた。由夫は、ひとり暮しのかずねえのアパートに通った。
歳の離れた恋人というよりは、姉弟のようでもあった。
確かに、由夫は、肉親の愛に飢えていた。家庭に飢えていた。ひょっとしたら、かずねえに、母的なもの、あるいは姉的なものを求めていたのかもしれない。
しかしほどなく、かずねえに彼女と同年代の彼氏ができて、由夫とは距離を置くようになった。
彼はそれからすぐに、養子に出され、いま住んでいる街に移った。かずねえの想い出のこもった故郷の町は、遠く離れてしまった。
しかし……彼女の黒髪は、決して忘れる事のできない、懐かしく、そして生々しい記憶だった。
彼が琴美に惹かれるのは、かずねえと同じ豊かな黒髪に惹かれているからかもしれない。……いや、違うかもしれない。
かずねえは今、どこで何をしているのだろう……?
あの頃の、古い住宅街の安アパートに、まだ住んでいるのだろうか。それとも、岬に向かう国道をバスに揺られて行った先にあるという、小さい漁村の実家に帰ってしまったのだろうか。
遠い空の向こうを眺めながら、かずねえの面影を心の中では追っていた。
「山下! 山下!!」
……どこかから彼の名を呼ぶ声がした。
授業中によそ見をしていて、名前を呼ばれても気付かなかった由夫は、放課後に職員室に呼ばれた。説教の種は、遅刻しがちな日常や、授業を受ける態度など、山のように貯まっていた。かなりの時間、他の教師たちが苦笑いしながら見やる中、叱責された。
秋の夕暮れは早く、夏の頃はまだ西日がギラギラしていた時間帯でも、もう宵の口になっていた。街に夜の帳が下りようとする頃、消耗しきって校門を出た。
街灯の明かりが道に落ちていた。車のライトがまばゆく行き交っていた。
「や、まし、たく~ん」
帰りを急ぐ彼を、背後から妙な節を付けて呼ぶ声があった。琴美だった。
由夫は足を止め、振り返った。琴美は、小走りに近寄りながら言った。
「もう、終わったの?」
もちろん、説教の事である。
「ああ……」
憮然と返事をする由夫の前まで来た琴美は、吹き出した。
「何が可笑しいんだよ?」
「ええ? なんでもない。なんでもないけど、やっぱ可笑しい」
由夫は歩き出した。歩調はさっきよりも大幅に早くなっていた。琴美は笑いをこらえながら並んで歩いた。
琴美はいつもと違うようだった。厳しい物言いはしなかった。けれども、彼に投げかける言葉の内容は相変わらずだった。
「ちゃんと授業を聞いとかないと。そんな調子だから、なかなか成績が上がらんのじゃないの。……わかってる?」
「わかってるよ!」
琴美はまた笑った。
黙ったまま、二人は郊外電車の駅の方へ歩いていった。琴美と並んで歩く事にはなんとなく密かな喜びを感じていたが、遠慮も何もあったものではない彼女の言葉には閉口していた。
由夫が琴美を突き放そうと歩みを速めると、琴美もそれに合わせて付いてきた。先に行かそうと立ち止まると、彼女もまた立ち止まった。由夫が舌打ちすると、それも彼女にとっては可笑しい事らしかった。
からかわれているんじゃないかと思い始めた頃、ちょうど駅前のバス停に来た。由夫はバス、琴美は電車でそれぞれの家に向かうのだ。
別れぎわ、琴美は言った。
「昨夜ね、夢を見たんだ……温泉にひとりでのんびり浸かってたらね、山下くんがいきなりそこに来て、私、いけない、と思って飛び出しちゃったんよ」
その言い方は、明るく軽いものだったが、由夫は奇妙な感覚に襲われた。前晩の夢に出てきたのは琴美だとしても、同じ夢を見る事は有り得るのだろうか……と、にわかには信じられない気がした。
琴美はしかし、
「それじゃまた明日ね。遅刻したらいかんよ」
といたずらっぽく笑い、身を翻して駅に向かって走っていった。その背中には、黒髪が揺れていた。
その夜、由夫はまた夢幻燈の電源をコンセントに繋いだ。
カートリッジは、なんとなく「砂漠」を選んだ。やはり信じられない事ではあるが、由夫が見た夢を、夢の中に出てきた他人が共有できるのであれば……かずねえを夢に呼び出す事ができれば、夢の中でとはいえ再会できるのではないかと、期待した。
前晩に見た夢は、風景や情景の鮮やかさは心に残ったが、やはり夢は夢でしかなかった。その世界にいるという感覚は、目が覚めると同時に儚くも消え去ってしまったのだ。
それでも……夢でもいいからまためぐり会いたいと思っていた。
電灯を消して仰向けになると、天井のスクリーンには、輝く青空の下に広がる砂漠があった。時間とともに、オアシス、風紋、土の煉瓦を積み上げた家が点在する集落、乾燥に耐えて花を咲かせる植物などの映像に移り変わった。
そのうちに、彼は静かに眠りの底に沈んでいった。
オアシスは静かだった。研かれた青銅の鏡のような水面には、雲ひとつない青空がくっきりと映っていた。しかしそれは時折吹き渡る穏やかな風や、飛び立つ水鳥が起こすさざ波によって乱された。さざ波が起こるたびに、水の底には金色の光の綾が音もなく踊った。
革の袋に水を詰め、ラクダの隊商が動きだした。由夫は、列の中ほどのラクダに乗っていた。腰には、襲い来る敵に向かうための刀が揺れていた。すぐ前のラクダには、銀で飾られた鞍に横座りした若い娘がいた。娘は、薄い絹の衣裳を幾重にも身に纏っていた。砂漠の民の中にあって、由夫と娘の二人だけが、東洋のさらに東の果ての顔立ちをしていた。娘の横顔は、憂いを含んでいるようでもあった。
歳の数よりも多い皺を褐色の顔に刻んだ老人が、木陰に腰を下ろしながら隊商の一人に何かを語りかけて笑ったが、その異国の言葉は由夫には理解できなかった。集落の粗末な家から三人の子供が出てきて、無邪気に笑いながら隊商の列に寄り添うように付いてきたが、やがて踵を返して後ろへ駆けて去った。
濃い緑のオアシスを抜けて、隊商は砂漠の中へと進んでいった。オアシスでは穏やかだった風は乾いた熱風となり、見渡す限りの砂の大地に風紋を作っていた。砂丘の陰の吹き溜まりには、枯草のような植物の群落が砂に埋もれかけていた。
オアシスはどんどん遠ざかり、やがて見渡す限り砂丘だけとなった。
どこまで進んで行っても、乾いた砂の海だった。いつまで経っても、空には一片の雲さえ地上に影を作ってくれなかった。
休むことなくラクダは進んだ。食事は、ぼそぼそとした固いパンのようなものと、生臭くて味の濃いチーズのようなものを、ラクダに揺られたまま食べた。
前のラクダを見ると、娘は懐から東洋ふうの小箱を取りだし、中から豆粒のようなものをひとつひとつ口に運んでは、ゆっくりと噛んでいた。それは、娘が自分の国から持ってきたのか、それとも南欧からやってきた商人から手に入れたのかは分からないが、金米糖のようだった。
金米糖を噛みながら、娘の頬に一粒の涙が伝い、落ちていった。
何も目印のない砂漠の中で、太陽だけが方角を示す目安となっていた。西へ、西へと隊商は一列になり、ゆっくり、ゆっくりと進んで行った。赤い大きな太陽が遥かな地平線に沈もうとする頃は、その太陽に真っ直ぐ向かって行った。
ただただ青かった空は東の方から暗みを帯びてきたが、西の空は鋼のように滑らかに澄み、その中に宵の明星が光っていた。
昼の光が退くとともに、空の中に隠れていた無数の星たちが現れ、半刻もしないうちに、砂の海の上には星の海がきらめきはじめた。
星空に、銀色の雲かと見紛うばかりの天の川が、横たわっていた。新月のために月はなかったが、星の明かりが、砂漠を風紋のひとつひとつに至るまで青く浮かび上がらせていた。
由夫は、満天の星を見ながら、涙がこみ上げてきた。ラクダに揺られたまま、涙を流し、星は滲んで見えた。
西に向かってどこまでも隊商は進んでいった。
由夫は、無性に懐かしく、懐かしさのあまり胸が熱くなり、涙を流しながら目を覚ました。
夢に見た星空は、いつかどこかで見たような気がしたが、いつ、どこで見たのだったか思い出せなかった。けれども、心を激しく揺さぶる正体不明の懐かしさをどうしようもできなかった。
その日は一日、夢の事を考えながら過ごした。
数学の授業中も、まったくの上の空だった。その時、横からシャープペンシルの先で鋭く突つかれた。はっとして横を向くと、数学の時間だけは由夫の真横の席に座っている琴美が、前を向け、黒板を見ろ、と、わざとらしいしかめっ面をしながら、身振りで示した。
彼女はすぐに前を向いたが、由夫はその横顔を横目で見た。
前晩の夢で見た星空がなぜあんなに狂おしいほどに懐かしかったのか……という事とともに、前のラクダに乗っていた娘の横顔は、果たして誰の横顔だったのだろうかというのが、もうひとつの謎だった。
琴美だったような気もした。かずねえだったような気もした。遥かに若くて、千代だったような気もした。
その娘がかずねえでなかったならば、夢に呼び出す事は失敗に終わったのか? なぜ娘は金米糖を食べながら泣いていたのか? 夢の中での彼自身はいったいどんな役回りだったのか? すべて夢幻燈に仕組まれたプログラムのようなものに沿っていたのだろうか? だとしたら、考えるだけ無駄ではないか? 本当に、無駄なようだった。けれども、考え続けていた。
再び琴美に突つかれたが、納得のいく結論が出ないまま、いつまでも考え続けていた。