(2)ムゲントウ
千代がお手玉をしている時、部屋にテレビがない事に気が付いた。本棚にある本も、今どきの子供は読まないような、たとえば布張りの表紙の児童文学全集だったりした。裏通りの雑居ビルのある一室に、このような時代超越的な場所があるなど、誰が想像するだろうか……由夫は思った。
無心にお手玉を操る千代の、純粋にきらきら光る瞳を見ていて、ふと、部屋全体が琥珀色に沈むような錯覚に陥った。目をしばたかせ、また目を見開くと、千代はお手玉を止めてきょとんとしていた。
「なんでもない」
と由夫が言うと、千代は無邪気に笑い、
「私ね、こんなのもできるんだ」
と、またお手玉を始めた。
はてさて、どうしたものかと帰る機会をうかがっていると、教授が部屋にやってきた。
「千代、お兄さんに遊んでもらって嬉しいか」
「うん、とっても!」
由夫はちっとも楽しくはなかったが、千代は満面の笑みを浮かべて言い切った。
教授は「そうか」とひとこと言って口許に微かに笑みを浮かべたようだったが、顔全体では気難しい表情は変わらなかった。その顔のまま由夫に風呂敷包みを差し出した。
「?」
由夫がきょとんとしていると
「お礼だ。気に入ってもらえるかどうか分からないが、しばらく貸しておく」
と、何か箱が入っているような形状の包みを、さらに由夫の目の前に突き出すように差し出してきた。
何が何やらさっぱり分からないままそれを受け取るそばで、千代が聞いた。
「ねえ、おじいさん。それ、ムゲントウ?」
「そうだ」とだけ答え、教授はまた部屋を出ていった。今度は、スリッパを履き損ねてよろめきかけた。
いいかげん帰ろうとその後を追うように部屋を出た由夫に、千代が言った。
「もう帰っちゃうの……? つまんない。もっと遊びたかったのに」
(千代ちゃん、ごめん。僕はちょっと退屈だったよ)心のなかで独り言をつぶやく由夫に、千代はさらに言った。
「ムゲントウね、すごくて、きれいよぉ~。きっとお兄ちゃんも好きになると思うけど、ちゃんとおじいさんのところに返しに来てね」
「うん、ちゃんと返しに来るよ」
なんだか、妙なものを押しつけられたな……そんな本音はのどの奥に押しこめて、由夫は約束した。
教授が閉じこもった部屋にひと声かけて外に出ると、もう暗くなっていた。階段の天井にはクモの巣がかかった白熱灯が点り、その明かりが踊り場をわびしげに照らしていた。
風呂敷包みは、意外と軽かった。布を通して伝わってくる質感は、どうやら木箱らしかった。
ビルの外に出ると、細い路地はますます暗く、冷たい秋風が吹き抜けていった。昼の名残の明るさは辛うじて西の空に残っていたが、その中にも星がぽつぽつと浮かび始めていた。由夫は、包みを抱えて明るい表通りに向かって歩いていった。
彼の脇をかすめるように、新聞配達の少年の乗った自転車が、路地の奥へと走りこんでいった。
家に帰ると、夕食の準備中だった。台所からは、揚げ物の匂いが玄関まで流れてきていた。父は、ソファに深々と腰掛けてヘッドホンで音楽を聴いていた。ステレオの上で回っているLP盤は、クラシックだろうという事は、いつもの事だから察しはついた。
湯上りらしく、うっとりと目を閉じたまま、濡れた白髪頭を撫でていたが、由夫が部屋に入ってくる気配を感じたのだろう、はっと目を開け、ヘッドホンを頭から取った。交響曲らしい音が、辛うじて聞き取れるほどの微かさで聞こえてきた。
「ただいま」
「ん、おかえり。もうすぐ夕食だ。おまえも早く風呂に入れ」
「うん……メシ食ってからゆっくり入るよ」
「そうか」
父はヘッドホンを頭に着けながら、無表情に言った。
由夫は包みを置きに自室に向かった。ベッドの上に腰を下ろし、うつむいて大きく息をついた。
自分の「家」なのに、くつろげなかった。息が詰まるような家の中よりも、たとえ無為に過ごしたとしても、外の方がまだ落ち付けた。家に帰ったなら、自室にこもるのがいちばんリラックスできた。
実の両親は、彼が今の両親に預けられた直後に離婚し、さらに父親は昨年に病死した。
今の家に来てから三年。新しい両親は、彼を温かく迎えた。しかし、どこかウソらしさのある温かさだった。はじめから彼が実の息子であったように振舞ったが、しかし、どこか他人行儀なものを由夫は感じていた。
由夫も、始めの頃は新しい家に溶け込もうとした。けれど、所詮は他人という意識が抜けきらず、なんだか疲れてしまい、その努力は止めてしまった。それなのに、両親は彼の心を知ってか知らずか、なおも彼を新しい家に溶け込ませようとした。それが由夫にとっては苦痛になっていた。
だからこの日も、夕食の後に風呂に入ると、また自分の部屋にこもった。
ひとり、彼は教授から渡された包みを解いてみた。
中にあったのは、薄汚れた木箱だった。大きい木箱と、小さい木箱。大きい木箱の本体には、なにやらレンズのようなものが上に向かって取り付けられ、電源コードが側面からひょろりと伸びていた。
小さい木箱には、ラベルの貼られたカートリッジが入っていた。「紅葉」「海」「砂漠」「野原」「風」「雲」「星」……。同封されていたワラ半紙に鉛筆書きの手紙は、どうやら由夫に向けて書かれた取扱説明書らしかった。
「…夢幻燈…
夜寝る前に天井に白い紙でも布でもいいから一メートル四方のスクリーンを張ること。
本体装置の電源をコンセントに差し込むだけで装置は作動する。
好きなカートリッジを右側面の挿入口に向きを合わせてセットするとスイッチが入り天井のスクリーンに映像が映し出される。
それを見ているうちにやすらかな眠りに就き、しかも翌朝は気持ち良く目覚められる」
由夫は、ため息をついた。これは、ただの安眠装置の一種ではないのか、と。もともと由夫は、軽めの不眠症だった。そんな時は、枕もとにラジオかCDを置き、微かに何かを聞きながら目を閉じていると、眠りやすくなるような気がしていた。おそらくは、それと同じような効果を期待したものなのだろう。
興味は、なかった。木箱を包みなおし、次の週末に返しに行こうと思った。
その夜は、寝つけなかった。決して、夕方の奇妙な経験と夢幻燈と名付けられた木箱が気になった訳ではない。
寝入りばなに、夢を見たのだ。
由夫は、どこか分からないが銭湯の脱衣所にいた。少し開かれたガラス戸の向こうにある浴場の方から、銀色に輝く蒸気が流れ込んでいた。由夫は、裸になった。けれど、単に裸になっただけではなかったような気もした。肉体という名の重苦しい服まで脱いでしまって、ただ魂だけになったような、ふわふわと地に足の付かない感覚でたゆたっているような感じだった。
そのまま、浴場へと宙を泳ぎながらガラス戸を通りぬけた。
そこは、湯船や洗い場のあるところではなかった。駅のホームか、バスターミナルのような雰囲気の場所だった。人の姿はなかったが、タイル張りの壁面に大勢の旅人の声がこだましていた。どこを向いても、湯気のために白い幕を下ろしたように視界が利かず、誰の姿も見えなかった。ざわめく声に覆い被さるように、なにかアナウンスが流れたが、何を言っているのかは聞き取れなかった。
蒸気の向こうから由夫を呼ぶ声が聞こえた。
実の両親の声だった。途端に、彼は心の底から、なにかどす黒くてドロドロした、虫の大群のようなものが湧きあがってくるような不快感をおぼえた。彼は、両親に捨てられたと思っていた。実の両親は、彼にとって許されない存在だった。
その声から逃れるように、脱衣所の方へと逃げた。しかし、どこに行っても視界は晴れず、どこに逃げるといいのか分からない彼に追いすがるように、「由夫!由夫!!」と声はどこまでも付いてきた。
白い世界を逃げ惑ううちに、目が覚めた。
額に浮かんだ汗を拭いながら枕もとの時計を見ると、まだ床に就いてから十分か十五分くらいしか経っていなかった。
それからなかなか眠れなかった。
なぜ両親が自分を呼ぶ夢を見たのだろうか、という事を考える事から始めて、最終的には、両親は自分を愛してくれたのだろうか、自分は両親に祝福されてこの世に生まれてきたのだろうか、そんな事まで考えだし、抜け道のない迷路に迷い込んでしまった。
その苦しみとは無縁な他人から見れば、考え過ぎと言うかもしれない。確かに考え過ぎかもしれないが、彼は深く悩んでいた。そして、悩むうちにも時計は秒を刻み、時針も一時間ぶん進んだ。
心を落ち付けようにもどう落ち付けたらいいのかわからず、布団の中で何度も寝返りを打った。
さらに一時間が経過した頃、由夫は木箱を手に取った。
こんなものが果たして効くのか……? 半信半疑だった。店で売っているリラクゼーションミュージック、α波、芳香剤、どれも悩んでいる時の彼の心を解きほぐしてくれなかったのに。
所詮は気休め、そう割りきった心で、ワラ半紙の説明書を思い返しながら、コードをコンセントにつなぎ、適当に「紅葉」とラベルの貼られたカートリッジをセットした。
スクリーン代わりに、裏返したポスターを、天井にピンで止めた。電灯を消して、再び床に就いた。
スクリーンには、どこかの深い山奥の、紅葉が映し出されていた。鮮やかな赤色だった。赤といっても、鮮やかな赤から、くすんだ赤まで、あらゆる赤に彩られてていた。赤だけではなく、黄色や茶色もところどころに混じり、思わずはっと息を飲むほどの鮮やかな静止画像だった。
……かちゃん。
微かな音とともに、一分おきくらいに映像は切り替わった。紅葉に囲まれた露天風呂、澄んだ水が流れる渓谷の底、急峻な山の斜面に一軒だけ建つ民家、紅葉のトンネルの中に続く小道。
現実にある風景なのだろうか、いったいどこなのだろうか。まるで実際に見ているかのように錯覚するほど、きれいな画像だった。風が吹くと、楓の葉が揺らぎ、色とりどりの葉が舞うのではないかとさえ思われた。
そのうちに、由夫は深い眠りに落ちた。眠りながら、夢を見た。