絵里
北に向かって欠伸をした。
風に乗ってくる生暖かい空気を背に、大きく開いた口を静かに閉じる。右手に持っているタバコの火が一直線に前方に延びていく。
被っていた帽子を空いていた左手で抑えながら、女は歩き出した。そして誰もいなくなった。
だがそこには、何かが決定的に変わったような、はたまたモノクロ写真に色が与えられたような。運命に抗うような、若しくは運命のような変化があった。故に、時は刻むことを止めず、空は流れることを止めない。動き出した世界に別れを告げて。
彼女はその世界から存在を消した。
第一章 黒髪のオッドアイズ
膝をつきながら顔を起こす。ユリアは手を付けた床の冷たさから現実を認知した。眼前に広がる景色は現実だと到底容認できるものではなかったが、鈍色に光る得物を顎に当てられ、そのヒンヤリとした感覚から身体は何かを諦めているのだと冷静に理解した。
いつの間にか手足に枷が付けられている。口が独りでに動き出す。
「‥‥‥どこ‥」
一瞬得物を突き付けている手がビクンと反応したが、それっきりの反応だった。
目線を動かす。どうやら自分だけがここに連れてこられたわけではないようだ。ざっと数えて10人。自分のような人が老若男女問わずいる。不安と小さな安心を胸に、再び問いかけをしようと口を開けようとすると、顎に強烈な痛みが走った。
ユリアはこれまでの人生でこれほどの痛みを味わったことはなかった。それも当然、ユリアはユリアにとってごく普通の生活を送っていたのだ。このような事態など起こり得まい。しかし。激痛。目には涙が溜まり、零れ、開いた口からは今まで自分が聞いたことのないような大きな音が漏れた。得物がすぐさま反応する。得物を掴むの手の主は、ユリアの首を鷲掴みにして訳の解らない言語で怒声を浴びせた後その小さな身体を冷たい床に叩きつけた。音が伝播する。屋内なのだろう。ユリアの頭の片隅が反応する。そして血の味に気づく。顎に生暖かい液体が付いている。痛い。いや、寒い。体のあちこちが寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。
冷静さを失いかけた脳に急なメッセージが飛び込む。
これは現実である。
彼女の自慢の長い黒髪は、まるで蹲った彼女を庇わんとするかのように背中に広がった。