2.新生活の始め方①
「…はぁ、これからどうしようか。」
見た目は若々しいものの、その様子はまさしく年を経た老人にしか見えない。
どことなく感じる哀愁は、彼の苦労の連続としか言いようのない人生に由来するものでもあるのだが、しかし今は9割方が先程の失敗によるものだ。
「こういう場合のこと、先に考えておけば良かった…」
今となってはもう遅い。
がっくりと項垂れる彼は、実は建国の英雄だと言われても一片たりとも信じることは出来ないだろう。
彼は頭脳派、という訳では無いがそれなりに計画する方だと自負していた。それなのに、この有様である。
彼の『固有魔法』は時間操作。都合が悪くなればそれを無理矢理捻じ曲げたりもできるのだが、そのせいで少々思慮に欠けることもあった。平和な世界に来たのだから過去改変は止めよう、と心に誓った矢先にこの有様である。
かなりの時間ぐじぐじと頭を抱えていたが、ようやく考えがまとまったようで動き出す。
最早彼自身も銅像と化したようだったが、どうやらそんなことも無かったらしい。彼の固有魔法、『時間操作』を起動させる。
「操基の時の巻き戻し」
詠唱には時間がかからなかったが、その変化にはかなりの時間を要した。
先ず、背が縮んだ。背が縮んだ分横に広がったりすることも無く、フィルムが巻き戻るかのようにスルスルと小さくなる。一回りほど小さくなったその背の高さは、だいたい15歳くらいの少年のものだ。
顔も若くなった。剛毛、と言えるほどだった髭も柔らかくなり、元の渋さはどこにも見受けられなくなった。最後についでとばかりにナイフで髭を剃っておいた。
実はかなりの魔力を消耗したのだが、懐に入れたっきり忘れていた魔晶石、と呼ばれる魔力のストックを使用したためギリギリで足りたのだ。
この魔晶石がの存在に気づいて居れば、広場での痴態も無かったということに彼は気づいていないが。
「…ふぅむ、案外身体能力が落ちるな。」
ふと、彼は呟く。
彼が15歳の時まで自分の時間を巻き戻したのは、15歳ならそんなに弱くはならないだろう、という考えがあったためだ。
しかし、実力が半分しか出せない程度には弱体化している。
慣れれば7割程度までいけるかもしれないが、想像以上の差に驚きを隠せていない。まぁ、隠す相手も居ないわけだが。
しかしながら、この混沌へと向かう世の路地裏という場所は、没落した者の掃き溜めともなっている。
彼はまだ知らないことだが、『固有魔法』の出現から既に5年が経っており、貧富の差はかなり広がってきていた。
それは、この王都でさえも例外ではない。
「よう兄ちゃん、見ねぇ顔だな。オレに挨拶も無しでここに居座ろうとはなぁ?」
薄汚れた、いかにもという感じのスラムの住民が声を掛けてきた。
現在のクラネウスの格好はかなりボロボロになっており、貧民だと言われても納得できそうなほどだ。
着ているものがこの時代の服ではない、というのもその勘違いに拍車をかけている。
今のクラネウスの見た目はぶかぶかの服を着た少年、ということもあり家から命からがら逃げてきたようにも見える。
そうなれば、何か金目のものを持っているのではないかと勘繰ってしまう。この男はそんな思考回路でクラネウスに声を掛けてきたのだった。
(…逃げるにはこの服は邪魔か。撃退するにも無手だと手加減が難しいな…。)
何しろ、クラネウスは魔物討伐のスペシャリストである。
こんな男など歯牙にもかけないところだが、生憎今は動きにくい服装であるうえ武装が無い。この体にまだ慣れていないので、下手すると殴った衝撃でこの男が死んでしまうかもしれない。
因果応報と言ったところだが、自分の仲間の子孫かもしれない、ということを考えるとうかつに手を出せなかった。
「おいおいどうした?びびっちゃったのかぁ?大人しく渡すモン渡してくれたら痛い目には会わせないから、な?」
クラネウスが黙っているのを怖気づいて動けなくなっていると勘違いした男は、更に煽っていく。
モブとしての才能は一級品だが、敵を見定める目は三流以下であったようだ。
何しろ、目の前にいる男は英雄であり、世界最強であった男なのだから。
流石にイラっと来たので、もはやこんなのはどうなっても構わない、とクラネウスは拳を構えた。
内臓破裂にはならないように気を付けて、殴る。そうしよう。
こんなことなら少しでもこの体のテストをしておくべきだったと後悔する。今となってはもはや後の祭りだが。
―――ザッ
その踏み込みは、身体が少しばかり小さくなったところで鋭さは変わらない。
いや、クラネウスとしては天と地ほども全盛期と差があるのだろうが、こんな強者の感知すらできない男ではその違いは分からないだろう。
薄汚れた石畳を踏みしめ、踏み込むとともに回転する体の力を最大限に生かして殴る。
その原理に、得物の違いなどは関係がない。せいぜい回転率とリーチ、火力が違う程度だ。
――ズゥン
一流の一撃は、相手を吹き飛ばすことは無い。
なぜなら、その一撃に『無駄』は生じないからだ。
相手を吹き飛ばす力、自らにかかる慣性、それらも全て『無駄』である。
だからこそ、クラネウスの軸は乱れないし男も吹き飛ばない。
男はゆっくりと崩れ落ちた。
意識は既に無く、苦しそうに嗚咽を漏らすのみ。
もしかすると、内臓破裂の一歩手前まで行っているかもしれない。思っていたよりも男が脆く、計算をかなり誤ってしまっていた。
平和な世だ。人も脆くなってしまっているのかもしれないと、ふと思った。
「…アンタ、何者?」
崩れ落ちた男の背の先に、一人の少女が見えた。
15歳くらいだろうか。いかにも勝気な性格だと思われる少女。
蒼い髪をセミロングに下ろしている。動き回っても邪魔にならない長さになっているようだ。
クラネウスにとってみれば子供だが、生憎彼の現在の姿は同じく15歳の時のもの。同年代、というやつだ。
少女は訝し気な視線をクラネウスに向ける。
どうやら、先程の戦闘…もとい、制圧を見られていたようだ。
見る人が見れば、クラネウスの強さはもはや異次元のものだと気づくだろう。
―――つまり、かなりまずい事態だということ。
「…もしかして、アンタ『固有魔法』を使ったの?」
少女は更に続けた。
その質問は彼女にとっては当然のものだったろう。何しろ、彼女にとっての未知はすなわち『固有魔法』であったのだから。
しかし、その質問は下策だった。
―――何故なら、彼に『誤魔化す』ための情報を与えてしまったのだから。
「―――はい、そうですが。」
クラネウスは言った。
そして少しばかりの笑み。
彼の内心には、ようやくこの世界を楽しむ手掛かりが出来たという興奮が沸き上がっていた。