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その6です。

今回はポーンと話を第十ニ代景行天皇に飛ばします。

今回少し長くなりますが現代へと繋がる記述がありますので、気長に読んで下さい。


大碓・小碓


「大政・小政」は清水次郎長一家の子分ですが、大碓・小碓は景行天皇の息子、つまり皇子です。

大碓命(おおうすのみこと)小碓命(おうすのみこと)です。


母親は第七代孝霊天皇の孫娘になる伊那毘能太郎女(いなびのおおいらつめ)です。


話をざっくりいきますが、兄が大碓命で弟が小碓命です。


岐阜に美しい姉妹がいました。景行天皇はお兄さん大碓命に命じて岐阜まで行ってこい!となりますが、余りの美しさに大碓命は「オヤジに献上なんかできるかい!」と自分のモノにしてしまいます。


で、適当な身代わりを二人程都合して景行天皇に献上します。景行天皇は「アレ?そうでもないなぁ…」と思いながらもとりあえず手元に置いておいたそうです。


まぁ、しかしこの姉妹が相当美人だったのか、大碓命は心配だったのか…。

それはわかりませんが、とにかく宮中の神事行事に参加しません。将来天皇になるわけですからこれでは困りますね。

景行天皇は「アイツは何をやっとんじゃ!」と御怒りな訳です。


そして景行天皇は弟の小碓命に「お前ちょっと行って兄貴に注意しとけ!教え諭してこい!」と言い付けました。

しかし、大碓命はいつまで経っても出て来ないので景行天皇は小碓命に「兄貴を教え諭したのか?」と聞いたところ「ハイ!ちゃんと教え諭しました」と言います。

「どんな感じに教え諭したのか?」と聞いたところ。

夜中に厠へ行かれるお兄さまを待ち伏せして掴み潰して手足を引き裂いて袋に詰め込んで投げ捨てましたと言い出しました。

景行天皇は「え?殺したのか?」と聞くと「ハイ!殺しました」と言う。

悪びれる様子もありません。

小碓命は超怪力のド天然だったのです。


それを見て景行天皇は「これは恐ろしい事だ…こんなヤツを生かしておいては将来の害悪になるかもしれない…」と考えました。


征伐


南九州辺りに熊曾建(くまそたける)と言う天皇に従わない一派がありました。

景行天皇は小碓命に「お前行って征伐してこい」と命じます。

小碓命は重要な御役目を与えられた!と喜んで征伐に行く訳です。なにせド天然ですから。

景行天皇の真の狙いはわかりません。

熊曾建は兄弟二人で最強と言われた兄弟です。

そこへ小碓命を遣わし、相討ちで死んでくれたらいいと考えていたのです。


喜んで征伐に出掛けた小碓命。熊曾建の兄の胸をブスっと突き通し殺す。

熊曾建の弟を尻から突き通します。

すると熊曾建が小碓命に「あなた様はどなたですか?」と聞いた。尻から突き通された状態で聞く事でもあるまいに…と思いますが。

すると小碓命は「私は纒向(まきむく)大帯日帯斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけ)の御子、倭男具那王(やまとおぐなのみこ)である」と正式な名前を名乗ります。

尻から突き通されながら熊曾建の弟は「西には我ら兄弟より強い者はおりません、しかし我らより強い御子が居られた。ついては我らの名前を差し上げます」と言いました。

「此れからは倭建御子(やまとたけるのみこ)と御名乗り下さい」と。

ここに倭建御子が誕生したわけです。


熊曾建を言い付け通り征伐し意気揚々と帰る駄賃に、ついでに言われもしないのに出雲で出雲建と言う人物も征伐してしまいます。

ド天然ですから景行天皇に褒められると思ったのですね。


さすがに気づく


景行天皇は無傷で帰った倭建御子にビックリします。さすがの景行天皇もヤバイと思いました。

いよいよ殺さねば!となりますが自ら手を下す事は出来ません。今度は東の荒ぶる者達を征伐してこいと命じます。

倭建御子は「かしこまりました」と東征にいきさますが、さすがにド天然も気づきます。

「これは私に死んで欲しいと思っているのでは…」まぁだいたい気づくもんです。


お付きを一人と、そして妻である弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を連れて出掛けます。


そして相模とも駿河とも説がありますが、その地へ着きます。しかし地元の豪族の謀で野に火を放たれてしまいます。

火にかこまれながら何とか脱出します。

そして関東までやってきます。


三浦半島から房総半島へ海を渡ろうとする時に船がグルグル回って進めません。

すると弟橘比売命が「私が海に入り、海の神を鎮めます、貴方は任務を全うしてください」と言います。自らが人身御供になり神の生贄となると言うのです。そして海に身を投げたのです。身を投げて美しい歌を詠みます。

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

「相模の火の中に立ちて、貴方は私に問うてくれました、お前は無事か?と」


倭建御子は絶体絶命の火の中にあって弟橘比売命に「お前は大丈夫か?」と自分の命もかえりみず妻の命を気遣った。弟橘比売命は「私の夫は何と優しい方だろう、私はあの方の為に何が出来るでしょう…」

それが自ら人身御供になることでした。


我が皇后陛下


第26回IBBYニューデリー大会での皇后陛下のお言葉にこの様な一節があります。


私が小学校に入る頃に戦争が始まりました。昭和16年(1941年)のことです。四学年に進級する頃には戦況が悪くなり,生徒達はそれぞれに縁故を求め,又は学校集団として,田舎に疎開していきました。私の家では父と兄が東京に残り,私は妹と弟と共に,母につれられて海辺に,山に,住居を移し,3度目の疎開先で終戦を迎えました。

度重なる移居と転校は子供には負担であり,異なる風土,習慣,方言の中での生活には,戸惑いを覚えることも少なくありませんでしたが,田舎での生活は,時に病気がちだった私をすっかり健康にし,私は蚕を飼ったり,草刈りをしたり,時にはゲンノショーコとカラマツ草を,それぞれ干して4キロずつ供出するという,宿題のノルマにも挑戦しました。8キロの干草は手では持ちきれず,母が背中に負わせてくれ,学校まで運びました。牛乳が手に入らなくなり,母は幼い弟のために山羊を飼い,その世話と乳しぼりを私にまかせてくれました。

教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に,たまに父が東京から持ってきてくれる本は,どんなに嬉しかったか。冊数が少ないので,惜しみ惜しみ読みました。そのような中の1冊に,今,題を覚えていないのですが,子供のために書かれた日本の神話伝説の本がありました。日本の歴史の曙のようなこの時代を物語る神話や伝説は,どちらも8世紀に記された2冊の本,古事記と日本書紀に記されていますから,恐らくはそうした本から,子供向けに再話されたものだったのでしょう。

父がどのような気持ちからその本を選んだのか,寡黙な父から,その時も,その後もきいたことはありません。しかしこれは,今考えると,本当によい贈り物であったと思います。なぜなら,それから間もなく戦争が終わり,米軍の占領下に置かれた日本では,教育の方針が大巾に変わり,その後は歴史教育の中から,神話や伝説は全く削除されてしまったからです。

私は,自分が子供であったためか,民族の子供時代のようなこの太古の物語を,大変面白く読みました。今思うのですが,一国の神話や伝説は,正確な史実ではないかもしれませんが,不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると,それぞれの国や地域の人々が,どのような自然観や生死観を持っていたか,何を尊び,何を恐れたか,どのような想像力を持っていたか等が,うっすらとですが感じられます。

父がくれた神話伝説の本は,私に,個々の家族以外にも,民族の共通の祖先があることを教えたという意味で,私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。本というものは,時に子供に安定の根を与え,時にどこにでも飛んでいける翼を与えてくれるもののようです。もっとも,この時の根っこは,かすかに自分の帰属を知ったという程のもので,それ以後,これが自己確立という大きな根に少しずつ育っていく上の,ほんの第一段階に過ぎないものではあったのですが。

又,これはずっと後になって認識したことなのですが,この本は,日本の物語の原型ともいうべきものを私に示してくれました。やがてはその広大な裾野に,児童文学が生まれる力強い原型です。そしてこの原型との子供時代の出会いは,その後私が異国を知ろうとする時に,何よりもまず,その国の物語を知りたいと思うきっかけを作ってくれました。私にとり,フィンランドは第一にカレワラの国であり,アイルランドはオシーンやリヤの子供達の国,インドはラマヤナやジャータカの国,メキシコはポポル・ブフの国です。これだけがその国の全てでないことは勿論ですが,他国に親しみをもつ上で,これは大層楽しい入口ではないかと思っています。

2,30年程前から,「国際化」「地球化」という言葉をよくきくようになりました。しかしこうしたことは,ごく初歩的な形で,もう何十年――もしかしたら100年以上も前から――子供の世界では本を通じ,ゆるやかに始まっていたといえないでしょうか。1996年の「子供の本の日」のためにIBBYが作ったポスターには,世界の家々を象徴する沢山の屋根を見おろす上空に,ぷっかりと浮かんで,楽しげに本をよんでいる一人の少年が描かれていました。遠く離れた世界のあちこちの国で,子供達はもう何年も何年も前から,同じ物語を共有し,同じ物語の主人公に親しんで来たのです。


父のくれた古代の物語の中で,一つ忘れられない話がありました。

年代の確定出来ない,6世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子やまとたけるのみこと呼ばれるこの皇子は,父天皇の命を受け,遠隔の反乱の地に赴いては,これを平定して凱旋するのですが,あたかもその皇子の力を恐れているかのように,天皇は新たな任務を命じ,皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き,皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中,海が荒れ,皇子の船は航路を閉ざされます。この時,付き添っていた后,弟橘比売命おとたちばなひめのみことは,自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので,皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい,と云い入水し,皇子の船を目的地に向かわせます。この時,弟橘は,美しい別れの歌を歌います。


さねさし相武さがむ小野をのに燃ゆる火の火中ほなかに立ちて問ひし君はも


このしばらく前,たける弟橘おとたちばなとは,広い枯れ野を通っていた時に,敵のはかりごとに会って草に火を放たれ,燃える火に追われて逃げまどい,九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は,「あの時,燃えさかる火の中で,私の安否を気遣って下さった君よ」という,危急の折に皇子の示した,優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持を歌ったものです。

悲しい「いけにえ」の物語は,それまでも幾つかは知っていました。しかし,この物語の犠牲は,少し違っていました。弟橘の言動には,何と表現したらよいか,建と任務を分かち合うような,どこか意志的なものが感じられ,弟橘の歌は――私は今,それが子供向けに現代語に直されていたのか,原文のまま解説が付されていたのか思い出すことが出来ないのですが――あまりにも美しいものに思われました。「いけにえ」というむごい運命を,進んで自らに受け入れながら,恐らくはこれまでの人生で,最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに,感銘という以上に,強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも,愛と犠牲という二つのものが,私の中で最も近いものとして,むしろ一つのものとして感じられた,不思議な経験であったと思います。

この物語は,その美しさの故に私を深くひきつけましたが,同時に,説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。

古代ではない現代に,海を静めるためや,洪水を防ぐために,一人の人間の生命が求められるとは,まず考えられないことです。ですから,人身御供ひとみごくうというそのことを,私が恐れるはずはありません。しかし,弟橘の物語には,何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ,そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと,それは愛というものが,時として過酷な形をとるものなのかも知れないという,やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への,恐れであり,畏怖いふであったように思います。

全てのスピーチを読みたい方は例えばここをどうぞ。


愛と感謝


天皇陛下におかれては平成23年お体、いや心身共に打撃を受けられていました。

19日入院され更に翌年も心臓バイパス手術を受けておられました。

平成24年東日本大震災の一周年追悼式が行われ天皇皇后両陛下も出席されました。

天皇陛下は万全の体調ではなかった。


皇后陛下はこの追悼式に和服でお出ましになられた。これには理由がありました。

体調が悪い天皇陛下がもしかしたら式典中に、御倒れになるかもしれない。

その時、洋装でヒールを履いていては陛下を支えられない。草履の方が力も入り易く素早く動けると和服を自らお選びになられた。


昭和50年ひめゆりの塔を訪問された時、当時は皇太子皇太子妃であられた両陛下。

過激派が何日も前から身を潜めて、お出ましになられた時に火炎瓶を投げ付けた。

その時、皇太子妃殿下は皇太子殿下を守ろうとパッと前に出て皇太子殿下を御守りする仕草を見せました。


普通はこんな事出来ませんよ!ビックリして固まるとかうずくまっても仕方ない。

そんな状況でも我が身より殿下を御守りする行動を取られたのです。

意識していたとしても、まして女性がその様な行動を取れるものではありません。

それは皇后陛下の御覚悟が並々ならぬものであるからです。

いざとなったら御自分の命をかけても天皇陛下を御守りする!との強い覚悟なのです。


正に現代の弟橘比売命ではありませんか?


愛と感謝に満ち、そしてその時の思い。

生贄となりながら幸せの中で命果てる。

死と惨めさと美しさ。


愛と感謝と自己犠牲が一体として其処にある。

愛に報いることの意味があるのです。


我らの為に


この弟橘比売命の一節に我々日本人の根幹を垣間見ることが出来るのではありませんか?


先の大戦に出征された先達の方々、散華された方々の事を考えます。


何故、死ぬとわかっていても尚その死地へと向かうのか?

其の身を以って戦ったのか?


正に弟橘比売命の心境と重なり合うのです。


祖国を愛し、家族を愛し、友人を愛し。

そして其の祖国に家族に友人に育まれ愛されて来た。

だからこそ、其の愛に報いる。


我が身を犠牲に、人身御供の如き振る舞いを以って愛した、愛された国に身を捧げた。


愛と犠牲が一体として思える。

無惨な死を迎えるが、幸せの中で命果てる。


その様な境地だったのではないでしょうか?


特攻隊員の多くは古事記を忍ばせていたと聞いた事があります。

敗戦後70年を迎え一度深い思いを馳せてみるのも良いのでは?


次回へ続く

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