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二日目午後~三日目午前

帰ってきちゃいました。

メロスは、大雨の中で村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたシラクスの市に舞い戻って来た。まだ日の出までは十分時間がある。初夏、満天の星である。


メロスは道で会った若い衆をつかまえて、王は人を信じることが出来なくなったと聞いたが、独りで居ることが多いのか、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。

しばらく歩いて老爺に会い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだを殴り付けて質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。

「王様は、独りでお休みになります。」

「なぜだ。」

「悪心を抱いている人を排除したい、とのことですが、誰もそのような悪心を持っては居りませぬ。」

「たくさんの人を追い出したのか。」

「はい、はじめは王様の衛兵さまを。それから、御自身の秘書様を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。今では、宮殿への入り口でさえ人を立てておりません。」

「おどろいた。」

「このごろは、御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。」

聞いて、メロスは確信した。

「呆れた王だ。やはり生かして置けぬ。」


メロスは、単純な男であったが、同じ轍を踏む男ではなかった。身に付けている荷物を悉くセリヌンティウスの家に置き、その体一つでもってのそのそ王城の高い塀に挑み始めた。

見つかるわけにはいかぬ。見つかったが最後、忽ち十字架に掛けられる。メロスは、一歩一歩慎重に塀を登った。


幸い、塀の内側には、大雨のせいで見張りの姿は見えない。メロスはさっと身を翻すと、再び慎重に塀を降り、王の居ると覚しき宮殿に潜り込んで、死んだように深く眠った。


眼が覚めたのは明くる日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに始めれば、約束の刻限までには十分間に合う。

きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。


メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。

身仕度は出来た。かの暴君ディオニスは、丁度寝床から体を起こした。メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く殴り出した。暴君ディオニスは、突如として仁王立ちの男に殴り付けられ、助けを呼ぶこともできない。

私は、今宵、殺される。殺される為に殴るのだ。身代りの友を救う為に殴るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に殴るのだ。殴らなければならぬ。

そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら殴った。


左頬を殴り、右頬を殴り、鳩尾を殴り、額を殴る頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで殴れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王を殴り付ければ、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。

ぶらぶら殴って二十発行き三十発行った頃、降って湧いた災難、メロスの腕は、はたと、とまった。見よ、眼下の広場を。


今日の処刑のために街の住民が氾濫し、濁流轟々と中央に集り、猛勢一挙に列を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に係員を跳ね飛ばしていた。

彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、係員は残らず浪に浚われて影なく、セリヌンティウスの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。

メロスは窓辺にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。

「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを!時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、磔の台に行き着くことが出来なかったら、あのよい友達が、私のために死ぬのです。」


暴君ディオニスは、メロスの意味不明な叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う群衆の中へと逃げ出した。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。

今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ!濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。


メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸のディオニスの脚に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。


一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら王を殴り、殴り切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の衛兵が躍り出たが、今のメロスには衛兵も山賊も同じである。

「待て。」

「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王を殴らねばならぬ。放せ。」

「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」

「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」

「その、いのちが欲しいのだ。」

「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」

「その通りだが」

山賊(※衛兵)たちは、一斉に棍棒を振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、

「気の毒だが正義のためだ!」

と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと殴った。



殴り始めました。

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