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第6話

 五月の青空にこだまする一発の銃声が俺を出迎えた。


 ほんの数日ぶりに戻ってきた第七特区の門をくぐると同時に。

 ほんの数日前の俺に問いただしたくなった。


『どうしてこんなところに戻ってこようなんて思ったんだ』って。


 ――だってそうだろ?

 サプライズパーティのクラッカーみたいに、銃声と罵声が出迎えてくれる、そんな特区が(というか特区に限らず)他のどこにある?

 まったく、嬉しすぎて涙が出るね。わりと真剣に。


 奇声を上げて逃げる謎の賞金首。

 それを追う物騒な賞金稼ぎ。

 野次馬根性でそれを見物する物好きな野郎ども。

 興味なさそうに疲れた顔で歩く綺麗な服のお姉様方はおおかた()()()帰りってとこだろう。

 さびれたストリートで時代遅れの掃除ロボが健気に働く姿が哀愁を漂わせていて胸を打つ。もしも俺がこの街で非業の死を迎えた際には、路頭に転がる俺の骨を拾ってくれるのはきっと彼らなんだろう。


 なんてな。

 ため息が出る。

 冗談を言えるのは、少しは俺もこの街に慣れてきたからだろう。

 慣れてしまえるほど、こんな光景は日常茶飯事のことだったんだ。

 だから、対処方法も心得ている。要は関わらなければ良いのだ。

 比較的人通りの多い道を、歩調を合わせて歩く。早すぎず、遅すぎず。決して人と目を合わさず、できる限り人と接触せず。

 そう、空気になるのだ。

 誰も空気を殺そうとはしない。


 ――パァン!

 と、銃声と共に前髪が揺れたような気がして、直後に横で変な商人が路上で売っていた壺が粉々に砕けた。


 ……ああ、流れ弾なら話は別だ。




 最外層から三十分ほど歩くと、少し活気のある繁華街が近付く。

 このあたりまで来ると街の中をぐるりと一周する路面電車も通っている。仕立屋『ポルト・フローラ』は繁華街の一番奥の――つまりは一番さびれた一画にあるわけだが、そいつに飛び乗れば近くまで一気にたどり着けるという寸法だ。

 目的地が近付いたら、風を切る路面電車の料金箱にコインを投げ込んで飛び降りる。

 小さな駅には運転手の気が向いたとき(要するに昼寝したいときと小便したいときだ)にしか停まってくれないので、こうして走っている電車から飛んで降りるしかないのだ。

 暮らしているだけで身体能力が鍛えられる、便利な街だね。


 少し歩くと見知った長屋が見えてくる。

 今どき長屋なんて特区の外でもお見かけすることはないが、もともと第七特区の工房地区が懐古主義者たちの溜まり場だったためだろう、似たようなスタイルの建物がいくつもある。

 もちろん建築技術は二十一世紀の技術の粋が集められているわけだから、決して快適性が損なわれているわけではない。


 ただ『ポルト・フローラ』に限って言えば、残念ながら少しばかり様相を異にしていた。


 看板は傾いて無数の風穴が空き、ショーケースのガラス窓は割れて粉砕、ペイントだか血痕だか分からない謎のシミが所々にべっとりと貼り付いて、店内はまるで強盗にでも入られたみたいに荒らされている。

 なるほど、他店とは一線を画した超絶前衛的な殺伐スタイルで顧客をおもてなしする方針か。

 うん。

 そんなわけないな。



「………ってうおい!」



 とつい叫んでしまった。

 当たり前だ。

 この店が店としてオープンしたのは一ヶ月前。

 掘っ立て小屋みたいだった店先を毎日掃除して、壊れた扉を修繕して、ひびの入った窓を張り替えて、ようやく店らしい構えにしたのは、何を隠そう全部俺だ。店長は賞金稼ぎから足を洗うための禊ぎでお忙しいようで少しも手伝っちゃくれなかった。

 仕立ての勉強に来たのに何で大工まがいのことをしなきゃならんのだとか文句を言いながら、それでもなんとか形にしたのが数日前。要するに俺がアカデミーに戻る直前の話だ。

 この大工まがいの仕事が終わったらアカデミーに帰って別の店を紹介してもらうんだ、なんて思ってたのが懐かしい。

 それがどうすりゃたった数日でこんな有様になるのか、説明して欲しいね。

 てか、最初よりも酷くなってんじゃねえか!



「よお、早かったな」


「………ああ、予想はしてたけどな………」



 そう、全部こいつの仕業だ。

 ()()()みたいに荒廃した店内で、店長は白鞘を片手にむしろ自慢げに仁王立ちしていた。

 俺のタメ口が気に入らなかったのだろう。鞘の先を俺の首元に突きつけ、店長はドスの効いた声で言った。



「店長には敬語を使えと言ったはずだ」


「独り言ですよ、店長」



 俺は目をそらし、嫌そうな顔を隠さずに答えた。



「また賞金首に襲われたんですか?」


「ああ。全部たたき返してやった」



 と、店長はすぐに鞘を収め、相好を崩して嬉しそうに言う。

 きっと俺の表情は更に嫌そうに曇ったに違いない。表情が顔に出ると良く言われるのだ。



「顔洗って出直して来い、ってな」


「出直されたら困るんですが。ていうか、やるなら次からは店の外でやってください」


「そんな店先で追い返すようなことができるか」


「なんでそこ律儀?」


「敬語は?」


「独り言」



 ふん、と店長は鼻を鳴らし背を向けた。

 その背中が、



「まあ、お前のそういう人に媚びない性格は嫌いじゃない」



 と言った。

 褒められてるんだかけなされてるんだか分からないが、とりあえず、



「どうも」



 と答えておく。



「弟子が師匠に反感を覚える。理由はいくつかあるだろう。あたしも身に覚えがないわけじゃあない」


「いつ俺が弟子入りしたことになっているのかはさておき、店長がそんな風に思っていたのは意外ですね」


「要するにお前は、あたしの能力に不満があるんだろ?」


「…………は?」



 能力?

 賞金稼ぎの?

 ははっ、まさか――。



「だからな、良い機会だからあたしの本当の力を見せてやろうと思ってな」


「い、いやいやいや! もう十分すぎるほど分かってますよ、店長の力なら!」



 ここまで店を破壊する力を見せつけておきながら、これ以上何を見せるって言うんだ?

 これ以上店の中で暴れられたら、それこそ長屋ごと倒壊してしまうぞ。

 そしたら俺はふたたび職を失って、この第七特区で浮浪者として一生さまようことに……。

 背筋に嫌な汗が流れた。



「て、店長が一番、ナンバーワン、世界一です! だからもうその鞘をしまってください!」


「ん? 何を言ってる。遠慮しなくて良いんだぞ。わざわざ特別ゲストも呼んだんだ」



 特別ゲスト(かませいぬ)!?

 まさか、もう戦う相手を用意してたって言うのか?

 わざわざ力を見せるって言うくらいだから、よっぽど強そうな奴を()()()に呼んでるに違いない。数百万じゃきかない大物賞金首とか。この人なら普通にやりかねん。

 てか、一度捕まえた奴ともう一回戦って力を示すとか、どんだけSなの、この人。



「おーい、でてこーい」


「い、いい! 出てこなくて良いから!」


「恥ずかしがらなくて良いから出てこいよー」



 店長は店の奥の工房に向かって声を上げる。

 恥ずかしがるって、どんなシャイ・クリミナーなの?

 もじもじしてるとこ想像すると気持ち悪いんだけど。



「人前に出るのは苦手なんじゃないのか? それならそっとしておいてあげても……」


「仕方ない奴だな。ほら、早く出て来な」



 店長は痺れを切らして工房に引っ込む。

 有無を言わさずバトるつもり満々だ。

 あああやばい。このままじゃ店先だけじゃなく、工房まで戦場と化してしまう。

 俺の唯一のオアシスを守るためにも、ここは止めなくては!



「ちょっと待て! もう争うのはやめ………て…………? ……………あれ?」



 その光景を見て、俺は絶句した。

 そこにいたのは、俺が想像したような、機関銃を片手に弾帯を全身に巻き付けたマッチョマンの姿ではなかった。


 正直に言おう。

 俺は目を奪われた。

 その姿に。


 その、美しさに。



「や、やめてください。着るだけだって言ったじゃないですか」



 と聞き覚えのある声。



「馬鹿野郎! 見せるために着るもんだろうが、ドレスってのは」



 と、店長の声。



「………ドレス?」



 と間の抜けた声は俺のものだ。


 その時になってようやく俺はそれが何かに気付いた。


 ドレスだ。

 確かにそこにはドレスが立っていた。

 もとい、ドレスを着た、俺の知らない美少女が立っていた。


 いや、ええと………。

 俺の、知らない………?



「せ、先輩に見せるなんて、聞いてないです………」


「……………『先輩』?」



 俺のことをそう呼ぶ人間に心当たりは一人だけある。

 困ったように眉をひそめ、頬を紅潮させ、くびれた腰を捻らせて、店長の腕から逃れようとしていたのは、俺の知ってる、俺の後輩だった。



「えっと、………柏木さん?」



 俺の知らないのは、そんな風に頬を赤く染める表情くらいのもので、



「せ、先輩!?」



 と俺の存在に気付いたあとは、それすらも消し去った。

 しん………と静寂が一瞬工房を包み込む。

 すると、ドレス姿に身をやつした女装男子がいつもの無表情のまま最初に声を発した。



「せ、先輩はどう思いますか?」


「――え?」



 と問い返すと、ほんの少し語気を強めてすぐりは問い直した。



「これを見てどう思うかと聞いているんです」


「どうって、そりゃあ……すごく、綺麗だと、思う……よ?」



 正解が分からなくて、俺は無難な答えを選んだつもりでそう返した。



「そ、そうですか。綺麗ですか」



 相変わらずの無表情に見えるが、なんだか冷たい緊張感のようなものが少し緩んだ気がする。



「その、ええと……、柏木さん?」


「すぐりで良いと、言ったはずですが?」


「あ、そ、そうですよね?」



 いや、ついこのあいだ名前で呼んだら怒ってたよね、かなり。



「なんでそんな格好?」


「そこにドレスがあったら誰だって着たいだろう。女なら」



 と答えたのは店長。

 むしろ疑問に感じることが不思議そうな表情で首をかしげている。



「登山家が山に登る理由みたいに答えないでください」



 そして柏木すぐりは男だ。

 確かに少々乙女チックなお顔と華奢な身体を持ってはいるが、俺の美人アレルギーが発現しない、立派な男だ。


 いまだ変声期前の声は綺麗なボーイソプラノだが。

 パーティ用のドレスがまるで違和感なく似合っているが。

 まるで本物の淑女に見まごうほどだが。……ていうか俺の目には女にしか見えないが。


 それでも、間違いなく、柏木すぐりはおと――。



「店長。……先輩にはまだ内緒です」


「ん? ああ、そうなのか?」


「………え?」



 ――な、なに?

 何の話?



「もうこれで十分でしょう」



 と有無を言わさぬすぐりの一言で、俺はその言葉の意味を尋ねる機会を逸した。

 胸の奥になんだかもやっとしたものが残る。



「先輩は()()()()()()綺麗だと。店長の能力は先輩に十分伝わったと思いますが」


「え………。能力って………」



 そっち!?

 てっきり賞金稼ぎとしての能力のことだと思い込んでたが、仕立屋としての能力を見せるっていう意味だったのか。

 ていうか、今言われて気付いたが、店長ってドレス作れるのか……。



「あたしが昔作ってたドレスだ。ちょうどマネキンも発注しておいたから、店先に飾っておこうと思ってな。やっぱり仕立て屋の華と言えばドレスだろう?」



 俺の心の中を察したかのように、店長は誇らしげにそう答えた。

 誇らしげにするだけのことはある、と素直に俺は思った。


 目を奪われたのだ。

 同じドレス職人を志していたこともあるこの俺が。

 それはつまり、そのままドレス職人として最高の技術を持っているということの証明みたいなもので。



「着替えてきます。店先に飾るんですよね?」



 呆気にとられている俺をよそに、すぐりはそそくさと店内の試着室に向かった。



「……ああ、ついさっき発注したマネキンもやってきたところだしな」


「これだけ綺麗なドレスですから、マネキンも喜ぶでしょう。それにしても先輩に綺麗と言わせしめるとは、凄い威力ですね、このドレス」



 すぐりは『そうですか』『綺麗ですか』と小さな声で繰り返しながら奥へ引っ込んでいった。

 なんだか少し気に入っているようにも見えるが、………うん、俺の目が腐っているだけだろう。



「どうだ、新入り。これであたしの実力がよく分かったろう?」



 俺のことを『新入り』と呼び続ける店長の言葉が、その時だけは何故か胸に突き刺さった。

 何故か………だって?

 いいや、俺だってちゃんと理解しているさ。



「……店長は、それだけの腕があってどうして賞金稼ぎなんて野蛮な仕事に走ったんですか?」



 辛うじて、俺はそう問い返した。

 気付けば胸の中で煮えたぎっていた感情を押し殺すように、奥歯を噛み締めて。


 ――そう。

 俺はただ、悔しかったんだ。

 そして、絶望した。

 どう足掻いたって敵わない、才能の壁に。


 せっかく吹っ切れそうなのに。

 せっかく諦められそうなのに。

 どうしてこの人たちは。この街は。

 ――どうして俺をこんな気持ちにさせる?



「それはね、あたしが――女だからさ」



 低い声で、だけど敵意のないどこか寂しげな声色で、店長はそう答えた。

 はっとした。

 その短いセリフは、たったそれだけの言葉で俺にすべてを理解させた。

 だけど、それを納得できるほど、俺は大人じゃなかったから。



「……だから、『諦めるしかなかった』? それでも、この道に戻ろうとしている。未練を捨てきれずにいる」



 反抗期の少年が母親にそうするように、苛立ちを言葉の刃に変えて突きつけた。

 店長が強い大人だと知って。

 斬りつけても傷つかないと知って。

 感情をそのままぶつける俺は、まるで母親に甘える赤ん坊だ。


 ――分かっている。

 これは八つ当たりだ。

 未練を捨てきれずにいる、だって?

 それは俺の方じゃないか。



「そうかもしれないな」



 殴られるかも知れないと思ったが、返ってきたのはそんな、気の抜けた返事だった。

 俺の方まで毒気を抜かれた気分だ。



「戻ってこれると、本気で思っていますか?」


「――賞金稼ぎって仕事は刺激的で楽しかったが、すぐに飽きた」



 店長は着物の懐から煙草を取り出して咥えた。

 編み込みブーツのヒールでマッチに火を点け、紫煙を燻らせる。



「燃えないのさ。……結局あたしにはこれしかなくて、だから『ポルト・フローラ』に戻ろうと思った」



 瓦礫だらけの床でマッチを踏み消し、店長は笑った。



「あたしはね、ドレス職人に戻るためにここへ帰ってきたわけじゃない。ドレス職人を育てるために『ポルト・フローラ』を復活させたんだ」



 この人ははっとするようなことをいつも突然言い出す。


 ――何だって?

 ドレス職人を育てる?

 こんな第七特区の場末の工房で?

 そんな馬鹿な。



「ダメ元でアカデミーに問い合わせたらちょうど面白そうな奴がいるじゃねえか、なあ。お前………捨てられたんだろ?」



 雨の中置き去りにされた子犬でも見てるみたいに、店長は俺を見下ろす。

 何も言い返せやしない。

 確かにその言葉の通りで、……てことは、店長はそれを知って俺をこの工房に雇ったってことか?

 それはつまり、店長が拾ってくれなければ俺は問答無用でアカデミーを辞めさせられていたかもしれないってことで――。


 だから、店長は。



「………俺を、助けてくれたのか?」


「感謝される筋合いはないさ。お前みたいな奴がいなきゃ、あたしもこの店を再開させることなんてできなかったんだから」



 煙草の煙を胸一杯に吸い込み、白煙を吐き出す。

 それを二度繰り返してから、店長はゆっくりと口を開き、



「……それで」



 と切り出した。



「お前はどうする、新入り。お前はドレス職人になるためにここへ来たんじゃないのか?」



 ずん、と胸に突き刺さる言葉は、つい先刻俺が放ったのと同じものだ。

 ブーメランみたいに一周して、今度は俺の首元に突きつけられる。

 言葉にするのは簡単だ。俺はまだ、諦めきれていない。

 だけど、アカデミーはそれを決して許さない。

 社交界と大きなつながりを持つアカデミーから否定されるということは、つまりドレス職人の世界がそれを許さないということだ。

 世界に否定されてなお、俺は戦えるだろうか……?

 今までに何度も自問自答した問題だ。

 そのたびに同じ答えを、俺は受け入れるしかなかった。


 そう。

 もう、俺は――。



「俺は――」


「――ん、んん…………」



 とそのとき、俺たちの会話を遮るように店の片隅から吐息のような声が聞こえた。


 ――すぐり?

 ではないようだ。まだ試着室で着替えに手間取っている。

 それじゃあ、いったい……?



「えと、店長。この店には俺以外の店員はいないんでしたよね」


「ああ、そうだ」


「てことは、この店の中には、俺と店長、それからすぐりの他には誰もいないはずですよね」


「ああ。鍵はかけちゃいないが、空き巣も賞金首もまとめて叩き返しているからな」


「こんな金のにおいのしない店に空き巣の心配は要らない気もしますが」


「む。……にゅにゅ」



 ――まただ!

 聞き間違いではない。店長もさすがに人の気配を察したようで、その視線は店先に置かれたショーケースに向けられた。アカデミーに帰る前には見かけなかったものだ。

 恐る恐る近寄り、覗きこんでみる。



「これは――?」


「さっき運び屋が置いて行った。マネキンを入れるショーケースだ。知り合いのマネキン職人に発注しておいたから、たぶんそのマネキンが届いたんだろうと思ってたんだが……」



 運び屋って……。せめて運送会社とでも言って欲しいところだが。

 問題はそこじゃない。



「………新入り」



 とびきり低い声で店長は言った。



「なんですか」


「開けろ」



 問答無用の声色と眼光が俺に首を横に振るチャンスを奪った。

 ごくり、と生唾を飲み込み、得体の知れないショーケースと向き合う。

 おそるおそるショーケースの蓋を開ける。途端に悪臭が部屋中に立ちこめた。



「な、なんだこれ! 腐ってる!?」


「そんなわけ――」



 と言いかけた店長がすぐに口元を押さえて背を向ける。

 何かを思いついたみたいに袖から一枚の布を取り出しマスク代わりにあてた。



「あ、ずるい!」



 あれは確か『芳花織(ほうかしき)』という特殊な布だ。

 その名の通り、微かに花の香りがするのが特徴だ。



「ず、ずるくない。これがあたしとお前の仕立屋としての心構えの差だ」



 と店長は平然と言ってのける。

 じとり、と俺は軽蔑の視線を送って見せた。



「いやそれ、このあいだそいつでアロハシャツを仕立ててくれって言われて客から渡されたやつじゃ……。てか、まだシャツ作ってなかったのかよ」


「それなら大丈夫だ。今朝この店にやってきてキャンセルしていったよ。布も返さなくて良いってな」



 そりゃこんな変わり果てた店の様子を見たら誰だって関わりたくないと思うさ。

 しかも依頼品まで猫ばばなんて、とんだモラルハザードだ。


 しかし今はそんなことで問答している場合じゃない。

 問題はこの悪臭の出所だ。ことは急を要する。


 口元を押さえてゆっくりと中を覗きこむと、ショーケースの中には、確かにマネキンが()()()()()

 長い髪の毛に隠れて顔はよく見えない。

 俺は眉に寄せるしわを深めた。そのマネキンが赤毛だったからだ。

 マネキンだろうと人形だろうと。もし仮に人間だろうと。

 ……俺は赤毛の女が苦手なんだ。



「う、むむむ……」



 呻き声が鼓膜をくすぐる。

 店長と目を見合わせた。

 こんな可愛らしい吐息を店長が吐くわけがない。当然俺もまたしかり。すぐりはまだ試着室だ。



「……新入り」


「なんですか?」


「最近のマネキンは寝言を言うのか?」


「…………さ、さあ。俺には何も聞こえな――」



 ごん、と今度は大きな音。

 同時にまたショーケースから吐息が漏れる。



「新入り」


「……なんですか?」


「最近のマネキンは、……寝返りを打つのか?」


「……………」



 店長を見上げる。

 顔を隠す芳花織(ほうかしき)越しにも分かる。

 いつも平然としている表情が、毒に犯されたようにみるみる渋くなるのが。



「――新入り」


「…………はい」


「お前に弟子として最初の仕事を与える」



 神妙な面持ちで、店長は言い放った。



「捨ててこい、今すぐだ」

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