第5話
――五月。
傷だらけの身体を長袖の制服で隠してネクタイを締める。
「――よし」
学生寮を出て、アカデミーに向かう。
一ヶ月ぶりのアカデミーは、それほど愛着もなかったはずなのに、どこか懐かしくて少し心が和んだ。
変わらぬ足取りで教室へ。
『聞いたかよ、あいつ。課外授業で『エル・ドラゴ』に雇われてからかなり腕を上げたらしいぜ』
階段教室の重いドアを開けるとすぐに、そんな噂話が耳に入った。
気になるってほどじゃないが、そりゃあ俺だって他のクラスメイトがどんな経験をしているのか、全く興味がないってわけでもないのだ。
『エル・ドラゴっていやあ、老舗の超有名店じゃねえか』
『何か店長に気に入られたとかでよ、最近じゃドレス作りにまで手を出してるらしいぜ』
『ドレスだって!? 凄いな、プロの服飾職人の中でもほんの一握りしかなれないってのに』
「………ふん」
ドレス、ねえ。
俺もそんなものを追い求めてた時代があったなあ……。
最近は『ドレス』と聞いて、それでも俺の心はあまり動かなくなった。
――きっと、そう。
俺はもう受け入れ始めているんだ。二度とドレス作りには携われないって事実を。
もちろん、日々を生き抜くだけで精一杯ということもあるけれど。
『へえ、クラスじゃトップ二人に埋もれてパッとしなかったのに。これで一躍出世頭だな』
『そういや、そのトップ二人っていや……』
――ん?
視線がこちらを向く。
なんだ、まだ俺をクラスのトップだなんて言っているやつがいるのか。
ふん、しょうがないな、これも俺の高すぎるカリスマ性ゆえ――。
「つーばーきぃー!」
耳で溶ける猫なで声に、俺の背筋は凍り付いた。
反射的に上着の中に右手を突っ込み、顔を上げる。
「会いたかったよーう!」
渚だった。
金髪セミロングを振り乱して駆け寄ってくる。
俺は上着の中に差し込んだ手をとっさに止め、反対の手で渚の熱い抱擁をすんでの所でいなした。
それが精一杯で、飛び込んでくる渚を避けることも弾き返すこともできず。
俺は――誠に不本意ながら――渚の熱い抱擁を受け入れた。
「はしっ!」
と自分で言いながら俺の首をホールドする。
その腕に込められた力は、はしっ、なんてかわいいものじゃなかった。
みしみし、と嫌な音が耳元に聞こえる。
「ちょ、ま、待て渚! やめろ、俺の首が、折れ、る……!」
「一ヶ月も会えなくて寂しかったんだから! 椿は乙女心ってものが分からないの?」
「乙女……っていう力じゃ………ない……」
し、死ぬ……!
あと、みんなの視線が痛すぎて社会的にも死にそう、俺。
『……最近あの二人おかしくね?』
と、案の定悪い噂が立ちこめ始めている。
ていうかそういう噂話は聞こえないようにやってくれねえかな。無駄にへこむんですけど。
『秋穂はもうダメだな。あの学園祭の一件で完全に干されちまってるし』
『周防もあんなやつにつきあってなけりゃ優等生なのにな。あいつの実習先も『エル・ドラゴ』だったのに、雑用ばっかりさせられてるらしいぜ。完全に置いていかれちまったな』
……ん?
雑用だって?
なんで――、渚ほどの実力がありながら?
「………って、あれ?」
と、不意に声を上げたのは渚の方だった。
ふっ、と首を絞める腕から力が抜ける。
「どうしたの、椿。このあざ――」
やばい、制服で隠していたはずなのに。
「まさか――キスマー……」
「ちげえよ」
喰い気味で即答した。
慌てて隠そうとした俺が馬鹿みたいじゃねえか。
「あれ、よく見たらおでこにも切り傷があるし、手も擦り傷――」
渚は予備動作もなしに俺の制服を引っぺがした。
「ちょ、ちょっと待て渚! さすがにそれは色々すっ飛ばしすぎ――」
「――椿、この傷………」
渚は言葉を失った。
鞭で打たれたようなミミズ腫れ、鈍器で殴られたような内出血、刃物で刻まれたような創傷。
――ような、じゃない。
全部その通り鞭で打たれ、鈍器で殴られ、刃物で傷つけられた。
できれば黙っていようと思っていたが、仕方ない。
「実は、な――」
「まさか椿――目覚めちゃった?」
「だからちげえよ」
かわいそうなモノを見るような目で俺を見るな。
立ち尽くす渚を押しやり、俺は制服をただした。
「その……、職場でな」
「『第七特区』――」
ようやく渚は理解したらしい。
が、少しばかり誤解をしているようだ。
「まさか、犯罪者に襲われたり……!」
「え、えっと、ま……まあな。そんなところだ」
半分以上はあの暴力店長につけられたものだが、話がこじれるので何も言うまい。
気に喰わないことがあるとすぐに手が出て、次に足が飛んでくる。
一度あの白鞘から刀を抜いたこともある。
そんな超ブラック企業の暴力店長の下で働き始めて一ヶ月。
俺もまだ雑用だけだ。泣きたくなるね。
「そんな、危険過ぎる! たかが実習で、そんな危ない目に遭うなんておかしいよ! ボク、先生に言って――」
「もう言ったよ。実習先を変えてくれって、こっちに帰ってきてすぐにな」
「なんだ、良かった。それで、今度はどこの工房に? 何ならボクと同じ工房に――」
「工房は変わらない。俺の職場はこれからも『ポルト・フローラ』だ」
「そんな――」
渚は信じられないとでも言いたそうに眉をひそめた。
この目は本当に心配している目だ。
いつも冗談めかした話し方をしているから分かりにくいが、最近になって分かるようになった。
そして、俺はこいつのそんな目が嫌いだ。
だから、そっぽを向いて返した言葉には少しトゲがあったかもしれない。
「いいんだよ、危険なことに首を突っ込みさえしなけりゃ、あの街でもしがない服飾職人として生きていくことくらいはできる」
「そう……」
と、渚は元気なく答えた。
「とはいえ、何度でも直談判するつもりだよ。あんなところに放り込まれちゃ、命がいくつあっても足りねぇよ」
「――椿、なんだか雰囲気が変わったね」
「そうか?」
「うん、なんだか、逞しくなって――よりいっそうボク好みに……」
「だまれ」
うへへ、とよだれを垂らす渚の脳天にチョップを振り下ろす。
「うきゃっ!?」
頭を抱えてしゃがみ込む渚を見下ろし、俺はため息をついた。
「……そんなことより。お前だって人の心配できる立場なのかよ」
この周防渚という服飾職人見習い――確かにおかしな性癖と気味の悪い言動をしちゃいるが、その技術だけは間違いなく一流だ。少なくともこの俺に匹敵するものを持っている。
しかも俺みたいなヘマもせず、学園祭では学生として最高の成績を収めた。
だからこそ最高レベルの工房への実習を許されたはずなのに。
「お前、雑用なんかさせられてるんだって?」
きょとん、と首をかしげた渚は、すぐにその表情を笑みへと変えた。
「なに? ボクの心配してくれてるの?」
「ば、馬鹿言うな。何で俺がお前の心配なんか! ただ俺は俺のせいで誰かの才能を潰したりしたくないだけだ」
「そんなこと言って、照れちゃってー。素直に言えば良いのに。『俺は、周防渚が好きだ』って」
「――へえ、そうなんですか、先輩」
と、聞き慣れた声が背後から降りかかってきた。
晴天の霹靂とはこのことである。
ずがーん、と雷の落ちる音が脳内に聞こえたような気がした。
「す、ぐり……? どうしてここに?」
振り返ると、柏木すぐりの冷たい視線が突き刺ささった。
すぐりの専攻科は美容師だ。
学年は飛び級で同じだが、学校でのクラスは違うはずだが……。
「忘れ物があったので持ってきたのですが、どうやら僕はお邪魔のようですね」
ぽいっと紙袋を放り渡される。
紙袋の中には俺の下着が入っていた。そういえば見当たらないと思っていたんだ。
「………やっぱり、美人アレルギーなんて嘘だったんですね」
「ちょ、ちょっと待て、すぐり。お前は何か勘違いを――」
「気安く名前で呼ばないでください、先輩」
――あ、あれ?
名前で呼べって言ったの、そっちじゃなかったっけ?
「それと、今度から下着の洗濯は僕のと別々にしてくださいね。それじゃあ、また」
最後に爆弾を置いてすぐりは去って行った。
「どういうことなのかな、つばきぃ?」
案の定と言うか、なぜかと言うか。
ドスの利いた渚の声が、これまた背後から忍び寄ってきた。
「どうしてあの子と同じ洗濯機で下着を洗っちゃってるのかな?」
「そ、そりゃ、住んでるところが一緒だから――」
と言いかけて、すぐにしまったと思った。
ひそひそ、と噂話の声が大きく広まり始める。
「………ふうん。ボクという伴侶がありながら、あんなちんちくりんと同居してるわけ?」
「お、おい、あいつは男だぞ」
「何言ってるんだよ、だからまずいんじゃないか!」
「お前が何言ってるんだよ!」
キーンコーン
カーンコーン
救いの鐘の音だ。
「はーいみんなー、さっさと席に着いちゃってー。ホームルームを始めちゃうぞー」
鼻にかかる甘い声で、先生は号令をかけた。
***
実習が始まってからも、月に一回こうしてアカデミーでの特別講義が行われることになっている。
その内容は主に各課外実習での活動報告と、知識の共有化。そして最新の知見を取り入れた各論の総復習などだ。
そんな授業が、三日間ほど行われ、またそれぞれの実習先へと赴くことになる。
一年前と変わらず授業は退屈で、あくびが出そうだ。
だが、それでもやはり学ぶべきことは少なからずある。
――それは、一年前とはまた違った意味で、だが。
今日学んだのは、切るとお互いが惹かれ合う不思議な糸。
こいつに正式名称はなく、『月下老』と呼ばれているらしい。
もしかしたら身を守るために使えるかもしれない、と頭の片隅にメモ。
無駄なことなど、何ひとつないのだ。
………第七特区を生き残るために。
「………………ははっ」
自嘲の笑みがこぼれた。
何やってるんだろうな、俺は。
せっかく出てきたってのに、まだ第七特区に残るつもりなのか?
一ヶ月泊まり込んで分かったことがある。
ポルト・フローラに仕事は来ない。ドレスはもちろん、着物どころか帯一枚作る仕事すら入ってこない。
そりゃあ、開店間もないということもある。店の改修が間に合っていないということもある。
それにしたって、入ってくる仕事は、破れた雑巾の修繕とか。それも全部まとめて俺のもとに投げられる。
そのくせ作業には店長が口を出してくるんだ。やれ縫い代が浅いだとか、やれスピードが遅いだとか。
俺だって少し前までドレス職人を目指していたアカデミーの優等生だ。だってのに、どうして雑巾一つにごちゃごちゃ言われにゃならんのだと思う。
思ったので、一度言ってみたこともある。気の短い店長から早口で怒鳴られたあげく木刀で尻を殴られて終わったのだが。
だいたいそんな感じでそうやって一ヶ月は過ぎた。
こんな話をしたって、周りから同情されて、笑われて、終わりだ。
だから俺は話好きなクラスメイトたちのように、他人に話したりするつもりはない。
話す相手は、一人で十分だ。
「――それで」
と、俺を職員室に呼んだ先生は足を組み直して作り笑いを浮かべた。
「秋穂君、これはいったいどういうことかなあ?」
三日目の授業が終わったあとで、先生が俺を職員室に呼んだ。
「書いてあるとおりですが。あられ先生」
あられ、というのがこの三十路過ぎの女教師の呼び名だ。
本名である。
名字で呼ぶとたいそう機嫌が悪くなるので皆そう呼んでいる。たぶん、その名字が二度変わっているのが理由だろう。
あられ先生がひらひらとなびかせた一枚の紙には見覚えがあった。特別講義の初日に書かされた、課外実習のアンケート用紙だ。
何を書いたかあまり良く覚えていないが、ちらりと見えた感じではこんな感じだ。
『実習を通して得た知識は?』
――命乞いは時間稼ぎにしかならないこと。
『実習を通して身についた技術は?』
――犯罪者の見分け方。痛くない殴られ方。あと、雑巾の縫い方。
『実習先の工房には満足していますか?』
――至福の時間だと思います。マゾヒストには。
『今後の目標』
――とりあえず死なないこと。
「どういう意味なのかしら?」
「どういう意味、とは? 俺としては忌憚のない意見を綴っただけのつもりでしたが」
先生はため息をついた。
「上着に隠してる武器――それも実習先で学んできたことのひとつ?」
どきりとした。
どうして分かったんだろう?
確かに俺の上着の内ポケットにはアイアン・クロスが忍ばされていて、暴漢に襲われたときのために水の入ったペットボトルと一緒に持ち歩いている。
「――自分の身を守るためですから。第七特区では当たり前です」
と、できるだけ冷静を保ちながら俺は答えた。
別に銃やナイフを持ち歩いているわけじゃないが、特区内のものをみだりに持ち出す行為が好ましいことじゃないことは俺も知ってる。
だが先生は、それを咎めるつもりじゃあないようだった。
「そんなに危険なところなの?」
「知っててとぼけてるなら、先生。俺からはもう何も言うことはありませんよ」
きっと、この女教師は第七特区がどんな場所か知っている。
そんな気がした。
「出る杭は打たれる。意志のある者から狙われる。新参者ならなおさらだ。でも、意志を失って路傍の石のように転がってたって、そんなの死んでいるみたいなもんだ。要するに――」
そんな場所に俺を送り込んだ理由。
俺が実習先を変えるのを許さない理由。
それは――。
「あんたたちは俺を殺したいんだ」
あられ先生の笑う口元が、ほんの少しぴくりと動いた。
俺の推測は、きっと当たっている。
先生たちは、社交界で事件を起こし、アカデミーに泥を塗った俺をドレス職人にさせまいとしている。第七特区でのたれ死にしたくないならドレス職人を諦めろと、そう言っているのだ。
――理解した。
そして、覚悟も決まった。
夢を捨てる、覚悟を。
「それでもいい。俺は――ドレス職人『秋穂椿』はもう死んだ。もう、ドレス職人を目指そうなんて思わない」
震える拳を握りしめ、俺は、俺の中にわずかに残っていたドレス職人への未練を握りつぶした。
「だから、俺を第七特区以外のどこかに……」
「『ポルト・フローラ』を辞めるということ? それはできないわ」
何度も聞いた定型文が返ってきた。
そして俺は。
自分の考えがまだ浅はかだったことに気付かされた。
「だって、それが決まりだもの。どうしても第七特区から出たいなら、そうね……。――アカデミーを辞めるしかないかしら」
くらり、と目眩がして。
辛うじて踏みとどまる。
このときになって俺はようやく本当の意味で理解したんだ。
「ああ、なるほど。……………そういうことですか」
この人たちの目的は、俺にドレス職人を諦めさせることじゃなかった。
ドレスだけじゃなく服飾職人としての道も絶って、俺をアカデミーから完全に排除しようとしているんだ。
「ドレスを作るのが夢だったんでしょう? でもその夢は潰えた。……なら、アカデミーにこだわる理由もないんじゃないかしら?」
真っ白になった頭に、遠く、先生の声が聞こえる。
『アカデミーはたぶん、第七特区のことを意図的に隠しているんだと思います』
今になって、すぐりのその言葉が真実のような気がしてきた。
要は、アカデミーは俺の存在を隠したいんだ。
第七特区というブラックボックスにぶち込んで――アカデミーは、俺という存在を拒絶した。
「………ふふ」
と笑みが聞こえた。
先生のじゃない。
どうやら俺の笑い声だったみたいだ、と他人ことのように思う。
第七特区はお荷物。
この第二特区にいるみんながそう思っている。
考えてみれば、俺だってそうだ。ずっと第七特区を拒絶してきた。
だけど、第七特区の方はどうだろう。
少なくとも、すぐりや店長は俺を拒絶したりはしなかった。
『それじゃあ、また』
と。
すぐりはそう言ったんだ。
まるで俺がそこにいることを当たり前のように。
――そうだ。
今アカデミーを辞めたって、俺には何もない。
それなら――。
これまで培ってきた服飾の技術で生き延びていくしかない。
「大丈夫、秋穂君? 急に笑い出すなんて、いったいどうし――」
「ドレスは――」
怪訝な顔をする先生に、俺はそのまま笑いかけた。
「ドレス作りは俺の全てだった。他には何もなくて、だけどそれすら失った。もう二度と手に入らない、そうしたのはあなたたちだ。……………これ以上俺から何を奪おうって言うんですか?」
ぽかん、と先生は間の抜けた顔をしている。
きっと俺が自主退学を申し出るものだと思ったんだろう。
夢を失い、気力を失った学生が、危険な第七特区に居残ることを望むはずがないと。
そう思っていたんだろう。
どちらがまともな選択かと聞かれれば、確かにアカデミーを辞めるのが普通なのかも知れない。
だけど、まあ――。
つまり俺は、少なくともその時の俺は、まともじゃなかったんだ。
「俺は――辞めたりしませんよ、先生」
「そう………」
と、先生はつぶやいた。
「それは、……残念ね」
一礼をして先生の元を離れる。
話しぶりでは、アカデミーの方から直接俺を辞めさせることは難しいのだろう。なんとかアカデミーを卒業さえできれば、手に職をつけて生き延びることはできる。
そうだ、アンケートを少し書き換えておかなくちゃならない。
『今後の目標』
――アカデミーを卒業するまで|死なないこと。
ドアの影で小さく笑みを浮かべるすぐりの存在に。
その時の俺は気付いていなかった。