第4話
はむ、と頬張ったガトーショコラをごくんと飲み込み、すぐりは口を開いた。
「それは甘すぎると思います、先輩」
「そうだよな、俺の考えが甘かった。まさか第七特区がここまでの無法地帯だったとは……」
と、ショートケーキにメイプルシロップをかけながら俺は素直に反省した。
「……しょっぱいです、先輩」
「だよなあ、俺もここに来た瞬間から泣きそうなことばっかりだよ」
と、レアチーズケーキに塩とこしょうを振りまきながら俺は素直に告白した。
「…………というか、先輩の舌はどうなってるんですか?」
「し、下? 俺の?」
ガタン、食塩のケースを落とし、俺は慌ててかぶりを振った。
「く、繰り返し言っておくが、俺には公衆の面前で下半身を丸出しにする趣味なんてないんだからな! あれは事故で…………ただ、まあ……、お前がどうしてもというなら、考えんことも……、ない……。確かに俺は何をやらせても一流の美男子で、興味を持たれるのもやぶさかではないからな。……よし、そこまで言うなら恥を忍んでもう一度見せてや――うぶうっ!!」
いきり立とうとした俺の口にガトーショコラが突っ込まれ、甘い香りが鼻孔を抜けた。
「――先輩。黙ってそのズボンにかけた手を離してください」
突き刺したフォークを突きつけたまま、眼鏡をずりあげてすぐりは言った。
まるで銃口でも突きつけられている気分で俺は両手を挙げた。
「ふ、ふぁい………」
フォークを抜き取ると、すぐりは呆れたようにため息をついた。
「先輩が馬鹿なのは……、味覚だけではなかったんですね……」
どういう意味だ、と言い返そうにも、口の中がケーキでいっぱいになっていて.
俺は眉をひそめて目で訴えた。
たぶん伝わったのだろうと思うが、すぐりはそれを無視して自分のガトーショコラを口に含む。
「そのケーキ、おいしいでしょう? キルシュさんの試作品みたいです」
キルシュさん、というのは、この喫茶店を一人で切り盛りしている女性だ。
行き先を失った俺をすぐりが案内したこの喫茶店の名前は『風花』というらしい。
喫茶店、といっても店の大部分を占めるのは洋菓子工房で、セルフサービスでコーヒーが飲める小さなホールを併設した簡素な造りになっている。
大きなケーキの塊をごくん、と飲み込み。
「ここがお前の『勤め先』なのか」
「そうです。第七特区随一の洋菓子工房、『風花』。喫茶店は本当はおまけで、裏には広い工房があるんです」
「ふうん……」
昔ながらの長屋スタイルの家屋には他にもいくつかのテナントが入っており、例えばこの『風花』の隣には美容室が店を構えていた。
柏木すぐりは洋菓子職人見習いだ。
飛び級だと聞いていたから、きっと腕前の方も相当のものなのだろう。
俺が行く先を失って困っているところを『風花』のママ、キルシュさんから声をかけられ、今に至る。
店の前で盛大に鳴った俺の胃袋を見かねたキルシュさんに甘える形で、新作の試食と称し店内でくつろがせてもらっているわけだ。
『遠慮せずゆっくり食べていってね』
と、天使のような笑顔で言われたものだから、遠慮なく片っ端からいただいている。
いや、いつもよりは控えめにしているつもりだが。
「小綺麗で良さそうなところじゃないか。……第七特区ってことを除けば、だが」
「そうですね。住む場所と働く店を失った先輩に比べれば、どんな場所でも僕は幸せです」
「思い出させるなよ………」
マイスターズ・アカデミーは、各分野の職人を養成する専門学校だ。
一年生で教養と基礎を学び、二年生で技術と知識を学んだ俺たちは、三年生になるとその応用を学ぶことになる。
身につけた技術を実際に磨く場所は、アカデミーの外の、本物の工房――。
すなわち、これは長期の課外実習だ。
実習先は希望に添って個人ごとに異なった場所が指定される。
一ヶ月に一度程度の業務報告と特別講義の際アカデミーに戻ってくる時を除けば、その『勤め先』にいなければならない。
常に現場の空気を吸って、将来職人となった時のための礎を作る、というのがアカデミーの考えだ。
だから、たとえば俺たちのように第二特区の外の工房が指定された場合は、当然住みこみということになる。
それから、三年生からは奨学金を受け取ることができなくなり、工房ごとに支給される給料で生計を立てることになる。これも、職人となった後のことを疑似体験させるためのアカデミーの方針だ。
だが、何の手違いか、俺の勤め先となるはずだった『ポルト・フローラ』という仕立て屋は、すでに潰れて廃墟となっていた。
奨学金のみで暮らしていた俺は、つまり、この時点で金も住処も稼ぎ扶持も失ってしまったというわけだ。
特区の出入りは厳重に規制されていて、俺たちの許可証では次に特区を出られるのは一ヶ月後になる。
そもそもアカデミーに帰るまでの交通費も持ち合わせていないから、俺はこれから路頭に迷うことになる。
唯一の救いは、柏木すぐりの存在だ。
俺が一人なら本当に路頭に迷っていた所だった。
最悪、事情を知っているこいつに頼み込めば、食事くらいは恵んで――。
――って。
い、いや!
何を考えているんだ、俺は!
いつから俺はそんな卑しい人間になってしまった!?
こいつに金をせがむだって?
そんなこと、俺にできるわけ………。
で、できるわけ………………。
「………(ごくり)」
コーヒーを一口飲んでカップに置いたすぐりは、俺の視線に気がついてふと顔を上げた。
「何ですか? 僕の顔に何か付いてます?」
「い、いや……。ああ、えっと、なんというか。……そう! その、どっからどう見ても女にしか見えないなと思って」
ぴくん、とすぐりの肩が跳ねた。
まずいことを言ったか、と思って俺は慌てて訂正した。
「あ……。いや、気に障ったんなら謝るよ。だけど、みんなからもそう言われてるんじゃないかと思って……」
「………クラスのみんなは気付いていません。クラスだけじゃない、誰も、……気付くはずありません。そういうふうに仕向けましたから」
「――え?」
ずず、とコーヒーをすするように飲み、不自然な間を開けてすぐりは告げた。
「先輩が初めてですよ。僕の正体に気付いたのは」
「な、なんだって……?」
すぐりの口もとに、薄い笑みが浮かんだ。
普段から無表情のすぐりの、その珍しい表情には、どこか見覚えがあるような気がした。
「ま、まさか、おん――」
「――なんて」
すっ、と笑みが消え、いつもの無表情に戻る。
「冗談ですよ、『おにいちゃん』」
少しぶっきらぼうに、どこか不機嫌そうに、すぐりはそう言って。
俺は、思い出した。
図書館で初めて会った時、同じような笑みをすぐりは浮かべていた。
人をあざ笑うような表情だ。
さすがに眉間に寄せた皺がひくついたね。
「またそれか。……からかいやがって」
「からかいがいのある先輩が悪いんです。それとも、僕が女の子だったら良かったですか?」
真顔でそんなことを言うもんだから、不覚にもどきりとした。
が、さすがにもうその手には乗らない。
「馬鹿言うな。お前が女だったら、今頃俺はお前に触れてぶっ倒れてるところだ」
「女性恐怖症ですか?」
「『美人アレルギー』だよ。普通の女子ならちょっと蕁麻疹くらいで済むけど、綺麗な女に触られでもしたら、下手したら気を失っちまう――って。いきなりこんな話したって、信じられないか」
「ふうん……」
肯定も否定もせずに、なんだか不満げにすぐりは言った。
そうか、これじゃすぐりを美人だと言っているようなものじゃないか。
そんな風に言われて嬉しい男なんていないよな。
「……面白い体質ですね」
口を尖らせてすぐりは言った。
「お前な。面白いもんか。こいつのせいで俺は取り返しの付かないことを……」
「それは、自分の作ったドレスをお嬢様に着せてはそれを一糸まとわぬ姿に引っぺがすという、ご自身の変態的行為のことを言っているのですか?」
「な……! お前、知ってるのか?」
「学園祭での先輩の武勇伝は、知らない人の方が少ないです。あれも『美人アレルギー』ですか。華族のお嬢様はたいそう美人さんだったのでしょうね」
「ちっ……」
思わず舌打ちが飛んだ。
俺にとっては忘れてしまいたい記憶なのだ。
「そもそも俺は女なんか嫌いなんだ。――特に赤毛の女なんて最悪だ」
そう言ってショートケーキの苺にぶすりとフォークを突き立てる。
「へえ、赤毛の女性と何かあったんですか?」
「――さあな」
「そこまで言っておいて、ごまかすんですか」
「ごまかしてるわけじゃない。ただ……、あまりよく覚えていないだけだ」
「そうですか――」
すぐりは人差し指と中指で眼鏡をずり上げ、じとりと上目遣いに俺の瞳を覗き込んだ。
「なんだよ、俺のことに興味があるのか? まあ、それも仕方ないか。なんたって俺はアカデミーで一番の美男――」
「――別に。ただ、珍しいなと思っただけです。第七特区行きを命じられる生徒なんてなかなかいないですから」
また人の話を遮りやがって……。
だけどもう言い返す気も失せた。
はあ、と最近ではお馴染みになったため息がのどをついて出る。
「……見捨てられたのさ、俺は。なんたって今や俺はアカデミーの汚点だ。きっと……アカデミーの名に泥を塗った俺を潰して、なかったことにしようとしているんだ。そのために、こんな地の果てみたいな場所に俺を飛ばした。店が潰れていたのだって、はじめから織り込み済みだったんだ――」
声に出して初めて、その言葉の意味が重く胸にのしかかった。
そう、アカデミーはその名誉を守るために、尻尾を切り落としたんだ。
秋穂椿という、不要な尻尾を。
そして秋穂椿はまんまと金をすられ、仕事道具を奪われ、住む場所と仕事を失い、のたれ死ぬのを待つだけの流浪人となった。
行く末は物乞いか、犯罪者か。
生クリームがしょっぱくなって、俺はうつむいてそれをかき込むように平らげた。
ごくん、と弱音と一緒に飲み込むと、すぐりがふと口を開いた。
「それは、どうでしょうか」
「え?」
「先輩は、『オーダーメイド』を知っていますか?」
「え……? …………あ、ああ」
俺は少し驚いて、反応に困った。
その道を究めた職人の作品には、時に奇跡的な『力』が宿ることがある。
まるでおとぎ話の魔法のような、不思議な力。
それを『オーダーメイド』と呼ぶ――そんな、馬鹿馬鹿しい言い伝えのことなら、知ってる。
「噂……くらいならな。一度、アカデミーの教師に聞いたこともある。だけど、そんなものはないと笑われて終わった」
ちょうどさっきの俺みたいに困ったような反応をして、そして一笑に付せられる。
それを思い出して、
――ただどうにも、俺には笑うことはできなかった。
「先輩は、信じていないんですか?」
「少なくとも、学校の教科書には載ってないし、図書室の本のどこにも書いちゃいなかった」
「ということは、先輩も以前にそれを探していたということですね?」
……う。
妙に鋭いな。
「僕も図書室の本を漁って探しました」
「それで付いたあだ名が『図書館の君』か」
「だけど、やっぱり見つからなかった」
「ないものは見つかりっこないのさ」
「………でも先輩は、第七特区のことを教科書で習いましたか?」
すぐりは、少し声のトーンを抑えて尋ねた。
俺は首を振った。誰に聞いたってそうしただろう。
特区のお荷物。
銃弾飛び交う危険地帯。
未開の地。
そんな風に噂の断片を耳にすることはあっても、その実際の姿を具体的に聞いたことは一度もなかった。
ただ忌むべき場所、というイメージしか俺たちにはないのだ。
「生徒の中には、第七特区自体、都市伝説的なもので、実在しないんじゃないかなんて言っている人もいます。実を言うと、第七特区のことを記した本も図書室には一冊も置いていませんでした。莫大な蔵書を誇り、特区のことならどんなことでも探せば見つかるアカデミーの図書室で、です。不自然すぎると思いませんか?」
「………なんだか、ずいぶんときな臭い話になってきたな」
「アカデミーはたぶん、第七特区のことを意図的に隠しているんだと思います」
「そんなことをしてどうする?」
「わかりません。知られたくないことがあるのかも。でも、第七特区は確かにこうして存在します。だから、――『オーダーメイド』だって存在するかもしれませんよ」
静かに燃える瞳を見て、俺は――俺の胸は――じくり、と鈍い感情によって締め付けられた。
知るよしもなく、すぐりは――たぶん俺を慰めるために――言った。
「ここには、アカデミーにいるだけでは知り得ないことがたくさんあります。たとえば――魔法だってあるかもしれない」
「――まさか」
「……『ありえない』――なんてことは、ありえない。それが、第七特区です」
と、すぐりは俺のセリフを見越してそう言った。
「そんな場所に来ることができるというのは、むしろラッキーなことだと思いませんか?」
「………命を、対価にしても、か?」
「それは、僕ら次第です」
また、この目だ。
野心に満ちた瞳。
以前ならば自らの闘争心をあおる火種にしかならなかったそれが、今では俺を苛立たせる。
その正体が劣等感だと気付いて、余計に胸の奥がざわめく。
――だが。
仕方のないことだ。
俺はこれから先、ずっとこの劣等感を抱いて生きていかなければならない。
早く、――慣れなければ。
「それじゃまず、自分の身を守ることを考えなくちゃな」
ふう、とため息をついて肩の力を抜く。
せっかくかわいい後輩が励ましてくれているというのだ。
いつまでも辛気臭くては、先輩として示しが付かない。
気を取り直して、すぐりの背中越しにカウンター横の掲示板を指さした。
そこにはたくさんの貼り紙が貼り出されており、どれも似顔絵や顔写真が一緒にくっついている。
「見ろよ、あの貼り紙。――賞金首だ」
「第七特区は賞金首制度を採っているみたいですね」
特区内には日本帝国の警察は入ってこれないため、それぞれに自警団が組織されていることが多いが、特に第七特区では賞金システムを採用しているようだ。
自警団だけでは手に負えないためだろう。
さっき俺を追いかけてきたのも賞金稼ぎのようだった。
結局のところ彼らも荒事専門の集団で、一般市民には迷惑をかけないように、なんて考えはあまりなさそうだった。
「文無しの先輩が手っ取り早くお金を稼ぐには、逆にちょうど良いと思いますが」
「まさか、賞金稼ぎに転職しろって? 俺は命のやりとりをするためにここへ来たわけじゃないんだが……」
「それじゃあこれからどうするんですか? お金もなければ生きていくこともできません。それは第七特区だからといって変わりませんよ」
「つってもなあ……」
そう言って賞金首のポスターを物色する。
『蜂谷・ウィンドマスター・大五郎。賞金、七十万円』
ミドルネームが強そうだが、賞金は割と大したことない。
『ゲオルグ・ソルタービューゲル。賞金、百九十万円』
特区だから異国人もいるのはあたりまえか。
『ホワイト・ファルコン。賞金、三百万円』
本名が分からないためか、通り名のような賞金首も結構多い。
『窓際の係長。賞金、二千万円』
哀愁が漂う。もはや通り名かどうか分からん。賞金も無茶苦茶高いし……。
『ジェノサイド・ベリィ。賞金、三億とんで八百万円』
……これは、たぶん国家レベルのA級国際指名手配犯とか、そういう奴だろう。
賞金稼ぎにどうにかできるレベルを超えてるんだと思う。賞金の額的に。
はあ、とため息が漏れ出る。
「確かに賞金はどれも魅力的だが……。ん、こいつ弱そうだな」
ふと、目を留めたのは、サラリーマン風の冴えない中年男の似顔絵だった。
表情には覇気がなく、痩せていて、どう見ても腕っ節が強そうには見えなかった。
きっと、つまらない窃盗か何かを繰り返して賞金首になったのだろう――と、俺は呑気に思った。
すぐに――。
それが勘違いだと気付く。
「賞金は、と。ええと、一、十、百、千………、は、八百万ん!? 何でそんなに高いんだ?」
ホワイトなんとかよりも高いぞ、このサラリーマン。
「名前はなんていうんです?」
あまり興味もなさそうにすぐりは向き直ってコーヒーを啜る。
すぐりの背中越しに目を凝らす。
ええと……
「『リストラマン』……?」
「………今の先輩なら犯行に及んだ気持ちが分かるかも知れませんね」
「待て、俺はリストラされたわけじゃないぞ」
「罪状は?」
「ええと………殺人、強盗に、放火………って、重犯罪者じゃない――ん?」
と、そこまで言いかけて息を飲んだ。
カランコロン、とドアベルを鳴らして店内に入ってきた客が、その賞金首の顔写真と瓜二つだったからだ。
「い、いやいや、まさかね。そんなわけ……」
……あってたまるか。
八百万円の賞金首がのこのこと白昼堂々ケーキ屋なんかに入ってくるわけない。
落ち着け、コーヒーでも飲んで落ち着くんだ俺。
と、手近にあったメイプルシロップをコーヒーカップに注ぐ。
怪訝な視線を送るすぐりを無視してそれをゆっくり胃に流し込む。
その時。
かしゃーん、と何かが落ちる音がして、俺は驚いて顔を上げた。
拳銃だった。
あからさまに慌てた様子のリストラマン(仮)がそれを拾う。
「ぶふう!」
と、思わず吹き出した。
「けほっ、こほっ!」
慌てて咳き込む口を手で塞ぎ、涙目にこっそりリストラマンを覗き見る。
気付いたのがばれた!?
い、いや、今のところやつにその様子はない……。
「セーフ………か?」
「アウトです。先輩」
と、コーヒーでびしょびしょになったすぐりがじとりとこちらを睨んでいた。
「………どういうつもりですか、先輩。いきなりコーヒー入りのメイプルシロップで毒霧攻撃なんて。プロレスの見過ぎです」
「逆だ逆。シロップ入りのコーヒーだ。――ってそうじゃなくて……、その、むせちゃって……」
真後ろに銃を持った賞金首がいる、なんて言ったら驚かせて気付かれてしまうかも知れない。
上手くごまかそうと思ったが、眼鏡を拭くすぐりの眉は相変わらずひそめられていて、俺は弁解を諦めた。
そんなことより、リストラマンは――と。
「伏せろ……!」
小声で叫び、叫ぶより早く俺はすぐりの制服の襟を掴んでテーブルに突っ伏せた。
鉢植えの影に頭を隠す直前、俺の瞳には銃を突きつけるリストラマンの姿が見えた。
銃声は聞こえない。
何かレジに向かって言っているようでもあるが、何と言っているかまでは分からなかった。
「いたいです、先輩」
「す、……すまん!」
慌ててすぐりの制服から手を離すと、すぐりはもぞもぞとテーブルの下に潜った。
どうやら拭いていた眼鏡を落としてしまったらしい。
「さっきからおかしいですよ、先輩。何かあったんですか?」
「い、いや、何も……?」
へたくそにすっとぼけてみる。
幸い、リストラマンはこちらにあまり気を向けていない。
きっと強盗か何かなのだろうが、こういうのは関わらないのが一番だ。
すぐりにはあとで説明しておこう。
「あれ、先輩。ズボンが濡れてますよ?」
と、俺の足元から声がした。
ちょうど俺の両足の間で、眼鏡をかけ直したすぐりが上目遣いでこっちを覗き見ている。
「……え? あ。本当だ」
言われて初めて気が付いた。
コーヒーを噴いたときだろう。手に持っていたコーヒーがこぼれてズボンを汚してしまったらしい。
白い生地を使ったのが災いした。ちょうど股間のあたりが褐色に染まって――。
「あ、あれ?」
何故か、ものすごい勢いで屹立していた。
同じくらいものすごい勢いですぐりの瞳から生気が失われていく。
「…………………先輩?」
「い、いや、これは違うんだ。何でこんな事になってるのか、俺にもさっぱり……。別に俺にやましい気持ちは………」
「まさか先輩、僕にコーヒーをぶっかけたり、引き倒したり、床に這いつくばらせたりして、性的な興奮を覚えようと………?」
「ど、どんな変態だよ!? 違うんだって、これは――」
――ガァン。
と、その時、耳をつんざく銃声が店内にこだました。
ほんの少し遅れて、状況に気付いた他の客たちが悲鳴を上げる。
『いいからさっさと鞄にケーキを詰めろっていってるんだ!』
そう叫んだのはリストラマンだ。
どうやら彼の目的はレジの中の金ではなく、ショーケースの中のスイーツだったようだ。
「…………何が起こっているのか、教えてください、先輩」
真顔に戻ったすぐりが、いつもより少し低い声でそういった。
「強盗だ。八百万の賞金首。キルシュさんに銃を突きつけて、ケーキを要求してる」
「キルシュさんは!?」
「無事だ。さっきのは威嚇射撃だった」
こんな状況で冷静に話せている自分に驚く。
いや、こんな非現実的な状況だからこそ、冷静でいられるのか。
少しほっとしたような表情で、すぐりはほっと息をついた。
「……先輩みたいな糖分中毒者が他にもいるなんて驚きですね」
「俺もああならないように注意するよ……」
「犯人はまだそこにいますか?」
ぎらり、とすぐりの目が光って、俺はいやな予感がした。
「まだキルシュさんに銃を突きつけてる。キルシュさんはケーキを鞄に詰めてるよ。……おい、変なことは考えるなよ」
「先輩の辞書に、一宿一飯の礼という言葉は載っていないんですか?」
「辞書なら盗まれた。ここに来た瞬間に鞄ごとな」
「そうですか。………それじゃあ」
そう言うとすぐりはやおらテーブルの下から這い出て立ち上がり、シュガーポットを手に取った。
「受けた恩は代わりに僕が返しておきます」
言うや否や、すぐりはシュガーポットを投げつけ、弾かれたように駆けだした。
「ば、ばかっ!」
シュガーポットの行方を追いながら吐き捨てる。
シュガーポットは見事にリストラマンの側頭部に直撃し、よろめいた。
その身体にすぐりの体当たり。たまらずリストラマンは弾き飛ばされ、その右手から銃が落ちる。
「先輩!」
「ああ、くそっ!」
遅れて駆けつけ、倒れたリストラマンの身体を押さえつけるのを手伝う。
じたばたと暴れているが、これくらいの痩身なら、俺の力でもなんとか自由を奪うことができる。
全身の力を込めてリストラマンを羽交い締めにする。
苛立ちと憤りが同時に爆発して、俺は叫んだ。
「すぐり! 何だってこんな無茶をしたんだ!」
「……先輩が、しないからです!」
一緒にリストラマンを押さえつけながら、すぐりも叫ぶ。
こんな風に激昂するすぐりを見るのは初めてで、俺は少しだけたじろいだ。
「先輩は、誰かが死にそうになっているのを見捨てるんですか?」
「仕方ないだろう。……ここは第七特区だ。それが当たり前なんだよ……!」
「第七特区の人だから、死んでも良いんですか?」
死んでも良いなんて言わない。
だけど確かに、近いようなことは思ったかも知れない。
銃を突きつけられたキルシュさんを見て、俺は、『仕方ない』と思ったんだ。
何とか助ける術を探すことも、俺はしなかった。
でも、それが――。
「それが、第七特区って場所だろ!?」
ここは第七特区で。
特区の掃きだめで。
キルシュさんも、リストラマンも、ここにいる客も、俺たちだって。
取り巻く環境全てが、ゴミみたいなものなんだ。
「ふざけないでください、先輩!」
と、すぐりは叫んだ。
俺ですらたじろぐほどの強い声色で。
「先輩はこの街に来て、何を見てきたんですか?」
「え――?」
「第二特区も第七特区も、特区は特区です。住んでいる人たちは、僕らと同じ人間です。悪い人たちもいるけど、ほとんどは何の罪もない、普通の人たちです。第七特区はゴミだめなんかじゃない。だから――」
その時になってようやくリストラマンは抵抗をやめ、ぐったりと横たわった。
「だから、先輩だって、ゴミなんかじゃないんです」
力が抜けた。
なんて奴だろう。
美容師見習いとして飛び級までする凄い奴で、昔の俺みたいに成り上がることしか考えていない奴だと思っていたのに。
どうして俺のことまでそんな風に見透かすことができるんだろうか。
一年前の俺に、同じことが言えただろうか。
「……………分かった」
降参だ。
俺の負けだ。
「分かったよ。俺が間違ってた」
汗ばんだすぐりの表情にゆっくりと笑みが浮かぶ。
それは今まで彼が見せてきた嘲笑ではなくて、正真正銘の笑顔だった。
何故だろう、俺は。その笑顔に胸の奥がぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなって。
同時にとうとう目覚めたか、と思って吐きたくなった。
――その時。
今までとはまるで別次元の力に俺とすぐりの身体は同時に吹き飛ばされた。
「うっ……!」
「ぐあっ……!」
目の前の光景をすぐには信じられなかった。
そこに立っていたのは先ほどまでのリストラマンとは骨格からして異なる男だった。
同じなのはサラリーマン風のワイシャツだけで、隆々とした大胸筋と上腕二頭筋でそれすらもはち切れんばかりに膨らんでいる。
その手には、キルシュさんお手製のモンブランがあった。
それを無造作に口にすると、リストラマンの二の腕が更に膨らみ、とうとうワイシャツが弾け飛ぶ。
「う、うそだろ……?」
――ポ○イ?
と、ほうれん草を食べるとパワーアップするあの水夫の顔が脳裏によぎる。
こいつの場合はほうれん草じゃなく、洋菓子みたいだが……。
「……化け物か?」
とつぶやきながら、八百万という賞金にも納得がいった。
要するに第七特区というのは、こういう化け物の巣喰う巣窟なのだろう。
『目障りなガキどもが……』
とリストラマンがこちらを一瞥する。その視線は俺の左隣に向けられていた。
と、次の瞬間、目にも見えぬ蹴りが俺の腹を襲った。
「ぐふっ……!」
良かった、と思った。
とっさに身体を入れ替えていなければ、この強烈な一撃はあの華奢なすぐりに撃ち込まれているところだった。
けど同時に、最悪だ、と思った。
その一撃は、たったその一撃だけで俺を前後不覚に陥らせるだけの威力があった。
踏ん張りもきかず吹き飛ばされる。
カウンターに突っ込み、倒れた花瓶が頭上に落ちて割れた。
冷たい水を頭からかぶる。
こめかみを伝う流血。
じん、と頭の奥が痺れ、胸を打った痛みで息もできない。
霞む視界の端で、リストラマンは落ちた銃を拾った。
――殺される!
と。
本気でそう思った。
――謝って済むかもしれない。
だが。
そんな思いはすぐに霧散した。
抵抗しなければ、殺される。
口先だけの正義では、自分の命すら守ることができない。
『……馬鹿なガキが。かばったりしなけりゃ、命は助かったのに』
銃口がこちらを向いた。
声が出ない。
手も出ない。
ここで、――死ぬのか?
こんなありえないような怪人になぶり殺され、夢の一つも叶えられずに――
『……『ありえない』――なんてことは、ありえない』
「――それが………、これが――第七特区」
ゆっくりと向けられる銃口を見上げながら、俺は――。
「く………ふふっ……」
笑みをこぼした。
ほぼ同時に、自分が笑っていることに気が付いた。
どうして笑えるのか、それに気付いたのはほんの一瞬あとだった。
『なんだ? 恐怖でおかしくなったか?』
リストラマンは怪訝な表情を浮かべる。
「ああ、いや。……第七特区には、見たことないような人ばかりいるから――」
『俺のこの身体のことを言っているのか?』
と、リストラマンは顔をしかめた。
そうやら自分の身体が特殊だという自覚はあるらしい。
『俺はこの体質のせいで会社をクビにされたんだ。こうしてケーキを食わなきゃ死んでしまう身体だって言うのに、ケーキを買う金を稼ぐことすらできなくなってしまった。……哀れだろう?』
「でも、そんなおかしな奴がごまんといる。………ふふっ。確かに、俺も信じる気になってきたよ。『オーダーメイド』ってやつを」
ちらりと視線を送ると、驚いたような表情ですぐりもこっちを見ていた。
『……何の話だ?』
「いいや、こっちの話だよ」
そう言って、俺は懐からびしょびしょに濡れた白い布地を取り出した。
ズボンの仕立てに使った布の余りだ。
――どうやらこいつの使い道は他にもあるようだと気付いた。
『なんだ、それは』
「見たままさ。白旗だよ。……降参だ、許してくれ」
『そんなもので許すとでも思ったのか?』
「それじゃあ………、恨みっこなしだ……!」
この街の生き方が、俺にもようやく分かってきた。
力のないものが死ぬ。
だから、――戦うしかないんだ。
「秋穂先輩!」
すぐりが叫び、リストラマンが一瞬気をとられた、その隙に。
俺は濡れた白布をリストラマンの手元に向かって投げた。
濡れた布は銃口をふさぎ、そしてみるみる硬化し銃をただの鉄くずに変えた。
『な、何だこれは!?』
リストラマンは慌てて引き金を引く。
だが銃口をふさがれた拳銃は暴発し、盛大な音を立てて弾け飛んだ。
『ぐわああああ!』
飛散した金具が突き刺さり、リストラマンの上半身から血しぶきが上がる。
「……ざまあ……みろ」
息が苦しくて、でも、それだけは言ってやりたくて、かすれる声を絞り出す。
けれど反撃は、これが最後だった。
『………この、クソガキがああああ!』
容赦のない拳が頬を打つ。
首がもげるかという衝撃が襲い、顔の左半分の感覚が消えた。
微かに見える右目で見上げると、怒りが頂点に達したらしいリストラマンが無造作にショートケーキを頬張り、更にその体躯を肥大化させた。
まったく、どこまで化け物なのだ、この男は。
『俺の銃に何をしやがった! 畜生、お前は殺してやる!』
サッカーボールくらいに膨らんだ拳が振り上げられる。
――だめだ。
手品はこれで全部。
もう俺には、自分の身を守る術もない。
後輩を守ってやることだってできない。
思えばドレス作りにばかり没頭していて、つまらない人生だったような気がする。
そのドレスも奪われて、俺の中身は一度空っぽになっちまった。
だけど、このふざけた街に来て、新しい何かを見つけられそうな――。
俺を、そんな気にさせてくれたのに。
「……………ごめんな、すぐり」
「せんぱい! 秋穂先輩!」
リストラマンが拳を振り下ろす。
俺は奥歯を噛み締め、ぎゅっと目を閉じた。
次の瞬間、ブルドーザーのような一撃が俺の身体を粉々にする――。
――そんな未来はしかし。
一瞬後も、一秒後も。
数秒経って俺が薄く目を開いてからもやってこなかった。
「そいつは、『アイアン・クロス』っていってな」
見上げると、何故だか拳を振り上げたまま硬直したリストラマンの背後から、背後から、聞き覚えのある女性の声がした。
「――水をかけると数秒で鋼のように固くなる。それが『アイアン・クロス』の特性だ」
『だ、誰だ――』
と、言いかけたリストラマンの首元で、ぎらりと白刃が妖しく光った。
その顔にも見覚えがある。
今朝第七特区の門をくぐったところで出会った、嘘みたいに強い女剣士。
「――通りすがりの賞金稼ぎさ」
そう言うと侍姿の女は白刃を回してリストラマンの首にたたき込んだ。
目にも留まらぬ峰打ちがリストラマンの意識を断ち切る。
気絶したリストラマンがどさりと倒れると、俺も緊張の糸が切れたみたいに全身から力が抜けた。
「だ、大丈夫ですか、秋穂先輩!」
すぐりが駆け寄る。
俺はうなずくだけで何とか応えた。
「秋穂? あいお――。……………ああ!」
女サムライは白鞘に日本刀を収めて、独り合点が言ったように手を打った。
「なんだ、お前が秋穂椿か! 制服を着ていないから分からなかったじゃないか。………どういう奴が来るのかと思っていたが、中々面白そうなのが来たな」
「え、………え? あんた、何を――?」
「『あんた』じゃない。あたしのことは『店長』と呼べ、新入り」
「……てんちょう? 朝会ったときは賞金首だって……」
「ああ、あの時は面倒臭くて全部説明してなかったな」
と朝のやりとりを思い出したのか人差し指を立て、
「服が売れないもんだから賞金稼ぎに鞍替えしてな、賞金首を捕まえまくってたら今度は逆に賞金首たちから逆指名手配されるようになってな。『賞金首みたいなもん』さ。何でも裏社会じゃあたしの首には数千万円の懸賞金がかかってるらしい」
と、こともなげに笑って言った。
「じゃ、じゃあこのアイアン・クロスは? 盗んだんじゃ?」
「いや、普通に買ったぞ。金がないんでかなり叩いて値切らせたが」
「こんなの、何のために……」
「そんなの、服を作るために決まってるだろう」
当たり前にみたいに言っているが、俺には話が全く見えない。
「そろそろ賞金稼ぎから足を洗おうと思って数年ぶりに店を開けたんだ。が、一人じゃ何かと大変でな、それで君をスカウトしたわけさ、服飾職人見習い君」
話は見えないが、どうやら『服が売れないから』とか言っていたり俺が服飾職人を目指していることを知ってたりするあたり、その店というのはおそらく服飾関係なのだろう。
文無し無職の俺にはありがたい話だ。
――が、お断りしよう。
俺はもう命のやりとりはごめんなのだ。
こんな危険な、それも女と関わるなんて、命がいくつあっても足りやしない。
「お誘いはありがたいんだが、俺はアカデミーから来た学生で、もう師事する店は決まっているんだ。『ポルト・フローラ』っていう就職先が――」
と、今は亡き仕立屋の名を出す。
うん、嘘は言ってない。嘘は。
「………ん?」
と。
女サムライの反応はいまいちだ。
なんか、いやな予感がした。
「………ああ、なんだ。まさか、まだそれ読んでなかったのか?」
そう言って、店長はリストラマンが落とした銃を指さした。
そこには硬化したアイアン・クロスが巻き付いており、目を凝らしてよく見てみると、小さな文字で――
「『ポルト・フローラ、移転先……』って………移転!?」
「ああ、この隣にな」
「隣は、確か美容室なんじゃ……」
「そりゃ反対側だ。まあ、気付かんでも無理はないか。うちの店はまだ看板も出してないからな」
にやり、と不敵に笑う店長。
――まさか。
と言うことは。
この日本刀を振り回すこの賞金稼ぎが、ポルト・フローラの!?
「ようこそ、ポルト・フローラへ。……といってもまだ店を開ける準備も済んでないんだがな」
店長はそう言ってかがみ、俺の頭を乱暴にわしわしと撫でた。
目の前には袴の襟から豊かな胸が覗いて――。
――まずい、と思ったときにはもう遅かった。
「お、おい、新入り!?」
慌てた店長の呼びかけも遠のき、俺の意識は深く深く沈んで消えた。