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第3話

 文明退()()の音がする。


 今にも泣き出しそうな曇り空に割れた鐘の音が六つ鳴り響き終わる間に、百連発のマシンガンが不協和音を奏で、悲鳴と怒号のスタンディングオベーションで包まれる。

 ここはさながら戦場のコンサートホールだ。


 撃ち尽くしたマシンガンの銃声が途絶えると、壊れた洗濯機のような不快な爆音を吹かせながら時代遅れのオートバイが走り抜け。

 映画で見たことあるようなカウボーイ姿の男たちが、数頭の馬を駆ってそれを追う。

 蹄が石畳を打ち鳴らし、騎上からのショットガン掃射がオートバイの二人組に襲いかかる。


 やたら物騒な鬼ごっこがようやく通り過ぎたと思ったら、今度は頭上の家屋で爆発が起きた。

 黒焦げになった白衣を着た男が爆風で二階の窓から吹き飛び、綺麗な放物線を描いて向かいの川に着水する。

 爆発した建物はその周辺から中に至るまで禍々しい模様や魔方陣のようなペイントが施されていて、まるで悪魔か何かを召喚してしまいそうな不気味な雰囲気だ。

 ……魔術の実験でもしていたんだろうか。


 あっけにとられている暇はなかった。

 白衣の男が飛び込んだ川の対岸にはジュエリーショップから大量の宝石を盗んで逃げ出そうとする明らかに怪しげな格好の男や、その手前の五階建てアパートの屋上から投身を図って周囲の制止を受けている若い女や、それから、

 それから――。



「そろそろ――、どいてくれませんか、先輩」



 四つん這いになった俺の目の前には、意外な顔があった。

 地についた俺の両腕の間で仰向けに横たわってこっちを見上げるその顔に、見覚えはある。

 けれど、以前に俺を『おにいちゃん』呼ばわりした、この女みたいな男の名前を、そういえば俺はまだ知らない。



「先輩が混乱していることはよく分かります。知りたいことも、言いたいこともたくさんあると思いますけど、このままだと誰かに誤解されてしまいます」



 渚が『図書館の君』と呼んでいた美少年は、その大きな瞳で俺を見据えて言った。

 見れば見るほど到底男になんて見えなくて、俺はごくりと生唾を飲む。



「お前の言いたいことも分かる」



 と、何とか俺も声を振り絞った。

 声は笑えるほどに震えていて気恥ずかしいが、そんなことも言っていられない。



「こんな人気のない路地裏で、男に押し倒されて貞操の危機を感じる気持ちは分からんでもない」


「僕が心配しているのは僕の貞操ではなくて、あなたの命です。こんな所を誰かに見られたら、たとえばそれが美少年愛護団体のメンバーだったなら、たぶんあなたは言い訳無用で射殺されてしまうでしょう。ここは……、第七特区はそんな場所です」



 何だよその団体、と言いかけてやめた。

 こんな何もかもむちゃくちゃな場所に、どんな人間がいたっておかしくない。

 自分で美少年と言っちゃっているこいつもどうかと思うが、そんなこともこの際二の次だ。



「ここへ来てまだ三十分足らずだが、そこらへんは俺も十分理解できてるつもりだ」


「それなら今すぐそこをどいてください。それから……」



 と言って目を下に逸らしたその無表情に、ほんの少し朱が差したような気がした。



「……とりあえず、パンツをはいてください」


「分かっているッ!」



 と、つい怒鳴ってしまってからはっとした。

 だめだ、こんな時こそ冷静でいなければ。


 ……クールになるんだ!



「分かっている。確かに俺は下半身半裸だ。手元にはなぜか誰かを縛るのにちょうど良さそうな布があって、たぶん今の俺はこの状況が突飛すぎて目を血走らせているんだと思う。すぐにでもここをどかなきゃ俺は変態の仲間入りだ」


「………下半身裸の時点で十分変態ですが」


「言うなッ! だが俺には露出癖もなければ、人を襲う趣味もない。女は苦手だが、だからといって男を狙うほどまだ落ちぶれてもいない!」


「それじゃあどいて――」


「どけない。ここは、――動けないんだ!」


「え――?」



 俺の真摯さが伝わったのだろうか。『図書館の君』は少し瞳を見開いて、軽蔑の光を少しだけ和らげた。

 ――そう、この状況には訳があるんだ。

 これ以上ないってくらい、やんごとない事情が!



「いったい、どうしたっていうん――」


「あまり、言いたくなかったんだが――。黙っているわけにもいかないか………。そうだな、なんていうか、こう――あれだ、その、ええと……、つまり――――抜けちまった、っていうか」



 ニヒルな笑みで俺は白状した。



「腰が――抜けて動けないんだ」



 見開かれていた瞳から全ての光が失われていくのが見えた。

 直後、股間に何かが突き刺さるような衝撃が襲い、脳天まで突き抜けた。



「おふぅ……!!」


「まったく――とんだダメ男ですね、『おにいちゃん』」



 薄れゆく意識の中で、『おにいちゃん』というどこか甘酸っぱい声がぐるぐると廻る。


 ――く、屈辱だ。


 俺は――。

 俺の名前は、秋穂椿。

 その名前を知らないものは、アカデミーにはいない。


 社交界という夢を失ってしまったとは言え、それでも成績だけならアカデミー内で一、二を争う服飾職人見習いだ。

 いまさらその実力が変わるわけではないし。

 ドレス職人見習いとしてこれまで残してきた輝かしい栄誉の事実は変わらない。


 俺の存在は今でも特別で、希有なものであり続けていたはずだった。


 ――それが。


 なぜこんな世界の果てのような場所に放り出され。

 なぜこんなゴミくずでも見るような視線で見下ろされ。


 なぜ、こんな惨めな思いをしなければならないのだ。


 ――思い返してみよう。


 どこで、何を間違ってしまったのか。

 そう――、俺は昨日の深夜、第二特区から旅立った。

 その時はまだ、これから起こる凄惨な運命を予感しつつも知るよしはなかったんだ。



***



 課外授業のための店に向かうため、俺は深夜便の電車に乗り込んだ。

 少しへんぴな場所にある第七特区にたどり着いたのは朝日が昇り始める頃で、駅を出るとすぐに『正門』が現れた。


 特区はどこも、ぐるりと周りを取り囲む城壁で二重に守られていて、だから『城門』も二つある。

 一つ目の門で許可証を見せ、キャリーバッグを引いて門と門をつなぐ橋を渡った。


 橋と言っても門と門との間は五キロメートル近く離れていて、その間には物産店や免税店みたいなものがたくさん並んでいる。

 ホテルやレストランなんかもあって、ひとつの街のようだ。

 第二特区ほどではないが、それなりに活気づいていて、

 ――だがそのあたりから少し様相がおかしいことに気がついた。


 まず、全体的に小汚くて、雑多で、何というか、こう、ごちゃっとしている。

 異国との緩衝地帯として先進諸国の技術や文化が集結する『特区』という場所にしては、いささか洗練さに欠けているような印象だ。


 次に、なぜか浮浪者みたいな連中が所々でたむろしている。

 誰も気にしないが、ホームレスみたいに住み着いている人たちや、怪しげな骨董品を売りつけている者もいる。


 それから、何か全体的に煙たい。

 あまり考えたくはないが、これはたぶん煙草とかお香とかの()()のやつで、特区の外じゃ持ってるだけで刑務所行きの()()の煙だろうと思う。

 この空気の中にいるだけで、なんだか妙に酔っ払ったみたいな気分になる。

 いや、酒も飲んだことがないから酔っ払ったこともないんだが、たぶんこういう感じなんだろうと思う。


 そして、時々どこかから悲鳴が聞こえる。

『誰かそのひったくりを捕まえて』とか。

『ちくしょう、すられた』とか。そんなやつだ。

 そんなのが三十秒に一回くらい飛び交っている。


 正直、一つ目の門をくぐった時点でこれなのだから、特区の中はどうなっているのか想像に難くない。

 ぴたり、と足を止め、引き返そうかと一度本気で思った。


 一度入ってしまえばしばらく外に出てくることはできない。今からでも遅くはない――と。


 そのとき、煙の中に混じってかぐわしい香りが鼻先に漂ってきた。

 ――きっと。

 何かが狂ってしまったのだとしたらこのときだったのだと思う。


 その匂いは小さな洋菓子店から漂ってくるものだった。

 じゅるりとよだれが垂れて、その時になって自分が無意識のうちにその洋菓子店に入り込んでしまっていたことに気がついた。


 何を隠そう、俺は大の甘党だ。

 ケーキが主食、おかずにアイスクリーム。当然パフェは別腹だ。


 けれどこの数年間、自分を律するために禁欲生活を送ってきていた。

 全てはドレス職人となるため、つまらない欲望を断ち切ってきたのだ。


 そんな俺にとって、この暴力的なまでに甘美な匂いは、理性のたがを外すに足るもので。

 だから、うかつにも俺はこんな危険な場所で我を失って。


 ――気付いた時には持っていたはずのキャリーバッグが影も形もなくなってしまっていた。

 盗まれた、とすぐに気がついた。


 あの中には着替えや生活用品だけじゃなく、長年使ってきた職人道具や通帳なんかも入っている。

 まずい、と思って店の外に飛び出したその時、どん、と厚い胸板にぶつかって尻餅をついた。


 見下ろしてきたのは怪訝な顔をした巨体の異国人で、何事かを話しかけてきたけれど何を言ってるのかさっぱり分からなかった。

 とりあえず分かったのは俺が手に持っていたケーキがそいつの服にぶつかって汚れてしまい、そいつはおそらくそれにご立腹のようだった。


 無意識のうちにケーキをすでに買っていた自分自身に末恐ろしさを感じたが、それ以上に目の前の異国人三人組の目が恐ろしく光っていて、どうやら彼らは金銭的なものをご希望のようだった。

 どこのチンピラなんだ、全く、と思いながら抵抗することもできず、ポケットの中の小銭をあさる。

 ぴょんと跳ねてみるとじゃらりと音がしたので、こいつらを満足させることができるかは分からないが、有り金全部を渡して交渉することにした。


 しかし情けないことに手が震えてなかなか小銭が出てこなくて、せっかちな異国人たちは次の瞬間、俺のズボンごとむしり取ってしまうことにしたらしい。

 屈強な男に羽交い締めされ、ベルトを外し靴を脱ぎ捨てズボンをずり下ろす。さすがに抵抗してみたが、逆効果だったみたいで、俺の胴体くらいある二の腕が俺のズボンをパンツごと破り捨てた。


 ぱーん、と布がが弾ける無駄に良い音がした。

 桜の花びらみたいにひらひらと舞い散る布の破片。


 言葉も出ずに唖然とする俺の前で、何か誇らしげに筋肉アピールをする異国人。

 ぽかーんとしていたら、遠くからサイレンが聞こえてきた。誰かが警察を呼んでくれたのだろう。


 特区内は治外法権だが、この橋までは帝国の警察の活動が認められている。

 これで一安心だ、と思った矢先、俺の制服の上着まで剥ぎ取った異国人たちはそのまま一瞬にして散開し、残った俺を見た通行客の一人が、きゃああ、と叫んだ。


 まさかと思ったが、やはりその指は俺の股間の愚息を指している。


 ――まずい、まずい、まずい。

 警察がどんな通報を受けたのか知らないが、公衆の面前で下半身裸でケーキを頬張っているこの状況はまずい。

 こんな状況で残ったケーキを頬張っている俺もどうかと思うが、駆けつけるタイミングを間違える警察の方もどうかと思う。


 後ろを振り返ると赤色灯の群れ。

 前を向き直すと、特区へと通じる二つ目の扉。


 戻るも地獄、進むも地獄。

 俺は――、

 ――進むことにした。


 裸足のまま駆け出す。

 下半身にすーすーと風が通って、何か気持ち悪いが、だんだん気にならなくなってくる。

 通行人たちが慌てて避けて、できた道を全速力で駆け抜け、パトカーから逃げる。


 毎日のトレーニングは無駄ではなかったのだ。と、ふと思った。

 雨の日も、風の日も、毎日欠かさず続けてきたランニングと筋トレの日々が脳裏に浮かぶ。


 辛い日もあった。

 投げ出したくなる日もあった。

 それでも、――走り続けた。


 この汗と、涙と、風を切る股間の何とも言えない感じは、その苦しみ抜いた日々の集大成なのだ!

 うおおおおお、と声を荒らげ、背後に迫ったパトカーを振り切り、門前の人垣を突っ切る。

 人の波をかき分け、唯一俺の手元に残った入区許可証を掲げて城門を駆け抜ける。


 門の中に飛び込んだ俺が振り返ると、閉まりかける扉の向こうで、警察官たちの悔しそうな表情が見えた。



「やった……のか」



 そう、俺はとうとう足を踏み入れてしまったのだ。

 第七特区という、治外法権の地へ。



「ふふっ、はははっ!」



 戦いに勝ち誇った俺は、下半身に伝う汗も気にせず、仁王立ちして、雄叫びを上げた。



「俺は勝ったぞー!」


「おい、小僧」



 と、そののど元に何か鋭く光るものが突きつけられる。



「勝ちどきを上げてるところ悪いんだが、少し聞きたいことがある」


「……………え?」



 つ、とのど元を伝う汗が急にひんやりと冷え、冷静になった俺はその喉首に突きつけられているのが刃であることに気付いた。



「お前、外から来たな? 私ゃ人を探してるんだが、ええと、名前をなんて言ったか……」



 おそるおそる振り返ってみる。

 その声の主は綺麗な女性だった。


 年齢は、二十代半ばくらいだろうか。

 セミロングの黒髪をなびかせ、白鞘の日本刀を構えていた。

 鮮紅色の牡丹が描かれた着物を身につけ、しかし大和撫子とは思えない口調で、その口もとには咥え煙草。ぷっと吐き捨てて草履で火を踏み消すと、怪訝に眉をひそめた。



「……ていうか、なんでち○こ丸出しなんだ?」


「お、女がち○ことか言うな!」


「丸出しのやつに貞操観念なんて説かれたくないね」



 そう言ってその女は刃先を俺の首もとから股間に向き変えた。



「ぎゃあああああ! やめてやめて!」


「うるさいな、()()。さっきまでの調子はどうした? この程度で狼狽えてたらここでやっていけないぞ」


「ぐっ………」



 悔しいがこの女の言うとおりだ。

 望むと望まざるとに関わらず、こうして俺は俺自身の足で第七特区に踏み入ったのだ。

 これからは、自分の身は自分で守らなきゃならない。

 ぐっと、奥歯を噛みしめる顎に力が入る。



「ふん」



 と女はそんな俺を見て鼻を鳴らした。



「まあ、ここでくたばるなら、それまでの男だったってことだろう。そんなことより、おまえに頼みがある」


「………頼み?」


「ここにもうすぐ、私の()()が来るはずなんだ。そいつにこれを渡してほしい」



 そう言って女が取り出したのは白く細長い布だった。

 腰からペンを取り出すと、さらさらと何かを書き込む。



「これで良し」


「なんだよ、あんたが直接渡せば良いだろ?」


「私も忙しくてね。――ほら、もう()()のお出ましだ」


「――え?」



 その直後、俺の股間に向けられていた日本刀が翻り、目にも見えないスピードで何かを斬った。

 俺たちを挟むように地面が砕け、真っ二つになった砲弾が煙を上げた。



「うそ…………だろ………?」


()()、死にたくなかったら隠れてな」



 どん、と今度は間違いなく砲撃音が聞こえた。

 どんよりと曇った空を見上げると、大砲の弾が寸分違わぬ正確さでこちらに向かって飛んできていた。



「う、うわああああああああ!」


「おおおおおおおおりゃああああ!!」



 女は一度白鞘に刃を納めると、ざん、と右足を一歩前に踏み出し、渾身の居合い切りで砲弾をまたも二つに切り裂いた。



「な、なんだよ………。信じらんねぇ………」


「自分の目で見たものを信じなくてどうする」



 と、女はこともなげに笑った。



『ちくしょう、なんて女だ!』


『まだだ、まだ続けろ! あいつをやれば、俺たちゃ一生遊んで暮らせる!』



 そんな声がしたと思ったら、今度は改造されたオープンカーが突っ込んできた。



『このまま、轢き殺してやる!』


「ふん」



 と女は鼻で笑った。

 まるで楽しそうに。嬉しそうに。


 次の瞬間、刃はすでに白鞘に納められていて、オープンカーはすれ違いざまに左右に真っ二つになっていた。



「あんた………()()()、か?」


「まあ……、そんなとこだ。というわけで、ここにとどまってても埒があかないから、あたしはそろそろここを離れる。後は任せたぜ、新人」



 そう言って、布を半ば無理矢理押しつける。



「任せたって………、いったい誰に渡せば――」


「ここで待ってりゃ、じきにやってくるはずさ。そいつはマイスターズ・アカデミーの制服を着ているはずだからすぐに分かる」


「あ、アカデミーの……?」


「それじゃ、頼んだからな!」



 早口でそう言い残すと、女はものすごいスピードで駆け出し、飛び去ってしまった。

 銃声がそれを追うように去ってしまって、急に静まりかえる。



「…………何だって言うんだ」



 説明不足にもほどがある。

 というか、門をくぐってからというもの、理解を超えるスピードでいろんなことが起こりすぎてて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。一度状況を整理してみ――。



『ちくしょう、取り逃がしちまった!』


『あの女、やたら強すぎんだろ……』



 と、その時真っ二つにされたオープンカーからさっきの賞金稼ぎとおぼしき二人組が姿を現した。



『だから、あの女が店からあの布を盗んだ時にさっさと捕まえちまおうって言ったんだ』


『もう少し泳がせようって案に乗ったのはお前も一緒だろ。誰か共犯者がいるかもしれないって。そいつも捕まえりゃ一石二鳥だって、お前も言ってたじゃねえか……って、ん?』


「……………え?」



 二人組の視線が、ふと、俺の姿を見つける。



『布――』


『共犯者――』


「え、ええと………」



 ――俺?

 ていうか、この布、盗品!?



『捕まえろ!』


『ああ、見たことはないが賞金首に違いねえ!』


「う、うそだろ!?」



 二人組は拳銃を片手に走り寄ってきた。

 このままじゃ濡れ衣を着せられたまま捕まっちまう。

 賞金首じゃないことはすぐに証明されるだろうが、この布が盗品なら話は別だ。


 ――どうする?

 股間を隠すために拝借してみた、とでも弁明してみるか?

 い、いやだめだ。股間が丸出しな時点でほぼ犯罪だ。


 それじゃあ、逃げるしかないのか?

 だけど、逃げ場所なんて、どこにも――。



「こっちです、先輩」



 ぐい、と急に手を引かれ、転びそうにたたらを踏んだ足を何とか立て直し駆け出す。

 アカデミーの制服を着た小さな背中を追って、手を引かれるがままに路地裏に駆け込む。



「お前は――」


「いいから、黙ってついてきてください」



 入り組んだ裏路地を駆け抜け、分かれ道を右へ左へと方向を変えて走る。

 裸足の裏に何度か石や瓦礫が突き刺さったが、構っている暇はなかった。

 十分くらいのあいだ走り続け、ようやく手を引く足が止まった。



「もう大丈夫でしょう。――先輩?」



 その時には俺の足はもう生まれたての子馬みたいにがくがくと震えていて、意識を保つのも限界だった。



「せ、先輩――?」



 俺は力尽きて、膝をついた。



***



「それで、下半身露出させたまま汗だくになって今にも布きれで野外拘束プレイに走ろうと美少年に馬乗りになって目を血走らせていたわけですね」


「………お前は俺の話をどこまで聞いていたんだ?」


「とりあえず、先輩がとびきりの甘党だっていうことと、とびきりの変態さんだっていうことは分かりました」



 二人して繁華街を歩きながら、俺はことのあらましを最初からできるだけ正確に話した。つもりだった

 誤解されぬように、慎重に言葉を選びながら。


 そして返ってきた台詞がこれだ。

 ……もう、やんなっちゃうね。



「それより、こんなに堂々と歩いてて大丈夫なのかよ、さっきまで追われてたのに」



 と、きょろきょろ周りを見渡す。

 市場(マーケット)には採れ立ての山菜や今朝揚がった鮮魚が所狭しと並べられ、まだ朝も早いのに買い物客であふれている。

 こうして見ていると、少し時代遅れな感じがあるだけで、ごく普通の光景にも見える。

 ……まるで、さっきの出来事が嘘だったみたいに。



「ここまで中央近くまで来れば、あまりああいった荒事集団は立ち入らないから、たぶん大丈夫ですよ。賞金首みたいな犯罪者も、自警団の目の届かない辺縁部に巣くってますから」


「よく知ってるんだな、第七特区(ここ)のこと。ええと……」


柏木(かしわぎ)です。柏木すぐり」


「その、柏木――」


「すぐり、で良いです、先輩。その名字、僕はあんまり好きじゃないから」


「そ、そうか……。悪いな、俺の職場まで案内させちまって」


「いいえ。ここは、前にも来たことがあるから、少しだけ知っているんです」


「へえ………」



 こんな場所に来たことがあるなんて、奇特なやつだ。


 そういやアカデミーでもあまり話さないらしいし、人には話したくないようなことがあるんだろうか。

 けれど、それが第七特区がらみのことなのだとしたら、それはあまり踏み込むべきことではないだろう。

 誰もこんな場所と関わっているなんて知られたくはないはずだ。


 アカデミーに戻ってもみんなには黙っておこう。

 こう見えても俺は、紳士なのだ。



「……だから、先輩が下半身裸になりたい衝動を抑えてくれさえすれば、誰かに追われたり、捕まったりすることはありませんよ」


「そうか……。って別に俺は俺の意志で脱いだわけじゃねえ! それに今はこうしてズボンも履いてる」


「それ、どうしたんですか? 替えのズボンでも持ってたんです?」


「いいや。仕立てたんだ、ちょうど良い布を拝借したもんでね」



 謎のサムライ女から渡された布の一部を拝借したのだ。

 破り捨てられたズボンのベルトにいつも携帯している職人道具のポーチをとっさに持って逃げて良かった。最低限の道具だけ詰め込んだ出先での緊急用仕立て道具だが、一枚布から簡単なズボンを仕立てるくらいは造作もなかった。

 ……まあ、デザインまでは凝る余裕がなかったのが悔いの残る点だが。



「ああ、あのトイレに行っている間にですか? 長いとは思っていましたが、それでも十分かそこらでした。そんな時間でズボンを一着仕立てるなんて、さすがは先輩ですね。ドレス職人を目指していただけのことはあります」


「どーも。何か皮肉っぽいが、最近褒められることも少ないから素直に受け取っとくよ」


「別に。皮肉なんかではありませんよ……」



 すぐりの表情は読めない。

 けれど、確かに皮肉を言って人を苛立たせるようなつもりには見えなかった。



「先輩の実力は知っています。次にアカデミーから黒船に行くのは先輩だって、みんな噂してました。僕も、そう思っていました」


「そーかい、ありがとよ」



 少しじんときて、それを隠すようについ、ぶっきらぼうになってしまった。

 すぐりの台詞が全部過去形なのも少し堪えて、ふいと顔を見られないようにそっぽを向いた。



「俺は完璧超人だからな」


「そうです。変態さんでなければ、先輩は完璧です」


「うぐ………。俺の変態扱いはまだ続くのか……?」


「ほら、そろそろ着きますよ。ここを曲がれば、先輩の勤め先の『ポルト・フローラ』で……す………?」



 角を曲がって、すぐりは言葉を失った。



「すぐり? どうした?」



 後を追って角を曲がる。

 俺もまた言葉を失ってしまった。



「あ、えと………」



 と、すぐりは無表情のまま懸命に言葉を探す。

 俺は、言葉を探すのを諦めた。


 目の前には大きな屋敷があった。

 おそらく、とても豪奢で、美しい建物だったのだろう。

 ……たぶん、数年前までは。


 そこにあったのは、錆び付いた門に、荒れ果てた庭。

 屋敷の窓ガラスは割れ、風見鶏は折れ、噴水は枯れて、野良犬が棲みついている。



『ゥワウッ!』



 と野犬が唸り、がこん、と看板が傾いた。

 看板には『ポルト・フローラ』の文字。



「えっと………、場所………間違えましたかね?」



 慰めは止せよ、すぐり。

 今の俺は、たいていの不幸なら受け入れられる。


 ――つまりこういうことだろう?


 俺がこれから居候し、勤め、学ぶはずだったポルト・フローラという工房は、とっくの昔に潰れてしまっていた。

 喰う金を失って一文無し。

 着る服を失って素っ裸。

 棲む家を失って家なき子。

 夢も失い、名声も失い――。


 ――ははっ。

 次に神様が俺から奪うのは、この命だろうか?


 ごーん、とひとつ鐘の音。

 文明退化の音がする。

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