第2話
――この際だから、誤解を恐れずに言おう。
俺は、男が好きだ。
それも、脂の乗った熟年のオヤジがいい。
そう、例えば七組の副担任の体育教師の<ピー>をおかずに<ピー>して<ピー>なんてことになったらもう<ピー>しちまうに違いない。
……おっと、自己紹介を忘れていた。
俺の名前は椿。秋穂つばけばぶ!!
「――いたい! いたいよ、なにすんの!? 乙女の頭にこんな分厚い本落とすとか!」
「それはこっちのセリフだ、渚。勝手に人のモノローグ捏造しといて何を言う」
金髪のセミロングにもう一発、分厚い背表紙をお見舞いすると、金髪はうきゃう、と小さな悲鳴を残してしゃがみ込んだ。
「あ、甘いね、椿。ツカミで読者にインパクトを与えるのは常套手段だよ?」
「インパクト強すぎて引くわ! いきなり読者置いてけぼりだろ」
……ってか読者って何だ?
「それじゃ<ピー>を舐めるくらいで止めとく?」
「そうじゃねぇよ!」
と、少し大きな声を出してしまい、慌てて口を塞ぐ。
静かな図書館に響いた声がまた、しんと静寂に吸い込まれていく。
そっと口を開くと、はあ、とため息が漏れ出た。
「……だいたい、俺が体育教師と<ピー>を<ピー>くり<ピー>してたところでどこに得する奴がいるんだよ」
と、返して損をした。
……いた。
まさに、目の前に。
脚立の足元で本棚を整理する渚はうへへ、と汚い笑みを浮かべている。
俺はもう一度はあ、とため息が漏れるのを堪えられなかった。
こいつの名は周防渚。
この春から同じクラスになったクラスメイトだ。
とはいえ、お互いのことはずっと前から知っていた。同じ服飾科で、ドレス職人を目指す学生どうし。学内のコンテストや成績優秀者の表彰の場で何度か顔を合わせたことがある程度だが。
こいつは――はっきり言って天才だ。
服飾科では名実ともにトップテイラーと言っていい。
現に、三ヶ月前のドレスパーティに学生で参加したのは俺とこいつだけで、俺と違って新人賞的なものを受け取っていた。それも、二年生の途中から編入してきたのにもかかわらず、だ。
そのくせ、あまり鼻にかけたような態度も取らない。
この性格のせいか友達は少なそうだが……。おそらく、悪いやつではないのだろう。
あの事件以来孤立気味の――まあ、元々友達なんてそんなにいなかったわけだが――そんな俺に対しても今までと変わらず接してくる。気を遣っていると言うより、たぶん、空気が読めないだけなんだろう。この手の天才にはありがちだ。
なので、俺はこいつのことが嫌いだ。
図書委員の仕事じゃなけりゃ、貴重な昼休みまでこいつと一緒にいることなんて微塵も考えられない。
「……なんて言っちゃって。ホントはボクのこと、好きなくせにいたいいたいいたいよう!」
本の角をつむじにぐりぐりとねじ込ませると、渚は涙を浮かべて降参した。
「なんでお前は俺の心が読めるんだ!?」
「図星だった? もう、椿はツンデレさんなんだから」
「そっちじゃねえよ」
「ひふぁい、ひふぁいよふわき……」
おしゃべりな口元を塞ぐように掴むと、渚は形だけの降伏のセリフを吐く。反省なんてこれっぽっちもしてないくせに。
渚の頭にねじ込んでいた本を元の場所に戻すと、俺は脚立を降りた。
代わりに渚が数冊の本を抱えて脚立によじ登る。ふんふん、とご機嫌な鼻歌を歌いながら、子供みたいに無邪気な笑顔で。
こんな奴が、この学校で一番の服飾職人だというのだから世の中間違ってると思う。
こんな普段から緊張感のない奴が。
こんな特別な努力もしてない奴が。
だけど。
天から授かった才を持っている奴が――。
――この世界じゃ一番なんだ。
間違ってると思うし、気に入らないけれど、受け入れざるを得ない。
だって俺は、俺の努力は、結局実を結ぶことができなかったんだから。
「ふんふんふんー。おかたい椿は照れ屋さんー。だけどホントはただのー、むっつりスケベさんー。ふんふふんー」
こんなアホみたいな鼻歌を歌う奴に勝てなくて……。
悲しすぎて涙が出そうだ。
「――あ。『図書室の君』はっけーん」
と、唐突に渚は鼻歌を止めた。
書架の隙間から覗き見るようにして、むむむ、と唸っている。
「確かに――あれはイケメンだわ」
「なんだ、『図書室の君』って」
話題が俺から逸れていく気配があったもんだから、これ幸いとつい反応してしまった。
「知らないの、女子の間で噂になってるんだよ。いつも図書室で本読んでる、寡黙で、クールな、美少年」
「生憎、俺はその手の噂には疎くてね」
本当のところを言うと、その手の噂だけじゃなく、クラスメイトの半分も顔を覚えちゃいないくらいのネクラなんだが。
「だめだよ椿、そんなんじゃ他の女子に持って行かれちゃうよ?」
「……お前はまた唐突に何を言い出すんだ」
「大丈夫、まだフリーだって噂だから。椿にもまだチャンスはあるって」
渚はなぜかどや顔で親指を立ててそうのたまった。
これだからマイノリティ趣味の変態とは付き合いきれん。
「そうじゃねえ。何故男を薦める?」
「だって女は駄目なんでしょ? それならもう、男に走るしかないって。――ほら、若干乙女入ってるし、物静かで、愁いを帯びてて、なんかぎゅっと抱きしめたくなっちゃう感じしない? 『弟君』って感じで」
「……へえ、後輩なのか?」
どうやら俺に同意を求めていたような口調だが、俺は渚の視線の先には当然興味も湧かず、書架の下段に本を収めながら、素っ気なく返しておくことにした。
「うん、でも飛び級で進級して、今は同級生だよ」
「よく知ってるな」
「だって、有名だもん。無口でほとんど喋らないから、誰も彼のこと詳しく知らなくて、余計にミステリアスで人気上がっちゃって」
「ふうん……」
「あんな子に『おにいちゃん』なんて上目遣いで覗きこまれてごらんよ、きっと椿の股間も上目遣いに――いたい! なんで本投げるの!?」
思わずスルーできずに投げつけてしまった。とりあえず手元にある中で一番重そうだった、『業務服図鑑』という本を。
「ま、まあ椿にはハードル高いかもね。彼、友達少ないみたいだし、作る気もないみたいだし。――椿とよく似て」
ふん、と脚立の上で腕組みし、ふんぞり返る渚。
「へえ、人の悪口を言うのはいいが、そんな無防備だとスカートの中が見えるぞ?」
「ああ! 見た!? 見たんだね、椿!!」
渚は慌ててスカートの裾を手で押さえた。
もちろんその中なんて見てないし、見たいとも思わない。
「み、見てねぇよ。何でお前のスカートの中身なんか見なきゃならないんだ。俺はお前のためを思って忠告しただけ――」
「そんなこと言って! このスケベ! 変態くそオナニー野郎!」
「ちょ、おい待て。いきなり悪口の質が高すぎんだろ。ここがどこだか分かってんのか、渚――」
そう。
ここは図書室。
学校で一番静かで、一番神聖な、学徒の聖域だ。そんな場所でお前、人をなんて名前で罵倒してくれるんだ。まったく、気持ちいいじゃないか。もっと俺を罵ってくれ! そう、俺の抑えきれないリビドーが爆発するまd
「やめえええええええい!! だからなに勝手に人のモノローグに侵入してくるんだよ! どんな特殊能力!?」
「ま、まあまあ……」
「まあまあ、じゃねえ! お前この数ページで俺のイメージ最悪じゃねぇか!」
ていうかページって何?
なんか俺まで毒されちゃってない?
「ちょ、ちょっと椿? そろそろトーン抑えないと――」
ハッと気付いた時にはすべてが手遅れだった。
目の前には一人の生徒が立っていて。
その顔にはいつだったか見覚えがあって。
それがいつのことだったか、思い出したその時、
「『図書館の君』――」
と、渚がつぶやいた。
い、いや。そんなはずはない。
彼は、
――いや彼女は。
『先輩は、そうまでして何になりたいんですか?』
間違いない。
今朝アカデミーの正門前で、ジョギング中に出会った――。
「――おとこ?」
今は眼鏡をかけているが、顔に見間違えはない。
野心に燃える瞳。自身に満ちた口元。そんな表情を、数時間前にも間違いなく見た。
けれど確かに、性別までは確認していなかった。
目の前にいる『図書館の君』は俺と同じ制服を着て、支給された学生ズボンに足を通している。
女子生徒に許可されているアクセサリーや小物なんかも身に付けていなくて、少なくとも生徒たちからは男と認識されているらしい。
「ええ、そうですが。秋穂先輩」
かっと、顔が赤くなるのが分かった。
なんて恥ずかしい勘違いをしていたんだ、俺は!
「………図書室では、静かにしてくださいね。――おにいちゃん」
と、そんな俺にとどめを刺すかのように、冷たい上目遣いが俯く俺に向けられた。
頭が真っ白になる。
――全部聞かれてた!?
い、いや、堪えろ。考えるんだ!
何とか俺の悪印象を元に戻す言い訳を――。
――と。
顔を上げたときにはもう『図書館の君』は振り返ってしまっていて。
わずかに見えた横顔には薄い笑みが浮かんでいて。
「は、はい……」
とうわごとのように俺は小さく返事した。
眼鏡の奥の冷たい瞳。
嘲るような口元。
まだ網膜に焼き付いていて、まるで蛇に睨まれた蛙の気分だ。
食われると分かっていながら逃げ出すこともかなわない。こんな、こんな気持ち、快か――
「――させねえよ?」
がし、と渚の口を塞ぐ。
「ちっ」
と渚は器用に舌打ちした。
***
服飾科の教室はアカデミーの十九階にあって、窓の外には港湾地区が見える。
午後の授業の時間にはたいてい巨大なタンカーや貨物船が行き来するのだが、今日はいつもと異なる様相を呈していた。
第二特区に寄港した黒船が水上に係留され、その巨大さからタンカー三台分ほどのスペースを占めている。
艦内じゃあ今夜、凱旋パーティも行われるのだろう。こんな日も授業が行われる俺たち学生には関係のないことだが。
「こらぁ、秋穂君。いくら黒船に憧れてるからって、窓の外ばっかり見てちゃだめだぞ」
先生は三つ編みの長い髪を揺らして指を差した。
クラスの生徒たちが可笑しそうに笑う。
俺も、頑張って少しだけ笑った。
けど、そりゃないよ、先生。
残念ながらその『憧れ』はちょっと前に潰えちゃったんだ。
「――ところで、みんなも知っての通り、三年生になったあなたたちは、明日から一年間の現地実習に入りまーす。というわけで、今からお待ちかねの『勤務先表』を各自に配りますね! みんなになかなか会えなくなるのは寂しいけど、それぞれ、新しい『職場』で頑張ってくださーい」
教室内がにわかにどよめく。
俺自身もまた、思わず息を飲んだ。
この胸のざわめきは、アカデミーの入学試験の結果発表の瞬間に似ている。あの時よりよっぽど最低な気分ではあるが。
クラスメイトたちが順に名前を呼ばれ、それぞれが学外実習先の書かれた紙を受け取る。
『やったぜ、第四特区の「ディープ・フォレスト」だ。第一希望が通った』
とか。
『うわあ、「珊瑚礁」か。たしか第六特区だな。あそこの作る服って時代遅れなんだよなあ』
とか。
ちょっとした天国と地獄が展開される。
そりゃそうだ。これから一年間、学業というより活動の拠点となる研修先の店舗なのだから。
例えばその店がドレスを作っていなければ、そいつのドレス職人への道はその時点で完全に絶たれることになる。
もしもドレス職人になりたければ、当然この日までにドレス作りに関して教師たちにアピールしておかなきゃならないってわけだ。
――ま、俺にはもう関係のないことだがね。
すぐに俺も呼ばれて、教壇に向かった。
「はい、秋穂君。第一希望だと良いわね」
「どうも、先生。それだけはあり得ないですよ」
だって、第一希望には新進気鋭のドレスメーカーを指名していたのだから。
今の俺にその資格はない。
「俺はどこでも良いですよ、っと――」
先生の手からその紙を掴んで開けた瞬間、俺は固まってしまった。
「どうしたんですか、秋穂君? ――あらあら」
その小さな紙切れに書いてあった俺の運命を見て、先生もまた小さく絶句した。
第七特区「ポルト・フローラ」――それが俺の行き先だった。
「…………第……………七?」
――百五十年前。
黒船が海を渡ってやってきたその日、日本は開国を固辞する代わりに、異国との情報交換の地を作った。
いずれは開国することを踏まえ、緩衝地帯としてもうけられた特殊な街。それらはみな、独自の文化を形成している。
「――全部で六だ」
そううわごとのように呟いたのは、どうやら俺の口だったようだ。
それが自分の声だなんて、自分でも信じられないような震えた声で、それでも言葉にしないとそこに立ち続けていることすらままならなくて、俺は続けた。
「第七……特区………だって?」
「あらら、ずいぶんと珍しい場所ねえ」
い、いやいや。珍しいとかいう問題じゃない。
それ自体が悪い噂や都市伝説みたいな存在で、そもそも存在しないもののたとえでまことしやかに使われるような言葉だ。
――曰く。
無法者たちが跋扈する未開の地にして悪名高いデッド・エリア。
阿鼻叫喚が響く街。
犯罪者の巣窟。
幻の第七特区を形容する言葉は他にも絶えないが、あまり良い気分にはなれないものばかりだ。
だから当然俺の反応もこうなる。
「前言撤回です、先生。……ああ、いや、どこでもいいのは変わらないけど、でも、……ここ以外なら、ってことで――」
「あらあら、困ったわねえ」
「え、ええ、とても困ってますよ、そりゃあもう。……冗談でしょ、第七特区なんて。そんなの――」
「――存在しない?」
――いや。
違う。
本当は存在するんだ。
光あるものの裏に必ず影が生まれるように。
煌びやかな栄光と繁栄を生み出す六の特区の裏に隠れるように、それはごく自然とそこにあって――。
だけど。
特区の中でしか習うことのない闇の歴史は、もちろん公の場ではないことになっているはずだ。
教室内のどよめきが大きくなるのも、先生が可笑しそうに笑うのも、遠く停船した黒船が警笛を鳴らすのすら、もう俺の耳には入ってこなかった。
ひくつく口元に何とか歪んだ笑みを残し、俺は最後の抵抗を試みた。
「ちょっとばかり危険過ぎる気がするんですが、先生。そもそもあそこ、外に出せない犯罪者を囲ってるだけのでかい牢屋みたいなもんじゃないですか?」
「あら、秋穂君、行ったことあるの?」
「い、いやないですけど! けど先生も知ってるでしょ!? 俺はただの職人見習いで、荒くれ者をやっつけるカウボーイじゃないんだ」
「でも、あなたも知ってるはずでしょう? アカデミーの決定は絶対なの」
くらり、と目眩がして、笑みを浮かべているのも限界だった。
全身から血の気が引くのが分かった。
「大丈夫、あなたならできるわ。がんばってね」
と、満面の笑顔で先生は言った。
有無を言わせぬその表情と語気に、俺は理解させられた。
――なるほど。
俺はすでにこのアカデミーにとって汚点なのだ。
汚点は、濯がねばならない。綺麗にこすって、洗って、消さねばならない。
俺は――そこが自分の墓場だと悟った。