第1話
文明開化の音がする。
街の中心の時計塔が鐘を六つ打ち終わる間に、港を出港する貨物船が短く二度警笛を鳴らした。
低い堤防から数羽のカモメが羽音を立てて飛び立つ。
冷たい潮風が背中を押し、俺は走るスピードを少しだけ上げた。
まだ少し白い吐息が夜明け前の薄闇に霧散してかき消える。
強い風に追いつかれないように。
誰にも負けないように。
俺は走った。
ランニングコースは月ごとに変わる。
十二月に入るとどうも繁華街がイルミネーションの準備を始めたらしくて通れなくなり、三月が来ると代わりに改修中だった湾岸道路が一年ぶりに全面開通した。
季節ごとにこの街はその姿を変え、その変化は人の成長と同じく止まらない。
この先を曲がると防風林で囲まれた公園に入る。
テニスコートや芝のグラウンドも併設されていて、特区のIDカードを持つ者ならそれをスキャンするだけでいつでも使用することができる。
抜けた先はオフィス街だ。
当然まだ出勤する人影は見えないが、清掃アンドロイドが高層ビル街をぴかぴかにしてサラリーマンたちを出迎える準備をしている。
ちょうど動き始めたモノレールの下をくぐって学術エリアへ。
学術エリアは第二特区の七割近くを占める教育・研究機関の集合地区だ。
そもそも第二特区自体が学術都市として作られた街で、多種多様な学校・研究機関・工場、そしてそれらに営利的価値を付加するための企業が、いわば機械仕掛けの都市の歯車として機能している。
俺たちが通う『マイスターズ・アカデミー』もまた、その歯車の一つだ。
マイスターズ・アカデミーの役目は、『職人』を養成すること。
日本古来の伝統工芸から異国から伝来した西洋文化に至るまで、あらゆる分野においてその基礎をたたき込む養成学校で、特区の外で言うところの大学生にあたる若者たちが、それぞれの専門科に分かれて長年培われてきた技術の粋を学ぶ、神聖な場所だ。
アカデミーの正門の前。
この場所だけは必ずランニングコースに入るようにしている。
文化のるつぼと化したこの『特区』の中で。
抜きん出た個性と才能がしのぎを削るこの場所で。
自分が何者かを忘れないためだ。
追いすがる者は振り切る。
立ちふさがる者は薙ぎ倒す。
誰の追随も許さない。この学校で最高の服飾職人になって、そして――。
俺は、『黒船』に乗る。
それだけが俺の――。
「――ハァ」
と、息を整えるふりをして大きくため息をついた。
思わず足を止めていた俺は道の先をそれ以上見続けられなくて、踵を返した。
「うきゃっ!」
と。
短い悲鳴と胸にぶつかった柔らかい感触に、俺は駆け出し始めた足をとっさに止めた。
「い、たたた」
「だ、大丈夫か?」
と、手を差し伸べようとしてとっさに引っ込めた。
尻餅をついてこちらを見上げていたのは黒く澄んだ大きな瞳。
この学校の制服を着ている。正門を入ろうとしたところで俺とぶつかって転んでしまったらしい。
黒いショートヘアにはイヤーマフが乗っかっていて、口もとには赤と黒のチェックのマフラー。
頬は赤く上気し、白い吐息がそれを隠す。
黒い瞳は寒さのせいか少し潤んでいて。
すん、と軽く鼻をすすったこの生き物は――。
――もしかしなくても、美少女というやつだ。
反射的に。本能的に。
まずい、と思った。
「わ、悪い。ぼーっとしていた」
そう言ってそそくさと立ち去ろうとすると、
「ほ、本当です。気をつけてください。――秋穂先輩」
「え――」
思わず俺は足を止めた。
「俺の名前を知ってるのか?」
「あ……」
しまった、とでも言うように口を閉じて手で押さえる。
すぐに取り繕うように彼女は言った。
「そ、そりゃあ、まあ。……先輩、有名ですから」
「……変わり者だ、って?」
ぶっきらぼうに言ってから後悔した。
ああ、そうだ。俺は変わり者らしい。
入学してからというもの、委員会にも属さず、クラブ活動にも所属せず、人付き合いも悪く、たまに口を開けばこんな皮肉で煙に巻く。
そう、俺だってなんとなく理解している。
俺は他人から煙たがれるタイプの人間で、だからそれをよく思わない連中から陰口を叩かれてるんだろうってことも。
それに加えて、あの事件だ。
三か月前の学園祭ダンスパーティの一件はすでに学校中の噂として広まっていた。
公衆の面前で半裸を晒されたあの黒髪の少女が向けた、真っ赤に燃え上がった表情と、殺意すら宿ったような両の瞳。思い出すだけでも死にたくなるくらいの羞恥が全身の毛穴を毛羽立たせて、ここから無性に逃げ出したくなる。
どれもこれも全部俺自身が悪いのであって。
この子に罪はないのに、だけどこんな体質の俺はあんな言い方しかできなくて――。
「ぼ、僕はそんなつもりじゃ――」
「い、いや、いいんだ」
これ以上関わると持病が悪化しかねない。
とっととこの場を退散しよう。
――そして二度とこの美少女とは関わるまい。
「すまなかったな。登校を邪魔しちまって。こんな朝早くに登校するってことは、学校でコソ勉するつもりだったんだろ。クラスの奴に負けるのなんて我慢ならねえもんな」
まくし立てるように言うと――いや、俺だって悪気があった訳じゃないんだが――案の定、彼女はきょとんと首をかしげ。
だけど予想に反してぷっと吹き出した。
「なるほど。先輩らしい考え方ですね」
「な、なんだよ」
「先輩こそ、毎朝のランニングは、クラスメイトに負けないためのトレーニングなんですか?」
「これは……、日課だよ」
いつから始めたのか、どうして始めたのかも忘れてしまったが、俺にとっては飯を食って歯を磨いて用を足して風呂に入るのと同じ、生活の一部だ。
ランニングだけじゃない。
自宅に戻れば筋トレもするし、ストレッチも欠かさない。
仕立屋見習いとして必要かと言われれば返事に困ってしまうが、それでも俺にとっては必要なことなんだと思ってきた。
いや、必要だった――か?
言われてみれば、どうして俺はこんなアスリートみたいな日課を始めたんだっけか。
立派な職人になるため?
それだけか?
――いや。
ほかに何か――大事な何かを忘れているような気が――。
「先輩は――」
ぎくり、とした。
「そうまでして何になりたかったんですか?」
恐らくは悪気のない過去形に少しばかりかちんときたが、彼女の表情を見て何か言い返す気も失せた。
彼女の瞳はまっすぐで、真摯で。
俺のことを見ているようで、別の何かを見据えているようで。
こんなやつはこの街にごまんといる。
何かを目指して必死になっているやつの目だ。
「お気遣いありがとうございます。それじゃあまた、秋穂先輩」
短く別れを告げると、彼女は答えも聞かずにぺこりと一礼して正門の向こうへ去って行った。
小さな背中がいっそう小さくなっていく。
そういえば名前も聞かなかったが、――まあいい。
専攻科も違うだろうし、この馬鹿でかい学園の中でもう二度と会うこともないだろう。
ぶるっと、一度身震いし、身体が冷えるほどその場に突っ立っていたことにはじめて気がつく。
彼女の姿はとうに消え、得体の知れない喪失感だけが残った。
***
時は平成。世は幕末。
西暦で言うなら二千と十余年。今から数えれば五年前。
『黒船』が空からやってきたその日、この国は一度死んだ。
四百年以上をかけて積み上げてきたすべてが『開国』と言う二文字の前に一瞬にして崩れ去り、『世界』は容赦なくその隙間に入り込む。古今東西の人種と文化が混ざり合い、それは一言で言うなら混沌だった。
「ふわあ――ぁあ」
大きなあくびがひとつ。
一言で言えば済むところを、あえて小難しく眠気を誘うように作られているのが教科書というものだ。
タブレット型の液晶パネルを指でタッチしてスライドさせると、米粒みたいな文字が、それもおびただしい数の文字がミキサーにかけられたみたいに流れていく。
――本来ならば。
今から百五十年以上も前に日本は開国しているはずだったのだ、と。
教壇の電子黒板に白い文字が綴られていく。
地上十四階に位置する教室の窓の外には、広い敷地と高層ビルが広がり、その先には真っ青な海が見える。
――百五十年前。黒船が海を渡ってやってきたその日。
日本は開国を固辞する代わりに、異国との情報交換の地を作った。
いずれは開国することを踏まえ、緩衝地帯としてもうけられた特殊な街。それらはみな、独自の文化を形成している。
その数は全部で六。
それまで異国に対する窓であった長崎を含め、『特区』と呼ばれる都市の始まりだ。
ここ第二特区も、以前は『豊浦』と呼ばれる街だった。
百五十年の歳月を経て、現在は異国の先進科学・教育の粋を集めた学術都市として発展している。
俺たちが通う『マイスターズアカデミー』も、多様な業種の『職人』を育てるための教育機関として、特区創設当初から多くの職人を輩出している立派な学校だ。
俺が所属しているのは『服飾科』――主に衣料品を手がける服飾職人テイラーを育てるための専門科だが、週に二日は一般教養の授業も行われていて、この日だけはアカデミーに属するすべての学生が混成クラスで授業を受けることになる。
それぞれの専攻が決まっている俺たちにとっては、憂鬱以外の何ものでもない時間。
「ふわあ……あふぅ」
かみ殺しきれないあくびが、教室じゅうから絶え間なく漏れる。
確かに、歴史の授業は特に退屈だ。
だがしかし。
この退屈な時間をただの時間の浪費で終わらせるか、未来のための糧とするかは俺たち次第だ。
歴史は文化を教えてくれ、物理は動きを教えてくれ、国語は情緒を教えてくれる。
異国の技術の粋をつぎ込まれた液晶タブレットは何百万という書籍にアクセスでき、特区でなければ触れることさえできなかった情報を与えてくれる。
何一つとっても、無駄になることはない。
――だ、なんて。
そう信じて、努力してきた。
休日の憩いも。
仲間との友情も。
趣味も。食事も。睡眠も。全部。――全部。
何もかも犠牲にして、捧げて、ずっと。
努力し続けてきたんだ――。
黒板の字を追う目を休めるフリをして、窓の外に目を向ける。
四月の陽気な空に千切れた雲が春風に揉まれ、流され、そして消えてゆく。
特区でしか手に入らない棒付きキャンディーを咥えてぼんやりと眺めていると、緩んだ蛇口から水がこぼれ落ちるみたいにあっという間に時間が流れ去って、気付けば空っぽになる。
そうやって使い道のなくなった時間を消費するのが日課になってから、もう三ヶ月が経過した。
『あんたなんか、大っきらい!!』
そう俺を罵倒したお嬢様の顔も、時間の力を借りてようやくおぼろげにしか思い出せないようになった。
思い返せば。
実質、あの日――三ヶ月前のドレスパーティで、俺はドレス職人への道を絶たれたんだ。
正直、初めのうちは実感が湧かなくて、無意識のうちにドレス作りのことを考えたり練習をしたりしては、自虐的にそれを投げ出すのを、馬鹿みたいに何度も繰り返していた。
由緒あるドレスパーティで華族の娘に恥をかかせた俺が表舞台に立てる日など来るはずがないのに。
実際、あの後――名前は忘れたが――あのお嬢様の家からかなりの苦情がアカデミーに寄越されたらしい。公衆の面前で娘の晴れ舞台に傷をつけられたのだから当然と言えば当然だろう。
先生は何も言わなかったが、この大罪人を退学させろという話も風の噂で俺の耳には届いていた。
結局そうはならなかったが、少なくともドレス職人業界において俺が『出入り禁止』となったことは間違いなさそうだった。
『服はドレスだけじゃないんだぞ』
なんて言う先生の優しさを、ちゃんと受け止められるようになったのもつい最近のことだ。
だから俺は今も何とか腐らずにアカデミーで服飾を学んでいる。
以前ほどの意欲はないけれど、手に職をつけるためだ。仕方ない。
放課後までマネキンに向かってドレスを仕立てる必要もなくなって、とはいえまっすぐ学生寮に帰ってもすることなんてなくて、やっぱり俺の身体の中にはドレスを作ることの他にはオマケみたいな残りカスしかなかったみたいで。
そんな空っぽの俺が、持て余した時間に空を見上げて棒付きキャンディーをただの棒に変える簡単なお仕事を始めてから、もう三ヶ月。
春がきて、いつの間にか俺たちは三年生になっていた。
新しい季節がやってきて、そろそろ気持ちの整理もつく頃だったのに――。
『先輩は、そうまでして何になりたかったんですか?』
その目は澄んで、まっすぐで、まるで宝石みたいに輝いていて。
俺がなくしたのと、きっとそれは同じものなんだろうと、すぐに気付いた。
簡単に取り戻すことができるものなら、きっとこんなにも苛立ったりはしなかっただろうってことにも。
「こんなおかしな体質さえなけりゃな――」
と、答えるはずのない空に小さく独りごちる。
空は優しくて。そんな愚痴を全部黙って聞いてくれる。
「――ちくしょう」
――ゴオン。
と。
いつもは何も答えない無口な空から思いがけない返事が返ってきて、講義中の先生には気付かれない程度に肩を跳ね上げた。
ゴオン、とまた轟音が鳴り響き、空気を震わせる。
断続的に聞こえる重低音は徐々に大きくなり、俺の目の前にその姿を現したときには身体を震わせるほどの振動に変わっていた。
太陽を隠し、巨大な影を落とす。
漆黒の鉄の塊が空を飛んでいた。
「――黒船……!」
と、俺につぶやかせたのは、俺の心の中に棲む畏怖と羨望のどちらだったろうか。
五年前、この国を開国させた異国の航空駆逐艦はその巨体を誇示するように大きな影を地面に落とし、ゆっくりと頭上を通過してゆく。
この航路だと、横須賀港から飛んできたに違いない。
五年前の来航以来『黒船』は定期的に看守の巡回のように港に姿を現す。全国各地の港を回遊し、初めてその示威を放った浦賀の地でこの国の民にその力を見せつけに来るのだ。
圧倒的な金、技術、文明をひっさげ、帝国の自尊心を欠片まで奪い取って、再びこの地を去る。
どうやらまたその日が近付いているらしい。この第二特区で数日停泊した後、第一特区――浦賀へ向かうのが例年の習わしだ。
年に一度、政府主催のパーティが黒船で行われる。
アカデミー出身者の中からも選ばれし優秀な職人だけが参加できるそのパーティに、服飾職人もまたドレス職人として乗り込むことが許される。
一流のドレス職人になるためには決して避けては通れぬ道。だが俺は、今やその場所から最も遠い場所にいる。
学校では雑巾の修繕や編み物ばかり。
決して手は抜かずにつとめてきたが、美しい刺繍や綺麗なフリルを作る技術は、トップレベルの生徒からはどんどん突き放されている。
それでも基礎手技の習熟は無駄にはならないと思って、思い込ませて、そう言い聞かせて、これまでやってきた。
――それも、そろそろ限界だった。
黒船のたてる振動でぽっきり折れてしまいそうなところまで、俺の精神はすり切れていたんだ。
咥えていたキャンディーを落とし、無意識に手を伸ばしていたことに、俺は、遠く黒船が去ってしまった後になってようやく気が付いた。
『それでもできるってんなら――やってみな』
その指先は、赤毛の少女の幻影に、やっぱり届かなくて――。
「秋穂椿!」
教室中に響き渡る凜とした声にびくりと跳ね起き、それを見て声の主はまるで悪者を見つけたヒーローみたいに両手を腰に当てて仁王立ちした。
肩までかかる金髪と短めのスカートが風になびき、口元には不敵な笑み。
今一番見たくないやつの顔を見る羽目になった俺は、思わず顔をしかめてしまった。
「……なんだよ、授業中だぞ?」
「授業中に飴を舐めてる君に言われたくないね」
「鳥も空がなきゃ飛べないし、魚だって海がなけりゃ泳げないだろ」
「人間には酸素があれば十分だと思うけどねぇ。少なくとも君みたいな糖分中毒者を除けば」
人の気にしていることを。誰もが気を遣って触らないようにしている部分を。
こいつは平気な顔をしてつついてくる。
だからこいつは嫌いなんだ。
「それに、授業ならとうの昔に終わったよ、椿。君が惚けて窓の外を眺めてる間にね。校庭に可愛い女の子でも見つけたのかなぁ?」
「ハッ、面白いこと言うじゃねぇか」
俺の体質のことは知ってるくせに。
にわかに周囲から集まる視線は冷笑。耐えきれずに俺は俯いてそっぽを向いた。
だがこのヒーローはお構いなしに近づいてきて、貼り付いたような笑顔を向けやがる。
「確かに、女嫌いの椿が女の子に見とれるわけないもんねー」
「うぐ……」
ほら、な。わざわざ言うんだ、こいつは。
周りの冷笑が含み笑いに変わる。
それでもやっぱりヒーローは気にも留めずに窓枠に手をかけ身を乗り出した。
「それじゃあ椿はいったい何に気をとられてたのかなぁ――っと」
大きな声の独り言が、窓の外の何かを見つけて途切れ、俺はそいつが潮時だと思った。
「じゃあな。用がないなら俺は昼飯でも食いに――」
と、席を立つ俺の手首をノールックで掴んだ手には思った以上に力が入っていて、容易には逃れられそうにないな、と予感した。
遅れて振り返った顔に貼り付いていた笑顔の裏には、まるで笑顔には似つかわしくない感情が渦巻いて見えて、逃れられない予感は確信に変わった。
「な、なんだよ」
「――図書委員の仕事」
「は……?」
「か弱い乙女一人に押しつけるつもりじゃないよね?」
………あぁ。
そういや入ってたな、そんな委員会。
ゴオン、と黒船から響く轟音が俺のため息をかき消した。