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途方に暮れた私は、帰宅してから誠一郎に電話をした。
なんでも話せばいいって訳ではないけれど、こういうことこそ報告すべきだと思った。
三コール目で誠一郎は電話に出た。
『はい?もしもし?』
「誠一郎、今電話大丈夫?」
『うん、大丈夫だけど?』
そこで私は今日の出来事を説明した。そして誠一郎の返事を待つ。
『それって、はっきり告白されたわけじゃないんだよね?』
「まあ、うん、そう」
『じゃあ、深く考えないでいいんじゃないかな?』
「えっ?」
『告白されたわけじゃないのに、そんなに気を使う必要ないよ』
「そ……そう?でもそれってなんか、冷たくない?」
『じゃあ沙織はどうしたらいいと思うのさ』
「うーん、謝る……とか?」
『何もされていないのに、していないのに、謝るの?』
「うーん、それもそうか」
私は電話してよかったな、と思った。
『とりあえず平野さんにはいつも通り接してあげたらどうかな?』
さすが誠一郎、亀の甲より年の甲だな。
「うん、そうしてみる」
それだけ話すと、おやすみなさいと言って電話を切った。
翌日、出勤すると平野さんが全員の机を拭いてまわっていた。
平野さんはいつも人より早く出勤して、コーヒーやお茶の準備をしている。そして各人の机を拭いていることを私は知っていた。
「おはよう、平野さん」
出来るだけ普通に声をかける。すると平野さんは小さな声で
「おはようございます」
と呟くように言うと、給湯室に籠ってしまった。
やがて朝礼前になると、平野さんは給湯室から出てきて各人のお茶やコーヒーを配り出した。
「ありがとう」
と言うと、真っ赤な顔をして給湯室へ戻っていった。
朝礼が終わり、仕事につく。平野さんに頼みたい案件があるんだが、なかなか言い出せずにお昼を回ってしまった。
今日は昨日ジムで安野と約束した通り、一緒にご飯を食べに出掛けた。
平野さんは自分の席で弁当を広げていた。
私は少しホッとしてご飯を食べに出掛けた。
「平野さんに頼みたい案件があるんだけど、なんか頼める雰囲気じゃなくってね……」
「そりゃそうでしょう」
「どうするかなぁ……」
「俺が頼んでやってもいいですけど」
「ありがとう。でも今後のこともあるし、自分で頼んでみるよ」
向かいにかけた安野はそばを食べ終えたあと、つまようじで歯を整えている。
こういうおっさんにはなりたくないな、とわずかに思った。
昼休みも終わり、自席に戻ると平野さんがお茶を汲んでやって来た。
あくまでも自然に、自然に平野さんを呼び止めると、頼みたい仕事を頼むことに成功した。
だが、安野に言わせるとガチガチだったらしい。
とにかく平野さんに頼みたい案件は無事頼むことができ、割りとスムーズに会話が出来るようになった。
安野が目配せでよかったですね、と言ってくる。私もそれに目配せで応えた。
◇
帰宅すると一気に疲れが出て、私はベッドにダイビングした。
そのまま眠ってしまいたかったが、夕飯がまだだ。
台所へいく途中、リビングのテーブルに置き手紙を発見した。誠一郎からだった。
「この前のご飯、すごく美味しかったから、お返し」
と書いてあり、台所へ行くと煮物が作ってあり、ご飯が炊けていた。
誠一郎が料理するところなんて想像もつかないが、そういえばこの前、
「今、実家で嫁入り修行をしているの」
と言っていたので、それで料理を覚えたのかな、と、ピンときた。
急いで誠一郎に電話するが、出ない。
何してるのかなと思いつつメールをしたら、
「いま、じゅく」
とだけ返事が返ってきた。確かにまだ九時だ。
私は煮物を皿につぐと、炊きたてのご飯を食べたのだった。




