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今日はとりあえず残業しないで帰ろう。
そう思って仕事に精を出した。
そういう日ほど仕事が入ってくるものだ。
本来は今日からパワーポイントの講義を受ける予定だったが、誠一郎のために休講にした。
仕事はひっきりなしに入ってきて、私は昼ご飯の時間を削ってまで仕事に打ち込んだ。
その甲斐あってか、夕方退社前には一通り仕事が片付いていた。
ところが、退社十五分前になって、いきなり緊急の資料作成が入ってきた。
ただでさえ資料を作るのが苦手なのに、今日中に提出だって……
私は誠一郎に電話した。
『それ、何時ごろ終わりそう?』
誠一郎が聞いてきた。
「うーん、わからないけど八時は過ぎると思う」
『それなら待っとくよ』
誠一郎は明るく返事した。私は
「出来るだけ早く終わらせるから」
と言って電話を切った。
そこからは怒濤の勝負の波だった。
安野まで残ってくれて、なんとか形づくっていった。
資料が出来上がった時間は八時を回っていた。
私は安野に礼を言うと、自転車を漕ぎながら誠一郎に電話をした。
「ごめん、やっぱり遅くなった。ご飯コンビニでいい?」
『いや、食べにいきたい』
「でも門限ギリギリになるよ?」
『今日は沙織がついてきてくれるから気にしない』
「気にしないって、あんた、お母さん心配してるんだよ?」
『わかってる。でも、今日は特別な日にしたいんだ』
特別な日?なんでだろう?
「とにかく、自転車で街まで出てきて。レストランはいつものイタリアン」
『わかった』
ここから行くとちょうど同じタイミングでつくことだろう。
イタリアンレストランについてキョロキョロと見回すと、誠一郎が自転車置き場で携帯をいじっているのを見つけた。
「ごめん、遅くなった」
「まだ大丈夫だよ。さ、入ろう」
レストランは盛況だった。なんとか一番奥に席を確保すると、適当にコースを頼んだ。
「で、なんで今日は特別な日にしたいの?」
「――ファーストキス」
「え?」
「ファーストキスの日だからだよ」
それを言われるとどんどん顔が赤くなっていくのを感じた。
「……ごめん」
私は何となく謝った。
「なんでごめんなのさ」
「いや……勢いとはいえ、あんなことをして」
あんなことにはパイ揉みも含まれていた。
だが、誠一郎は全く気にするそぶりを見せず、私に笑いかけた。
「……嬉しかった」
「え?」
「嬉しかったって言ったの!」
「う、嬉しかった?」
私は驚きを隠せず聞き返した。
「沙織に女の子として認められた気がして嬉しかったんだ」
「そんなもんかなぁ?」
「そんなもん、そんなもん」
異様に明るく接してくる誠一郎に、少し疑問と不安を残してレストランを後にした。
駅まで二人で自転車を漕いで、電車に乗ること二駅。
電車を降りると、今まで味わったことのない不安感で押し潰されそうになった。
昨日のことを説明せねばならない。
「誠一郎。昨日のこと、正直にお母さんとお父さんに言うよ」
「えっ?それってキスしたことも?」
「バーカ。それはオフレコだよ」
「だよね……」
エヘヘと笑う誠一郎を、愛しく思ったのは何故だろう?
家について、私はチャイムを鳴らした。
インターホンに母が出て、扉が開けられた。
「すみません、お邪魔します……」
懐かしい我が家。母の顔。涙腺が緩みそうになった。
「……お父さんには昨日はお友だちの家にお泊まりだって言っておいた」
母が優しい声で言った。
私はその声を聞いて、いかに自分が愛されていたかを思い知った。
「……お父様は……?」
「まだ帰ってきていません」
私は少しホッとしながら昨日の説明を始めたのだった。




