103
すみれは半泣きで仕事に取りかかった。
私はそれ以上責めることはせず、ただただすみれを見守った。
やがて終業時間となり、私はすみれに声をかけた。
「どのくらい進んだ?」
「三日分くらいです」
私はすみれの肩を叩くと、今日は帰っていい、と言った。
すみれは
「いえ、残業します」
と言ったが、
「この不景気で残業代はカットなんだ。帰ってくれ」
と言った。
「それなら、残業代はカットでいいですから、続きを」
と言うすみれに
「電気代もカットなんだ、帰ってくれ」
と言った。
すみれは大人しく従うしかなく、人のいなくなったフロアで私はため息をついた。
二週間分とか、どれだけあるんだろう。かなりの量がありそうだ。
しかも、ドットからコンマにうち変えたかどうか、確認する人材も必要だ。これは安野一人では抱えきれない。毎日伝票は上がってくる。誰に頼むか……悩んだ末、私は結論を出した。
帰宅してシャワーを浴びると、ふと誠一郎が来ていないことを疑問に思ってメールした。
メールはすぐに返ってきて、今友達とカラオケに行っていると返信があった。あんなに苦手だったカラオケに自主的に参加出来るようになった。たいした進歩だ。
私はビールの缶を開けると、ごくごくと飲み干した。
◇
桜が満開な中で、新入社員の歓迎会が開かれた。
会社ぐるみの大きい飲み会なので、すみれまでが少し遠かった。
あの日決めた通り、すみれの入力予定だった伝票は安野と平野さんにお願いした。
平野さんに話しかけるのは、実に正月以来、全く接触していなかった。
そんな私が頼み事をするなんて、平野さんも思ってもみなかっただろう。
私はすみれのために頭を下げた。
すみれの知らないところで、だ。だから、すみれは今本来入力すべきものがどこに行っているか知らない。ましてや、毎日の修正に追われていて、そんなものがあるかどうか気にする余裕もなかったようだ。
私はグラスを持ってすみれに近づく。
すみれはジュースを飲んでいた。そうか、まだ未成年か。私の半分くらいしか年を取っていないのだ。そりゃあそうだな。高卒で入って来たんだもんな。
私はふと懐かしい気持ちになった。
「係長、ビールでよかったですか?」
気がつくとすみれが瓶ビールを持って立っていた。
「あ……あぁ、うん」
「じゃあどうぞどうぞ」
まだおぼつかない手でビールを注いでくれる。
そんなすみれを見ていると、なんだか懐かしい気持ちになった。
私もよく、お父さんに注いであげたっけ……
自分が注がれる方になるなんて、思いもしなかったけど。
「仕事の方はどう?慣れてきた?」
「まだ入力ミスの分が終わってないのでなんとも……」
「そっか、そうだね。」
私としたことが、気のきいた一言が言えない……
安野がやって来た。
ビール瓶片手に、いい感じに酔ってきているようだ。
「倉橋ちゃん、頑張ってよねー。俺たちに仕事いつまでも持たせないでよ」
瞬間、すみれの顔色が変わった。
「私の……フォローをしていただいてるんですよね」
「そうだよー。俺と平野さん、真面目に余裕ないからさ」
そこで、私は安野の袖をピッと引っ張った。
「余計なプレッシャーを与えないでよ!」
こそこそ言う私に逆らうかのように大きな声で
「早いとこ、修正終わらせてねー」
と言ってふらふらとどこかへ行ってしまった。
すみれの顔色が真っ青だ。
「倉橋くん、今のは気にしないで。ほら、飲もうよ、食べてる?」
と促す私の声が届かないようだった。
「ひ、平野さんのとこ行かなきゃ……」
ビール瓶を片手にすみれはふらふらと移動していった。
私は忘れていたのだ。安野が割りとずけずけ言う方だということを。




