第四章⑰
世界は斜めに傾いている。
跡見は傾けた首の角度を維持したままライタで火をつけた。シガレロを口にくわえながらビルの屋上よりも高い空へ浮上した、ヘリを視線だけで見上げた。ヘリのプロペラが冷たい夜空を撹拌して起こる様々な角度の風から火を守りながら、フィルタを通した空気を肺に入れる。煙を吐く。
「上では何が起こっているんでしょうか?」
雪緒が眉間に手をかざしながら、眩しそうに眼鏡の奥の目を細めて言った。事実、十機以上のサーチライトがこの非常時、上空を強い明かりで照らしていた。「……カノンさんは、どうなったんでしょうか? 紅くなったんでしょうか?」
「そんなことよりも雪緒君、氷を頼む」
「ええ、はい」
雪緒は呼吸をするくらい簡単にウイスキーグラスにちょうどいいサイズの氷を作る。跡見はそれを受け取り、首に当てた。首は痛んでいた。雪中遊禽連盟、由比ヶ浜ミコと名乗る魔女は、唐突に現れ、マリのスーツケースを奪って、それを武器にして、跡見の視界が斜めになることをした。台無しだ。首が傾いた魔法使いのことを誰が素敵だなんて思うだろう。思ってくれるだろう。跡見は完全に今夜の目的を捨てた。また別の機会に、という気分だった。上で何が起こっているのか知らない。騒がしいが、それがどうしたのだというのだろう。見届けることもない。
帰る準備をしよう。
跡見は立ち上がり、ロウソンの前からメガーヌのところまで戻ることにした。
「そんなことよりって酷いですね、僕はまだ紅いカノンさんの写真を持っていないんですよ、紅いカノンさんの写真を枕の下にいれて夢を見たいのに、出来ないんですよ、この気持ち、跡見さんは分かってくれますよね、」雪緒はビルの屋上を見上げて愉快そうにしゃべってたが、途中で跡見が歩き出したことに気付いたようだ。「跡見さん、どこに行くんです?」
「車を拾ってくる、」振り向かず、跡見は雪緒に手を上げた。「もう帰ろう」
「え、帰るんですか?」雪緒は声を上げる。「まだ、なんていうか、何もかも、途中じゃないですか」
跡見は首を氷で冷やし、視界を傾けながら、ぎこちない足取りで静かに佇むイエローのメガーヌのところに戻った。キーを回し、ドアを開け、運転席に座り、エンジンをかけ、イエローのジャケットに袖を通し、イエロー・ベル・キャブズの帽子を被った。すると不思議なもので、気持ちが安らいだ。きっと伊達エリコの力だ。首の痛みも、幾分か和らいだ気がする。痛みと格闘しながら徐々に正常の角度に戻していく。緩やかな角度。そういう角度にまで位置を戻すことが出来た。正常に戻るには、何か凄く、素敵なことがなければいけないと思う。
跡見はステアリングを握り、アクセルを少し踏み、発進させる。騒がしい現場にゆっくりと近づく。ロウソンの二台しか停められない駐車場のスペースに入る。
そしてそのタイミングで。
メガーヌが揺れる。
一回。
二回。
三回。
四回。
五回。
上だ。
メガーヌの上に、誰かが降り立ったのだ。
助手席の窓が強くノックされる。マリだ。
跡見はスイッチを押して、窓を開けた。「どうなった?」
「乗せて!」汎野マリが慌てた様子で言う。
跡見は車の施錠を解く。ロックが外れた音を聞くとマリは助手席のドアを素早く開けて乗り込んだ。「早く出して!」
「どうして?」
跡見が聞いたところで、後部座席のドアも開く。ベニ、カノン、スズ、そしてエナガの四人が乗り込む。それを跡見はバックミラーで確認した。
「どうして?」跡見はもう一度、マリに聞く。
「いいから出してってば」
「シートベルトを閉めて、」跡見は言って振り返る。「ああ、後部座席は三人までだ、タクシー代を浮かそうとして限界まで乗り込もうとするバカな男たちもいるが、三人までだよ、メガーヌの後部座席の定員は三人までだ、そう取り扱い説明書にも書いてある」
「早く、」マリが跡見の腕を揺らす。「早くしないと来る」
「仲春、君が降りろ」
「ええ!?」カノンはスズの膝の上に座っていた。「私? なんで? シートベルトなら、ほら、」カノンはスズと一緒のベルトにホールドされる。「大丈夫でしょ?」
「そういう問題じゃない、」跡見はロウソンの前で困り顔をしている雪緒を見て言う。「君は雪緒君を乗せて飛べ、仕事だ」
「ええ!?」
「カノン、」跡見は名前を呼んで諫める。「仕事だ」
カノンは雪緒の方を一瞥。頷いた。「分かったよ、分かったよ、飛ぶよ、飛んでやるよ、どこまでもね!」
そしてカノンはスズをじっと睨むように見つめてメガーヌを降りた。カノンがどうしてスズを睨んだのか、跡見には謎だ。
「よし、それじゃあ」
「早くして」マリが車の背後を窺いながら言う。
「伊達エリコ様に祈ろう」
「おいっ!」マリは跡見を睨みつける。
その折り、警察の検問よろしく、海上自衛隊の魔女が運転席の窓を叩く。
跡見は窓を開ける。「何?」
「彼女たちに用があるんです、」海上自衛隊の魔女はマリを指さし車内を見回しながら言った。「彼女たちは大事なものを盗みました、申し訳ありませんが、助手席の鍵を開けて、彼女たちを私たちに引き渡してくれませんか?」
どうやら魔女は跡見のことをただのタクシー運転手だと思っているらしい。
跡見はマリを見る。
マリは知らぬ存ぜぬの態度で向こうを見ている。
跡見は海上自衛隊の魔女に視線を戻す。
「分かりました」跡見は傾いた首で頷いた。
「話の分かる運転手さんで、なんていうか、ラッキィです、」魔女は微笑み聞く。「首、どうされました?」
跡見は薄く微笑みを返し。
アクセルを踏む。
おもいっきり踏む。
バックミラーに映る魔女はすぐに小さくなった。
「話が分かるね、」マリが愉快そうに言う。「運転手さん」
「まだ話も聞いてないし、」跡見はオーディオのスイッチを入れる。「お祈りもしてない」
カノンのアニメソングカセットテープが回転を始めた。
聞いたことがある。
聞きすぎて、聴かなくなった曲だ。
BGM、「イエロー・ベル・キャブズの空中円形交差点」主題歌。
「四度目のアウロラ」可愛い目元のベニが呟いた。
「そうだ」跡見は頷き。
そして。
後部座席で腕を絡ませて寄り添うスズとエナガを見て。
素敵な気分になった。
首の傾きが治る。
どうしても二人の絵が描きたい。
同じ紙に、二人。
こんな気分になったのは、初めてのことだ。




