第四章⑮
由比ヶ浜はスズとエナガを取り囲む氷の障壁をつま先で蹴って割った。由比ヶ浜から逃げる隙間が生まれたが、スズは寒さに朦朧としていて立つこともままならなかった。全包囲を氷で囲まれた世界は喉まで凍る寒さだった。震え、ガチガチと上下の奥歯がぶつかるのを止めることが出来なかった。エナガがブランケットでスズを包み、抱きしめていてくれなかったら、スズの意識はすでになくなっている。
隙間から入り込んでくる、外気の暖かさを知る。
十二月の舞鶴の雪の降る夜はまだ暖かいことを知る。
スズは暖かい空気を吸って、なんとか星空を見上げることが出来た。
でも、震えが。
止まらない。
体の細かい感覚が、徐々に失われていくのが、分かった。
「し、しっかりして」エナガの甲高い声が脳ミソに刺激になる。エナガはスズの手を触った。エナガも暖かかった。きっとスズの手はもっと冷たい。
「エナガ、」由比ヶ浜は空閑を両手で持ち、横に構えていた。空閑は人工物だと思えないほど、反っている。柔らかいものでも何でも触れ合っただけで斬れてしまいそう。「議長には内緒よ、少し試してみたくなっちゃった、この刀で、その魔力を吸収したブランケットを斬ると、凄いことが起こるんだよね、凄いこと、凄いことってなんだろう、気になるよね、気になって我慢できないよね、エナガ、議長には内緒よ、今日、今からやってみようと思うんだけど、だから、ねぇ、エナガ、その娘から、離れて」
「……い、嫌、嫌だ!」
エナガは震えていた。
その振動は彼女と密着するスズに全て伝わってくる。
止められないみたいだ。
スズは彼女の震えを止めてあげたかったけれど、何も出来ない。
何かを考えないと、そのまま眠ってしまいそうだった。
暖かいコーヒーが飲みたい。
「……どうして?」由比ヶ浜は空閑を構えたまま絶望的な顔をする。本当に、彼女は表情豊かだ。
「この人は私を救ってくれた、私を抱きしめてくれた、私に優しくしてくれた、くれました、だから、それに、私はもう、私はもう、辞めたい、辞めます、辞める」
由比ヶ浜は空閑の切っ先をコンクリートにつけ、片手で額を押さえた。険しい顔で、エナガを睨みつける。「まさか、本当に、連盟を辞める気?」
エナガは何も応えない。
沈黙。
「キュウ!」由比ヶ浜はがなった。「エナガを拘束して!」
キュウは一瞬戸惑う顔を見せたが、スズとエナガの方まで歩き、エナガの肩を触った。
「や、止めて、止めてよ、」エナガは声を出した。「キュウちゃん!」
「ごめん、」キュウは静かに言って、魔法を編んだ。「ライトニング・ボルト」
エナガはビクっと体を痙攣させて、気を失う。
スズは支えを失い、ごろんとなった。
細く開いた瞼の隙間から。
星屑が見える。
キュウはエナガをスズから引き離した。そして五メートル先で、手足をケーブルで縛った。キュウは一仕事終えた顔で、息を吐いた。
「さぁて、邪魔物はいなくなったかなぁ」
由比ヶ浜は再び空閑を構えた。
どうやら。
スズと一緒に、ブランケットを切断するようだ。
スズの意識は遠く、声も出せない。
抵抗の余地はない。
しかしそれよりも瞼が重くて。
眠い。
本当に眠い。
でも、寝てしまったらもう二度と。
目を醒ませないような気がする。
「待ちなさい!」
由比ヶ浜の後ろ。
マリが声を張る。黒髪のマリ。炎を編めないマリ。マリは移動してスーツケースの上に座っていた。隣に黒髪のベニが立っている。
「ヴェルベット・ギャラクシィ・ブランケットは、バーストさせない!」
「邪魔をしないで!」由比ヶ浜はヒステリックにがなる。
「邪魔して!」マリは足を組む。「ベニ!」
「お邪魔します」小さい声でベニが言って、由比ヶ浜に向かって歩く。
「黒髪のあなたに何が出来るって言うの?」
ベニはその言葉に反応しない。
ただ歩きながら。
複雑な模様。
複雑な色遣いのハンカチで。
目元を擦った。
彼女の特長的なメイクは、綺麗に拭き取られる。
愛嬌のある目の形が見える。
そして。
頭上で釣竿を持つポーズ。
そして。
それを。
釣竿を。
由比ヶ浜に向かって振り降ろした。
次の瞬間。
音がした。
鋭い音。
金属同士が衝突した音。
空閑は中空を回転して。
遠いところのコンクリートに突き刺さる。
カノンが素早くそれを回収しに向かう。
スズはベニを薄目で見て。
見惚れた。
ベニの瞳は銀。
シルバに輝いている。
ベニの手には刀。
姿勢よく、刀を構えている。
「何をしたの?」由比ヶ浜は自分の何も握られていない手のひらを見ながらベニに聞く。
「魔法よりも難しいこと」
ベニは短く言って。
白い息を吐き。
奇声を上げ。
由比ヶ浜を突く。




