第四章⑦
海上自衛隊舞鶴支局の一階の医務室で宇佐スミレはベッドの脇に座り、そこに眠る魔女を見つめていた。この魔女を捕獲したのは、今朝のことだった。舞鶴上空、低い高度を飛ぶ彼女にレーダが反応した。とてもゆっくりな速度で、彼女は飛んでいた。舞鶴支局に配属されている魔女は宇佐と、壬生レイコの二人だけ。宇佐と壬生は魔女を誰何するために、飛んだ。魔女は初め、抵抗した。宇佐と壬生はこういうケースに慣れていた。距離を置き、様子を見る。魔女が逃げないように、常に二人の間に魔女を挟む陣型を採用する。拡声器で魔女に質問を投げかけながら、分析。最良の対処を考えるのが常だが、今回の場合、魔女は胡乱の目をして、一度、魔法を編み、海水を踊らせ、(この魔法によって停泊中のフェリーが駄目になった、死傷者は男たちの働きによってゼロ)そしてオーバヒートしたみたいに飛んだまま、意識を失った。群青色の髪は発光を続けているのに意識を失ったのだ。海に墜ちたのだ。それは異常なことだった。宇佐が体験する初めてのことだった。ラッシュ系の薬を飲んでおかしくなったのだろうかと思った。宇佐と壬生は海に墜ちた魔女を救助、捕獲し、舞鶴周辺では一番高度な技術を持つ、この医務室に連れてきた。医務室に勤務する北川先生は魔女の血液を検査した。その途中でまた宇佐と壬生は飛んで、日本海で激しい運動をしてから、先ほど戻って熱いシャワーを浴びた。北川先生は「異常はないわ、ただ、とてもつかれている、そういう感じ、つまり、よく分からん」という曖昧な診察結果を宇佐に伝え、デートに向かった。魔女の肘の裏からチューブが伸びて栄養剤のパックと繋がっていた。
とてもつかれている、か。
確かに死にそうなくらいつかれるときがある。
ウィルスに感染しているわけでもなければ。
血が流れているわけでもなければ。
魔力がゼロの場合でもない。
ただただ、つかれていて、死にそうなくらい、泣きたくなるときがある。
宇佐は魔女の髪を触る。
今は光も見えないし、色は黒だ。
北川先生はサブリナ・セクションの活動を停止させる注射を打ったのだろう。
彼女の髪は群青色で。
中に混じって白が見えた。
それは同化せず。
水色にならず。
それぞれ、大きさは違えど、存在を主張していた。
どういうことだろう。
進化だろうか。
いや、そんな。
やはり、薬か、何かで。
考えていた。
静かだった。
医務室は静かで。
うとうとしていた。
そのとき。
魔女が目を覚ました。そして宇佐と目が合う。「……ここは?」
「……気分はどうです?」宇佐は口元だけ笑って言う。
「……悪くない、です、」魔女は目を瞑って言う。「でも、良くない、そういう感じです、……あの、手首と足首を縛っているものを、どうにかして、欲しい、です」
「何もしないと誓っていただけますか?」
「お礼を言うかもしれません」
宇佐は魔女を縛っているベルトを解いた。
「まるでマリア様みたいです、」魔女は訳の分からないことを言って上半身を持ち上げ、手首をさすった。そして魔女は宇佐を見つめてくる。「……あの、あなたは?」
「宇佐スミレ、」宇佐は歯切れ良く言う。「魔女です」
「その服は、コスロテ、ですか?」
「いいえ、違います、」宇佐は声だけで否定する。「コスチューム・ローテーションの趣味はありません」
「……あ、それじゃあ、」魔女の目はずっととろんとしている。目だけじゃなくて、口調も、動作も、反応も、全部。サブリナ・セクションが回転していないと魔女はこうなる。「軍隊の魔女?」
「日本に軍隊はありませんよ」
「えっと、……自衛隊?」
「そう、自衛のために特別な武装をする曖昧な組織です、曖昧というのは存在のことを言っているのではなく、定義のことです、組織の定義の曖昧さです、妙なことを言うとお思いですか? ええ、その通り、我々の組織は妙です、微妙です、定義が曖昧ゆえ、何に対しても微妙な姿で接するしかありません、何に向けても微妙な情報を発信するしかありません、本当に狭い一面だけで我々のことを観察すると、つまり狭量な人種が見れば我々はとても矛盾した存在に映ることでしょう、しかし、それは間違いです、過ちです、悔い改めなければなりません、そういう人たちは曖昧さの絶妙を理解していないのです、曖昧さの中では矛盾は矛盾でありません、定義の不足、欠落、表現の婉曲は矛盾の解消に働いてくれます、つまり、我々が存在している現実を誰も否定出来ませんし、肯定も出来ません、ただ我々が存在しているという現実があるだけです、絶妙に存在しているのです、我々は、絶妙なんです、お分かりいただけますか?」
「……すいません、絶妙なのは分かったんですけど、」魔女はきょとんとしていた。「もう一度、最初から、お願いします」
「いいえ、それは必要ありません、」宇佐は背筋を伸ばして首を前に傾けて言う。「私は宇佐スミレと申します」
「ああ、えっと、」魔女も背筋を伸ばした。「花升エナガです」
「おいくつですか?」
「十五です」
「私は大人になってから一歳です」
「え、あ、二十一歳ですか?」
「はい、大人になってから一歳です」
「はあ」
「エナガさん、あなたは水の魔女ですか?」
「氷の魔女です、」エナガは自分の髪を触って目で確認していた。「今は黒いですけれど」
「それは私たちの薬が効いている証拠です、つまり、あなたは今、魔法を編めませんし、思考もはっきりしていないと思います」
「はい、そうです、なんだか、全部、ぼんやりしています」
「正常です」
「はい、」エナガは頷き、目元を触った。「少し、頭痛がするみたいです」
「それも正常です、お休みになっても構いませんよ、」宇佐はエナガを横にならせた。布団を胸元まで掛けてやる。「お休みになりながら、私の質問に答えて下さい」
「はい」
「水の魔女ではないんですね?」
「はい、あの、でも、私、」エナガは一度目を瞑って開けていう。「夢を見て、夢の中で、水の魔女になって飛んでいました、まるで違う誰かに体を盗まれたみたいでした、水の魔女になって青い空を見ていて」
「あなたは水の魔女になって、少し、」宇佐は言いながらどういうことだろうかと考えている。「舞鶴の埠頭で少し、乱暴なことをしています」
「夢の中で?」
「現実で、ですよ」
「え、あ、そうなんですか?」
「そうです、記憶がないんですね?」
「いいえ、でも、夢の中のことだと思っていて、いえ、今、ちょっと頭がぐるぐるしてて、何が現実か、何が夢か、私がなんなのか、よく分からない、よく分かりません」
宇佐はエナガの様子を観察していた。彼女が何か、思っていないことを言っているようには見えない。事実だろう。彼女は夢と現実の境界をさまようような体験をしたのは事実だ。
「率直に聞きます、薬をやっている?」
「……なんの薬ですか?」
エナガの反応から、宇佐は彼女が薬をやっているという仮説を消去した。別の角度からアプローチをする。「どうして舞鶴を飛んでいたのですか? いえ、どこに向かっていたのですか?」
「えっと、その、考えていたのは、北極に行きたいなって、夢の中では、いえ、そう考えていました、北極に行きたいって」
「北極? なぜです?」
「会いたくない人から離れようと思って、北に」
「それは誰ですか?」
「男の人です」
「嫌なことをされたのですか?」
「はい、」一度頷いてから、エナガは宇佐の目を見て首を横に振った。「……いえ、私がそう思っているだけで、別に、何もなくて、……でも、不幸だって思って、それで」
「男性は全て邪悪なモンスタです、」宇佐は間違ったアドバイスを送る。しかしこれが効くのだ。「男性は女性を傷つけるためにいるのです、我々の存在の定義よりしっかりした定義です、男性は女性を傷つけるためにいるのです」
「その通りです、」エナガは微笑んだ。「……男なんて、皆」
その折り、医務室の扉をノックする音がした。
「失礼、」壬生が入ってくる。シルバのショートヘア。彼女は鋼の魔女だ。「ああ、目を覚ましたんだね、それで、スミレ、どう?」
「まだ細かいことは聞いていませんよ」
「私は壬生レイコ、スミレの同僚よ、」壬生は宇佐の対面のパイプ椅子に座って言う。「さっそくだけど、何よりもまず、この写真を見てくれないかしら」
壬生は一枚の写真をエナガに見せる。エナガはゆっくりとした動作で手に取る。宇佐もその写真を見る。昼間、日本海で交戦した魔女の写真だった。宇佐もこの件についてエナガに問いたいと思っていた。
「この魔女を知っている? あまり上手く撮れていないけれど、顔は分かるでしょ? あなたと同じ模様の白いワンピースを着ている氷の魔女、ああ、本当に寒かったよね、こんな寒い日にウラジオから素敵なものを盗んで、日本海を飛ぶなっつーの」




