第四章④
「ちょっと、お手洗いに」
カノンは無理矢理笑顔を作ってそう言って、トレーを乱暴にテーブルの上に置いて、トイレに向かった。マリがスーツケースを取りに来た理由を聞くことよりもまず、動揺を抑えるほうが先だった。全く訳が分からない。どうしてマリとベニと一緒に、室茉スズがここにいるのか?
トイレに入り、鏡の前に立ち顔を洗った。
顔を拭き、自分の顔を見る。
駄目だ。
ピンク色だ。
彼女とのキスが思い出されて、非常に恥ずかしい。
でも、キスを思い出すと。
とっても幸せな気分になって、顔が綻んだ。
瞬間、扉が開く。
スズが綻んだ顔の向こう側で立っている。
見られてしまったかもしれない。
ピンク色の綻んだ顔。あまり見られたくない顔を彼女に見られてしまったかもしれない。
彼女は扉を開けて、鏡の中のカノンと視線を合わせたまま立っている。スズは睨んでいるみたいだった。怒っているような表情だった。
スズは二歩くらいしか後ろにいない。
スズは二歩、歩く。
スズがカノンの手首を掴み、無理矢理振り向かせる。
「やっ」口から声が出た。
「変な声出さないで下さいよ」スズは早口で言う。
「だ、だって、」カノンはスズから顔を背けた。スズとの距離が近すぎる。顔が息づかいが分かるくらい近い。体は完全に密着している。カノンのお尻は小さな洗面台の上。背中は鏡に当たっている。「強く、するんだもん」
「ごめんなさい、先輩、」スズは掴む力弱めずにそのままカノンの手首をぐっと引っ張る。「話があります」
「話?」
スズに背中を押される形でカノンはトイレに入る。便座は洋式で、ウォッシュレットや赤外線の備わった比較的新しいものだ。
「座って下さい」
「はい、分かりました、」スズに言われるがまま、カノンは素直に座る。膝の上に手を置いた。「は、話って、何なの?」
スズはトイレの個室の扉を閉め、鍵を掛ける。スズは準備が終わった、という風な溜息を吐く。狭い空間に二人。本来は一人のスペースに二人。カノンの両足の間に、スズの左足があって、それは触れ合っている。もしかしたらスズは自分に猥褻なことをしようとしているのかもしれないと思った。一度そう思ったら、顔はピンク色にならなきゃいけない。ピンク色を直視されたくないから、目だけでスズの顔を窺う。当然だが、彼女はカノンを見下していた。罵られるのかと思った。可愛いスズに罵しられたり、抓られるなら本望だ。カノンはすでに準備もしていた。甘ったるい悲鳴を聞かせてあげようかって考えていた。
しかし、スズはまた溜息をつき、額に手の甲を当てた。「……まさか、先輩が、あの二人の仲間だったなんて」
「ええっと、」カノンは頷き、ああ、スズにそういう気はないんだなとすぐに理解し、そして、とてつもなく落胆しながら無理に笑顔を作った。「うん、あの二人は、私のバイト先の、ピンク・ベルの仲間のマリちゃんとベニちゃん」
「どうしてそんなに楽しそうなんですか?」なぜかスズはカノンを睨む。声のトーンも通常よりも大分低い。
「え、」カノンは無理に唇をぎゅっと結んだ。「いや、べ、別に」
スズはカノンをしばらく見下す。彼女が何を考えているのか、カノンには分からない。「……先輩は、」スズは顔を個室の壁に張られた新メニュのポスタに向け、セミロングのアッシュブラウンの毛先を指に絡めていた。「雪の日、先輩が私のことを好きだって言ってくれたのは、全部、嘘だったんですね」
「……え?」思いも寄らぬことを言われ、カノンは焦る。「違う、違うよ、嘘だなんて、そんな、違うよっ」
「私、あの二人に聞いて全部知っているんです、いいですよ、無理してとぼけなくったって、大丈夫ですから、その、多少、動揺はしています、だって女の子に嘘付かれたことなんてないから、」スズは早口で言う。「このブランケットだったんですね、目的は、先輩は雪中遊禽連盟からブランケットを守るために、私のことを好きって言って、キスまでして、ああ、もう、信じられない」
「ちょ、ちょっと待って、ちょっと待ってよ、スズちゃん、」カノンは五指を組んで言った。気持ちはマリア様に言い訳するときと一緒だ。「ブランケットって何のこと? いや、もちろんスズちゃんが一年中そのブランケットを優雅に腕に絡めているのは知っていたよ、もちろん、だってスズちゃんが入学したときから、私はずっとスズちゃんのこと知っていたし見ていたんだから」
「え、でも、」スズは長い睫を揺らしている。「マリちゃんは、私を見張らせているって、それは先輩じゃないの?」
「そうだけど、確かにマリちゃんにそのブランケットを見張っていろって言われたよ、細かいことはよく知らないけど、私は、マリちゃんがいろいろと何かを企んでいることは知ってるけど、ちょっと悪い遊びにも付き合ったけれど、でも細かいことは知らなくて、いや、だって人に言いたくないことってあるでしょ? そのブランケットのことだって聞いてないの、言われた通り見張っていただけ、ピンク・ベルで働く前と一緒、私はずっとスズちゃんのことを見ていたんだから」
スズはカノンを見つめていた。その目は疑っている「真実ですか?」
「好きなコに真実以外のことなんて言わないよ、それに、」カノンは恥ずかしくなって両頬を、両手で包見ながら震える声で大事なことを言う。「それにキスしてきたのはスズちゃんの方でしょ?」
スズは返事をしない。
そのかわり。
腰を屈めて。
カノンにキスした。
短いキス。
カノンは目を瞑って、微睡み気分。
「甘い」スズの声。
「嬉しい」
「チョコレートの味」スズの声。
「嬉しい」
カノンはいい気分のままそして、目を開ける。
驚いた。
スズはカノンの膝の上にブランケットを置いて。
服を脱ごうとしていた。
スズのおへそが見えている。
「ちょ、ちょっと、スズちゃん!」思わず大きな声が出る。「どうして服を?」
「分かっているくせに、」服を脱ぐ手を休めず、とびきり魅力的で、誰にも負けない純粋な笑顔でスズは言う。「こういう未来を望んでいたんでしょう? 先輩はどうなんですか?」
「望んでいなかったと言ったら嘘になる、」ブラジャだけになったスズの白い上半身をまじまじと見ながら答える。でも、まだ正気だ。「いや、でも、こんな場所で、初めてが、こんな場所だなんてっ」
「初めて?」スズはカノンの太股の上に股を開いて座った。「先輩の初めてなんて、嬉しい」
そしてまたキスした。
脳ミソが完全に溶けた。
もう何も恥ずかしくなかった。
でも、コンコンとノック。
頭が一瞬でクリアになる。
スズは小さく舌打ちをして、「続きはまた今度」とハートマークが飛び出そうなウインクをして、服を着た。
扉を開けるとベニが内股で立っていた。
二人が個室から出ると、ベニは急いで個室に入った。
スズとカノンはテーブルに戻った。
戻ると席順が変わっている。
マリの対面のソファに男二人が座っている。奥に雪緒、手前に跡見。スズとベニを男の隣に座らせるわけにはいかないので、カノンは自ら跡見の隣に座った。素晴らしき淑女の態度だ。スズはマリの横に座った。
カノンは体の冷却のためにコーラ飲んだ。
一気に半分、喉を鳴らして飲んだ。
「いい飲みっぷりだな、」跡見が言う。「何かいいことあった?」
カノンは無視してダブルクウォータ・パウンダに噛り付く。なんとなく、エネルギアが消耗した気がする。
ベニがすぐに戻ってきた。
そしてソファに座る際、カノンに小さく耳打ちした。「邪魔してごめんね、トイレ我慢できなくって」
カノンは思いっきりむせた。
ベニは何事もなかったようにクウォータ・パウンダにかじり付いていた。




