第三章⑮
ヴェルベット・ギャラクシィ・ブランケット。
それがこのブランケットの名前なのだろうか?
スズの思考は一度停止。
回転が緩やかに止まった。
彼女が。
目の前の由比ヶ浜ミコが。
知っている。
知っていて。
私はそれを聞いて。
どうなる?
由比ヶ浜は一歩、スズの方向へ近づく。
玄関を潜る。
由比ヶ浜が唇を動かす。
遅れて聞いた彼女の言葉を言語化する。「私にくれないかしら? もちろん、ただでってわけじゃない、連盟が許す限り現金をあなたに渡しても構わない、世界の未来と平和を守るために、そのブランケットを、ヴェルヴェット・ギャラクシィ・ブランケットを私に」
「何を、」スズは由比ヶ浜の方に近づく。「何を知っているの? 答えて」
「何を知っているのかって、とってもクレイジな質問ね、私は一体何て答えればいいの?」
「このブランケットのこと!」スズは早口で言う。
「どうして君がブランケットを持っているの? どういう経緯で? 全く、訳が分からないんだけど」
「……え?」スズは呼吸した。「……いや、じゃあ、一体このブランケットは、コレは一体何なの?」
由比ヶ浜は微笑む。スズの質問に答えない。
「知らないのね、」魔女の微笑み。「いいよ、知らなくて、知らない方がいいことだってある、例えば世界の未来と平和を守るために流される血の色は知らない方がいいに決まっている、それと同じこと、君はブランケットのことを知らない方がいい、知らない方がいい夢見れる、小さな風の魔女」
朗らかな口調でいいながら、由比ヶ浜の目はスズのことを確かに睨んでいて。
恐怖を感じてスズは。
凍り付いたように、動けない。
何をしたらいいか、分からなくなる。
「若頭!」辻野の声。「近づいちゃいけない!」
スズははっとした。
気付くと由比ヶ浜の体が目の前に見える。
不思議な模様の描かれたノースリーブの白地のワンピース。
こんなに寒いのに。
本当に信じられない。
由比ヶ浜はスズを抱きしめようとする。
銃声。
ピストルを誰かが打った。
しかし銃弾は由比ヶ浜の顔の近くに結晶化された氷に包み込まれて床に落ちて音を立てた。
「なんて野蛮な!」由比ヶ浜はとても愉快そうに叫ぶ。「戦争をしようって言うの、理解できない、理解できるはずがない、その女もそう、私は平和にことを進めようと思っていたのにいきなりピストルを構えた、そして三人のモンスタみたいな鋭い目をした男たちは私をピストルで狙っている、私はただ、世界の平和と未来のことを考えているだけなのに!」
由比ヶ浜が叫び終わるまでに辻野と松本と倉持はピストルのトリガを引き続けた。銃声がリズムを刻んでいた。彼らの弾が切れるのと叫び終わるのは同時だった。弾はすべて凍り付けにされて、廊下の床に転がっている。
煙の匂い。
冷たい空気。
「どうしてあなたたちは武器を持つの?」
とても悲壮に、愉快そうに、様々な感情の入り交じった複合的で、狂った表情で由比ヶ浜は訴える。
そのクレイジな訴えは、誰も聞いていない。
ラジオ係のキュウは欠伸をしている。
この状況は夢のように、混沌としている。
秩序がない。
なるほど、コレが。
戦争か。
「スズ!」メグミコの声。そして彼女はスズを横から倒した。スズは廊下に倒れ込む。膝を打った。
「しっかりしてよ、」メグミコはスズの方を見ず、由比ヶ浜を狙っていた。「何ぼぅとしてんの!」
空気が割れる炸裂音。
メグミコはライトニング・ボルトで由比ヶ浜を焦がそうとする。
しかし、ライトニング・ボルトの強烈な閃光の終演とともに分かるのが、由比ヶ浜の涼しそうな顔。
「ありがとう、」奥から聞こえるキュウの張りのない声。「充電完了、おかげであと九十六時間はラジオ出来るよ」
キュウは欠伸をする。
メグミコは膝を付く。前に倒れ込んだ。紫色の髪の毛が鮮やかじゃない。「……くそぉ、全部吸い取りやがってぇ」
「お嬢!」辻野の声。足音。
「動かないで!」由比ヶ浜は氷の鋭いナイフをメグミコの首に当てている。メグミコは髪を掴まれ無理矢理立たされた。「動いたらこの娘の未来を奪う」
「メグ!」
瞬間的に頭に血が昇る。
沸騰する。
スズの輪郭が光る。
髪の先まで煌めく。
魔法を編む。
緻密に。
迅速に。
急いで。
魔法を編み込んだ。「スーパ・ソニック!」
音速で風が駆け抜けた。
様々なものが滅茶苦茶になった。
絵画が落ちて、額縁が折れる。
花瓶が割れ、花が散る。
全ての扉が向こう側にひしゃげている。
由比ヶ浜が構築した氷の障壁にも多大な影響を与えた。
由比ヶ浜が触るとその障壁は崩れた。
由比ヶ浜の髪は僅かに乱れていた。ただ、それだけだった。
全身全霊のスーパ・ソニックは彼女の前で無力だった。
スズは壁を背中にして倒れるように座り込んだ。
もう力が入らなかった。
魔力はゼロ。
余力なんて残さなかった。
立ち上がれない。
喉が乾いている。
髪の色が悪い。
「……ごめんね、本当はこんなことしたくないんだ、誰かの未来を奪うなんてことしたくない、野蛮なことはしたくないのだから、」由比ヶ浜は早口で言う。とても苛立っているのが分かる。彼女のヒステリィが怖い。こんな気分になるのは初めてだった。涙がこぼれそうなほど、怖い。そして悔しい。何も出来ないのが悔しい。次の瞬間に、メグミコが目の前の魔女に刺されてしまうかもしれないと思うと、怖くて、悲しくて、震える。涙が出てきた。止まらない。止められない。「……優しいね、君は優しい子だよ、だから分かるでしょ、この子の未来を守るために、静かに、平和に、そのブランケットを私に渡してくれればそれで、それだけでいいの、簡単なことでしょ、とっても」
由比ヶ浜の後ろ。
那珂島の姿が涙で滲んでいる。
誉田も同様。
彼女たちは機会を窺っている。
でも、そんな隙なんてない。
キュウはシガレロに火を付けた。
キュウは眠そうな顔をしながら、何かを企んでいる。
だから、もう……。
メグミコは恋人だ。
私の大事な魔女だ。
私の女の子だ。
どうしてこんなことになっているんだろう?
どうしてなんだろう?
訳が分からない。
思いながら。
スズは頷いた。
「いい子、」由比ヶ浜は微笑んだ。しかしメグミコの喉にナイフは依然としてある。依然としてあって、メグミコは震えている。「いい子ね、よく見ると、可愛い顔しているわね、エナガの次くらいに美人じゃない? ああ、そうそう、エナガはどこなの? 私の可愛いエナガは? ああ、そうか、ここにはいないんだっけ?」
スズは体に絡んだブランケットを解く。
解いて。
ブランケットを広げて。
両手で差し出す。
由比ヶ浜の手が伸びてくる。
そのとき。
由比ヶ浜とスズの間に。
上昇気流が起こる。
スズじゃない。
那珂島でもない。
誰かが編んだのだ。……ラン?
ふわりとブランケットは中空に、浮かんだ。
それに那珂島が素早く反応する。
「ハイエン!」回転する巨大な風が由比ヶ浜の背中を襲う。
由比ヶ浜は前に揺らめいた。
氷のナイフが床に落ちる。
那珂島は低い姿勢で走り寄って由比ヶ浜の腹部に回し蹴りを入れた。
由比ヶ浜が顔を歪める。
那珂島は間髪入れず、拳を由比ヶ浜の頬に入れる。コレも決まる。由比ヶ浜は後ろに背中から倒れた。
キュウは両手を挙げていた。
口元には火の消えたシガレロ。
誉田は右手に握った拳銃をキュウに向け、左手に水球を準備していた。誉田は彼女のシガレロに何かがあると見抜いていたようだ。彼女の紫色は純粋ではなく、ピンクがかって見える。何かを爆発させるのに不自由しない色だ。
メグミコは解放されている。
だから、抱きしめてあげようと思った。
泣きそうな顔をしてこっちを見ている。
スズもきっと、泣きそうな顔をしていたと思う。
だから、抱きしめたかった。
ブランケットは中空からすでに、スズの肩に落ちて、絡んでいる。
プランケットで包んで、抱きしめてあげよう。
しかし。
誰かが、スズの襟を掴んで後ろに引っ張る。
振り返ると、ベニの顔が近い。近くでよく見るとその異様さが際だって、魅力的を通り越して不気味だった。「逃げよう」
「え?」何を言っているのか、分からなかった。「逃げる?」
急に視界に現れたマリがスズの腕に自分の腕を絡めた。反対の腕にベニが自分の腕を絡めてそして、スズを強引にリビングの方へ。
「え、あ、ちょっと、なんなの?」
リビングではランが不安そうな顔をして柄の長い箒を持って立っていた。「お姉ちゃんをどこに連れていく気ですか?」
マリがランに向かって早口で言う。「なるべく時間を稼いで、大丈夫、なんとかする、この行為には正当な理由がある、私たちは正当、正当なコレクタ、さあ、窓を開けて」
それにランは頷いて南側の窓を開けた。冷たい外気が暖かい室内の空気と混じる。ランはそして柄の長い箒をベニに手渡す。ベニはそれに跨る。
「何を言っているの?」スズは早口で聞く。「どういうことなのか、説明して、逃げるって、何なの?」
「いいから箒に跨って!」マリが強い口調で言う。「説明している暇なんてないんだから!」
マリに無理矢理、強引に、スズはベニの後ろに跨らせられる。
「ほら、しっかりベニに掴まって、掴まってないと落ちるよ!」マリはそしてスズの後ろに跨った。
「三人乗りなんて駄目! 法律違反よ!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないのよ!」マリはスズの耳元で怒鳴る。「あんたも協力しなさいよ、風の魔女なんでしょ、一番頑張りなさいよ、三人で飛ぶのよ、分かった!?」
スズは訳が分からないまま飛ぶことに集中せざるを得なくなった。三人は同じ箒に跨って浮いた。
そのとき、爆発音がした。
火薬の匂い。
煙。
「どこに逃げようって言うの?」
由比ヶ浜の声が煙の中からする。
顔が見えた。
唇から真っ赤な血が流れている。
メグミコとアンナとジェリィと辻野と松本と倉持と那珂島と誉田は?
「飛んで、ベニ、」マリががなる。コントロールは先頭のベニが握っている。「飛べぇ!」
三人は窓から飛び出す。
そして一気に空高く上がった。
舞い上がった。
「逃がさないわよ!」
由比ヶ浜の甲高い声が耳も澄ましていないのに空高い位置にいるスズに届く。
由比ヶ浜は白く発光していた。
魔法を編んでいる。
それを小さくて可愛いランが邪魔をしている。
「ラン!」スズは空高い場所から叫んだ。
すぐに視界に雲が満ちる。
三人は雲に入った。
寒い。
とても寒い、空にいる。
何も考えられない。
考えられない。
急激な景色の変化に付いていけない。
変化の速さに付いていけない。
あらゆる情報を処理できない。
情報に飲み込まれていく。
目の前の白は、視界の霞なのか?
脳ミソが見せる霞なのか?
かなり長い時間、飲み込まれていたような気がする。
そして急に、視界が開けた。
満点の青空。
天高い位置に、太陽。
脳ミソがクリアになったような気がする。
回転はしないが、今までよりは悪くない。
「……あ、もしもし、カノン?」
マリは後ろで電話をしているようだ。こんなに高い場所なら電波も良好だろう。いや、高さは関係ないか。
「今、どこ? ……え? 舞鶴? なんで?」




