第三章⑨
濃い紫色のメイド服にエプロンをつけて、アンナは台所に立っていた。時計はそろそろ正午を指す。一時間ほど眠ったが、すぐに目が覚めてしまった。自分で自分が信じられないくらい興奮しているのが分かった。そして信じられないくらい落ち込んでいる。包丁のリズムは乱れっぱなしだ。指を切らないようにと思ったところで、指を切った。流れる血。鮮度の高い血の色に、意識がやっとはっきりしたように感じる。
寒い。
足下が冷えている。
裸足だった。
モコモコのスリッパは、どこに行っただろう?
村崎組本邸は、しーんと静まり返っている。
血が滲み出る人差し指を嘗めた。
誰かの気配を感じて振り返ると、サングラスの倉持が暖簾の向こうに立っていた。相変わらず、無言。そのまま暖簾を潜ってキッチンに入ってくる。
「どうしたの?」アンナは聞く。「お昼ご飯、もう少しだから」
倉持は反応ゼロのまま、キッチンの中央のテーブルに座る。テーブルにはポットと調味料などの瓶、食材が並んでいる。その向こう側に倉持の顔が見える。倉持は赤ワインの瓶を手にして、コルクを抜いて、飲む。
「なぁに、話がしたいの?」アンナはコンロの火を付けて倉持の対面に座って頬杖ついて彼を見据える。赤ワインを飲んだ倉持、アルコールを摂取した倉持は、何かを話したいのだ。「いいよ、いや、どちらかというと話を聞いてよ、倉持」
倉持は首を横に振る。一瞬で彼の顔は真っ赤になった。そしてサングラスを外す。サングラスを外すと、少年のような顔が見える。悪戯好きな少年。倉持はまだ若い。「……俺だって言いたいことは山ほどあるんですよ」
奥行きのあるハスキィなボイス。彼の声を聞いたのは何ヶ月ぶりだろうかと思った。「へぇ、何が言いたいの?」
「何ですか?」
「え?」
「昼飯」
「ああ、ポトフだよ、」後ろの鍋はまだ煮立っていない。「寒いからね」
「アンナさんのポトフ好きですよ、ポトフだけじゃなくてアンナさんの料理、全部好きです」
「ありがとう、よく眠れた?」アンナは血の滲む指先を見ながら聞く。
「いや、アンナさんのことが気になって、そんなに眠れませんでした、とても落ち込んでいるみたいだったから、お嬢にあんな風に厳しく言われて、その、大丈夫ですか?」
「ありがとう、」アンナは軽く微笑んで、首を傾ける。「でも、私は落ち込んでなんていないし、大丈夫って聞かれる精神状態でもない、ごめんね、倉持の気持ちは嬉しい、でも検討違いよ、無駄な憶測、あっ、ヒステリィでも、強がりでもないからね、そこのところ勘違いしないでよね」
「ええ、」倉持は笑った。素面では見せない可愛い笑みだ。「そうですね、杞憂でした、いえ、そんなことは俺の話したいことじゃなくて、本当に酒を飲んでまで、酩酊してまで、アンナさんに言いたいことっていうのは、」
そこで二秒間の沈黙。
「私に言いたいことっていうのは?」
「俺はお嬢のことが好きです」
「私もお嬢のことが大好きよ、愛している」
「俺も愛しています」間髪入れずに、倉持は言う。
「倉持、」アンナも間髪入れない。「相談があるわ、倉持がココにくるずっと前、私がまだ高校生のときの話よ、当時のお嬢はね、魔女になったばかりで、今よりもずっと無邪気で、腕白だった」
「腕白って死語ですよ」
「それを憂慮した組長は、お嬢の不始末にけりを付けるグループを作ったわ、私と辻野、松本もそのメンバだった、回らないガトリングガンを持ちながら、私はお嬢の起こした問題を処理した、最初はね、魔女になって調子に乗りやがってこのクソガキって思ってた、お嬢のことは小さいことから知っていて、幼いお嬢は人見知りでとても可愛いかったんだけれど、魔女になった途端に変わってしまって、それもあって、私は水の魔女よりもずっと苛ついていたんだけど、それでも、私はお嬢のことを守り続けていた、私の家はここだし、お嬢を守るのは仕事だから投げ出すことも出来ない、魔女でもないのに傷だらけになって何しているんだろうって思った、何度も思った、思ったんだけどね、でも、いつの頃からか、お嬢を守ることが私の本分だと思えていたし、いつの間にか意味不明の、本当に意味不明のことばかりするお嬢のことを愛していたのも事実だった、確かだった、辻野はどう思っていたか知らない、でも、辻野が一番寛大に笑っていたし、松本だって爽快な顔をしていたし、あ、そうそう、そのグループの名前はめ組っていうの、相談っていうのはね、め組を再結成しようかっていう誘いよ、私と辻野と松本と倉持とジェリィの五人でやろう、ジェリィにはまだ相談していないけど」
「め組のリーダは俺ですか?」
「バカ、私に決まってるでしょ」
倉持は睨むようにアンナを見る。「いいですよ、やりましょうよ」
「ありがと、」アンナはキッチンペーパに人差し指を擦り付けた。「じゃあ、ここに血判をお願い」
倉持は躊躇いなくガリっと親指の腹を噛む。「キッチンペーパでいいんですか?」
「それがめ組よ」最初の血判も確かキッチンペーパだった。
「よく分からないな、」倉持はアンナの人差し指を見る。「あ、人差し指がよかったですか?」
「どれでも構わないわ」
倉持は血判する。そして何かを成し遂げたように息を吐く。「……よかった、アンナさんに俺の気持ちを伝えることが出来て、本当は殺されるかと内心ビクビクしていたんです、でも言いたくてしょうがなかったんですよ、お嬢様への気持ちを、毎晩苦しくて眠れないんですよ、毎晩お嬢様とキスすることを考えてからじゃないと眠れないんですよ」
倉持は赤ワインを口にする。さらに赤くなる。アンナは微笑みながら無言で立ち上がる。ポトフは沸騰を始めていた。お玉を手にして灰汁を掬った。アンナはその灰汁を倉持の顔面めがけて振るう。
倉持は悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。
そこへ丁度ジェリィが顔を見せた。「あ、え、倉持さん、どうしたんですか!?」
「味見をしようとして、手元が狂ったの、」アンナはニッコリと微笑んでコップ一杯の水を倉持の頭から掻けた。「これで大丈夫、酔いも冷めるでしょうに」
「はあ?」ジェリィは合点のいかない可愛い顔をしている。
倉持の酔いは醒めたようだ。倉持はサングラスを掛けてキッチンから出ていく。
お嬢への愛は純白でなければいけない。
コレは戒めである。
大丈夫。
倉持は純白になれる素養がある。
回らないガトリングガンを持ってお嬢を助けに行ける素養がある。
早く気づけ。
純粋になれ。
急げ。
「あ、そうそう、」アンナはジェリィにキスできるくらい近づいた。「ジェリィに相談なんだけどね」




